第24話 娘の命名
久しぶりに入った碧の自室は、半年前に比べて大きな変化が見られた。
まず目立つのが、部屋の端に設置された赤子用のベッドだ。その傍に、大きな段ボール箱が三箱。碧が蓋を開けると、中にはたくさんの玩具が詰まっていた。赤子が興味を引きそうな商品を、早苗が通販でまとめて購入したのだろう。段ボール箱の他には、赤子用のオムツ製品と粉ミルクの缶が山積みとなっている。それらの弊害として、碧の個人スペースは圧迫されていた。天井には、色鮮やかなメリーゴーランドが吊るされており、まさに赤子のための部屋、といった光景である。
「道具の用意はしてやったから、後はお前が面倒を見ろ――ってことか」
碧は軽くため息を吐く。どうやら、「責任を持って碧が世話をしろ」という、先程の真一の言葉は冗談ではなさそうだ。
碧はとりあえず、赤子をベッドの上にそっと寝かせた。ベビーベッドの価格の相場など碧は知らない。どうやら低反発素材を使用しているらしく、高価な代物なのだろう。
「うぅええぁあっ」
しかし、新しいベッドの寝心地が気に入らないのか、またもや赤子がむずかり始めた。一息つく暇も与えられず、碧は赤子を再び抱き上げる。
「ん? どうしたのかな? もしかして、ミルクがほしいの?」
碧はワイシャツのボタンを外し、ブラジャーをずらした。露出した桃色の乳首を赤子に向けるが、赤子は拒否を示す。どうやら、お腹が空いているわけではないらしい。
そもそもの問題として、碧の場合は母乳がほとんど出ないため、授乳は粉ミルク一択なのだが。それは重々理解しているつもりでも、いざそのタイミングになると、つい忘れてしまうのだ。おそらく、ミルク=母乳という固定概念が頭に染みついているのだろう。
「違うのか。じゃあ、オムツかな?」
赤子をベッドにおろし、履いているテープ式のオムツを外す。こちらは予想が的中しており、オムツにわずかな便が付着していた。碧はオムツの汚れていない部分で、赤子の小さな蕾の肛門とその周囲を拭いていく。残った汚れを、お尻拭き用の濡れた紙で綺麗に拭き取る。それから、部屋に置かれたオムツの山から新品を取り出し、交換を行なった。
「入院中に、看護師さんから何度も指導してもらっておいて、本当によかったよ」
古いオムツを念入りに丸めてゴミ箱に捨てると、碧は部屋を出て一階へ降りる。オムツを替えたので、自分の手を洗っておく必要があるからだ。雑菌のついた手で、赤子に触れるわけにはいかない。洗面所で石鹸を使い、丁寧に手を洗う。
と――
「う……うぇ」
突然、猛烈な眩暈と吐き気が、同時に襲ってくる。まるで、船上で激しい嵐の波に振り回されているかのような感覚だ。視界が歪み、全身から力が抜け落ちていく。碧はたまらず、その場に膝をついた。
「ぜえ、ぜえ……」
正面にある洗面台にもたれかかる。荒い呼吸を何度も繰り返し、酸素を吸い込んでいく。
そのまま、一五分程度。
どうにか貧血が治まり、ふらつきながらも立ち上がった。
洗面台の鏡には、青白い顔をした碧自身の姿が映っている。つい先程自室にいたときとは打って変わり、精気が抜け落ちていた。自分の死に顔とは、こんなものなのかもしれないな――ふと脳裏を過る自嘲。
今のような体調悪化は、妊娠発覚のころからあることだ。最初は、悪阻などの妊婦ゆえの症状だ、と軽く見ていた。体調悪化の回数は月日と共に段々と増えていき、今では多い日に一〇回以上もある。
「これ、いつまで続くのかな。それとも、もっと悪化していくんだろうか」
先行きの見えない不安に、心臓が締め付けられる。一年前よりもやや膨らんだ胸に、そっと手を置いた。
強制的な妊娠と出産。それらによって、碧の身体の中でホルモンバランスは崩れていた。元々、男性ホルモンと女性ホルモンの天秤が、奇跡的に保たれた状態だったのだ。その平衡を破った代償は少なくない。
現時点でも、貧血、食欲減少、免疫力低下、などなど……。
早乙女から交替した主治医によれば、現在の碧の身体は変化に耐え切れず、軋みを訴えている状態なのだという。体内で性ホルモンを急ぎ分泌して調節しようという働きと、このまま女性化へと傾けようという働きの間で、大きく揺らいでいるらしい。しかし元々、性ホルモンの分泌量が通常の人間よりも少ないため、揺れの激しさは日増しに激しくなっていった。
また、性ホルモンの分泌不足とバランス崩壊は、人体の機能にも深刻な影響を及ぼしつつある。このまま症状が進むと、脳や肺などの動脈が血液の塊で詰まる、四肢の麻痺、その他にも様々な重い症状に発展しかねない。かといって、軽率に性ホルモンを大量投与すると、かえって身体の混乱が悪化する恐れがあった。
とんでもない人体実験の承諾書に判を押したものだ。あらためて、碧は一年前の自分の愚かさを後悔した。
現在は、身体の数値の些細な変化も見逃さないよう、小まめな頻度で検査を受けている。免疫力低下などの症状を抑える薬も、いくつか処方されていた。性ホルモンの投与は、タイミングを慎重に見計らって行なう、というのが主治医の方針だ。あとは、碧自身が普段から栄養をしっかりと摂取すること。
「……よしっ」
碧は冷たくなった両頬を軽く叩き、思考を切り替える。こんなところで、いつまでも油を売っている暇などない。早く赤子のもとへ行かなければ!
