第14話 信用

 夕方になると、毎日鈴鹿からメールが届く。


『そろそろ後期の試験が近いんだけど、教職論の講義中にうたた寝しそうになっちゃった。この調子だと、立派な教師になれないわね。でも教授の声、催眠音波みたいなんだもの』


 鈴鹿はその日にあった出来事を、メールで報告してくれる。長期入院中の碧が退屈しないよう、気を使ってくれているのだ。碧としても病院の外の情報、何よりも友人達の近況を知れるのは嬉しい。おかげで、先刻の早乙女との話で膨らんでいた怒りも少し和らぐ。


『ノートはちゃんと取ってる? 僕も復学したら教職論の講義を受けるから、次に会えたときに見せてもらえたら、嬉しいな』


 病室で一人、碧は慣れた手つきで携帯電話を操作し、メールを返信する。それからベッドに背中を預け、横になろうとした。


 と、病室の扉が無遠慮に開かれる。碧は慌てて携帯電話をベッドの掛布団の下に隠した。ノックもなしに入ってきたのは真一だ。仕事の合間なのだろう、スーツを着た上に汚れひとつない白衣を羽織っている。


「兄さん、何か御用ですか」

「特に用はない。ただ、院内にいる大半の看護師や医師は事情を知らんからな。身内が入院しているのに見舞いに行かないと、連中から怪しまれる。面倒だが、信用を保つには仕方があるまい。……ったく、時間は信用を築くために金よりも貴重なんだぞ」


 白衣の襟元を正しながら、真一は不満げに答える。弟に対する心配の感情を持ち合わせていないのは、相変わらずのことだ。


「家の方は何かありましたか」

「いや、特に。ただ、お袋は最近機嫌がいい。お前が家にいないおかげでな」


 早苗にとって碧は、家庭内に存在する異物でしかなかった。碧の入院から三か月が経とうとしているが、母が見舞いに来たことは一度もない。むしろ、厄介者を病院に預けることができて、喜んでいるようだ。碧の方も、余計な気苦労がない点については、入院をありがたいと思っている部分がある。


「今回の妊娠の件。兄さんは、本当に医者としての良心が痛まないんですか」」


 碧の問いに対し、真一が煩わしそうに眉をしかめる。だが、碧はどうしても兄から直接答えを聞きたかった。


「……またその質問か。何か月か前にも、答えただろう」

「でも、こんな非人道的な研究に加担するなんて――」


 碧はそれ以上話を続けられなかった。真一が碧の喉元を絞めあげるように掴んだからだ。


「お前に何が分かる。社会の厳しさを何も体験していない、気楽な大学生に過ぎないお前から、偉そうに説教を受ける必要はない」


 声を普段と比較してより一層低くし、碧の顔を自らに引き寄せる真一。その眼には、侮蔑を超えた禍々しい憎悪を血走らせていた。


「いいか、医者という仕事は、信用が何よりも大事な商売だ。信用を得るには、いかにして自分に責任が及ばないようにするか。そのために、俺がどれだけの努力をしてきたと思っている。ガキのお前には分かるまい。上司に毎日みっともなく頭を垂れて、石ころのような価値程度しかない部下を上手く利用する。そうした日々の積み重ねが今回のように、いざというときの役に立つんだ」


 真一の手に益々力が入っていく。碧は呼吸するのも難しくなり、喘ぐしかできない。


「石ころを上手く使って、自分のリスクを押し付け、美味しいところをかすめ取って踏み台にする。社会で成功する人間ってのは、皆そうやって成り上がっていくものだ。分かったら、二度と減らず口を叩くんじゃない!」

「かはっ……けほっ」


 語気を荒げ、真一はようやく手を放した。

碧は咳き込み、力なくベッドに仰向けに倒れてしまう。同時に、兄の本性をまざまざと見せられ、改めて強い失望を覚えた。真一は責任から逃れるためなら、医者としての矜持も簡単に捨てる。自分の地位を守るために、家族すら売り渡す。そう言い切ったのだ。


 自己保身が真一の信じる絶対無比の力。


 そんな彼の道具になっていることが、碧はどうしようもなく情けなかった。


「ったく、無駄な時間を過ごした」


 苛立ちを持て余した真一は、革靴で床を踏み鳴らし、病室を出て行った。

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