第4話

佐々木ささき君、この書類のチェックを頼む」

「はい!」

 高すぎず、かといって低いわけでもない。このピンポイントであたしの心をくすぐる美声に、小学生のような返事をしてしまった。主任は「ん」といつものクールな返答をしてデスクに向き直る。斜め上から眺めるこの角度、最高。派手すぎないおしゃれ眼鏡の奥に秘められた大人の落ち着き。しわひとつないスーツ、自然な柔らかさを保ちながらもきちんと整えられたビジネスマンヘアー、全部がタイプだ。彼と結婚する未来しか浮かばない。

「あのぉ、今度あたしと飲みに行きませんか? 相談したいことがあってぇ。お願いしますぅ」

「今度な」

「ありがとうございます!」

 渡された書類を胸の前で抱きしめて自分のデスクに戻った。

 ふふ、ちょろいわ。

 いつも、だいたいの物事はあたしの思い通りにいく。別に細かい計算をしているわけではないけれど、こうなったらいいなあという希望が理想形ではなくとも許容できる範囲で実現するのだ。

 そんな人生を歩んできたあたしにも越えられない壁はあった。こんな犬もイケメンも散歩しないようなクソ田舎からとっとと脱出して、人であふれた都会で懸命に接客業をこなし、最終的にはどこかのイケメンキャリアとゴールインしようと思っていたのに、あたしの実家には上京する金もツテもなかったのだ。最近流行りの家事アンドロイドさえ所有できないクソ低所得なのでしょうがない。地元の高校を出た後、親の涙にそそのかされて結局地元の企業に就職した。それがこのスーパーだ。

 あたしはレジアンドロイドの端でひとり接客をしている。どんなに応用のきくアンドロイドでも、一か月に二、三度くらいは処理のできない客がくる。例えば半分昇天しているおじいさんとか、右も左もわからないようなガキとか。そういう意思疎通が困難な人の相手をあたしがする。カッコいいとさえ感じる都会の接客レディとはかけ離れた仕事だが、なんだかんだで思い描いていた業種にありついているのだった。

 そして、イケメンキャリアもまた違う形で実現する。それがあたしの斜め左にいる桐谷きりや主任。彼はレジアンドロイドの管理やシフト調整をしている。一応あたしの所属はレジ部門なので、彼が上司ということになる。一か月に数回しか来ない客の接客だけでは時間が余ってしょうがないので、こうしてデスクをもらい、一階の売り場から連絡が来ないうちは彼の仕事を手伝っている。正直、こんなクソ田舎にこんな男性がいるとは思っていなかったが、イケメンはイケメン。キャリアはそこそこだが、それを除いても非の打ち所がないくらい、とびきりのタイプ。神様ありがとう。

 しかしライバルは多い。あたしを含め、狙いを定めている人は少なくとも三人はいる。最近離婚した子持ちの副店長(四一)、水産部門のアルバイト(一七)、そして二十代も半ばのあたしだ。噂と観察によれば彼はフリーのようだが、そもそも誰かとそういう関係になったという痕跡すらない。彼ほどの良物件、すぐに買い手がついてもおかしくないのに不思議な話だ。まさかソッチなのかと疑ったりもしたが、そういう雰囲気は感じられない。

 とにかく、いまがチャンスなのだ。年齢的にもあたしが一番ふさわしい。三十代に突入したばかりの彼にとって、ちょうどあたしくらいの大人女子がほしくなる頃だろう。わかってるんだから。副店長はハゲデブ独身店長と、アルバイトのガキはクラスの男子とよろしくやってればいいのよ。こちとら彼との間に誕生するであろう子供の名前まで考えてるんだわ。もちろん新居の間取りもバッチリよ。

「佐々木さぁん。ちょっと来てくれないかな」

 うわ、噂をすればなんとやら。

「なんですか?」

 あたしは嫌悪感を抑えながら窓側を陣取っている店長のデスクまで歩く。やつはいつものへこたれた顔面でこちらを見上げた。こんなのが同じ人間とは思えない。思いたくない。

「前にも言ったけど、来月から新しい店長がここに来るんだよね。それで、その方がせっかくだから店の制服を一新したいとおっしゃっているようでね……。で、機能性とかデザインとかについて君の意見を聞きたいようなんだ。現場の声を参考にしたいということでね。いい方だよね。電話番号を教えてもいいということだったから、あとで君からかけてくれないかな。夕方なら出られるようだよ」

「ああ、はい」

 それは次期店長がお前と会話したくないだけなのでは、と思いながら間違っても接触しないようにメモを受け取る。デスクに戻ったら別の紙に書き写してすぐに破棄しよう。主任のときとはまるで態度が違うじゃないの、とキツい視線を送ってくる副店長をガン無視して椅子に座る。権限を乱用して主任の隣をキープしているお前のデスク、いつの日か奪い取ってやるからな。

「おつかれ様でしたー」

 今日も、これといったトラブルはなく、あたしはロッカーで着替えを済ませてから事務室を出た。とっとと帰ろうと駐車場に向かったが、その途中で電話の件を思い出して立ち止まった。

