第13話 早乙女の秘密と同志

 それから数分後。碧の憂いを読み取ったかのように、病室の扉のノック音が鳴った。


「失礼いたしますわ」


 そう言って入ってきたのは、噂をしていた早乙女本人だ。相変わらず、その身から発せられる濃厚な色香に、碧はむせ返りそうになる。ふて寝を決め込もうかとも考えたが、仕方なくベッドから上体を起こした。


「お加減はいかがかしら、碧さん?」

「……何をしに来たんですか」


 無意識のうちに、碧の声が硬度を増す。早乙女に対して、親しみや尊敬の念を抱く要因は、碧の中で存在しない。碧にとって早乙女とは、怪しげな研究のために自分を利用し、命を弄ぶ悪魔でしかなかった。早乙女側も、自身のマイナスイメージを払拭しようと努力する気配が、まるでないようだ。


「あらあら、手厳しいですこと。主治医が患者の方のご様子を窺うのは当然でしょう? 碧さんの場合、妊娠によって体内バランスが乱れやすく、体調を崩されてしまう危険がありますし。経過がとても心配ですのよ」

「患者じゃなくて、実験動物の間違いじゃないんですか」


 碧は出来る限り鋭く睨みつけるが、早乙女は涼しい表情を崩さない。人生経験の厚みもなく、外見も幼い碧がいくら怒ったところで、眼前の女が狼狽えるはずがないのだ。かといって、碧の方から媚びへつらうつもりも毛頭なかった。無力なハムスターのような碧にできる、せめてもの抵抗である。


「実験動物ですか。私は碧さんを、そのように捉えているつもりはありませんけれども」

「白々しい。それなら、どう見ているっていうんですか」

「ふふ。『同志』ですわ」


 同志。脅迫によって研究に参加させた相手を、そのような綺麗な言葉で表せるものか。碧の胸の奥で苛立ちが煮え立つ。


「病院に軟禁して、人体実験することが同志にする仕打ちなんですか」

「碧さんに色々と不便な思いをさせていることについては、お詫びいたしますわ。ですが、私が言う『同志』とは、単に研究に協力していただいているからではありません」


 早乙女は唄うように言い、壁に立てかけられたパイプ椅子を展開する。その上にそっと腰かけるまでの一連の動作も優雅そのものだ。


「その説明をするためには、まず私の身の上話をする必要がありますわね。少しの間、お時間をいただいてもよろしいですか」


 早乙女がしなやかな足を組み、瑞々しい肌の太ももを惜しみなく見せつける。碧の目にはその仕草が、獲物が巣にかかるのを待つ絡新婦のように見えた。


「碧さんには、私がどのように見えますか」


 早乙女が投げかけてきた質問の意味が、碧には理解できない。


「女に見えますかしら? 確かに、戸籍上は女ですけれども。残念ながら、碧さんの予想は半分外れですわね」


 早乙女は肉厚の唇を舌で軽く舐めてから、さらなる言葉を紡ぐ。


「私も性分化疾患の患者です」

「え」


 予想もしていなかった答えに、碧は完全に虚を突かれてしまった。動揺のあまり、思わず目を点にする。その反応が気に入ったのか、早乙女は上品な微笑をこぼした。


「ふふ。といっても、碧さんのような卵精巣性性分化疾患ではありません。私の場合は、アンドロゲン不応症という症例です。アンドロゲンとは、男性ホルモンの別名ですわね。通常は分泌されたアンドロゲンに対して、レセプターと呼ばれる細胞が受け皿となることで、胎児の性器は男性のものへと変化します。ところがアンドロゲン不応症は、このレセプターが上手くアンドロゲンに反応できなかった場合に起こる症状なのです。そうなると、胎児の性器は女性のものを形作っていきますわ。中でも私の場合は、完全性アンドロゲン不応症といいまして、通常男性と同じくXY染色体を持つ存在です。一方で心の性は私のように、多くの同病の方が女性ですわね。完全性アンドロゲン不応症の場合、外性器は女性のものですけれど、性腺は卵巣ではなく精巣を持っていますし、子宮はありません。そのため、妊娠は基本的に不可能ですわ」


 さらに早乙女の説明は続く。


 彼女曰く、完全性アンドロゲン不応症の場合、二次性徴においてもレセプターが問題を起こすのだという。精巣から分泌された男性ホルモンが、『男性らしい身体つきに成長しなさい』と促すのに、レセプターが上手く反応しない。そうして、男性ホルモンのいくらかが女性ホルモンに変換され、胸や尻などの体つきが女性らしく変化していく。早乙女が扇情的な肢体を持つ原因でもあるのだろう。


 そんな早乙女の話に、碧は言葉を挟む余裕がない。内容が専門的すぎるからではなく、あまりの告白に脳が追い付かないのだ。


「自分で申し上げるのも何ですけれども、私の実家は華族の血筋を組む家です。カビ臭い歴史の古さと、豚のように醜く肥えた誇りが取り柄の時代遅れな連中ですわね。私はその長女として生まれ、幼い頃から淑女としての教育を叩きこまれました。ゆくゆくは政治家や財閥の長に嫁ぐ、というB級ドラマの脚本のような流れが、両親の敷いたレールです。けれど、年頃を迎えても初潮が来ない私は、心配になって病院へ行きました。そこでの診断結果が、完全性アンドロゲン不応症だったのです。それを知った両親の驚きぶりといったら、凄まじいものでしたわ」


