第4話 悪魔との契約

  ●二〇〇八年 五月一二日(月曜日)


 検査から二日後。結果が出たというので、碧は再び西神総合病院へと踏み入った。建物に入る前にメールで仕事中の真一に連絡を入れ、玄関フロアで待っていると、しばらくして彼が直接迎えに来る。


「ついて来い」


 顔を合わせるのと同時に、真一は顎をしゃくって職員専用エレベータの乗り場へと歩き出した。碧も慌てて彼の背中を追う。利用者がちょうどいなかったので、エレベータ内は真一と二人きりだ。おかげで、居心地の悪い空気を吸わなければならない。碧としては、次の階で他の職員が入って来ないかと期待したのだが、残念ながらエレベータは一度も止まることなく、昇っていく。


「今日も検査ですか?」

「いや。今日はこれから部長と顔合わせだ。といっても、俺の所属する整形外科とは違う科だがな。部長から直接、研究内容の説明をしていただくことになっている」


 エレベータが目的の五階へと到着する。扉が開き、碧は真一の後ろに付いて、院内の廊下を進んだ。更衣室や各研究室などが並んでおり、どうやら五階は職員のために用意された階であるらしい。奥の方にある一室の扉の前で、真一が足を止めた。


「早乙女部長。新城です」

「どうぞ。鍵は開いておりますわよ」


 真一が丁寧にノックをすると、濡れるように艶めいた女性の声が、部屋の中から返ってきた。真一は軽く息を吐き、扉を開ける。


「いらっしゃい、新城先生。お待ちしておりましたわ」


 そう言って出迎えたのは、真一と同じく清潔そうな白衣を纏った、一人の女性だった。やや垂れ目の双眸のすぐ下に、それぞれホクロが一つずつ。ウェーブのかかったセミロングの黒髪に、肉厚の紅い唇が情熱的な色香を醸し出している。細身でやや背が低く、肌は陶器のように白い。歳は四〇代に差し掛かったかどうか、といったところだろうか。熟した果実の香りに包まれた碧は、思わず全身の筋肉が強張ってしまう。


「そちらが、先生の弟さんですわね?」

「はい。……碧」

「は、はい。初めまして、新城碧です。よろしくお願いします」


 自身も呆れるほどに緊張した声音で、碧は自己紹介をした。対する早乙女は柔和な笑みを浮かべる。碧の警戒心を解こうという意味があるのだろうが、碧は恐縮するばかりだ。


「そんなに硬くならなくてもよろしいですわ。こちらこそ初めまして。私、当院の産婦人科で部長を務めております、早乙女友里恵と申します。よろしくお願いしますわね、碧さん」

「え、あ、はい」

「さ、お掛けになって」


 早乙女に促され、碧は室内の真ん中にある黒塗りのソファへと腰を下ろす。真一もその隣に、最後に早乙女が対面の席へとそれぞれ座った。


「こう申し上げると自慢そうに聞こえるかもしれませんけれども。私は性分化疾患の研究について、生殖機能という専門の観点から、それなりの権威を持っています。ですから、碧さんのような症状をお持ちの患者の方を、何度も受け持ったことがありますのよ。今回進めている研究も、性分化疾患についてのものとなっていまして。碧さんには、ぜひご協力をお願いしたいのです」


 そう言って早乙女は、先日の検査結果を記したものらしき、数枚のプリントを手に取った。


「一昨日、碧さんにはいくつかの検査を受けていただきました。おめでとうございます、条件は見事にクリアしておりますわ」

「は、はあ」

「碧さんは卵精巣性性分化疾患でいらっしゃるせいか、精子と卵子の精製能力は常人に比べてとても低く、自然妊娠は見込めません。ですが、妊娠治療を行えばどうにか可能である、との結果が出ておりますの」


 何だか、話が益々良からぬ方向へと進められている気がする。そんな碧の警戒心を見抜いたかのように、早乙女は妖艶に微笑んで見つめてきた。


「詳しい研究内容をお話しするためにも、『卵精巣性性分化疾患の方の生殖機能』について、先にご説明しましょうか。卵精巣性性分化疾患、と一口に申し上げましても、その細かい症状は患者の方によって個人差が大きいことを、ポイントとして頭の片隅に置いて下さい。生殖機能という視点から見て特に重要なのが性腺で、基本的に人は性腺を二つ持って生まれます。通常男性なら精巣を二つ、通常女性なら子宮の両側に卵巣を一つずつ、といったようにですわね。それらに対し、卵精巣性性分化疾患の場合、大きく三種類に分かれています。まず精巣あるいは卵巣のどちらかが一つと、精巣細胞と卵巣細胞が併存した状態――いわゆる卵精巣組織をそれぞれ一つずつお持ちの方。次に、二つともが卵精巣をお持ちの方。そして最後に、精巣と卵巣を一つずつお持ちの方、といった具合ですわね」


