第17話 母親

◆日記に記されていない幕間


 新城早苗にとって、何よりも大切な存在は長男の真一だった。

 夫と結婚してから二年後。待望の男子として生まれた真一を、早苗は溺愛した。欲しいものは何でも買い与えたし、お願い事はできるだけ聞いてあげた。度を越した甘やかしであることを、彼女は今でも自覚していない。


 真一に対し、何よりも強く教え込んだのは、一番になることだった。そのためなら、他人を蹴落としても構わない。むしろ、とことん利用し、陥れていけ。口が酸っぱくなるほどに、何度も何度も言い聞かせた。


 そんな真一が有名大学病院の医師となったとき、早苗は涙を流すほどに歓喜した。大事に育てた甲斐があった、と自分の教育方針を自画自賛したものだ。真一は現場の第一線で働き、キャリアを順調に重ねている。


 ……そのはずだった。


『どうしたの、真一さん。顔色が悪いわよ』

『お袋。俺は……失敗した』


 ある日。仕事から帰宅した真一の第一声は、絶望に歪んでいた。彼の話によれば、初歩的な過失によって手術を失敗させ、患者を死なせてしまったのだという。その手術に参加していた他のスタッフ達に責任を押し付けることもできず。途方に暮れていた。そこへ、先輩医師がつけ込んできた。この件をもみ消す代わりに、自分の研究に協力しろ、と言われたのだそうだ。

 その条件が、碧を被検体として差し出すことだった。


 碧。早苗の人生における最大の汚点。


 本来ならば、次男として生まれてくるはずだった。ところが、実際に出産した赤子は、性分化疾患の持ち主であったのだ。


 失敗した。自分は妻として、母として、失敗してしまった。


 夫の両親からは、「出来損ないを産んだ女だ」と事あるごとに蔑まされるようになった。長男の真一が優秀であったがゆえに、碧に対する期待外れは衝撃があまりにも強かった。


 生後すぐに手術で処置をすれば、治療できる。担当医からはそう薦められた。

 しかし、夫がそれに反対した。


 夫の主張はこうだ。碧が冷静に物事を判断できる年齢になったとき、自分で性別を選択させるべきだ、と。

 早苗には到底理解ができなかった。碧の成長を待てというのか。それまでの間、夫の両親や親戚から虐げられるのは早苗なのに。心理カウンセラーという仕事に就いているせいで、夫は偏った考え方に支配されている。早苗はそう決めつけた。夫と結婚したきっかけは父の紹介であり、仕事上の取引相手の親類縁者だったゆえの、半ば強制的なものだった。いわゆる政略結婚であるが、新婚時代からまるで反りが合わない。碧の件もその一つだ。


 何度も繰り返された口論の末、結局、夫の意見が押し通された。碧は男でも女でもない、中途半端な存在のままだった。


 近所に住む人間や、学校の父兄達からは同情半分、嘲り半分の視線を向けられるようになった。真一という輝かしい成績の子がいるために、誹謗中傷の陰湿さは増す一方だった。また、碧が進級するたびに、担任教師に身体のことを説明するのも、うんざりだった。


 それなのに、夫は早苗を支えてくれるどころか、数年前に事故で先に逝ってしまった。どこまでも勝手な男だ。




(早苗の夫に対する評価は、真実の一面ではある。早苗の夫は、自分のエゴを碧に押し付けていたともいえる。自身の仕事上の経験がかえって視野を狭め、自分の考え方こそが唯一の正解だ、と思い込んでしまった。そこで生じる多くの負の部分からは目を背け、妻の早苗に丸投げしたのだ。自分のエゴの毒を、親の愛情という甘い言葉で包み、優しい微笑を浮かべながら、碧に与え続けた。自分の育て方は父親として正しいのだ、と命を失うときまで信じて疑わず。そうした結果、碧は早苗を恐れ、早苗の夫を尊敬するようになる)




 結局、早苗は、碧という不良債権を抱えたまま生きている。


 碧に対して優しく接しろ? 無茶な話だ。早苗は出産以来、碧を愛おしいと感じたことは一度もない。同じ人間だとさえも考えたくなかった。視界に入れるだけでも、吐き気を催すほどである。捨てられるものなら、今すぐにでも実行したい。早苗の両親が住む実家に押し付けたかった。だが、そんなことをすれば、近所の者にどんな陰口を叩かれることか。良家の令嬢として生まれ育ち、プライドが人一倍高い早苗は、他人の評判を重視し、常に怯えながら生活を送っていた。屈辱としか言いようのない日々である。


 自分の子は、真一だけ。そう公言できたなら、どんなに幸せなことか。


『碧を差し出せば済む話なんでしょう? 何も問題ないわ』


 ゆえに、早苗は碧を売った。真一を守る母として、迷う素振りすらも見せることなく悪魔に魂を売った。





 

 それからいくつもの月日が流れ。


「最近機嫌がいいわね。何かあったの?」


 ある休日。台所で皿を拭く早苗は、隣の居間でくつろいでいた真一にそう問いかけた。


「ん? そう見えるか?」


 ソファに身体を預けた真一は、鼻歌を歌いながらテレビを観ている。自身の失敗に怯えていたころから、随分と精神状態が回復したのが見て取れた。早苗としては喜ばしい限りだが、何が原因なのか興味がある。


 真一は顔だけこちらを向けながら、酷薄な笑みを浮かべた。


「色々と根回しをしていた案件が、ようやく片付きそうなんでな。まあ、むしろ忙しくなるのは、それからなんだが」

「お仕事のこと?」

「まあ、それもある。そうそう、お袋にも協力してもらうことになるな」

「私は真一さんのためにできることなら、何でもするけれど」


 いったい、真一は何をするつもりなのだろうか。


「……くくっ、俺がやられっぱなしでいると思うなよ、早乙女」


 真一の眼は、復讐を誓う野獣のようにギラついていた。

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