第20話 大きな転機の前触れ

  ●二〇〇九年 四月一二日(日曜日)


 退院を翌日に控えた朝。赤子の不機嫌そうな泣き声で、碧は目を覚ました。

赤子と一つの病室で過ごすようになってから、もう九日が経つ。その間、碧は安眠から遠い生活を送っていた。理由は単純明快で、赤子の夜泣きが多いのだ。赤子は寝ることと泣くことが仕事、とはどこの誰の言葉だったか。そんなことを頭の隅で考えながら、碧はベッドから起き上がる。隣の小さな乳児用ベッドで泣き叫ぶ、自分の子を抱き上げた。


「どうしたの、お腹空いた? それとも、おしっこかな?」


 とりあえずオムツを脱がせてみようとしたところで、病室の外が何やら騒がしいことに、ようやく気付く。看護師達の焦燥が派手な足音となって、廊下を喧しくさせていた。どうやら、赤子の不機嫌の原因はそれのようだ。


「どうしたんだろう、こんな朝早くから」


 朝食の配膳や患者の体温チェックには、まだ少し早い。まさか、患者の中に容体が急変した者が現れたのだろうか。


 と、碧の病室の扉が慌ただしく開かれた。現れたのは顔見知りの若い女性看護師だが、いつもの間延びした雰囲気は感じられない。切羽詰まったように真剣な面持ちだ。


「新城さん、起きていらっしゃいますか?」

「は、はい。どうしたんですか。みなさん、慌ただしいみたいですけど」

「新城さん、絶対に外に出ないで下さい。絶対にですよ!」


 碧の質問には答えてくれず、看護師は念押しに注意をする。こうした会話の時間も惜しいのか、足早に病室を出て行った。


「何なんだろう? 外に出るなって」

「びえぇぇあぅっ!」

「あー、よしよし。ごめんね、うるさくして」


 絞り上げるように泣く赤子を、碧は慌てて抱き上げてあやす。


 外に何かあるのだろうか? 疑問のヒントを求め、碧は赤子を抱き上げながら、病室の窓の外を見やった。そうして、思わず唖然としてしまう。


「何だ、これ」


 淡い光の広がる穏やかな朝を破壊するかのように、病院の玄関前が大勢の人だかりで溢れ返っていた。スーツを着た大人達が、大型のビデオカメラやマイクを持って、病院に押しかけている。それらの大群を、病院に雇われた警備員達が、どうにかして押しとどめようと必死そうだ。碧が察するに、スーツの大人達はマスコミだろうか。まるで何か大きな事件が起きたかのようだ。


「……まさか」


 妙な胸騒ぎに襲われ、碧は病室に備え付けられたテレビの電源をつけた。腕の中で泣く赤子に配慮するため、テレビにイヤホンを差し込んで、音が漏れないようにする。


 リモコンを操作し、朝のニュース番組にチャンネルを切り替える。画面は、スタジオからの中継によって、病院の玄関前が映し出されていた。自社のカメラに向かって、レポーターの女性が興奮した様子で現場の様子を伝えている。


『こちら、長野市内にある西神総合病院前です。この通り、大勢のマスコミによって辺りは騒然としています。今朝発売の週刊誌に掲載された記事によりますと、病院の医師が非人道的な人体実験を秘密裏に行なっていたとのことです。内部リークによって明らかとなったこの事件は、県内でも有数の大病院を揺るがす、大きなスキャンダルになることでしょう。病院側は、この後八時より記者会見を行う予定とのことです』


 内部リーク、人体実験、スキャンダル?

 それらの言葉を繋ぎ合わせると、事の原因は一つしか思い当たらない。


「そんな、マスコミにバレたの?」


 突然の衝撃に、碧は抱いている赤子を落としそうになる。我に返り、慌てて腕に力を込めなおした。


「びぇぇあぁぁっ!」

「ああ、ごめん、ごめんねっ」


 赤子をあやしながらも、碧の耳には先程の看護師の言葉が残っている。絶対に外に出るな。当然だ、碧がマスコミの前に出れば、混乱がさらに大きくなるのだから。


 それにしても、どこから情報が漏れたのか、碧にはまるで分からない。思い当たる節があるとすれば、鈴鹿だろうか? いや、鈴鹿には研究のことも、この赤子の父親が誰なのかも教えていない。無論、碧が妊娠していることや性分化疾患であることは、彼女の口から大学中に広められているであろうが。


 内部リークというのだから、情報の流出はやはり病院関係者からか。出産の際、大勢の医師達がLDRルームに押し寄せていた。先日の記憶を碧は思い出す。何人もの医師があの場に立ち会っていたことから、早乙女の研究内容は院内の一部医師達相手には明らかにしていたようだ。その中に早乙女を裏切った者が現れた、ということなのだろうか。


「碧はいるか!」


 不意に病室の扉が開かれ、碧の思考は中断した。入ってきたのは、今度は看護師ではなく、真一だった。いつものようにスーツの上に白衣を羽織っているが、よほど慌てているのかシワが目立っている。神経質そうな顔には、焦りと喜びの色が塗り混ぜられていた。


「チャンスだ、これを待っていた!」

「チャンス? に、兄さん、どういう」

「お前の下らない質問に答えている時間はない! さっさと赤ん坊を寄越せ!」


 早足で近寄ってきた真一は、碧の腕に抱かれた赤子を無理やり奪い取った。そのぞんざいな扱いに、赤子がさらに泣き叫ぶ。


「ちょ、ちょっと兄さん、そんなに乱暴にしたら」

「やかましいっ。静かにしろ!」


 赤子に文句を言い放ちながら、真一は病室を走り去っていく。赤子の泣き声が遠のいていき、碧は一人きりで呆然と取り残された。


「何をする気なんだろう、兄さんは」


 真一は、碧の出産後に一度だけ顔を見せた。以前と同じく、周囲から「薄情な人間」だと思われないようにするためだ。そんな真一が、このタイミングで赤子を持ち去るとは、悪い予感しかしない。

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