 卵精巣は精巣部分が性腺癌となるリスクが高まってしまうため、早期の段階で、精巣部分の切除を提案する医師は少なくない。さらに例えば、患者本人が男性として自認している場合、残った卵巣部分も切除する治療方針があった。


 両性具有者は、男女両方の生殖機能を持つ完全な存在――などという信仰が大昔にはあった。そのせいで、卵精巣性性分化疾患も同一視されがちだが、現実は大きく異なる。両方の性腺を持っているからといって、イコール両方の生殖機能が発揮できるわけではない。

 中でも、外性器および内性器の発達に問題を抱えるケースは多い。その主な要因となるのが、性器の発達に必要な性ホルモンの分泌不足である。性腺がそれぞれ一つだけでは、性ホルモンの分泌量が足りなくなり、結果として外性器と内性器が未発達となりがちだ。患者によっては、形成手術によって陰茎や膣などを人工的に形作る治療法が可能である。だが、さすがに性腺を人工的に作り出すことは、現代の医療技術では不可能だった。

 また、性ホルモンのバランスに異常がある場合、自律神経失調症や骨粗しょう症など、肉体の成長に対して深刻な悪影響を及ぼしてしまう恐れがある。体内で作られる性ホルモンの量が足りない。そのため、時期を見て性ホルモンを治療で補充していく。同時に、それは肉体の男性化、あるいは女性化を招くことになる。


「卵精巣性性分化疾患は、八万人に一人ともされるほど患者数の少ない症例です。その中でもさらに、精巣と卵巣を一つずつお持ちになっている方は、全体のうち二割程度しかいらっしゃいません。そういった方々も、各生殖機能を両立させることは非常に困難ですわ。精巣が正常に機能するためには男性ホルモンが、卵巣が機能するためには女性ホルモンが、それぞれ一定量以上の濃度で血液中に存在する必要があります。ですが、あちらを立てればこちらが立たず、と申しましょうか。例えば精巣の場合、女性ホルモンの濃度が長期間高くなり続けますと、精子形成障碍などの異常を招く恐れがありますので。そのような性ホルモンのバランス異常のせいで、性腺がどちらか一方どころか、両方ともが上手く機能しない、というケースも少なくありません。医師としてこの表現は良くありませんけれども、中途半端が原因といえます」


 中途半端、という言葉に碧は思わず表情を強張らせる。だが碧の動揺を、早乙女は余裕に満ちた微笑みで受け流した。


「治療法としては生殖機能を検査した後、患者の望む性に合わせた性腺を残すため、もう一方の性線を摘出します。その後は、定期的なホルモン投与で性腺を補強。と、以上の説明による結論としましては、『卵精巣性性分化疾患の方は、運が良くても、どちらかの性でしか生殖機能を発揮できない』ですわね」


 早乙女は一呼吸置いてから、紅色に艶めく唇を長い舌で舐めた。ここからが本番だ、とでも言わんばかりに。


「といっても、それらはあくまでも一般論に過ぎません。今の説明を踏まえた上で、碧さんの場合は例外中の例外と申しましょうか、実に特殊な身体構造をお持ちになっていますわ。まず、精巣と卵巣が一つずつ確かに存在しながら、性ホルモンの絶妙な均衡によって矛盾を乗り越え、二つとも正常に機能しています。次に、外性器については、陰茎が通常男性に比べて小さくはありますけれども、生殖機能には何ら問題ありませんわ。子宮の機能にも特に異常なし。その他の問題もクリアし、男女両方の生殖能力が見事に機能しているのです。それこそまさに、神話に登場する両性具有のように、神に愛された存在ともいえますわね。そのような症例は卵精巣性性分化疾患だけでなく、性分化疾患全体でも非常に稀――いえ、理論上あり得ないケースですのよ。私、碧さんのような方をずっと探しておりましたの」

