第11話 後ろめたい嘘

  ●二〇〇八年一〇月二〇日(月曜日)


 そうして季節は移ろい。

 大学内に植えられたイチョウの葉が、来たる紅葉の時期に向けて色を変え始めていた。


「新城君、最近何だか色っぽくなったよね。女性的なフェロモンが出ている気がするっていうか。まあ、あり得ないんだけど。お姉さん、女としてちょっと嫉妬しちゃう」


 昼休みともなると大学の学生食堂は、大勢の学生客のおかげでほぼ満員となっている。そんな中、窓側のテーブル席に座る鈴鹿が、ふとそんな感想を漏らした。対面の席で日替わりランチを食べていた碧は、口の中で噛んでいたサラダを吹き出しかける。


「あー、確かに。太ったって程じゃなくて、少しふっくらしてる」

「新城は元々、チビでやせ気味だったからな。ちょっと丸いくらいで、ちょうどいいんだよ」


 すぐ隣のテーブルから、碧の男友達が鈴鹿の意見に賛同する。


「そ、そうかな。でも、ちょっとダイエットした方がいいかもね」


 碧は頬が引きつるのを自覚しながら、どうにか言葉を紡ぐ。窓から差し込む柔らかな秋の日差しが、碧の肌を優しく撫でていた。


 妊娠確定から三か月が経ち。碧の身体は、着実に妊婦として成長していた。もちろん、まだ今の段階で腹部の膨らみは目立つほどではない。だが華奢だった体つきは全体的にほんのりと丸みを帯びてきている。おかげで胸も一回り大きくなってしまい、碧はサラシを巻いて誤魔化していた。


 花びらのように柔らかな艶肌や、瑞々しい唇。毎日鏡を見るのが嫌になるほど、「女性」らしい魅力に益々磨きがかかっていた。そのせいか街を歩いていると、見知らぬ男達から舐めるような視線を向けられることが多々あり、何とも居心地が悪い。自分の身体が自分のものではなくなるような感覚に、碧の心は蝕まれつつあった。


 無論、妊娠したからといって、碧の身体が自力で女性ホルモンを満足に分泌できるわけではない。現在も『治療』の一環として、定期的に女性ホルモンの補充が行われている。


「いやいや、それくらいでいいんじゃないかな。今の方が健康的だよ。いよいよ、鈴鹿好みの可愛い子になってきた、って感じ」


 一緒に食事を取っている鈴鹿の女友達が、茶々を入れてくる。たまらず鈴鹿は肘鉄を女友達の腹に打った。


「な、何言っているのよ、もうっ」

「今更恥ずかしがってどうすんの」


 パスタをフォークに巻きつけながら、女友達は意地悪そうに笑みを深める。普段、碧を子ども扱いして散々からかう鈴鹿だが、同性の友人達相手には同じ対応ができていない。あるいは、大人ぶった余裕を見せる相手は、碧限定なのかもしれなかった。


 談笑する鈴鹿達を横目にし、碧は静かに息を吐く。この掛け替えのない友人達に対して、これから自分は最低の裏切りを行なうのだ。


「あの、さ。ちょっといいかな。大事な話があるんだけど」

「ん? どしたの、急にマジな顔して」

「単刀直入に言うと、さ。……僕、休学することになったんだ」


 碧が硬い声でそう切り出すと、場の空気が一瞬にして凍りつく。


「え、はは、おいおい冗談きついぜ」

「ううん、本当の話。今朝、休学届を出してきたんだ」

「う、うそ。何で、どうして!」


 鈴鹿達は目を思い切り見開き、テーブルに身を乗り出してくる。訝しがる周囲の学生の視線に対し、碧は愛想笑いで誤魔化した。それから、事前に考えておいた説明文を口から再生する。


「実はさ、この間病院に行ったら、腫瘍が見つかったんだ。それもけっこうな悪性らしくてね。放っておくと危険だから、手術をすることになったんだ」

「腫瘍って、まさか癌か?」

「ううん、癌ではないよ。でも、何度か手術をする必要があるみたい。それと、一日中薬を点滴で投与しなきゃいけないんだってさ」


 穏やかではない碧の話に、鈴鹿達は皆そろって、顔を強張らせている。


「どれくらいで戻ってこられるんだよ」

「主治医の先生の話だと、半年から一年はかかるみたい。おかげで留年決定だね」


 あえて後半をおどけた口調で言い、碧はペットボトルのお茶に口をつける。内心は、友人達に嘘をつくことに対して、良心が鋭い痛みを訴えていた。まさか、妊娠しました、などと言えるはずがない。


 休学届を出すよう提案したのは、碧ではなく早乙女だ。碧が自分の身体の変化により、周囲を誤魔化すことが難しくなってきたことを説明した。すると「それなら、休学すればよろしいですわね」と軽く言い放ち、大学側に提出する偽の診断書を作成。それを携えて、碧は今朝大学の学務課に必要書類を提出したのだった。碧が友人達に説明した「腫瘍が云々」というのも、でっち上げられた診断書をもとにしたものだ。


「一年も入院ってことは、かなりやばいじゃん。入院はいつからなんだよ」

「えっと、早ければ来週辺りからだね」


 これは本当である。「近隣住人の目を欺くためにも、自宅静養ではなく実際に入院させた方がよい」と真一が早乙女に進言したのだ。体外受精にかかった費用に加え、入院費についても病院側が全て受け負ってくれる。研究に無理やり協力させられているのだから、それくらいは当然だと碧は考えていた。


「あ、この間、新城が洗面所で吐いてるところを見たぞ。あれも病気が原因だったのか」

「う、うん。そうだね」


 ただの悪阻だとは、口が裂けても言えない。


「新城君……」


 正面の席に座る鈴鹿の顔は、すっかり青ざめていた。普段の彼女は小悪魔的で余裕たっぷりなのに、今の新鮮な表情は見る者の庇護欲を煽り立てる。だが、重苦しい空気のせいで、誰もからかおうとしなかった。


「私、絶対にお見舞いに行くからね。どこの病院に入院するの?」

「西神総合病院だよ。あ、でもね、主治医の先生が、入院中はほとんど面会謝絶になるって言ってたよ。手術を繰り返すから、あまり動くと身体に良くないんだって」


 面会に来られたら、入院する意味がない。早乙女がそう判断し、VIP専用病棟の個室に入院するよう手配している。


「そ、そう、なの……」


 西神総合病院の名は、さすがに説得力が違うようだ。鈴鹿はしょんぼりと肩を落とした。それから、何やら思いつめたような顔を向け、碧の手を自分の両手で強く握ってくる。


「私、待っているから。また新城君と大学で会えるのを、ずっと待っているからね」


 疑う様子など一切見せず、真剣に身を案じてくれている鈴鹿。そんな友人達に対して嘘をついた罪が、碧の肩に重く圧し掛かった。


「……うん、ありがとう」


 はたして、これで良かったのだろうか。現時点の碧は、それを判断できなかった。

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