第15話 予期せぬ最悪

  ●二〇〇九年 一月一七日(土曜日)


 トイレに行こうと、病院の廊下を歩いていた碧は、ロビーの隅に小さな人影に気がついた。近寄ってみると、年端もいかない幼児の姿が見える。


「……おとうさぁん、おかあさぁん」


 幼児は俯きながら、モミジのような手で顔を覆い、泣きじゃくっていた。もしかして、迷子だろうか。碧は放っておけず、優しい声音で話しかける。


「どうしたの? お父さんとお母さんが見つからないの?」

「……ううん、いるよ。でもね、いつも、わたしのこと、こわいっていうの」


 こんな小さな子を怖い、とはどんな理由なのだろうか。碧は幼児の目線と同じ高さまでしゃがみ、そっと頭を撫でてやった。


「大丈夫、怖くなんてないよ。ほら、涙を拭いて。ね?」


 碧が優しく促すと、ようやく幼児は小さな顔を上げた。それを見た途端、碧は思わず肩を大きく震わせ、身を引いてしまう。幼児の顔は、まるで鏡写しのように碧と瓜二つだった。だが、碧と目を合わせた途端、幼児の口が見る見るうちに耳まで引き裂かれていく。

 甘えているつもりなのだろうか。しかし、碧の瞳には碧を嗤っているように写った。


「おとうさん、おかあさん。ねえ、わたしのこと、こわい?」






 次の瞬間、碧の意識が覚醒した。視界がまず捉えたのは、小さなシミがいくつか付着した白い天井。ここ数か月で馴染んだ病室だ。着ている入院着が、全身から出た汗で滲んでいた。


「……また、あの夢か」


 碧はベッドからゆっくりと上体を起こし、窓の方を見やった。冬の控えめな陽光が、室内に差し込んできている。ベッドのすぐ隣に置かれた目覚まし時計は、午前六時を指していた。そろそろ看護師が体温のチェックをしに来るころだ。


 妊娠が発覚してから、碧は最低でも週に二、三回の頻度で先程と同じ夢を見る。そのせいもあってか、順調に育つ腹の中の胎児が、まともな人間であるという確証を持てずにいた。ひょっとすると、とんでもない化物が生まれるのではないか、と疑ってしまう。


 自分の腹が大きくなっていくと共に、碧の恐怖も日に日に膨らんでいった。







 この日も碧は、午後からマタニティヨガ教室に参加した。土曜日ということもあってか、平日に比べて参加している妊婦の数が多い。


「碧ちゃん、この後ちょっとお茶しない?」

「ええ、いいですよ」


 運動で火照った身体を手で仰ぎながら、瑞希が誘いをかけてくる。碧もこの後は特に用事がないため、二つ返事で承諾した。長期入院にすっかり飽き、退屈で仕方がないのだ。見舞いに来るのは早乙女や真一だけで、看護師達も碧一人の相手をするわけにもいかない。他人との会話が、どれほど貴重な時間なのか、碧は身に染みて実感していた。


 瑞希と共にエレベータに乗り、四階の喫茶店へ移動。店内は見舞客と患者の憩いの場としても人気であり、入院着姿の客が多く見られた。碧と瑞希は店内最奥の席に腰かける。


「ご注文は?」

「コーヒーを二つ下さい」

「かしこまりました」


 注文を聞きに来たウェイターに、瑞希が笑顔で答える。それから程なくして、カップに入ったコーヒーが届けられた。


「碧ちゃんって、ミルクをたっぷり入れる派なんだね」

「ええ。正直言って、コーヒーの苦みがあまり得意ではないんです」

「ふふ、そう言う人も、けっこういるよね。でも、そんなにミルクを入れたら、カフェオレになっちゃうよ。無理して私に合わせず、カフェオレを注文しても良かったんだよ?」


 自分の分のカップに、ミルクシロップを三つも投入する碧。瑞希はさすがに苦笑する。


「そういえば、碧ちゃんって、いつもスッピンだよね。メイクとかしないの?」

「メイク、ですか」

「うん。いくら個室に入院しているといっても、碧ちゃんは年頃の女の子なんだもの。それにスッピンでも可愛いから、メイクをしたらかなり映えると思うなぁ」

「あ、あはは……メイクにはあまり興味がないんです」


 そもそも、メイクの知識や道具を持ち合わせていない。碧が誤魔化そうとすると、瑞希は碧の瑞々しい肌の頬に手を触れてくる。その表情は厳しくしかめられ、まさに妹を叱る姉そのものだ。


「メイクを侮っちゃダメ! 今は若いからって安心していると、すぐにシワが増えたり、お肌に潤いがなくなったりしちゃうからね。私は碧ちゃんに比べてお姉さんだから、この身に沁みているんだよ。碧ちゃんだって、少しでも美しい姿を旦那さんに見てもらいたいでしょう?」