「休憩室でいっか……」

 事務室にはまだ人がいるのでその隣の休憩室へ向かう。家で仕事の話はしたくないし、正直ダサくなければ制服なんてなんだっていいのでてきとうに話を合わせて終わらせよう。

「もしもし、おつかれ様です、スーパーみやもとXX駅前店レジ部門の佐々木です――」

 しかし、予想外にも話は大いに盛り上がり、夕方どころか夜の七時をとうに過ぎてしまった。だって、送られてきた制服のカタログがすごいんだもん。あんなにバリエーションがあるとは思っていなかったし、しかもデザインのセンスが抜群だった。機能性から見ても最新のエプロンはすごい。ヒーター付きはもちろんのこと、動きやまわりの気温に反応して繊維が拡大縮小するらしい。次期店長も人のよさそうなおばさんって感じだったし、あたしの意見をよく聞いてくれた。二人でカタログを眺めながら通話すること数時間、やっと五つまで候補を絞り、今日のところはおひらきとなった。

 休憩室を出ると、事務室の明かりは消えていた。店自体は深夜まで営業しているが、夕方以降はナイトマネージャーがかりだされて、アンドロイドとともに働き、精算や戸締りをしている。

 あたしは再び駐車場に足を向け、薄暗い通路を歩き出した。帰ったらとりあえずビールとフェイスパック、それと録画したドラマの三点セットだな。そんなことを考えながら一階の裏口に続く階段を下りようとしたとき、

「ん?」

 どこからか人の声が聞こえた気がした。立ち止まって耳を澄ませると、通り過ぎた部屋からしているようだった。あたしは来た道を戻る。近づくにつれて今度ははっきりと物音が確認できた。アンドロイドを保管しているこの部屋は普段鍵がかけられているはずなんだけどな。もしかして、珍しく店内が混雑して、ナイトマネージャーが増援のアンドロイドを引っ張り出そうとしているのだろうか。でも、この部屋の鍵は主任がもっているはず……。あたしでさえほとんど入ったことがない。

 それ以上深く考えずにあたしは扉を開けた。なかは真っ暗だった。

「誰かいます?」

「……どい……人間、きしょ……っ……」

 奥から人の声がした。ぼそぼそ呟いているような男性の声だった。

「主任?」

 あたしは直感的にそう感じて部屋の明かりをつけようしたが、スイッチが見つけられなかった。最新の建物なら「明かり」と唱えるだけで、いや、唱えなくても勝手に部屋が明るくなるらしいが、この貧弱スーパーにそんな設備はない。探すのを諦めて、携帯のライトで室内を照らした。思ったよりも広く、驚きながらも声のする方へと足を向け、ずらりと並んだアンドロイド保管用のロッカーの間をゆっくりと進む。小学校の修学旅行で行った、アスレチックパークの巨大迷路を思い出した。

 声がはっきりしていき、主任であることに確信をもてた。でも、一人でなにを話しているのだろう。電話でもしているのだろうか。聞こえてくる言葉は、どこか乱暴な気がするけれど……。どちらにしてもこんなに早口でまくし立てるように話す主任は初めてだ。

 だんだん物音も大きくなってきた。ロッカーに体をぶつけているような音だった。あたしは自然と早足になり、携帯を足下から正面に向ける。ついに、人の背中がライトに照らされた。

「しゅに――」

「ああ気持ち悪い気持ち悪い鳥肌が止まらん。なんで人間の女ってあんなに不気味なんだ。『飲みに行きませんかぁ』ってバカじゃねーの誰が行くかっての。ああ思い出したら吐き気がしてきた。まじありえねーしあのガキ。そんなに男と遊びてーなら×××で×××の相手でもしてろ。ババア副店長もなにかにつけて外食したがるし、頼んでもねーのに子供の写真見せてくるし意味わかんねーわ。腐れ×××が。おめーみたいなやつは×××で好きなだけ×××してりゃーいいんだよ」

「…………」

 明らかに彼は、異常だった。ライトの光にも気づかず、ひたすらぶつぶつぶつぶつと放送禁止用語を飛ばしていた。

 そして、レジアンドロイドの一人に暴力をふるっていた。殴っては髪の毛をわしづかみにしてロッカーに叩きつけ、小さいカッターのようなもので制服をズタズタに引き裂き、露出した胸部を乱暴にむさぼり、同時にスカートのなかにまで手を伸ばしていた。

 重力に従って、力を失ったあたしの手から携帯が滑り落ちた。

 暗転。

「誰だ!」

 地獄の底からこだましたような声で我に返ったが、もう遅い。

「佐々木か? 佐々木だな」

 どんどん近づいてくる。暗闇のなかで、乱れた髪を片手でかきあげ、よれたネクタイを外し、カッターをこちらに向けながら血走った目の男はあたしを背後のロッカーまで追い込んだ。その様子は、まるで鬼のようだった。