重くなった足に活を入れ、洗面所を出た。二階へと続く階段を踏み外さないように、一段ずつ確実にのぼっていく。つい気持ちばかりが先走りそうになるが、また貧血でよろけてしまったら、それこそ愚か者だ。
「ごめん、遅くなっちゃったっ」
碧は焦燥感に駆られながら、自室へと戻った。ベビーベッドを上から覗き込む。
赤子はすっかり機嫌を直し、穏やかな表情を浮かべていた。主治医の話によれば、生後〇ヶ月の赤子の視力は〇.〇二程度しかないのだそうだ。そのせいか、天井に吊るされながらゆっくりと回転するメリーゴーランドにも、特に興味を抱いた様子はない。
「よかった、何事もなくて」
碧はほっと息を吐き、娘の顔を見つめる。全身が脱力してしまいそうになった。少し目を離した隙に、恐ろしい事態になっていた――というのは、育児でよく聞く問題だ。
「看護師さんにはもう頼れないんだから、僕がしっかりしないと」
自分にそう強く言い聞かせるが、心身共に無理しているのを自覚した。初日からこれでは、子育てをこの先やっていけない。
その耳元に、先日抱いた己の禍々しい発想が囁きかけてくる。
『この赤子を妊娠したせいで、人生を狂わされたのではないか』
『この赤子を殺せば、解放されるのではないか』
「ああ、もうっ!」
自己中心的な悪意を追い出そうと、頭を勢いよく振る。
「やめやめっ! 別のことをしよう!」
苛立ちを忘れるために、碧は自分の勉強用机の上に置かれた、ノートパソコンの電源を入れる。起動するのにやや時間がかかる型落ち品だが、碧にとっては大事な代物だ。
マウスとキーボードを操作し、インターネットで検索を開始する。
「えーと、女の子に似合う名前は、っと」
真一から受けた指令の通り、赤子の名前を探す。いつまでも名前がないのは不便だし、赤子が可哀想な気がした。だが、可愛らしく良さそうな名前は、すぐには見つからない。
「僕の名前が宝石から取ったものだから、そういうのから探すのもありかな」
宝石の名称の一覧が書かれたサイトを見つけ、順に見ていく。琥珀、藍玉、孔雀石……どれもイマイチしっくり来ない。
そうして探していくうちに、一つの宝石名が目についた。
「翡翠、か」
試しに翡翠の意味を調べてみる。宝石言葉は「長寿、健康、徳」と書かれていた。子どもにつける名前としては、縁起が良さそうだ。
「ふむ、翡翠、翡翠……」
碧は何度も単語を口の中で転がす。しばらくの間、パソコンのディスプレイと睨み合い、
「翡翠、か。女の子につける名前としても、可愛らしくていいんじゃないかな」
決心した碧は机から離れ、ベビーベッドに寝かされた赤子の顔を覗き見る。
「よし、君の名前は翡翠だ。新城翡翠。健やかに育ちますように、という願いを込めて」
この赤子に対する「愛おしい」という感情について、未だに碧は実感できずにいた。その原因ともいうべきか、胸の内で渦巻くわだかまりが、未だに消えてくれないのだ。
この子は普通の人間ではなく、生まれ持った遺伝子としては碧の複製に近い存在だ。肉体も精神も、普通の子どもと同じように育っていく、という保証がない。一体、どう育てていけば良いのだろうか。……そんな不安が碧の背中に覆いかぶさってくる。
だが相手は現在、言葉を理解できない赤子なのだ。碧が苛立ちや憎悪をぶつけたところで、事態が改善されるはずがない。ならば、まずはせめて形だけでも、親らしい振る舞いをしてあげるべきだろう。この子も、普通の子と同じように育ってくれるかもしれない。
そうすれば、普通の親子のような関係に近づけるのだ、と信じたかった。
「改めてよろしく、ね。翡翠」
すると、赤子――翡翠が碧を呼ぶようにして、寂しげに喘ぐ。
「あぁぅ」
「ん、どうしたの?」
碧が翡翠を優しく抱き上げてみると、翡翠は碧の薄く膨らんだ胸に顔を埋めた。どうやら、単に甘えて安心したかっただけのようだ。碧の腕の中で、背中を小さく丸める。力を抜いて眠っていく。
赤子特有の乳くさい香りが鼻孔をくすぐり、碧は力のない笑みを浮かべた。
「こうして見ると、普通の赤ちゃんと変わらないんだよなぁ」
しみじみとした口調で、碧は実感の言葉を呟いた。
翡翠は、重い出生の事情を抱えている。とはいえ、親に甘え、泣き、無防備に眠る姿は、どこにでもいる普通の赤子でしかなかった。
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