第28話 告げられた絶望
●二〇〇九年 七月三日(金曜日)
「え……?」
西神総合病院。その一階にある小児・新生児科の診察室で、碧は思わず呆けた声を漏らした。そのまま、腰かけていた丸椅子から転げ落ちそうになる。
「今、何とおっしゃったんですか……?」
この日、碧は翡翠を連れて三か月検診を受けていた。まだマスコミの目があちらこちらで光っているため、移動にはタクシーを使用している。真一は急患が入ったため、検診に立ち会うことができずにいた。
診察室で主治医の話を聞かされた碧は、翡翠を抱く腕が震えていることすら自覚できない。碧の正面の椅子に座る中年の男性医師に、恐る恐る問いかけた。対する男性医師は沈痛な面持ちで、碧にゆっくりと説明をする。
「落ち着いて、よく聞いてください。翡翠ちゃんは生まれつき、重度の足の障碍を持っている可能性が高いです。このまま身体が成長し、リハビリなどを重ねても、ハイハイや歩くことは難しいかもしれません」
医師の残酷な通知に、碧の視界が一瞬真っ暗になる。酸欠になりそうになるのを、荒い呼吸でどうにか踏ん張ろうとした。
歩くことができない? そんな馬鹿なことがあり得るのか。
「で、でも、この子はこんなに元気なんですよ?」
「おそらく、近親交配が原因なのでしょう。それも、三親等以内という旧来の常識を超え、新城さんお一人の遺伝子を交配させたお子さんです。このような例は世界初であり、未知の領域。それによる弊害は、どうしても避けることができません」
男性医師は噛んで含むような口調で、話を進めていく。
「幸い、視力障碍をはじめとした他の症状については、今回の検診で見受けられませんでした。ですが、これから成長していっても、心の方はどうなるのか――」
「……知的障碍の可能性もある、と?」
「ええ。近親交配で生まれたお子さんの場合、知的障碍のリスクがどうしても高くなってしまいます。その覚悟はしておいて下さい」
碧の心臓が早鐘を打ち、歯が音を立てて震えた。そんな碧の不安を、医師の説明がさらに煽る。
「また、病気に対する抵抗力も、通常のお子さんに比べてどうしても低くなりがちです。ただの風邪が、生命の危機に繋がる恐れがありますので、充分に注意をして下さい」
診察室から出た碧は、夢遊病患者のようにふらつく足取りでエレベータに乗った。主治医による検診結果は、碧の精神から平静さを完全に奪い去っていた。エレベータが上の階へと昇っていく中、碧は壁にもたれかかる。
「翡翠が、歩けない……」
あまりに絶望的な話を聞かされたせいで、碧の全身に現実感が行き届かない。当人の翡翠は、自分を抱く碧に対して不思議そうな視線を向けている。自分が背負うものも、親の絶望も当然ながら理解できていないようだ。
「これから、どうすればいいんだろう」
ようやく、親の真似事が慣れてきたところだった。
翡翠も近所の子ども達と一緒に公園を走り回り、泥ん子になって笑顔で家へ帰ってくる。そんな夢を想像したこともあった。
だが、その未来を奪ったのは、他でもなく親である碧だ。碧の遺伝子によって近親交配されたからなのだった。
「僕は、この子に何をしてあげれば……」
やがて、エレベータが目的の階に到着し、扉が開く。碧は重い足を引きずり、廊下を進む。途中、すれ違った数人の看護師や医師が心配して声をかけてくれたが、笑顔を返す心のゆとりがなかった。
そうしてたどり着いた部屋のドアを、覇気なくノックする。
「どうぞ」
「……失礼します」
碧はゆっくりとドアを開け、中へと入る。この部屋は整形外科医用の研究室だが、今は真一以外の医師の姿はない。白衣を羽織った真一が、執務用の大きな机に向かって、何やら書類をまとめている。
「ちょうど急患が片付いたところだ。で、検診はどうだった?」
「それが……」
碧はどうにかして詳細を述べようとするが、上手く言葉を繋ぐことができない。たどたどしい碧の説明を聞きながら、真一は机上に置かれたパソコンを操作する。西神総合病院では、カルテをコンピュータに打ち込んで作成する決まりとなっているのだという。出来上がった電子カルテは院内専用のサーバーで管理され、他の医師も閲覧できる仕組みだ。
「……なるほど。足に障碍か」
