第25話 姉にしか言えない本音

◆幕間


「テレビのニュース、見たか?」

「連日、あれだけやかましく報道しているんだ。嫌でも耳に入ってくるよ。それに昨日、俺のところにまで週刊誌の取材が来たし」


 志堂大学内の食堂。席の一角で一足早い昼食を取る学生グループの男女がいた。彼らは皆、碧が大学に通っていたころの友人達だ。


「あの新城に、まさかあんな秘密があったなんてなぁ」

「俺達に話してくれないなんて水臭い、と言いたいけど。俺があいつでも、打ち明けていないだろうな。さすがに話が重すぎるぜ」

「私も同意見」


 碧は休学届を出したあの日、友人達に「病気だ」と嘘をついた。それを友人達は素直に信じ、つい先日まで心配していたのだ。

裏切られたという思いは無論ある。しかし、傷つけられた信頼が、そのまま軽蔑に変換されるほど簡単な問題でもない。碧の心情を想像すれば、黙っていたのも仕方のない話ではあるのだ。ゆえに結局、彼らはこうして重いため息を吐くしかないのだった。


 一人の例外を除いて。


「何の話?」


 遅れて現れた若い女が、友人達に確保してもらっていた席の椅子を引く。


 鈴鹿だ。


「い、いや、大した話じゃないさ」

「嘘。顔に書いてあるわ」


 慌てて話を逸らそうとする友人達に対し、鈴鹿は険のある声を返す。

 年明けを堺に、彼女の前で碧の話をするのはタブーとなっていた。うっかり名前を出せば、この通り場の空気が一気に凍てついてしまう。普段の彼女は、以前と変わらない気の良い女性なのだが。


 あれだけ碧に好きだとアピールしていた鈴鹿が、態度を急変させたのである。碧との間でトラブルがあったのは明らかだった。親しい女友達が詳しい話を聞き出そうとしても、突っぱねられるだけ。

 原因について、友人達はさっぱり分からなかった。例の報道が全国を震撼させるまでは。

 鈴鹿はおそらく、皆より先に碧の秘密を知ったのだろう。単なる失恋ではない。何しろ、片思いの相手が妊娠していたのだ。胸をときめかせていた己が惨めな道化だ、と考えたのは想像に難くなかった。





その鈴鹿はというと――





 その日の夕方。

 大学から帰宅した鈴鹿は、玄関のドアを開ける。すると、女物の靴が一足置かれていることに気づいた。彼女や母親のものではない。

 来客か、と思いかけたところで、赤ん坊の泣き声が居間の方から聞こえてきた。


「あの声、ということは」


 鈴鹿は靴を脱ぎ、早足で廊下を進む。正面のドアを開けると、そこには来客が二人いた。


「おかえりなさい、鈴鹿。早かったね」


 そう言いながら微笑みかけてくるのは、鈴鹿の姉である瑞希だ。彼女の両腕には、泣き声の主が優しく抱かれている。数ヶ月前に生まれたばかりの、鈴鹿の姪だ。


 瑞希はこうして、ちょくちょく実家へ遊びに来る。両親に孫の顔を見せてあげたい、というのは勿論。初産で育児に慣れていないため、母から色々と教わっているのだった。


「ええ。今日はアルバイトのシフトも入っていなかったし」


 鈴鹿は、瑞希にあやされている姪の顔を覗き込む。途端に赤子は泣き止み、寝息を立て始めた。


「あらら、寝ちゃった。鈴鹿が来てくれたおかげかな?」

「まさか。偶然よ」


 姉妹は笑みをこぼし合う。

 姪を起こさないよう、鈴鹿はそっと居間を去り。階段をのぼって、自室へと入った。


「……ふう」


 一日の疲れが肩にのしかかり、そのままベッドに倒れ込む。低反発の枕に顔を埋め、独りで嘆息した。

 思い出すのは、昼食のときの一件。


「また皆に迷惑をかけちゃった」


 鈴鹿とて、自分が悪いのは自覚している。早く切り替えて、新しい一歩を踏み出すべきだということも。……それでも、『彼』の名前を聞くと、必死に抑え込んでいたはずの激しい感情が噴き出てしまうのだ。