 旦那など存在しない――と言えるはずがなかった。このままでは、瑞希が化粧のレクチャーをすると言いかねない。碧は慌てて話題を逸らしにかかる。


「お、夫といえば。今日、渡会さんの旦那様は、いつごろ迎えにいらっしゃるんですか」

「え、う、うちの人? ううん、あの人ったら急な出張が入って、先週から大阪へ行っているんだよ。代わりにうちの妹が迎えに来てくれることになっているの」

「妹さんですか」

「うん。歳は、碧ちゃんと同じ一九だよ。私よりもずっとしっかりしていてね。私の方が妹によく叱られるの。おかげで親戚の人からは、姉妹関係が逆転している、って笑われちゃってて」


 スプーンでコーヒーをかき混ぜながら、瑞希は照れ臭そうに笑う。急に話題を変更されても、機嫌を損ねるどころか自慢気である。仲が良い姉妹の話に、碧は内心で軽い羨望を覚えた。碧と真一の間には、幼少時代から分厚い壁が存在していたからだ。自分をどうにか好きになってもらおうと努力した時期もあったが、真一には邪険にされるだけだった。


 どうやら、化粧の問題を上手く誤魔化せたようだ。碧は瑞希にバレないよう、そっと胸を撫で下ろす。


 と、瑞希が手提げ鞄から携帯電話を取り出した。院内での携帯電話の使用を制限する病院は少なくないが、この四階では特に禁じられていない。四階は他にも理髪店や図書室などの施設が存在しており、リラックスして過ごせる空間となっていた。


「あ、噂をすれば、妹からメールだよ。ついさっき病院内に着いたんだって」

「ヨガ教室が終わる頃合いを見計らって、病院に来たんですね」

「うん。本当は、ここの病院に友達が入院していて、お見舞いに行きたいらしいの。でも、面会謝絶で無理だって言われたとかで」

「へえ」


 瑞希の話に相槌を打ちながら、碧は首を傾げる。……どこかで聞いたような話だ。


「妹は、そのお友達に片思いしているんだけど、告白の前に入院されちゃったんだって。退院の日取りも決定していないから、いつ会えるのか、ってよく愚痴を聞かされててね」

「そ、そうですか。ちなみに、妹さんのお名前は?」

「うん? 鈴鹿だよ。岸本鈴鹿。私は結婚しているから、苗字が違うけど」


 朗らかに話す瑞希だが、対する碧は背中から冷や汗があふれ出していた。動揺を気取られないよう、笑顔を作って誤魔化す。


(マズい、どうにかして逃げないと)


 以前、鈴鹿が「姉が妊娠した」と話してくれていた記憶がある。まさか、その姉が瑞希だったとは全く予想していなかった。碧は、自分のあまりの迂闊さを悔いるほかない。このままここにいたら、間違いなく鈴鹿と鉢合わせになる。一刻も早く退散するべきだ。


「あ、あの、渡会さん。僕、ちょっと用事を――」

「あ、お姉ちゃん、いたいた」


 別れを切り出そうとした碧を遮り、店の入り口から若い女性の声が聞こえてきた。慌てて碧が振り返ると、白いセーターを着た華やかな美貌の女性が、こちらに歩み寄ってきているのが見えた。間違いない、鈴鹿だ。


「あら、鈴鹿ちゃん。こっち、こっち」


 何も知らない瑞希が、手を振って出迎える。


(ヤバい、ヤバいヤバいヤバいっ!)