真一の顔に、落胆や悲哀の色は存在しない。それどころか碧には、兄がこの事態を喜んでいる風にさえ見えた。
「兄さん……?」
「悪くない。むしろ、歓迎すべき状況だな」
口元を歪ませて笑う真一に対し、碧は理解できずにただ戸惑うばかりだ。
「この要素も、マスコミにとっては格好のエサになる。テレビでドキュメンタリー番組を制作させれば、視聴者はこぞって涙を流すだろう。民衆は障碍児に同情することで、『可哀想な子を見て泣く自分は、何て心が美しいんだ』と自画自賛するものだからな」
「そんなことは……」
「はっ、お前はその歳になっても、人間の偽善を理解していないのか? ゴールデンタイムによくあるような、スペシャル番組を思い出せ。お涙ちょうだいのVTRを見て、スタジオの芸能人がどいつもこいつも、みっともなく泣いているだろう。連中は、悲しむ自分をアピールすることで、好感度を上げようとしているに過ぎん。番組を見て共感する視聴者も同じだ。自覚があるかどうかは、個人差があるだろうがな」
それはさすがに穿った考え方だろう、と碧は思ったが、口には出さない。
「実際、うちの病院にも何度かテレビ局の取材があったが、参加していた二流タレントどもはカメラが回っていないところでは、障碍者に見向きもしなかった。自分の障碍を気にしないように心掛けている子どもに対しては、『でも君は、皆のように外で走り回れないんだよ』などと同情を装って言い放っていた。そうして子どもが泣く姿を、番組スタッフは笑顔で撮影していたんだ。『過酷な現実に苦しむ障碍者の姿』というのが、視聴率を稼ぐための良い画になるらしくてな」
真一はパソコンのディスプレイから顔を離し、バカにするように鼻を鳴らす。
「翡翠の世間における認知度は、今や相当のものになっている。狂気の医者によって作られた、悲劇の赤子としてな。そこに足の障碍というスパイスを加えてみろ、バカな民衆は簡単に飛びついてくれるはずだ。見守る家族の『信用』も、さらに高まる。皆が満足する、素晴らしい展開だとは思わないか?」
持論を本気で信じて疑わない真一に、碧の感情が沸々と燃え上がってくる。
口を開けば、信用、信用、信用! この男はそれしか考えていないのだろうか。
「そうやって翡翠を、兄さんの野心を叶えるための道具にするつもりなんですね。翡翠が大きくなったら、どうするつもりなんですか」
「あ? お前に似た外見に育てば、テレビに出てもそれなりに映えるだろう。だが、世間に飽きられて同情を集められなくなったら、利用価値はない。家に置いておくのも、邪魔になるだけだしな。施設に放り込むだけだろうよ」
紙くずをゴミ箱に放り捨てるかのような軽い口調で、真一が鼻を鳴らす。
真一は頭の中で、翡翠の使い道を何通りにもシミュレートしているに違いない。大人の勝手な都合で産み出された翡翠が、大人の都合で使い潰される。真一にとって翡翠は姪ではなく、自分の駒にすぎないのだろう。
兄のあまりに醜悪な発言と思惑を受け、碧の顔が紅蓮色に染め上げられた。
「それが医者の言うセリフですかっ。兄さんには医者を名乗る資格なんてありません!」
「黙れ、世間知らずのガキがっ!」
真一は目に角を立てて、一喝する。それでも、今回こそは碧も引き下がらない。兄を真っ向から睨み返した。
「いいえ、黙りません。兄さんは、自分の保身のために、犯した医療ミスを平気で隠しているんです。医者としての誇りどころか、個人の醜いプライドしか持っていない!」
「黙れと言っているんだ!」
真一は重厚な椅子から立ち上がり、碧の眼前まで近付いてくる。生意気な飼い犬に、手を噛まれたような気分なのだろう。いつぞやのように碧の胸倉を掴もうとしてくるが、碧は翡翠を抱きながら真一の手を払いのけた。
「お前が今まで、俺にどれだけの迷惑をかけてきたと思っているっ」
真一は、忌々しげに恨みを吐き捨てる。
「小学生のころ、俺はいつも学校の成績はトップを走っていた。クラスメイトの連中にいくら妬まれようと、負け犬の遠吠えだと鼻で笑っていたよ。一番を維持できれば、孤高であってもいい」
「……」