「ちょ、ちょっと待って下さい。それって、まさか」


 予想が外れていてほしい、と願いながら碧は質問を挟もうとした。早乙女は、問題に正解した生徒を褒める教師のように、軽く手を叩いた。


「ええ。ご想像の通り。碧さんには、ご自分の精子と卵子で人工授精し、子どもをお産みになっていただきたいのですわ」


 それは、倫理の理を平然と踏み外す悪魔の発言だった。

 碧の脳が一瞬フリーズし、顔から血の気が引いていく。

 次の瞬間、我に返るのと同時に、碧はソファから飛び退るように立ち上がった。眼前の相手の正気を疑い、感情に任せて金切り声を発する。


「はあっ!? で、できるはずがないでしょうっ! 何を考えているんですか!」

「何を、とおっしゃられましても。私は至って真面目ですのよ」

「冗談じゃないっ、そんな、そんな気持ち悪いことを!」


 碧の身体が本能的な拒否反応を示し、全身の体毛が逆立つ。


「頭がおかしいんじゃないですか!? あなた、産婦人科の先生なんでしょう。やっていいことと悪いことの区別もつかないんですか!」

「ええ、区別はついていますわよ。倫理的な観点から見て、これは悪いことです。けれど、悪いとされていることに踏み込んでこそ、医学というものは進歩します。フィクションの世界などでは時折見かけるものですけれども、実際にやってみてどういった結果が出るのか。試してみる価値はありますわ」

「自分の精子と卵子で子どもを産むなんて、クローンを造るようなものでしょう!」


 碧は声を荒げ、ソファの前に置かれた机を両手で勢いよく叩く。だが、早乙女も真一も涼しげな顔を崩さない。早乙女は片目をそっと閉じ、もう片方の目で碧を鋭く射抜く。


「この研究目的は、『性分化疾患の患者同士による妊娠と出産』でして。その一環として、『卵精巣性性分化疾患が一人でも子を成すことができるのか』を実験します。一人の身体で成した子は果たして、碧さんのおっしゃるように、クローン(複製品)にも等しいレベルの存在なのでしょうか。ちなみに、この研究は病院上層部の許可を既に得ておりますわよ。といっても実験内容が内容ですので、研究成果がはっきりと出るまでは世間に公表できません。近年は倫理がどうの、人権がどうのと外野がうるさいものですから。世間の支持を得るには、そういった『余計な価値観』を吹き飛ばすくらいの研究成果が必要なのです。そうすれば、マスコミや人権団体の抗議などねじ伏せられますわ」

「それって、ただの人体実験じゃないですか。他にやり方はあるはずですっ」

「もちろん、マウスや牛など他の動物での研究は行なってきました。けれど、次の研究段階に進むためには、どうしても限界がありまして。研究チームと話し合った結果、次は人間で試すしかない、という結論に至りましたのよ。ですが、男女両方の生殖能力を持った卵精巣性性分化疾患というのは、そのあまりの希少さゆえに、サンプルがなかなか見つかりません。そこへ碧さんが卵精巣性性分化疾患である、という情報を聞きつけた私は、居ても立ってもいられなくなりまして。ご家族の新城先生にお願いをした次第なのです。そうして検査を行なった結果、とうとう輝く宝石を見つけ出せましたの」


 真一の名前を出され、碧は隣で平然と座る兄の頭を上から睨みつける。


「兄さんまで、こんなイカレた研究に協力しているんですか!」

「俺の専門は整形外科だ。この研究には直接関わっていない」

「だったら、どうして僕をこの人に差し出すような真似をするんですか!」


 兄弟で口論になりそうになったところへ、早乙女が助け船を出す。


「それはですね。私と新城先生の間で、つい先日一つの取引が行われたのですわ」

「……取引?」

「ええ。新城先生は先日、手術ミスで患者を一名、死なせてしまいました。それを私が裏で手を回し、もみ消してさしあげましたの」

「し、手術ミスって」


 不穏な内容の説明に、碧はさすがに口ごもった。真一は若手医師の中でも優秀な腕の持ち主として、患者からの信頼が厚い。そんな彼がミスで患者を死なせ、あまつさえ隠蔽しようとするのか。碧の動揺を見た早乙女は、光沢のある上品な笑い声をこぼす。


