第29話 確かな一歩

 自宅前で停車したタクシーから降り、碧は玄関を抜けようとする。だが、玄関の扉を開ける音が耳触りだったのか、腕に抱かれた翡翠が目を覚ました。


「うぅぅええああっ!」

「ごめんね、うるさかったかな?」


 ぐずり始めた翡翠をあやしながら、碧は履いていた革靴を脱いだ。そこへ居間のドアが勢いよく開け放たれ、中から早苗が大股で歩いてくる。そのこめかみには、大きな青筋が立っていた。


「ああ、もうっ。帰って来て早々にうるさいわね! いい加減にしてちょうだい!」

「ごめんなさい、母さん」


 低姿勢で謝罪をする碧だが、早苗の怒りは治まらない。翡翠の夜泣きのせいで、夜に熟睡することができないのだろう。長く伸びた亜麻色の髪は、寝癖でボサボサになっていた。


「あなたが産んだ子でしょう、あなたが責任を持って黙らせなさい。どうして、そんなことも満足にできないのかしら。あなた、本当に分かっているの? マスコミに取り入るためには、その赤ん坊が世間に気に入られなきゃいけないのよ。泣いてばかりじゃ、私達のイメージまで悪くなるの。私達の足を引っ張らないでよね!」


 私達、というのが早苗と真一だけで構成されているのは、今更の話だ。早苗にとって碧は、この家における癌細胞でしかない。そんな癌が産んだ子である翡翠を、愛せるはずがない、というのだろう。


「あなたに振り回されるのは、もううんざりなのよ。男にも女にもなれない、中途半端な失敗作を産む羽目になった私の身にもなってちょうだいっ」


 中途半端。中学時代の担任から受けたものと、同じ悪口。担任は面白半分だったが、早苗は違う。鋭い槍にも似た怨嗟の言葉が、碧の胸を遠慮なく貫いた。


「死んだあの人は、どうして手術で男か女かをはっきりさせなかったのかしら。いくら私が攻め寄っても、『あの子の人生を親が強制させてはいけない』とか詭弁を返すだけで。ベビーカーに乗せたあなたを、ご近所に初めて顔見せするときも、恥ずかしくてたまらなかった。中学になったら成長のせいで誤魔化しきれなくなって、担任に説明したときに、私がどれだけ神経をすり減らしていたと思っているのよ。おかげで育ったのは、こんな出来損ない。あなたを産んだことを後悔しなかった日は、一日だってないわ!」


 碧は奥歯を噛み締め、早苗のヒステリックな暴風を耐え忍ぶ。病院では真一の激情をぶつけられ、帰宅したら今度は母の憤怒だ。


 碧の存在そのものを否定する家族の本音。


 自分が母親に愛されていないことは、幼少期から理解していた。抱き絞められたり、頭を撫でられたりした記憶もない。それでも、面と向かって「産んだことを後悔している」と言われ、傷つかない子どもがいるのか。


(いや、それはこの子も同じなんだ)


 我が子を抱く碧の腕に、力が込められる。


「あなたと、この家で同じ空気を吸っているだけでもイライラする。あなたが産んだその赤ん坊の泣き声を聞くだけで、虫唾が走るわ。出来損ないが一人で産んだ子なんて、親と同じ失敗作でしかない。私の家族は、真一さんただ一人だけなの。あなたなんて家畜ですらない、この家の資産を食いつぶす害獣よ。あくまでも、その赤ん坊が真一さんの幸せのための糧になるというから、そのおまけでこの家に置いてあげているだけ。そのことを肝に銘じておきなさい!」


 憎悪をまくし立てていくうちに、ヒートアップしていったのだろう。早苗は怒りで顔を火照らせ、肩で息をしながら居間へと戻っていった。





 

 自室に戻っても、なかなか翡翠は泣き止んでくれなかった。病院にいたときから大人達の罵声ばかり聞かされ、ストレスが溜まってしまったのかもしれない。碧は辛抱強く抱っこしながら、あやし続ける。