 入り口への通路を塞がれる形となった碧は、鈴鹿から顔を背けるしかできない。


「お姉ちゃん、こちらの人は?」

「何度かお話したでしょう、ヨガ教室で仲良くなった子だよ。鈴鹿ちゃんと同い年の新城碧ちゃんっていうの」


 万事休す。碧は耳を塞いで頭を抱えたくなった。


「新城碧?」


 その名を怪訝そうな声で反芻する鈴鹿。


「どうしたの、鈴鹿ちゃん」

「ううん、知り合いと偶然同じ名前だったものだから。よろしくお願いします、新城さん」


 このまま沈黙を貫き通すわけにもいかない。碧は観念して、ゆっくりと顔を上げた。それを見た鈴鹿の笑顔に大きくヒビが入る。


「え、え、新城、君?」

「……久しぶり、岸本さん」


 まともに目を合わせることもできず、碧は声を沈ませる。鈴鹿は動揺のあまり、身体のバランスを崩してテーブルに寄り掛かった。


「どういうことなの? 新城君、面会謝絶だったはずじゃ。ううん、それよりもそのお腹は……」


 鈴鹿はテーブル越しでも見てわかる、碧の膨らんだ腹を指さす。


「鈴鹿ちゃん、知らなかったの? 碧ちゃんが妊娠しているって」

「妊娠!?」


 妹の狼狽ぶりから、さすがの瑞希も事の異常さを察したようだ。だが、彼女の言葉は鈴鹿の混乱の炎に油を注ぐ結果となった。鈴鹿は鋭い剣幕で碧の顔を睨んでくる。


「新城君、説明して」

「……うん」


 意を決し、碧は鈴鹿の顔を正面から見つめる。己の咎を懺悔する罪人として。


「岸本さんに、ずっと黙っていた秘密があるんだ。僕は、性分化疾患――いわゆる半陰陽っていう身体の人間なんだよ」

「半……陰陽?」


 碧が使った単語に、鈴鹿はいまいちピンと来ない様子だった。


「僕の身体は、男性と女性の両方を併せ持っている。大学にいるころはあまり目立っていなかったけど、妊娠した今ではこの通り、胸の膨らみも大きくなっているでしょう? よく皆から女性に間違えられていたのも、仕方のないことではあったんだ」

「そんな」


 碧の話に脳が付いていかないのか、鈴鹿の顔から血の気が引いていくのが見て取れる。妊娠を経てさらに艶めきを増した唇や、以前よりもしっかりと膨らみを主張する胸など、今の碧は女性的な外見を纏っている。まるで、性別を超越した化生のように。


「じゃ、じゃあ大学を休学したのは、妊娠したからなの?」

「うん……お腹が大きくなって、皆を誤魔化し切れなくなってきたから。主治医の先生に相談したら、入院した方がいいって言われたんだ」

「誰なの、お腹の子の父親はっ!」

「ごめん、それだけは言えない。僕には言う資格がないんだ」


 早乙女の研究を外部に漏らすわけにはいかない。鈴鹿にこれ以上の隠し事をすることで、胸が今にも張り裂けそうになる。それでも、碧には打ち明けて楽になる権利を与えられていなかった。


 鈴鹿は唇を震わせ、次に碧を激しく睨みつけた。その瞳は、裏切られたことへのショックと怒りが色濃く混ざり合っている。


「ずっと、ずっと騙していたのね。私達を」

「……ごめん。本当は去年中に打ち明けておきたかったんだけど。妊娠が発覚して、話す勇気が持てなくなったんだ」

「そんな苦し紛れの嘘、信じられるはずがないでしょうっ」


 鈴鹿の大人びた美貌が見る見るうちに歪んでいく。小さな拳をテーブルに叩き付け、碧を糾弾する。


「男だと勘違いしていた私達なんて、さぞや滑稽に見えたでしょうね。何も知らないフリをして、心の中では笑っていたんでしょう」

「鈴鹿ちゃん」

「お姉ちゃんは黙っていて!」


 間に割って入ろうとした瑞希を、鈴鹿は無理やり遮る。


「ねえ、楽しかった? 私の気持ちを踏みにじって楽しかった?」

「……ごめん」


 謝罪の言葉を述べるしかできない碧には、鈴鹿の苛立ちが増していくのが分かった。次の瞬間、碧の頬に鈴鹿の平手打ちが叩き付けられた。乾いた音が店内に鳴り響き、場の空気が一気に凍り付く。


「大っ嫌い! 新城君の顔なんて、二度と見たくない!」


 鈴鹿はそう捨て置いて、店を走り去っていく。その後ろ姿を追うこともできず、碧はただ力なく項垂れてしまった。


「碧ちゃん」


 見かねた様子の瑞希が、碧の肩にそっと手を置く。


「碧ちゃんが、自分の身体について鈴鹿ちゃんに話せなかった気持ち。第三者の私には分かる気がする、なんて軽々しく言えないけど。本当の自分を拒絶されるのが怖かったの?」


 小学校教諭として積み重ねた経験だろうか、瑞希の慰めの言葉に温もりを与えていた。対する碧は、小さく頷くしかできない。


「鈴鹿ちゃんには、後でフォローを入れておくね。だから落ち着いたら、碧ちゃんの方からも謝ってあげて。それじゃ、今日のところは私も帰るから」


 瑞希はテーブルの上に置かれた伝票を取り、レジへと向かう。二人分の支払いを済ませ、妹を追って店を出て行った。一方、独りで席に残った碧は、まだ口をつけていなかったコーヒーの水面を、呆けた目で眺める。


『貴方のご家族も、ご友人も、《普通》の人間は私達異端者を蔑む。その呪いから逃れる術はありませんわ。あなたの身体のことを知れば、誰もが距離を置くでしょう。秘密を知られた上で、《普通》の人間と同じように生活し、ましてや家庭を築くなんて不可能ですのよ』


 つい先日の早乙女の言葉が、まるで今の碧を嘲笑うかのように脳裏で反響していた。


 最悪の形で友を失った。碧の臆病さが友情を破壊したのだ。今更後悔しても遅いことは分かっていながらも、碧はこぼれ出る涙を止めることができなかった。

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