第19話 背後に忍び寄る悪魔の思考
●二〇〇九年 四月三日(金曜日)
出産からしばらく休憩を挟み、碧はLDRルームから病室へと戻された。しかし翌日になっても、満足な睡眠を取れずにいる。出産によって神経が昂っているせいだ。疲労の極地であるがために、まともに動く気力もない。トイレに行くことでさえ、一苦労だった。
そうして、午後を迎えたころ。看護師が病室を訪れた。
「新城さーん、赤ちゃんとのご対面ですよー」
間延びした声を出す看護師の腕には、小さな入院着を着せられた赤子が抱かれていた。
「まだ新生児室にいなくていいんですか」
「はい。赤ちゃんに授乳させてあげなきゃいけませんからー」
授乳。碧の頭の中でその単語が響く。昨日、碧は出産直後に授乳を試みたが、母乳がほとんど出ず仕舞いだったのだ。生まれて間もない赤子に授乳をさせるのは、「最初に飲んだものは安全で、栄養的にも最適だ」と教えてあげるためにも、必要な行為であるらしい。
「大丈夫ですよー。出産直後からすぐに、母乳がいっぱい出る人の方が少ないですから」
「そうなんですか」
「はいー。でも、こう言っては何ですけどー、新城さんの身体が普通の女性と違うのも、影響があるかもしれません」
中途半端な性の身体である碧が、母乳を出せるのか。その問題は、出産前から碧の中で存在していた。ホルモン投与によって身体が女性化に傾いているとはいえ、体内の女性ホルモンの量が通常女性に比べて圧倒的に足りない事実は、碧にとって大きな足かせとなっている。もちろん、世の中には母乳が出ず、粉ミルクで済ませている女性も少なくない。
だが碧は、出産を経験しながらも、「お前は女になり切れないのだ」と、見えない誰かに嘲笑われているような気がした。
「授乳を促すマッサージを教えますから、少しずつ母乳が出るよう頑張りましょうねー」
その後マッサージを一通り教えると、看護師は病室から出て行った。残された碧は、自分の子と二人きりとなる。相手が赤子のため、会話が続かないことに悩む必要がない。それでも病室内は、何とも言えない微妙な空気に包まれてしまう。
「これが、僕の子、か」
赤子は、新生児用の小さなベッドで小さな寝息を立てている。その穏やかな寝顔を、碧はまじまじと見つめた。
出産を経験したばかりの夫婦は、赤子を観察しながら「父と母のどちらによく似ているか」と話すのが通過儀礼に近い。だが、目の前で眠る赤子の場合、当然ながら一〇〇パーセント碧の遺伝子を引き継いでいる。よって、その容姿も碧とそっくり……のはずだ。
診断の結果、この赤子は性分化疾患ではないとされた。性分化疾患となる要因は、性染色体やホルモンなど様々だ。早乙女の話によれば、性分化疾患が子を成したからといって、子までもが必ずしも、親と同じように性分化疾患となるわけではないらしい。早乙女にとっては、良い研究データとなるのだろう。
「僕が赤ん坊のころって、こんな顔をしていたのかなあ」
碧は、自分が赤子のころの写真を思い出そうとする。が、長らくアルバムを開いていなかったため、おぼろげにしか思い浮かばない。
もう少し赤子が成長すれば、もっと顔の特徴が色濃く出てくるはずだ。きっと、碧そっくりの容姿になっていくに違いない。ミニチュアサイズのクローンを抱いている光景を想像し、碧はげんなりしてしまった。
「『愛おしい』か……。この子の寝顔を見ても、そんな感情なんて全く湧いてこないよ」
普通の人間は父親と母親から、それぞれ半分ずつの遺伝子を受け取り、それらが混ざり合って新しい人間となる。それに比べて、この赤子はどうだろうか。碧の遺伝子をコピーしたかのように受け継いだ――そんな存在をまともな人間と呼べるのだろうか。
「母さんも、こんな気持ちだったのかな?」
ふと碧は、半年以上会っていない母の顔を思い浮かべる。性分化疾患として生まれた碧に対して、母は親としてまともに愛してくれなかった。だが、それは今の碧と同じように、親としてどう接すれば良いのか分からなかったせいなのかもしれない。
「お腹を痛めて産んだはずなのに、どうにも娘とは思えないよ」
この赤子は碧の娘というよりも、複製された碧の分身という表現の方が近い。碧と異なるのは、性別がはっきりしていることだ。
これからこの子は早乙女の研究に利用され、骨の髄までしゃぶり尽くされるのだろう。この赤子がいる限り、碧が早乙女から解放されることはない。
……この赤子がいる限り? ふと、碧の胸の奥にどす黒い感情の火がつく。
この赤子がいなければ、自分は早乙女から解放されるのではないだろうか。この赤子を妊娠したせいで、鈴鹿に拒絶され、人生が滅茶苦茶になったのだ。
……今からでも遅くはない。この赤子を殺せば済む問題ではないのか?
「何を考えているんだ、僕はっ!」
自らの恐ろしい発想に、碧の背筋が凍り付く。拳で側頭部を何度も殴りつけた。
今のは、出産したばかりの親の発想ではない。自分のことしか見えていない、利己的な悪魔の思考だ。自己嫌悪に全身を支配されながら、碧は赤子の頬をそっと撫でる。小さくも柔らかな感触と、肌の温もりが碧の指に伝わってきた。親としての愛情を感じる瞬間なのだろうが、やはり碧にはピンと来ない。
そんな親の苦悩など露知らず、赤子はくすぐったそうに幼顔を軽くしかめていた。
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