 思い出すのは、碧の真実を知ったあの日の記憶。絶望に歪んだあの顔が、ずっと脳裏から離れない。


「新城君……」


 そこへ、自室のドアをノックする音が聞こえてきた。


「鈴鹿、開けてもいいかな?」

「お姉ちゃん? うん」


 鈴鹿が起き上がりながら返事をすると、どこか遠慮がちにドアが開かれた。入ってきたのは、優しい笑みを浮かべる瑞希だ。


「あれ、あの子は?」


 鈴鹿は心配げに尋ねる。『あの子』とはもちろん、姪のことだ。母親が目を離しても大丈夫なのだろうか。

 瑞希が細い肩をすくめ、安心に満ちた声を返してくる。


「今はお母さんが見てくれてるよ。久しぶりに鈴鹿とお話したくて。今、ちょっとだけ時間をもらってもいいかな?」


 鈴鹿には断る理由などなく、素直に頷いた。幼い頃から姉に懐いていた彼女の場合、大抵の用事なら無理やりにでも後回しにする。

 瑞希がベッドの上に腰掛けたので、鈴鹿も傍らに座った。


「さあ、悩める若者に、お姉ちゃんが手を差し伸べてあげよう」

「若者って。お姉ちゃんもまだ若いでしょ」

「甘い、甘いよ。社会人からすればね、一〇代の若者は眩しく見えるの」


 そう茶化してくる瑞希の意図を、鈴鹿は長年の付き合いで察した。声のトーンを落とし、膝の上に置いた手で拳を作る。


「……もしかして、新城君のこと?」

「あ、先に言われちゃった。……うん、まあ、ズバリその通りなんだけど」


 バツが悪そうに小首を傾げながら、瑞希はわざとらしく腕を組む。


「まだ、彼女のこと、許せない?」


 その問いに対し、鈴鹿はすぐには言葉を返せなかった。眉間にシワを寄せ、真一文字に結んだ唇を噛みしめる。


 男としての碧と出会った鈴鹿とは違い、瑞希は女としての碧と知り合った。ゆえに、未だに『彼女』と呼ぶのだろう。


「いつまでも意固地になってると、仲直りする機会を失うかもしれないよ」

「お姉ちゃんも、嘘をつかれてたのよ? 悔しくないの?」

「……確かに最初はショックだったけど。報道を見てると、事情を隠していたのも仕方ないのかな、って思えてね。凄く辛い人生を歩んできていたみたいだから。彼女自身は安い同情なんて求めていないかもしれないけど」


 鈴鹿が視線を傍らに向けると、遠い景色を眺めるように目を細める瑞希の横顔があった。


「私が昔受け持っていた子達の中にね、皆に嘘をついていた子がいたの」


 瑞希が懐かしむように染み染みと語る。「受け持っていた」という表現を使うのは、彼女が小学校の教諭だからだ。現在は産休を取り、担任の仕事を代わりの教師に譲り渡している。鈴鹿が教師になろうと決心したのも、この姉の背中を追っているためだった。


 嘘つきの児童。まさか――鈴鹿は自分も知る姉の教師人生での経験談を思い出した。


「その子は、ご両親に捨てられて、お祖父さんとお祖母さんに育てられていたんだ。ご両親からはずっと酷い言葉を投げつけられていたらしくてね。そのことがトラウマになってる、ってお祖父さんから私もお話を聞いてた。その子は、ご両親から愛されている同世代の子達のことが、ずっと羨ましかったんだと思う。だから、『自分の両親は共働きで、出張で忙しい。だから、家にあまりいないんだ』って、クラスメイトに嘘をついてたの」


 そんな拙い嘘が長く通じるはずがない。


 ……それに、鈴鹿はその結末を既に知っていた。瑞希の方はあえてか素知らぬ振りをして、話の続きを紡ぐ。


「でも、近所に住む大人達の間では、ご両親のことが噂になってて。それが子ども達にも漏れ伝わっていったみたい。クラスの子達からは、からかわれるようになって。それでも、その子は嘘を最後まで曲げなかった」


 鈴鹿は「最後」の言葉が持つ重さに、思わず姉から視線を逸らしてしまう。

 瑞希は自分の胸の中心部分を、片手で強く握りしめる。無力な自分を呪い、悔恨の情を吐き出すかのように。


「ある日、その子は交通事故に遭って、亡くなったの。クラスの子達は、泣きながら後悔していた。亡くなった子のことを、もっと理解してあげればよかった、って。その件が、私の教師人生における、大きな失敗の一つ」


 鈴鹿も、当時のことはよく憶えている。心配して連絡を取った鈴鹿に対し、電話越しの瑞希の声は枯れていて、すっかり泣き疲れた様子だった。普段、妹の前では笑顔を絶やさない姉が、この事故の直後ばかりは弱音を吐いていた。そのとき、教師という仕事の厳しい部分を、鈴鹿は垣間見た気がしたのだ。


 瑞希はしばしの間目を閉じて、幼い死者を悼んだ。それから、傍らに座る鈴鹿の左手の上に、そっと自分の手を置く。


「鈴鹿も、本当は分かっているんでしょ? 碧ちゃんが皆に嘘をつきながら、自分も傷ついていた、ってこと」

「……」

「たとえ、仲直りはできなくても。せめて、相手の辛さを少しでも理解してあげてね」


 瑞希の助言が、鈴鹿の乾きひび割れた心に染み渡る。感情をコントロールできない自分の愚かさが、たまらなく情けなかった。


 ゆえに、碧に言えなかった言葉を、かすれた声に変える。


「好き、だったの」

「うん」

「好きだったの。新城君のことが」


 唇を震わせ、告白を重ねる。いつの間にか涙が頬を伝い、こぼれ落ちていた。

 そんな彼女の肩を、瑞希が優しく抱いてくれた。

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