 当時の記憶を思い出したのか、早乙女は吹き出す。思い出のアルバムを懐かしむかのような口調なのに、碧の背筋は氷塊が滑り落ちるような感覚に襲われていた。


「子を成せない私を、両親は即座に出来損ないと見なしました。その直後、私と似た年頃の親戚の娘を養女として引き取り。その代わりに私は家を追い出され、親子の縁まで切られてしまいましたわ。両親にとって娘とは、相応の地位の男性に嫁ぎ子を成す――家の力を存続させるための歯車の一部品に過ぎなかった、というわけですわね」

「歯車……」


 碧は、早乙女の身の上話を自分に置き換えていた。碧も新城家、あるいは真一個人を生き残らせるための歯車となっている。碧も部品として使い物にならなくなったら、早乙女のように捨てられるのだろうか。


 そんな碧の胸中を見抜くように、早乙女の垂れた双眸の奥で瞳が妖しく光る。悟り、諦め、そして何かに目覚めた暗い野心の火だ。


「遠縁の家に転がり込んだ私は、医学部への入学を目指し始めました。一人で生きていけるだけの力を得る、というのが当初の理由です。ですが自分の身体や、私を捨てた両親について自問自答を重ねていくにつれ、医者を志す理由に変化が起きました。両親にとって、アンドロゲン不応症は子を成せないことが、出来損ないと判断した理由であるのなら、アンドロゲン不応症、いえ、性分化疾患の人間が地の底から這い上がるために、何をすればよろしいのでしょうか。答えは人それぞれでしょうが、私が到達したのはただ一つ」


 残酷で不平等なこの世界を受け入れた? ……否。


「性分化疾患の方々が、自分達だけで子を産み、家庭を築けばよろしいのです。常人が性分化疾患を差別してくるのに、わざわざ私達の方から歩み寄るなどありません。『認めてもらう』などという、私達が下手に出る理由もありません。失敗作? 上等ですわ」


 早乙女が口端をつり上げ、微笑む。その奥で、猛獣の牙にも似た白い歯が見え隠れした。


「以前、この研究の意義を『性分化疾患の方同士による妊娠と出産』と説明したことがありましたわね。それは嘘ではありません。性分化疾患の方々同士で子を成せれば、出来損ないなどと減らず口を叩かれずに済みますもの。残念ながら、私自身はどう足掻いても子を成すことができませんけれど、他の性分化疾患の方々の選択肢を作りたいと考えています。碧さんに妊娠していただいたのは、その研究の一環です。もしもクローンとは違う、一人の新しい人間がお生まれになれば、性分化疾患の方が単体でも家庭を築けることが立証できます。研究は大きく飛躍しますわ」


 野望を語る早乙女の表情は一見、極めて理性的だ。だが、冷静に見えるがゆえに、より一層心の歪みが際立っていた。早乙女は、自分を出来損ないと見なした両親や、この世界そのものを憎んでいる。子を作れない、ただそれだけのことで無価値と見なされた彼女にとって、性分化疾患とは呪いなのだろう。


「お分かりになっていただけましたか? 私は、性分化疾患の方々にとって、明るい未来を作るべく研究しているのです」

「そんなの……頼んだ覚えはありませんっ!」


 早乙女の妄念に危うく呑み込まれかけていた碧は、ようやく怒りを吐くことができた。


「僕だって、この身体を呪ったことは一度や二度じゃない。それでも僕の望みは、静かな生活がしたいだけなんです。それに家庭は、子どもを産めば築ける、なんて単純なものじゃない。人と人の信頼の積み重ねで作り上げていく関係でしょう」


 碧と早乙女は、同じ「呪い」を受けて生まれた者。碧は早乙女と違い、自らの呪いに立ち向かう気概がない。それでも、早乙女を羨むことはなかった。


「あら、残念ですわ。碧さんには共感していただけると思っておりましたのに。ですが碧さんは、私に協力せざるを得ません。そうですわよね?」

「ぐ……っ」


 唇を強く噛み締める碧に対し、早乙女は涼しげな表情を崩さない。パイプ椅子からそっと立ち上がり、病室の扉に手をかけた。その背中に、碧は先程抱いた疑念を投げつける。


「生まれてくる子が、仮に奇形児や障碍を持っていたら、どうするんですか」

「それはそれ。研究の貴い礎となっていただきますわ。実験に失敗は付き物、碧さんには再度妊娠していただくだけのことです」

「簡単に言わないでください!」

「その辺りについては、割り切ってお考え下さいな。……それと、お忘れなく。あなたのご家族も、ご友人も、『普通』の人間は私達異端者を蔑む。その呪いから逃れる術はありませんわ。あなたの身体のことを知れば、誰もが距離を置くでしょう。秘密を知られた上で、『普通』の人間と同じように生活し、ましてや家庭を築くなんて不可能ですのよ」


 そう言い残し、早乙女は病室を颯爽と出て行く。残された碧はやり場のない怒りを拳に込め、枕に叩き付けた。

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