第12話 近親交配の危険性

  ●二〇〇九年 一月一三日(火曜日)


 秋を終え年が明けると共に、碧の出産はより現実味を帯びていった。


「では次。仰向けに寝転がって、両膝を立てて下さい。それから、両足の裏で床を押し上げて、お尻を持ち上げましょう」


 コーチを務める若い女性の言葉に従い、碧はゆっくりとブリッジをする。つい半年前までは簡単にできた運動も、今では身体に配慮をしなければならない。


「皆さんお上手ですよ。大分身体が柔らかくなってきましたね」


 溌剌とした声でコーチは指示を入れていく。


 碧が現在いるのは、西神総合病院の地下一階だ。階全体がリハビリセンターとなっており、その一角で週に二回、マタニティヨガ教室が開かれている。妊婦が二〇人ほど参加しており、碧もその中に混ぜてもらっていた。


 入院から早三か月。碧の腹は益々大きくなってきている。妊娠六か月となり、安定期に入った碧は出産のための身体づくりとして、マタニティヨガ教室に参加していた。大学を休学し、同時に入院するはめになったのだが、早乙女の計らいで参加費用は無料だった。元気な赤子を産んで研究の役に立て、という意志が強く伝わってくるので、碧としては素直に喜ぶことなどできない。


「はい、お疲れ様でした。元気な赤ちゃんを産んで下さいね」


 最後に瞑想を終え、ヨガ教室は解散となった。妊婦達は膨らんだ腹を気遣いながら、ゆっくりと起き上がる。列の一番後ろにいた碧も大きく深呼吸をし、立ち上がろうとした。


「あ、碧ちゃん。待って」


 隣に座っていた若い妊婦が遅れて立つ。そのお腹は碧よりも一回り近く大きい。おかげで身体のバランスを取るのが難しいのか、よろけてしまった。


「渡会さん、大丈夫ですか」

「ええ、何とか。元気な赤ちゃんを産むために運動しているのに、それが原因で赤ちゃんにもしものことがあったら、本末転倒だよね」


 自らの腹を愛おしげに撫でながら、若い妊婦は照れ隠しに舌を出した。茶色がかった髪を柔らかなボブカットでまとめ、ふんわりとした笑顔を浮かべている。まるで一〇代のように瑞々しい肌の持ち主だが、彼女、渡会瑞希は碧よりも五つ年上である。既に妊娠一〇か月を迎えており、碧にとっては人生においても妊婦歴においても先輩だった。


 瑞希は妊娠発覚後、西神総合病院に通院しており、早乙女が主治医なのだそうだ。瑞希は早乙女の紹介を通じ、この教室に参加している。それが縁となって碧と言葉を交わすようになり、今では友人にも似た関係でいてくれている。


「渡会さんの旦那様、今日も迎えにいらしているんですか?」

「うん。今頃、病院内の喫茶店で時間潰しをしているころだよ。今の私でも車の運転くらいできる、って言っているのに、『君の身体は君だけのものじゃないんだぞ』って怒られちゃって」

「はいはい、惚気ご馳走様です」

「もう、そんなんじゃないったら」


 軽く笑い合いながら、碧と瑞希はリハビリセンターを出る。院内は、廊下の隅々に至るまで暖房が行き届いていた。剃刀の刃にも似た真冬の肌寒さは、妊婦にとっても大きな敵となり得るため、病院側の配慮には碧も感謝すべきなのだろう。

 エレベータ乗り場があるのは、廊下を真っ直ぐに進んだ先の突き当たりだ。二人が来るのを見計らったかのようなタイミングで、エレベータの扉が開く。


「どうぞ」

「ありがとう、碧ちゃん」


 瑞希に先を譲り、碧も続いてエレベータの中に入る。喫茶店があるのは四階、碧が入院しているのは最上階だ。碧は、それぞれの階のボタンを押す。

「碧ちゃんが入院しているのって、VIP用の個室なんだよね? 凄いなあ」

「僕がお金を出しているわけじゃありませんけどね。渡会さんと違って、熱々の夫が傍にいてくれるわけでもないですし」


 後半は茶化した口調で、碧は肩を竦める。


 マタニティヨガ教室に通う妊婦達に対して、碧は自分を女性と称している。早乙女の研究が未だに極秘のものであり、一部の病院関係者以外に碧が性分化疾患であることを隠す必要があるからだ。碧自身、性分化疾患が妊娠していると知られたら、不躾な眼差しを周囲から向けられるのが目に見えているので、公にしたくなかった。


 だがその代償というべきか、女性として振る舞うことに対して、強い抵抗感が碧の心の内で強く主張している。これまでの人生では一応、男性として振る舞っていたので、女性のフリをするのは何とも息苦しい。病院内で男性用トイレに、うっかり入ってしまいそうになることもあった。

 一人称を「私」にすべきかと迷った時期もあったが、いざというときに「僕」を使ってしまいそうなので、やめた。女性用入院着を身にまとい、マタニティヨガをする碧のことを、男性だと認識する者は現時点でいない。元々、中性的な容姿を持ち、声変わりもしていないことが幸いした。喜ぶべきなのか、碧自身にも分からないが。

