第16話 遅すぎた後悔
●二〇〇九年 一月一九日(月曜日)
先日の件の後、碧は何度も鈴鹿に電話をかけ、メールを送った。だが、返事は何もない。どうやら、完全に拒絶されてしまったらしい。碧の自業自得ではある。勿論、今更後悔したところで遅いことは理解していた。
「……大学に復帰するまで、コンタクトは取れそうにないのかな」
自分の病室のベッドに横たわりながら、碧は携帯電話を枕元に置く。いつ鈴鹿からの着信があっても対応できるように、携帯電話は常に手元に置いてあった。
先日の件の後、早乙女にもすぐに報告してある。早乙女は珍しく渋い表情を浮かべ、しばらく考え込んでいた。
『渡会さんなら、私の受け持ちの患者です。妹さんに口止めしてもらうようにお願いするとしても、次の診察日まで待つのは危険ですわね。至急、電話をかけておきましょう。口止めの理由については、私の方ででっち上げておきます』
もちろん、口止めにどこまで効果があるのか、という希望は薄い。碧が妊娠していることや、性分化疾患であることについては、大学中に広められていてもおかしくない。
昨日、ヨガ教室に参加したときに、瑞希からも話を聞いた。瑞希がどんなに慰めの言葉をかけても、鈴鹿の心は殻に閉じこもったままだったらしい。ショックを乗り越えるには、まだしばらくの時間が必要になりそうだ、と瑞希は無念そうに話していた。
『もう、新城君ったら。入学から二か月近く経つのに、まだ余所余所しいのね。お姉さん、ショック』
『もしも私が売れ残ったら、新城君がもらってくれるかしら?』
『私、待っているから。また新城君と大学で会えるのを、ずっと待っているからね』
鈴鹿と過ごした大学での半年間の思い出が、碧の脳裏で蘇る。鈴鹿が碧に対して好意を抱いてくれたことは、碧とて知っているつもりだった。その上で彼女の想いを踏みにじったのも碧だったのだ。
自分は、どうすれば良かったのだろうか。碧は自問する。
やはり、知り合ったときにカミングアウトしておくべきだったのだろうか。そうすれば、嘘に嘘を重ねる必要はなかった。一方で中高時代の差別を受けた忌まわしい記憶が、碧の精神に絡みついて離れない。あのような思いを、二度と味わいたくなかった。だが、それは碧が臆病に過ぎなかったのではないか。鈴鹿達が、中高時代のクラスメイトと同じ反応を示すとは限らなかったのだから。
いや、そもそも、養護教諭を目指したことにも原因があるのかもしれない。資格を取得する際に性の異質さを意識する必要のない、全く別の進路を選ぶべきだったのではないか? ……結局、碧は自分の臆病さを認めたくないがために、自分の身体を言い訳に使っていたのだろう。
「父さんなら、どうしていたんだろう……?」
碧は嘆息し、亡き父のことを思い浮かべる。心理カウンセラーだった父は、碧の性を親が決定することに反対していた。親が「男の子、あるいは女の子がほしい」という希望によって、子どもの人生を強制的に決めつけるのは、愛情ではなくエゴだ。父はそう言っていた。
男にも女にも染まり切れない碧の肉体は、心を大きく揺らがせ続けていた。なぜ生まれたときに、どちらかの性に決定しなかったのか――と父に尋ねたことがある。
『碧。手術では身体の性を変えることができても、心の性までは変えることができないんだよ。誰かに恋をしたとき、相手が肉体的な意味で同性だったとしたら、今度は自分が同性愛者なんじゃないか、って悩むようになる。そうして、これなら手術で違う性にしておいてほしかった、と考えてしまうだろう。だから、身体の性を親が決めてしまうのは、良くないことだと僕は思う。本人が自分の心と向き合って、誰かを好きになって、自分自身で決めるべきなんだ。同性を好きになってもいい。だけど、けっして、無理やり自分の心を捻じ曲げてはいけないよ。大事なのは、自分の心が自分自身をどんな性として好きになれるか。好きになった相手と、どんな性として一緒に歩んでいきたいのか。どんな家庭を築いていきたいのか。それらを自分で考えて答えを出しなさい』
父は、そう優しく諭してくれた。母と兄が碧を受け入れてくれない中で、父だけが碧のことを受け入れてくれた。学校で「中途半端」と苛められても、父だけが碧の性を肯定してくれたのだ。その父も、碧が中学二年生のときに亡くなった。
もちろん、父を恨んだ時期もあった。
父の考え方は所詮、身勝手なエゴであり、自分は押し付けられただけではないか。赤子の段階で身体を男か女、どちらか手術ではっきりさせてくれていれば、心の性もどちらかに定まっていたのではないか。たとえ、身体と心の性にズレが生じたとしても、その方がまだマシなのではないか。自分のように、心と身体がどの性にも染まれず、どこへ向かって生きていけば良いのかも分からない、出来損ないの人間よりは!
……そう嘆き、何度枕を涙で濡らしたことか。生きていくのが辛くて、逃げ出したくて。自殺のための道具を用意し、精神的に追い詰められて実行しそうになった過去もあった。
それでも、自分をそっと包んでくれた、父の愛情への感謝が自殺を思い止まらせた。たとえこの世でたった一人だとしても、自分を愛し、支えてくれる人がいた。その事実が、孤独に震える碧を勇気づけてくれたのだ。
今では、碧の中で父が目標となっている。父が自分にしてくれたように、心や身体の様々な問題で悩む児童の力になってあげたい。そう強く望み、碧は養護教諭としての道を歩もうと決めた。だが、自分の弱さを盾にする卑怯者に、養護教諭が務まるはずがない。
「自分がどんな家庭を築いていきたいのか――か。それって、この子との家庭も、ってことなのに。僕の場合、父親と母親のどっちになってあげるべきなんだろう……?」
碧は、父が遺した言葉を声に出し、自分の腹をそっと撫でた。
腹の中で育つ胎児。「普通の人間」として生まれることができるのかさえ、怪しいものだ。一人の精子と卵子による子など、正気の沙汰ではない。「自分の子と早く会いたい」と通常の妊婦は考えるが、碧はどうしても前向きに捉えることができなかった。B級ホラー映画のように、異形の顔を浮かべ、甘えるようにして碧を嗤う。例の夢に出てくるあの姿が、どうしても脳裏から離れない。
「今回の一件が全部、お腹の子のせい……とは思いたくないけど」
それが、親としても人としても軽蔑されるべき愚考であることは、碧ももちろん理性では理解していた。だが、病院という名の牢獄に閉じ込められ、狂気の研究に利用され、家族に裏切られ、さらには親しい友にも見放されてしまった現在――何よりも身近な誰かに責任を押し付けなければ、摩耗していく精神を繋ぎ止めることができないのだ。
「無事にこの子が生まれたとしても。僕はこの子と、一体どんな家庭を築いていけばいいんだろう……」
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