「そんな順風満帆の人生のはずだったのに、お前という出来損ないが生まれたせいで、全てが変わってしまったっ。近所の大人どもがお前についての噂を広め、あっという間に地元中に知れ渡った。ガキは、自分の親が叩く陰口に対して敏感で、自分も攻撃の材料にしていいんだと認識するからな。俺に嫉妬していた連中からイジメの標的にされ、いくら助けを求めても誰も手を差し伸べてはくれなかった。毎日学校に通う地獄が卒業まで続いたんだ。全てお前のせいでな!」
碧も昔、早苗から何度となく聞かされた。「どうして真一があんな苦しい思いをしなければならなかったのか」「お前は生まれてくるべきではなかった」と呪詛を並べられた。
「だが、お前のおかげで、俺は一つの真理を学んだ。人間関係は信用が大事だとな。俺は地元から逃げ、私立中学校に入学した。そこから俺は新しい人生を始め、一から信用を積み重ねることにしたのさ。プライドを捨て、媚びへつらってでも、他人の懐に潜り込む。利用価値がなくなった奴は踏み台にして、さらに上にいる人間に近づく。そうやって一段ずつ登り詰め、最後に勝てばいい。信用はそのための道具であり、対価だ」
真一の行動理念の根源。彼の性格を歪ませた責任の一端は、碧にあるようだった。そう言われると、元凶の立場として反論しづらい。
いや、それでも抗うのだ。
「でもっ、翡翠には何の関係もないじゃないですか!」
碧は一歩も怯まず、真一を真っすぐに睨み返した。その態度を、真一は生意気と受け取ったようだ。猛毒じみた殺気を視線に乗せてぶつけてくる。
「お前達親子は、俺が信用を獲得するために、生かしているに過ぎない。何の取り柄もないお前達に、俺が慈悲深く存在価値を与えてやっているんだ。礼を言われることはあっても、文句を言われる筋合いはない!」
「兄さんの押し付けがましい価値観を、僕やこの子が欲しいといつ言ったんですか!」
そう言い捨てると、碧は踵を返して研究室を出て行った。なおも投げつけられる真一の喚き声など完全無視。エレベータで一階へ降り、正面玄関から病院を後にする。
すると、そこへ待ちぶせていたマスコミに取り囲まれた。
「新城さん、翡翠ちゃんの三ヶ月検診の結果はどうでしたか?」
「やはり、近親交配の影響で、何らかの障碍が判明したのではありませんか?」
「もしも障碍があったなら、これからの育児方針にも影響がありますよね」
「どうなんですか、新城さん。お答え下さい」
矢継ぎ早にぶつけられる質問から、碧は翡翠を守るように抱きしめた。遠慮という言葉を知らないマスコミに対し、嫌悪感と苛立ちで嘔吐しそうなほどだ。笑顔を作る気力もなく、軽く会釈をする。
「三ヶ月検診の結果につきましては、後日兄の方から改めて説明をさせていただくことと思います。ですから申し訳ございませんが、本日は私の方からのコメントは差し控えさせていただきます」
感情を極力抑えた声だった。そのまま人混みをかき分けようとする碧だが、マスコミはそれを許さない。マイクとカメラの群れを無遠慮に向けてくる。
「ということは、やはり何か問題があったということで、よろしいんですね?」
「全国の人々は、真実を知りたいんですよ」
「お答え下さい、碧さん。あなたには国民に説明をする義務があるはずです」
義務。義務とは何だ。芸能人や政治家でもないのに、これ以上世間に奉仕をする義理があるというのか。マスコミとは、世間とは、そんなにも偉い存在なのか。真一との口論を終えて間もない碧は、怒りに身を任せて怒鳴り散らしそうになる。それでも、なけなしの理性を振り絞り、ギリギリで苛立ちを押さえ込んだ。
「すみません、急いでいますので、本日のところは家に帰らせて下さい」
翡翠を抱きながら、碧はどうにかタクシー乗り場へと辿り着く。ちょうど客待ちで停車していた一台を見つけ、後部座席に乗り込んだ。車が出発し、マスコミの集団の雑音が遠ざかっていくと、ようやく深い溜息を吐くことができたのである。
後部座席の背もたれに身を預けると、激しい焦燥感が碧の全身を痺れさせていく。
このまま翡翠が真一の手元に置かれていたら、翡翠の人生が好き勝手に弄ばれ歪められていくだろう。マスコミも真一と同類だ。あの家にいる限り、味方は誰もいない。碧が盾になってあげなければ、翡翠は連中の欲望に飲み込まれてしまう。
碧はようやく確信した。娘を守るために、あの家から出るべきだ。
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