第22話 芝居と仮説
●二〇〇九年 四月一三日(月曜日)
翌日、退院当日。その日は、碧の沈んだ心を嘲笑うかのように、春の柔らかな日差しが病院内の敷地を包み込んでいた。
「打ち合わせ通り、口裏を上手く合わせろ」
「……はい」
真一の先導で、碧は病院の玄関口を出る。玄関前のスペースは、既に報道陣によって埋め尽くされていた。カメラが一斉に碧と真一に向けられ、碧は思わず狼狽えてしまう。
「皆様。本日を持ちまして、この通り無事に弟とその子は退院することができました」
真一が丁寧に頭を下げたので、碧も一テンポ遅れて一礼する。絶好のチャンスに対し、カメラのシャッター音が無数に飛び交った。そのせいで、碧の腕の中で眠る赤子が、不機嫌そうにぐずり出す。
「これから家族皆で支え合い、この子を育てていきたいと思います。どうか、皆様はあたたかい目で見守って下さい」
真一は普段は鋭い双眸を慈愛の眼差しに作り替え、碧の腕に抱かれた赤子の頭を、そっと撫でる。まだ髪が生えそろっていない頭に触れられ、赤子はむずがゆそうに顔を背けた。
「碧、不甲斐ない兄で本当にすまなかった。俺にできることなら、何でもする。だから、もう自分一人で悩みを抱え込まないでくれ」
「……はい、兄さん」
報道陣はシャッターチャンスを逃すまいと、カメラのレンズを碧達に集中させた。皆がこの光景を、感動の名シーンとしてお茶の間に提供している。兄弟の愛に満ちた優しい姿だと信じ切っているのだ。これを茶番劇と言わずして、何と呼ぶのだろうか。嘘と脚色で塗り固められ、偽善に満ちた空間。こんなデタラメの映像を、世間の者達は喜んで視聴しているというのか? 碧は猛烈な吐き気と眩暈を堪え、無理やり笑顔を作ってみせる。
「赤ちゃんの名前は、もう決まりましたか?」
「いいえ、家に帰ったら家族皆で話し合っていきたいと思います。皆に愛される名前をつけてあげたいですね」
リポーターの一人にマイクを向けられ、真一は柔らかく答える。
「では、皆様。本日はご足労いただき、本当にありがとうございました」
真一と碧は再び丁寧にお辞儀をした。それから、玄関口のすぐ傍の駐車場に駐車された、黒塗りのセダンタイプの車へと移動する。
「さあ、碧」
「ありがとうございます、兄さん」
真一が後部座席のドアを開くと、後部座席にはチャイルドシートが設置されていた。碧は赤子をシートに寝かせ、専用のシートベルトをつけてやる。それから碧がその傍らに座ったことを確認してから、真一が運転席に乗った。エンジンがうなり声をあげ、車がゆっくりと動き出す。見送ってくる報道陣に向けて、碧と真一は愛想を振りまいた。
そうして車が病院の敷地を抜け、国道に出ると車内の空気が一変する。真一の表情が普段の仏頂面へと戻り、舌打ちを響かせた。
「ふん、マスコミの機嫌取りは肩がこる」
マスコミの車が後ろを追ってきている気配はない。真一の先程までとの温度差に、碧は肩を大きく落とした。
「何か言いたそうだな」
バックミラー越しに碧の顔を確認した真一は、煩わしげな口調で問いかけてくる。
「兄さん。昨日の会見のことですけど」
「ああ、あれか。俺の演技力も捨てたものじゃないだろう」
真一がバカにするように鼻を鳴らす。
「あの一連の流れは、病院側に俺が提案したものだ。病院は、早乙女に全責任を擦り付けたい。だが、単に『早乙女の独断であって、自分達は関与していない』と言ったところで、マスコミのバッシングは激しくなるだけだ。そこで、俺が『早乙女に利用された可哀想な若手医師』の役になることで、世間の注目をこちらに向けさせる。マスコミは、世間の人間の心に訴えやすいような、お涙ちょうだいの展開が大好物だからな。簡単に食いついてくれた」
「兄さんの医療ミスの件は……」
「あ? そんな余計な話まで発表したら、俺が早乙女の研究に関与していたことまで穿り返されるだろうが。『医療ミスのもみ消し』なんて、病院側からすればマイナスイメージでしかない。病院側はダメージを最小限に抑えるため、俺を一方的な被害者に仕立て上げたんだ。分かりやすい被害者と加害者の図式だから、マスコミも上手く乗ってくれた」
やはり、舞台裏にそういうカラクリがあったのか。碧は嫌悪感に表情を曇らせる。そんな弟の態度をバックミラー越しに確認しても、真一は気にする素振りを見せない。
