第3話 曖昧な性

  ●二〇〇八年 五月九日(金曜日)

 翌日、午前の講義を終えるとすぐに碧は大学を出た。電車を乗り継ぎ、隣の市内にある駅へと降り立つ。最寄りの駅から徒歩五分も経たずに、目的地である西神総合病院はそびえ立っていた。


「昔、一度だけ診察に来たことがあるけど、やっぱり大きいなあ」


 西神総合病院は、碧が住む長野県――さらには中部地方全体で有数の大病院だ。駐車場のスペースだけでも、一棟の病院が建てられるほどの広さを持つ。そのほとんどが、通院する患者や見舞客の車で埋められていた。

 肝心の建物はといえば、これまた大きい。地上一二階で、地下二階。診療科の種類や質に隙はなく、「怪我や病気の方は、西神総合病院へ。大丈夫、貴方の症状に合った治療法がきっと見つかります!」というテレビのCM文句に嘘はない。その宣伝効果もあってか、碧が玄関の二重自動ドアを抜けると、玄関フロアは会計待ちの患者でごった返していた。


「こんな大病院で働いているんだから、兄さんがあんなに偉そうにするのも無理はないか」


 早速、昨日受けた指示通りに受付の機械へと向かう。機械に疎い碧でも分かるよう、機械には音声案内が備わっていた。診察券を入れると、しばらくしてA四サイズの紙が一枚印刷されて出てくる。院内の図入りで記されているのは、各検査の場所だ。


「まずは、三階へ行って血液検査か」


 紙には、検査室の場所が図入りで記されていた。エレベータが混んでいるようなので、隣の階段で三階へ。着いた先にある案内用の看板を参考にし、辺りを見渡しながら歩く。


「あ、あったあった。ここか」


 血液検査の検査室を見つけ、受付の看護師に診察券を渡す。受付のコンピュータを通じて、碧がここで検査を受けることは伝わっているらしい。


「はい、新城さんですね。こちらへどうぞ」


 そうして血液検査を終えた碧は、次の検査を受けに行く。MRI検査、精液検査、染色体・遺伝子検査、内分泌検査、経腟超音波検査、子宮卵管造影検査、腹腔鏡検査、子宮鏡検査……。中には、下半身を裸になって受ける検査もあったため、検査の担当医師や看護師に碧の股間を見せる必要があった。彼らはみんな、碧の特異な身体を見て、最初は目を丸くさせたが、すぐに冷静さを取り繕って検査を進めていく。碧は、まるで実験動物にでもなったような心地がして、あまり良い気分がしない。だが、ここまで来て引き下がるわけにもいかず、人間ドックを受けているようなものだと自分に言い聞かせた。


 検査を一通り終え、一階のフロントにまでやってきた碧は、ズボンのポケットから小刻みな振動を感じ取った。携帯電話を取り出し、液晶画面に映し出された着信メールに視線を向ける。メールの差出人は鈴鹿だ。


『一言も言わずに帰るなんて、薄情だぞ。お姉さんの怒りは鎮まりません。明日、駅前のパリッシュのソフトクリームを奢ってね』


 メールの文面から、鈴鹿が残念そうに口を尖らせている様子が目に浮かぶようだ。メールを見て安心すると同時に、碧は昨晩のことを思い返していた。


『岸本は、お前に気があるぞ。間違いない』

『もしも私が売れ残ったら、新城君がもらってくれるかしら?』


 彼らには、いずれ全てを説明しなければいけないだろう。今は体型を誤魔化すため、体育の講義を大きめのサイズの上下ジャージ姿で受講している。おかげで、周囲から特に怪しまれていなかった。だが、二回生の夏にある水泳の講義は、さすがに誤魔化しきれる問題ではない。

 それでも、どうしても告白を躊躇させる理由が、碧の胸の内に絡みついていた。


『先生も、前々から新城が実は女なんじゃないかって疑っていたんだ。そしたらこの通り、中途半端な身体だったってわけだな』

『ねえ、新城君。どうして女子の制服を着ないの? 学ランよりもスカートの方が似合うわよ、きっと』


「くっ!」


思い出したくもない過去を振り払おうと、碧は壁に拳を叩きつける。いつの間にか息は荒くなり、額には汗が滲んでいた。すれ違った他の患者に訝しげな視線を向けられたが、碧はどうにか愛想笑いを作って誤魔化す。


 性がどちらでもない。それは人にとって、己のジェンダー・アイデンティティの根底を揺るがす大きな問題だ。性分化疾患の患者の場合、肉体的性別がどうであれ、心の性ははっきりしているケースが多い。そのせいで、肉体と心の性のズレで悩むのである。

 一方の碧は戸籍上の性別に則り、学校では男子として教育を受けてきた。しかし、身長が伸びるにつれ、生まれつき女の子っぽかった顔立ちは、花の蕾のように可愛らしくなっていった。そのせいか、初めて会った人に女と間違われても、どちらもピンとこない。自分のことを男の子として、周囲の人間から扱われても、心のどこかで引っかかってしまう。その部分には、ポッカリと大きな穴が空いているような気がして。何か大事なものが欠けているはずなのに、その原因も、隙間を埋める方法も分からなかった。


 自分は男の子と女の子、どちらなのか?