「ごめんね、辛かったろう?」


 しばらくして、翡翠が泣き疲れて寝息を立てたころには、碧の肩に疲労が重りとなって圧し掛かっていた。翡翠をベビーベッドに寝かしつけると、碧は床にへたり込む。


「ごめんね、翡翠。本当にごめん」


 項垂れる碧の目から涙が止めどなく流れ、カーペットの床に零れ落ちていく。


「僕なんかの子として、生まれて来たくなんてなかったよね。僕があんな研究に協力しなければ、もっと普通の家庭の子として生まれて来られたかもしれないのに……そうすれば君は、足の障碍を背負わずに済んだのにね」


 後悔と自責が碧の心を埋め尽くしていく。いくら悔やんでも、時間を巻き戻せるわけではない。そう理解していながらも、自分の過ちを責めずにはいられなかった。


 碧も、性分化疾患の身体を呪ったことは、数え切れないほどにある。自分でこの身体を望み、選び取ったわけではない。理不尽な世界を恨み、不公平な運命を憎み、普通の身体を持つ人間を妬んだ。だが、それは所詮、勇気を持てない自分に対する、ただの言い訳として使っていたに過ぎない。自分からは事態を打破しようとせず、拗ねるだけのガキ。


 孤独が嫌だと泣きながら、自分を愛してくれる相手を探そうとしない。いや、他人から愛してくれるよう、自分から一歩を踏み出し、努力をしようとしない怠惰な人間が、養護教諭として子ども達の力になってあげられるわけがなかった。


「僕は、父さんから何も学んでいなかった」


 真一や早苗にゴミ虫を見るかのような目を向けられても、亡き父は碧を支えようと心を砕いてくれた。中学時代の担任やクラスメイト達のように、碧の性を嘲笑する者は大勢いたが、父だけは碧の性を肯定してくれた。碧にとって父は、最大の理解者であり心の支えだったのだ。


 ならば、今度は碧が親として、翡翠の心を癒す番だろう。碧が一番の味方となって肯定し、心から愛してあげるべきである。

 大事なのは、相手とどんな性として共に歩んでいくか。どんな家庭を築いていきたいか。父はそう言っていたではないか。


『翡翠を妊娠したせいで、人生を狂わされたのではないか』

『翡翠を殺せば、自分は解放されるのではないか』


 何の罪もない赤子にとって、親こそが自分を誰よりも愛してくれる存在だ。それなのに碧は、自分の不幸を呪うことしかせず、生まれて間もない自分の子に責任を押し付けていた。自分のことしか愛せない、などと、いつかのテレビ番組でコメンテーターに言われても当然だった。


 この三ヶ月間やってきた育児も、『自分は親として努力している』という醜い自己満足だったのではないか。碧は、そんな自分の浅ましさに気づきもしなかった。結局、娘と正面から向き合おうとしていなかったのだ。


「翡翠への愛情が湧いてこないのなら、心から愛せるように努力するのが当然なのに。形を真似るだけで、僕は何も分かっていなかった……っ!」


 たとえ、その子が生まれることを望んでいなかったとしても、その子が生きてくれることを望むのが、親ではないのか。

 亡き父も、最初は碧をどう愛せば良いのか悩んだに違いない。その迷いを乗り越え、碧を支えてくれた。辛いのは碧だけではない。世界中の人々がそれぞれの不幸や試練と向き合い、今も戦っているのだ。


「……この子も、健気に生きているんだよね」


 碧はそっと翡翠の手を握る。その指は小さく、子猫のように愛くるしい。無垢な赤子は寝息を立てながらも、無意識だろうか、縋るように親の手を握り返してきた。肌を通して直に伝わって来る温もりは、いつかの夢に出てきたような異形の怪物ではない。


 この幼子は碧の複製でも分身でもないのだ。


 たとえ、碧の精子と卵子で生まれた、禁忌の存在であっても。


 碧にとっては、新城翡翠という名の娘であり、一人の新しい命だった。


「僕以外に、この子の親はいない。この身体が中途半端な性だというのなら、僕が父親と母親の両方の役目を担ってでも、翡翠の傍で支えてあげなきゃいけないんだ」


 碧は深く息を吸い、心に誓いを刻みつける。けっして忘れることのないように、強く。


「僕の存在価値なんて、ちっぽけで大した代物じゃない……それでも一生を懸けて、この子を守ろう。この子にしてあげられることなら、何でもしよう」


 このときになって、ようやく碧は親としての自覚を持った。


 あまりに遅く、それでも確かな一歩だった。

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