「これから先、早乙女が手術ミスのことを暴露しても、説得力はない。昨日の会見で、あの女の信用は地に落ちているからな。一方の俺は、世間からの同情を集める悲劇の主人公だ。奴がいくら喚いても、負け犬の遠吠えにしか聞こえんだろうよ。それに、あの手術についての証拠は、手術カルテの改ざんも含めて、既にもみ消してある。手術に関わった人間が口を割る危険性も低い。自分達の職場の社会的信用をこれ以上落として、自分まで失職したくないだろうからな。もちろん念のために病院側が、全員に金を握らせた上で圧力をかけておいたが」
「……早乙女先生はどうなるんですか」
「警察にしょっ引かれて、余計な供述をされたら面倒になるからな。そこは病院側が有能な弁護士を紹介して、それぞれのダメージができるだけ最小限で済むよう動いている。要するに口封じだ。といっても当然、うちの病院はクビ。おそらく医師免許も剥奪されるだろうし、信用がガタ落ちだから、どの道この業界にはいられまい」
因果応報。その言葉で片付けるのは容易い。だが、経緯はどうであれ、碧の存在が引き金となって、早乙女が不幸になったことは確かだ。それを心の中ですぐに割り切り、処理できるほど、碧は大人ではなかった。
「いいか、碧。以前俺の言った、『信用を勝ち取る』というのは、こうやってやるんだ。お前とその赤ん坊には、これからも俺の役に立ってもらう」
真一が酷薄な笑みを浮かべ、車のアクセルをさらに強く踏み込んだ。兄の話を聞いて、碧の中で疑問が浮かび上がってくる。
……事が世間に露見した原因である、内部リークの犯人は誰なのだろうか?
今回の内部リークには、早乙女が真一を脅し、協力させたという情報が完全に抜け落ちている。そのおかげで、早乙女を一方的な悪者に仕立て上げることができたわけだ。しかし、真一にとって、あまりに都合が良すぎるリーク情報ではないだろうか。早乙女の研究内容を知るような人間が、真一もそこに関わっていたことを突き止められないはずがない。それに、リークのタイミングも良すぎる。
そこで、碧は一つの仮説を思いつく。
……もしかして、週刊誌に内部リークが漏れるよう仕組んだのは、真一か、あるいは真一の息がかかった者なのではないだろうか。真一にとって都合の悪い情報を伏せた上で。
あの会見の直前、碧の病室を訪れたときに真一は、『チャンスだ、これを待っていた!』と言っていた。何を待っていたのか。どうしてチャンスが来るのを予期できたのか。
真一は医療ミスの件によって、早乙女に尾を握られた形だった。あのままいけば一生脅迫を受け、利用され続けていた可能性がある。そこで真一は病院側とマスコミを積極的に利用し、けしかけることで、早乙女を社会的に抹殺するという反撃に出たのではないだろうか。リークによって炎上し焦る病院側に対し、真一が自分を悲劇の主人公に仕立て上げるよう、提案する。病院側からすれば、自分達への社会的ダメージを少しでも減らすプランは、魅力的に映っただろう。マスコミの追及から記者会見が開かれるまでに、隠蔽操作や小細工を弄する時間はあまりに限られている。つまり、焦って真一の案に乗る以外に道はなかったはずだ。真一本人は自分を脅す人間が消え、さらに世間からの自分の評価を高めることができる。もちろん、下手をすればマスコミに奥まで掘り返され、真一自身の立場までも危うくしかねないような、危険な博打だ。だが結果として、真一の大好きな「信用を得る」ことができた……のかもしれない。
これは、あくまでも碧の想像に過ぎなかった。なにせこの仮説は、真一にとってあまりに都合が良すぎる、穴だらけの計画だからだ。仮に、真一が裏で糸を引いていたとしても、もっと綿密で、もっと悪どい計画なのだろう。もちろん、真一に問いかけても、真実を話してはくれまい。それどころか、あまり突っ込んだ内容を尋ねれば、真一の機嫌を損ねるだけに終わるに違いない。
だが、自分の保身のためならば、簡単に弟を売るような真一なのだ。碧の仮説の大筋は、けっしてあり得ない話ではなかった。
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