 小学生時代までは、その問いは曖昧な認識で済んできた。自分と男友達を比較しても、肉体的な性の違いを意識せず。友達も皆、碧の身体を見て、特におかしいと感じている素振りを見せなかった。


 一方、母の早苗からは激しく忌み嫌われてきた。「あなたは出来損ない」「化け物」――そんな鋭い言葉の刃で何度となく斬りつけられた。早苗の言動は、父に見つかると厳しく叱責されていた。

 夫婦喧嘩の光景を見るたびに、碧は「自分は、どこかおかしいのだろうか?」と大粒の涙を流した。必死に自問したが、答えは全く出ない。ならばと父に答えを求め、色々と説明を受けた。それでも理解できない。……ただ、母からの愛情を一切もらえず、憎しみばかりを向けられてきたことが、とても悲しく、寂しかった。


 そうして、中学生になり、二次性徴で精通と初潮の両方を迎えたとき。自分の心と肉体の異常さを、まざまざと実感させられたのだ。

 その日の晩。父から、自分の身体について、今一度説明を受けた。自分が赤子のころ、父の反対によって性器などの手術を受けなかったという。年齢を重ねたことと、自分の異常さを二次性徴によって自覚し、ようやく父の説明の意味が理解できるようになった。

 さらに後日、改めて詳しい検査を受けた結果。碧の場合、生殖機能についても、男女両方が機能することが判明した。通常、性分化疾患の患者の生殖機能は男女どちらか一方だけ機能するか、あるいはどちらも機能しないか。主治医いわく、碧のような例をいくら調べても見つからなかったそうだ。


 真実を知ったのを境に、碧は自分の肉体に対する恐怖が止まらなくなった。

 同級生の男子達と違って、自分にはヒゲや手足の体毛が全く生えてこない。身体つきは、女子のように華奢で柔らかく、胸も薄っすらと膨らんでいった。

 また、性分化疾患の患者の場合、性ホルモンの分泌が足りず、体内の各種機能にも甚大な影響を招くケースも少なくないらしい。それに、身体的な成長も伸び悩むことになる。そういった患者は思春期になると、治療による性ホルモンの補充が必要となった。ところが、碧の場合は、その補充がそこまでして必要となる身体ではない。主治医の話によれば、男女両方の生殖機能が上手く働いているおかげで、性ホルモンのバランスが、奇跡的なつり合いを保っているらしい。下手に性ホルモンの投与をすると、バランスが崩壊し、身体の様々な機能が壊れる恐れがあるという。治療を諦めた結果なのか、体力は同年代の男子についていけなくなっていった。その積み重ねが、碧の中で劣等感を膨らませていく。


「どうして、こんな身体なんかに生まれたんだろう」


 肉体の成長の歪さが原因なのか、碧の性自認は曖昧だ。父の願い通りに、手術でどちらかの性に決定しようと思っても、肝心の碧は自身の「心」が男なのか女なのか、確証を持てずにいる。出生時の手術で医師や親が勝手に性決定をしてしまうことが、子が自身の性について悩む原因となる、という専門家の声は少なくない。だからといって碧のように、肉体の性決定をしないまま育てられるのが最良の道、とも限らない。自分が男性と女性のどちらであるべきかという指針を、「心」の部分で明瞭にできなくなるからだ。碧が今の曖昧な心のまま、手術でどちらかの性決定をしても、後悔しか残らないだろう。


 恋愛は何度か経験したことがあるが、相手は男女バラバラ。告白する勇気など持てない。ひょっとして自分はバイセクシャルなのではないか、と考えた時期もあった。


「っと、ご、ごめんなさいっ」


 と、何やら後ろから小さな衝撃がぶつかってきて、碧は振り返る。そこには幼稚園児くらいの女の子が立っていた。どうやら、はしゃいで院内を走り回っていたようだ。すっかりマイナス思考に陥っていた碧は、おかげでふと我に返った。

 女の子は怒鳴られるとでも思っているのか、不安げな眼差しで碧を見上げてくる。思わず庇護欲を誘われた碧は笑みをこぼし、女の子の頭を優しく撫でてやった。


「危ないから、病院の中では走っちゃダメだよ?」

「う、うんっ、ごめんなさい、お姉ちゃん」

「おねえ……まあ、いいか」


 こんな小さな子にも女性だと見られたことに、思わず碧は苦笑いを浮かべてしまう。


 碧がフロントを軽く見渡すと、こちらに向かって手招きしている若い女性を見つけた。どうやら、女の子の母親のようだ。女の子は笑顔で碧に向かって手を振り、女性のもとへと早足で歩いていく。碧はその小さな背中を微笑みながら見送った後、一転して深いため息を吐いた。


 碧は子どもが好きだ。養護教諭の資格を習得しようと勉強しているのも、子どもの心の支えになりたいと考えたからである。

 だが、子どもを好きであることと、自らの家庭を築いて子どもをつくりたい、ということは別次元の話だった。性分化疾患の症例は七〇種類以上――生物学的なつながりのある子を持てるかどうかは、それぞれの患者の症状によって異なる。卵精巣性性分化疾患も、患者の症状によっては治療によって、子を作ることができるケースがあるのだという。自力で妊娠、出産が不可能な患者の中には、養子縁組で家庭を築いている者もいるらしい。


「でも、仮に子どもをつくるとしても、僕は父親と母親のどちらになってあげればいいんだろう……」


 碧は試しに架空の家庭を想像しようとするが、妄想の骨子を満足に築くこともできず、あえなく霧散してしまった。

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