 また、碧の「夫」は海外出張中で当分会えそうにない……という嘘で誤魔化している。


「むー。碧ちゃんったら、意地悪だよね」

「ふふ、そうでしょうか」


 そんなやり取りをしているうちに、エレベータは喫茶店のある四階に着いた。


「じゃあ、碧ちゃん、またね」

「はい、旦那様にもよろしくお伝えください」


 にこやかに手を振る瑞希に対し、碧はしおらしくお辞儀する。それから、隣にあるVIP用のエレベータ乗り場へと移動した。乗り場の前にはガードマンが立っているが、彼らは著名人が入院した際、マスコミやファンなどから患者を守るための存在だ。碧は入院着の胸元のポケットから、身分証明となるカードを取り出す。それを見たガードマンは、恭しく一礼した。毎度のことながら面倒だが、防犯のためにも仕方がないことではある。


 一連の通過儀礼を終えた碧は、乗り換えたエレベータで最上階の特別病棟へと向かう。


「ただいま戻りました」

「あ、新城さん。お帰りなさーい」


 最上階に着いてナースステーションに立ち寄ると、若い女性看護師が明るい笑顔で迎えてくれた。碧は軽い挨拶を済ませ、廊下の奥にある自分の病室へと入っていく。

 VIP用というだけあり、最上階の病室は全て個室だ。部屋には冷蔵庫や電子レンジ、さらにはシャワー室までもが完備されている。その豪華な設備に、碧は今でも慣れることができない。清潔なシーツの敷かれたベッドに、ゆっくりと腰掛ける。腹の中で順調に育つ胎児を気遣うため、一つ一つの動作を慎重にする必要があった。


「一人の精子と卵子で作られた子なんて……無事に生まれることができるのかな?」


 碧は膨らんだ自分の腹をそっと撫でた。こうしていると、自分の体温の奥で、新たな命が芽吹いている気配を感じ取ることができる。


「近親交配は、障碍児が生まれやすいっていうよね。えっと、いんせすと……何だっけ」


 碧は、ベッドの隣に設置された棚から、一冊の分厚い本を取り出した。本来、この秋学期に一般教養の単位を取得するため、受講する予定だった、遺伝子学の講義の教科書だ。勉強と入院中の暇つぶしを兼ねて、自宅から持ってきておいたのである。目次を参考に、ページをめくっていく。


「っっと、あった。そうそう、インセスト・タブーだ」


 近親交配の妊娠と出産における危険性。それが「インセスト・タブー」である。

 生物は、両親から遺伝因子を受け継ぎ、それらが対となることで身体的特徴や才能などの様々な個性が決定される。この遺伝因子は優性と劣性の二種類に分類されているが、劣性が「劣った遺伝子」とは限らない。あくまでも優性の方が発現しやすく、劣性は表面化しにくい傾向がある、という意味だ。例えば父親の目が大きく、母親の目が小さなものである場合。父親の目についての因子の方が優性の性質を持つのなら、子は父親と同じく大きな目を持って生まれる可能性が高くなる。


 それに対して近親交配の場合、両親が同じ遺伝因子を持っているため、遺伝子が子にそっくり受け継がれやすいのだ。劣性因子を発現させる確率も高い。受け継がれた遺伝因子が、美しい容姿や優れた才能などの、「好ましい」とされる因子だったというケースもある。その希望に縋り、わざと近親交配をさせることで、優れた子を産ませようとする者は、いつの世も後を絶たない。


「へえ、競馬のサラブレッドや家畜にも使われている手法なんだ。その場合は『インブリード』って呼ばれているのか。……でも、それって結局は人間側の勝手な都合だよね」


 当然ながら、自然界の摂理は人間の欲望に合わせて作られていない。遺伝には、先天的障碍や致死性の遺伝子、といった因子を引き継ぐリスクも存在する。それらが親の代では発現しなかった劣性因子であったとしても、近親交配の場合は子の代で引き当てる可能性が格段に上がってしまうのだ。インブリードによるサラブレッドが、生まれつき身体が弱く競走馬として「失敗作」だった、というケースは少なくない。人間においても、近親交配の危険性を証明するための研究は、世界各地で行われてきた。


 教科書のページをめくるにつれて、碧の指に少しずつ力が溜まっていく。次のページには、研究の具体例が紹介されていた。


『二〇世紀、モートン・アダムスとJ・V・ニールが、ある養護施設に収容された、近親相姦で生まれた子ども達を対象に、調査を行った。その結果、一八人いた子ども達のうち健康であると診断されたのは、全体の半分にも満たない七人だったことが判明した。残る一一人のうち五人は死産、あるいは新生児の段階で死亡。三人は知的障碍者として、二人は知的障碍者と健常者の境として生まれた。残る一人は口蓋破裂の障碍を持って生まれてきた。この調査結果はもちろん極端な例だが、近親交配に大きなリスクが伴うのは確実だ』


 この教科書の内容を参考にすると。碧が孕んでいる子は、碧のみの遺伝因子を引き継ぐため、何らかの先天的障碍を持つ可能性も高くなるということか。そもそも、無事に出産できるのかさえ怪しいものだ。


「この研究が危険な橋だってことは、専門家の早乙女先生が知らないはずがないのに。それとも、危険だからこそやりたいのかな」


 しかし、情報が圧倒的に不足している碧には、早乙女の企みを見抜くことなどできるはずがなかった。

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