「碧さん。新城先生がいくら腕の立つ医師といっても、所詮は人間です。ミスの一つや二つ、犯してしまう可能性がありますわ。それに場数を踏んでいても、まだ若手の域ですし。問題は、そのミスがあまりに単純かつ初歩的で、患者の命を左右するほどに致命的であった、ということですけれども」


 そういえば昨晩、早苗と二人きりで話していたときの真一は、何かに怯えているようだった。自分の責任から逃れるために、弟を売り渡したというわけか。


「これは、正当な取引です。ギブ&テイク、誰も困りません。新城先生は今の地位を失うこともなく、患者の遺族の方は医師を信頼したままでいられて、病院側はマスコミから責任追及をされて評判を地に落とすことなく。そして私は貴重な被験者を手に入れることができる、というわけですのよ。ほら、全員が幸せでしょう?」


 その「全員」の中に碧が存在しないことが、碧の人権が無視されていることを意味した。


「お断りします。人の性と身体を何だと思っているんですかっ」


 碧は言葉を捨て置き、そのまま踵を返して部屋の入口へと向かおうとした。だが。


「あらあら、残念。この提案を呑んでいただけないのでしたら、新城先生の手術ミスを公に公開するしかありませんわね」

「どうぞ、ご勝手に!」

「頭を冷やしてよくお考え下さいな。もしもそうなったら、どうなってしまうのか」


 早乙女はしなやかな足を惜しげもなく組み、碧の背中に声を投げかける。


「それまで積み重ねてきた信頼が厚いほど、一度崩れたときの落ち幅も大きいものです。手術ミスを隠そうとする医師に執刀してもらいたい、という患者はいなくなるでしょう。それに病院側も、あのような初歩的ミスで患者を殺す医師を処罰しないわけにはいきません。世間に対する誠意として、新城先生は解雇される可能性もあります。別の病院に再就職しようにも、医師としての人格と腕前に疑いが色濃く出た者など、雇おうとする病院が簡単に現れるとは思えませんし。ご近所の方から後ろ指を指されることになり、最悪では一家揃って首を吊らざるを得なくなるかもしれません。あらあら、うちの病院の関係者から、そのような悲惨な末路を送る者を出したくはありませんわね」


 あらかじめ用意していたのか、早乙女は淀みなく暗い未来を語る。その仮定には、彼女に波及する被害が存在しない。真一の手術には直接関わっていないし、裏でもみ消したことなど、彼女はどうとでも誤魔化せる、と暗に語っているのだ。それに早乙女の研究にしても、まだ碧をどうこうしていない以上、罪に問うことはできない。それに、碧や真一が早乙女の研究内容を世間に告白したところで、見苦しい出まかせを言っているようにしか見えないだろう。


(そんな……っ!)


 つまり、碧に残された道は二つしかない。


 一つは、一家を破滅へと向かわせること。もう一つは、自分が犠牲になって、一家を救うことだ。

 崖を背後に取られた状態での脅迫。ただでさえ、激しく混乱しているのだ。ここから逃げる方法など、即座に思いつくはずがない。


「碧さんも、今年で一九歳になられるのでしょう? 最低限の損得勘定はできますわよね?」


 碧がどう返答するのか予想できている、と言いたげな口調で早乙女は笑いかけてくる。碧は唇と屈辱を噛みしめ、後ろを振り返った。


「……兄さんはいいんですか。手術ミスを隠すなんて、医者としての良心はないんですか」


 最後の望みを込めて、碧はソファに腰かけたままの真一に問いかける。対する兄の目には、迷いの色が一切見られない。


「お前がイエスと言うだけで、新城家は救われるし、俺の立場も保たれる。安い取引だ」


 弟を守ろうという発想が、彼の中に最初から存在しないようだった。好きでもない弟を差し出せば自分が助かるのだから、真一の中では当然の判断なのだろう。この場で、碧の味方となってくれる人間は誰もいない。


「さあ。返答はいかがかしら?」


 早乙女は禁断の果実を勧める蛇のような目で、ねっとりとした視線を碧に向けてくる。


(どうすればいい!? どうすれば!)


 家族と自分を天秤にかけ、碧は頭の中で計算をいくつも重ねる。結局、良案を上手く用意できず。苦渋を飲み込み、代わりに発したその答えは。


「……よろしく、お願いします」


 胸を灼熱の怒りに貫かれながらも、どうにか頭を下げる。

 碧が、尊厳を奪われた瞬間だった。

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