第2話 愛情と無縁の家族

 湯にゆっくりと浸かって疲れを落とす。身体は清めたのに、気持ちはまるで晴れやかにはなれない。仕方なく風呂場を出て、脱衣場で身体を拭いていると、居間の方から何やら話し声が漏れてきた。


「兄さんが帰って来ているのか」


 兄、新城真一は碧と歳が一〇も離れている。そのせいか大きな喧嘩をしたことはないが、代わりに幼いころからずっと距離を置かれていた。碧の方も兄に対して苦手意識を持っており、自分から話しかけることはほとんどない。早苗との関係と同様に、冷え込んだ兄弟の仲を改善できる見込みもないので、すっかり修復を諦めている。


「……俺のせいじゃ……」

「……大丈夫、秘密は……」


 会話の詳細までは耳で拾えないが、どうやら真一は早苗と切羽詰まった話をしているらしい。そんなところに割り込んだら、面倒なことになりそうだ。寝間着のジャージに着替えた碧は、先程と同じように廊下を大回りして、二階への階段へ向かうことにした。足音を立てないよう、慎重に歩を刻む。だが、


「……碧を差し出せば済む話なんでしょう? それなら……」


 早苗に碧の名前を出され、碧は一瞬動きが止まってしまった。差し出せば済む問題。話の全体は把握できないが、碧にとって良くない方向へ母と兄が進めていることだけは分かる。その動揺が足に余計な力を注ぎ、踏みしめた床が大きな音を立ててしまった。思わず舌打ちしそうになるが、後悔しても遅い。


「碧。もう風呂から出たのか」


 真一が音に気づき、不機嫌そうな重々しい声を投げかけてくる。碧は面倒事に巻き込まれる前に自室へ逃げ込みたかったが、そうもいかない。


「は、はい。兄さん、お帰りなさい」

「ちょうどいい。お前もこっちへ来い。話がある」


 真一の有無を言わせない呼び出しに、碧は従うしかない。父が亡くなってから五年、現在の新城家の当主は真一だ。扶養家族で立場の低い碧に、拒否権など存在しなかった。


 しぶしぶ居間のドアを開け、中へと入る。広いフロアの真ん中にあるソファに、真一と早苗が腰かけていた。部屋の中を覆う重苦しい空気が、これから行われる話の内容を暗示しているかのようだ。


「碧、そこに座れ」

「……はい」


 真一の命令で、碧もソファに腰を下ろした。透明なテーブルを挟んで対面の席に座る真一と早苗が、暗い目つきで睨みつけてくる。


 こうして真一の顔を、正面から見るのは随分と久しぶりだ。ミディアムショートの黒髪を立たせ、小さめの眼鏡を尖った鼻にかけている。そのレンズの奥では、細くつり上がった双眸が鋭い光を放っていた。ややこけた頬とひょろりとした体型のせいもあり、いかにも神経質な科学者といった風貌である。弟の碧とは、似ても似つかない容姿だった。


 真一は険しい表情を浮かべ、話を切り出す。


「呼んだのは他でもない。お前にやってもらいたいことがある。俺の仕事絡みでな」

「? 兄さんの仕事ですか」


 真一は、長野市内にある西神総合病院に勤める医師だ。専門は整形外科で、若いながら多くの外科手術の執刀医を任されていた。西神総合病院といえば、県内随一の大病院である。その現場で第一線を走るのは、エリート街道を進んでいることを意味していた。


「ああ。ある診療科の部長が行なっている研究に、被験者として参加してもらう」

研究の被験者。その言葉だけを切り抜くと、実に怪しい臭いがする。碧がこの間テレビで見たB級ドラマでは、被験者となった人間が一生寝たきりの身体になるほどに使い潰されていた。あれはあくまでもフィクションではあるが、現実で似たような事例がないとは言い切れない。


「どれくらい危険はあるんですか」

「何も解剖手術や新薬の実験を受けろ、と言っているわけじゃない。命の保証はする」


 どうやら、碧の考えていることはお見通しらしい。だが、命の保証はされても、それ以上の安全は望めるのだろうか。


「そのための前段階として明日、いくつかの検査を受けてもらう。時間はあるな?」

「はい。明日の大学の講義は午前中だけですから、午後は」


 本当は午後も講義があるはずだったのだが、担当の教授が出張で留守にするため休講になった。しかし、強引な兄のことだ。どうせ「明日は忙しい」と言ったところで、「全て予定をキャンセルして、こちらを優先しろ」と返されるのだろうが。


「それなら、午後からうちの病院へ来い。受付の機械にお前の診察券を読み取らせれば、どこで検査を行うかの説明用紙が印刷されるから、その指示に従え」


 真一は、碧が被験者になることが決定事項として、話を進めていく。その硬い表情は、彼の心に余裕がないことを如実に表していた。何か上手い逃げの手はないものか、と碧は思案しながら質問を挟む。


「あの、そもそも、どうしてその役目が僕なんですか?」

「余計なことを聞くな。お前は大人しく協力すればいいんだ」

「そうよ、碧。真一さんの言葉は、新城家当主の言葉なの」


 有無を言わせない真一に、隣の席に座る早苗が力強く賛同する。碧が首肯する以外に、この場を終える道はなさそうだ。


 だが、その後に放った早苗の言葉に、碧は思わず肩を震わせる。


「これくらいしか、あなたを産んだ価値なんてないんですもの」


 氷山のように凍り付いた声。親の愛など微塵も感じられない発言に、碧は何も言葉を返すことができなかった。もしも父が生きていたならば、おそらく母を叱っていただろう。


 碧の父は、心理カウンセラーだった。彼がかつて受け持った患者の中に、性分化疾患の患者がいた。親の判断によって手術で身体は女性になったが、心の性が男性として成長した。その患者は悩んだ末、ホルモン投与などの手段で男性に変わったのだという。全国には似た境遇に苦しみ、中には自殺した者もいる。碧の父は、彼らのような思いを自分の子に味あわせたくなかったのだろう。

 卵精巣性性分化疾患患者が生まれた場合。通常、医師と家族は子どもの経過を見て、性における子どもの肉体と心の成長方針を慎重に決める。社会的な性別に合わせて、性器等の手術をし、選ばなかった性の性腺の摘出などを行なっていく。だが、赤子の碧が卵精巣性性分化疾患だと診断されたとき、碧の父は手術に反対した。「碧の身体の性は、碧自身が成長したときに決めるべきだ」という判断によるものだ。母と主治医の反対を押し切って、碧は手術をせずに育てられることになった。戸籍上は男性として生きている碧だが、当人が希望すれば戸籍を訂正することが可能である。


 そんな碧に対して、母は親としての愛情を注いではくれなかった。男性にも女性にもなれない存在として、まるで害獣を相手にするかのように距離を置いている。

 父が碧のことを真に思っていたことは、碧も理解しているつもりだ。だからといって、この異質な肉体を受け入れることができるわけではない。父の考えは、ただのエゴに過ぎないのではないか、と恨んだこともある。結局父は、碧が中学生のときに交通事故で亡くなった。


 呪いは、今もなお碧を蝕み続けている。

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