第18話 出産
●二〇〇九年 四月二日(木曜日)
季節が移ろい、桜の花びらが舞い散るころ。とうとう、碧の出産日が訪れた。
「うぅ……」
早朝、陣痛によって碧は浅い眠りから目覚めた。前日から定期的に痛みに襲われていたため、睡眠不足ですっかり身体がだるくなっている。すぐに枕元に置かれたナースコールのボタンを押し、看護師を呼ぶ。
「新城さん、大丈夫ですか。LDRルームへ移動しましょうねー」
まだ陣痛が軽いうちに、碧は看護師に連れられてLDRルームへと移動する。
通常の場合、出産当日に妊婦は陣痛室で待機させられる。その後、いよいよ生まれそうになる、という段階で分娩室まで歩いて移動し、そこで出産するのが大まかな流れだ。
それに対してLDRとは、陣痛から分娩、その後の回復までを全て行う部屋を指す。痛みが絶頂のときに分娩室まで歩かされる必要はなく、妊婦の負担を減らす効果があるのだ。部屋には、分娩監視装置をはじめとした医療機器が備え付けられており、出産の準備は常に万全。無論、患者が利用を申請する場合は、相応の費用を要求されるのだが。
LDRルームに備え付けられたベッドの上に、碧はそっと横たわる。このベッドは特別製で、普通のベッドから分娩用のベッドへと変形させることが可能だ。腹の痛みが増し、大太鼓のように鼓動が碧の全身を震わせた。痛みに耐えきれず、碧は寝たまま何度も体勢を変えようと試みる。
そうして数時間が経ち。いよいよ子宮口が限界まで広がるのを感じた。内から押し広げられる感覚に襲われるのと同時に、夢に出てきた異形の怪物が碧の心に絡みついてくる。
早くこの痛みから解放されたい。だが、産むことへの恐怖感でどうしようもない。
朦朧とする意識の中で、そんな二つの感情が碧の中で激しく揺れ動いていた。
「無理をせず、ゆっくりと呼吸をしましょう。無理に力む必要はありませんわよ」
LDRルームに入ってきた早乙女が、穏やかな声をかけてくる。今の碧には、「誰のせいで、こんな痛みを味わっていると思っているんだ」などと言い返す余裕は全くない。顔中が汗でびっしょりだ。
大きな異物が碧の肛門と膣を圧迫し、産道に下りてくる。
「はい、呼吸をして。はい、頑張って!」
早乙女の合図に従い、碧はさらに力む。少しずつではあるが、異物が外に出て行くのを感じ取れた。
「先生、赤ちゃんの頭が見えてきました」
「碧さん、身体の力を抜いてくださいまし。呼吸を短く」
徐々に胎内から異物が出ていくのが、碧にも分かる。早乙女の細い両手によって、優しく引っ張り出された。
同時に、碧の中で張り詰めていた糸が切れる。全身からどっと力が抜けた。度重なる激痛と前日からの睡眠不足により、体力の貯蔵タンクが空っぽになってしまったのだ。
息も絶え絶えで、視界がぼやけ。しばらくの間、瀕死の獣のように喘ぎながら、酸素を肺へと必死に送り込み続けた。
おかげで、微量ながら気力が滲み出てくる。
すると、耳に障る雑音、いや声の群れに不快感を覚えた。重い瞼を再び開き、ゆっくりと眼球を動かし。まだ重い頭が、次第に困惑の色を帯びていく。
(え……?)
碧の瞳に映し出された光景。
それは、好奇心たっぷりの視線を向けてくる、大勢の医師や看護師達の姿だった。
「本当に生まれましたね」
「まさか成功するとは」
「我々は、貴重な瞬間に居合わせることができたんですね」
その場に集まった人は、LDR室を埋め尽くすほどの数もいるだろうか。皆、碧の丸出しの股間や、生まれたばかりの赤子を見て、驚愕と喜びに満ちた表情を浮かべている。
彼らは、命の誕生に感動しているわけではない。実験動物の経過を見て、研究成果が出たことで喜んでいるに過ぎないのだ。碧は自分が所詮、彼らの掌の上で踊らされていたことを、改めて実感した。
――僕は見世物じゃない!
碧もできることなら、そう叫びたい。だが、今は疲労困憊で、声に出す気力すらない。
そこへ、看護師の一人が碧の枕元までやってくる。その両手には、小さな命が大切そうに抱かれていた。
「ほら、新城さん。あなたの赤ちゃんですよ。元気な女の子です」
碧は肩で息をしながらも、どうにか赤子に視線を向けた。
その姿は、異形の化け物などではない。確かな人の子だった。
新生児の体重の平均数値は、碧には分からない。しかし、産声をあげる赤子は、自らの健康を示しているように見えた。その目はまだ閉じられ、小さな身体をさらに丸めている。碧が呆けている間に処置をしたのだろう、赤子にはへその緒が既にない。
一人の精子と卵子によって作られた禁忌の子は、こうして無事に誕生した。父とも母ともいえぬ親と、命を実験材料として扱う医師達の手によって。
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