第26話 育児の日々

  ●二〇〇九年 五月五日(火曜日)


 退院後の碧の生活は、目まぐるしかった。とにかく、翡翠の世話で大忙しなのだ。


「身体をキレイキレイしようねー」


 まずは風呂。碧は浴室の椅子に腰かけ、自分の太ももに翡翠を乗せてやる。右手で翡翠の頭と首をしっかり支え、空いた方の手でボディソープをたっぷりと泡立てる。顔から始まり、頭、それから身体と順に優しい手つきで洗っていく。

 だが、シャワーの音に驚いてしまうのか、途中で翡翠が泣き始めるので、洗うだけでも一苦労だ。他にも、ボディソープの泡が翡翠の目に入らないよう、細かく気を配ってあげる必要がある。翡翠の表情から察するに、洗われること自体はどうやら嬉しいようだが。


 次にミルク。粉ミルクを使用することに対し、ようやく碧も意識が根付いてきた。人肌程の温度の湯を哺乳瓶に入れ、粉ミルクと一緒にかき混ぜる。ところが碧は初めて作ったとき、哺乳瓶のキャップを強く締めすぎてしまった。これでは翡翠がミルクを上手く吸い出すことができない。そのことに気づくまでの間、翡翠の泣き声が止まらなかった。


 さらに、碧の精神をすり減らしたのが、夜泣きだ。


「うぇぇあああぅっ!」


 赤子とは、夜だろうか昼だろうがお構いなしに泣き叫ぶものだ。その度に碧は翡翠を抱っこし、背中を優しく叩いて安心させてやる。しばらくすると、翡翠は泣き止み寝息を立てるのだが、時間を置くとまた泣き出す。


「うるさいわねっ、眠れないじゃないの!」

「ごめんなさい、ごめんなさい!」


 毎夜のように早苗が自室に乗り込んできて、溜まった鬱憤をぶつけてくる。碧は泣き声をあげる翡翠を宥めつつ、卑屈なほどにぺこぺこと頭を下げていた。


 そうした毎日が続き、すっかり碧自身が睡眠不足に陥った。


「……世のお父さんお母さん達は凄いなあ。それに比べて、僕が育児を舐めてたってことか。ノイローゼになりそう」


 勉強用机に突っ伏し、碧は尊敬と弱音を吐く。退院前と比べ、頬が少し痩せていた。


 親として半人前にも満たない碧は、とにかく手さぐりで育児に励んでいた。早苗は、文句を言うばかりで全く手を貸してくれない。碧の味方となってくれるのは、ネット上で発見したいくつかのママブログと、退院前に病院の売店で購入した子育て本だけだった。


 次から次へと積み上がっていく育児の課題を、一つ一つ片付けていく。それだけで、気づけば一日が終ってしまう。本音を言えば、翡翠の泣き声を聞いて、イラッと来る瞬間は少なくない。オシメを換えながら、自分は一体何をやっているのか、と虚しくなることもある。全てを放り投げてふて寝をしたい、と思ったことも一度や二度ではなかった。


 相手は、自分の複製のような存在ではないか。どうして、ここまでする必要があるのだ――そんな暗い考えが毒蛇となって首に絡みつく度に、それを無理やり振り払う。


「この子に親らしいことをしてあげる、って決めたんだ」


 自分にそうやって強く言い聞かせなければ、今すぐにでも心が挫けてしまいそうだということを、碧は自覚していた。それを親としての責任感というべきなのか、あるいはただの義務感なのか。碧自身にもよく分からない。


 そんな碧にとって、唯一の安らぎともいえる瞬間があった。


「あぅ」

「ん? もうお腹いっぱいなの?」


 哺乳瓶のミルクを飲み終えた翡翠が、碧の腕に抱かれながら満足そうに微笑む。碧は背中をさすって翡翠に可愛らしいゲップをさせた。そのまま静かに寝息を立て始める娘の顔を見ていると、碧はほんの少しだけ苦労が報われたような気がするのだった。


「赤ちゃんの笑顔は天使みたい、って誰が最初に使った表現なんだろうね」

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