「しゅ、しゅに……」

「しゃべるな、殺すぞ」

「…………」

 主任の皮を被った鬼畜野郎は、口を閉じたあたしの首の近くにカッターを突き付けて言った。

「後ろを向け」

 従うしかない。いまにも崩れてしまいそうな膝で背後のロッカーに鼻をつけるようにして立った。

「壁のそばまでゆっくり移動しろ」

 同じ体制のまま、おそるおそる左に足を動かす。部屋の壁が近づき、そのそばにあった配線かなにかを通しているポールに左足のヒールのかかとがぶつかった。

 その直後、カシャ、となにかが床に落ちる音がして、ほぼ同時に両手首を乱暴に引っ張られた。汗ばんだ手の感触に肌がざわつく。

「……っ」

 しかし、恐怖に声も出なかった。背中にポールが当たり、あっという間に、おそらくネクタイで後ろ手に両手首を拘束された。あたしの腕でできた輪にはポールが通っていて、脱出の可能性は絶たれた。いったいこれからどうされるのか。動いたら刺されるのだろうか。

「こっちを向け」

 首だけで振り返ろうとすると、「体ごと」と男は言った。あたしはポールに背中をつけたまま、ゆっくりと右に回った。

「座れ」

 震える膝を折り、床に腰を落とす。コンパクトな体育座りのような体制になった。男もしゃがんで、こちらを見た。

「…………」

 犯される、と思った。それか、男の後ろで直立したままのアンドロイドのように、ボロボロにされてしまうのかもしれない。あのアンドロイド、襲われているとき、何度かまばたきをし、わずかに口を動かしていた。この男は、わざわざ彼女を起動させ、音声を切ってから暴力を振るったのだろう。それと、内蔵されたカメラと、データ通信も切ったはずだ。絶対的な悪意を感じる。痛めつけてやりたいと思ってしたに違いない。ただの人形を殴るのでだけでは気分が晴れないのか、それともそういう性癖なのか。

 今日に限って、あたしは彼女と同じようなスカートをはいていた。

「すー……、ふぅー……」

 もはや獣にしか見えなくなった男は、肺いっぱいに息を吸い、頬を膨らませて思いっきり吐き出した。風があたしの顔にかかる。いつもクールに煙草を吸っていた彼の姿が一瞬にして砕け散った。

「佐々木君」

「…………はい」

 最小の出力で返事をした。男はその場にあぐらをかく。

「君、俺のこと好きなんだろ? なあ、そうなんだろ?」

「…………」

 なんて答えるのが正解なのか、わからなかった。

「俺が社会から消されるところ、見たくないだろ? な?」

 懇願しているようでいながら、いまにも首を絞めてきそうな声色に、あたしはただ潤んだ瞳をまばたきさせることしかできなかった。

「どうすれば黙っててくれる? なにをすればいい? 金ならいくらでもやるよ。ああ、キスでもすればいい? それともなんだ。なにがほしい? なに? なんでもいいから」

 話の流れから、どうも、あたしの考えた最悪の事態には至らなそうだと直感した。こいつは人間の女がどうだとか言っていた。もしかしたら生身の体には興味がないのかもしれない。むしろ、嫌悪感の方が強いのかも。あたしは唾を飲み込んで、震える唇を動かす。

「あた、あたし、ここ、会社っ……辞めます。いいいまっ、見たこと、だ、誰にも言いません。やく、約束します」

 あたしの言葉に、男が汚らわしい瞳を輝かせたように見えた。

「本当か? ああ、申し訳ないな。店長には俺が言っておくよ。できるだけ手当てを増やすようにするから。それに俺からも出すよ。それでいいよな? ああ、転職先を紹介してもいい」

 言いたいだけ言わせた。どうせ、あたしが折れなければ暴力で説得したに違いない。男は一人でぶつぶつ吐き出したあと、顔あげて目線を合わせてきた。思わず床に目をそらす。

「手荒な真似をして悪かったな。いま外すからな」

 思ったよりもすぐに、解放の兆しが見えた。あたしは肩の力を少しだけ抜いて体をずらし、縛られた両手を男の方に向けた。

 そのときだった。

「……いま、なにか音がしなかったか」

「あ……」

 床に捨てられたままだった携帯のバイブレート。

 最悪過ぎるタイミングだ。

 男は反射的に自分のズボンのポケットをまさぐり、振り返る。

 そして、獲物を狩る肉食動物のような素早さで、落ちていたそれを拾い上げ、つけっぱなしだったライトにひるみながらも、あたしを睨みつけた。

「撮ってたのか」

 あたしは首を振った。外れて飛んでいきそうなくらい懸命に左右に振った。しかし、目の前の獣は再び目をつりあがらせ、あたしの襟元につかみかかってきた。

「どこかにアップしてないだろうな」

「あげ、あげてないです。ていうか撮影もっ、してないですっ」

 頭突きをしてきそうな勢いに、ほとんど泣きながら釈明をした。すると男は手を離し、崩れるように地べたに腰を落とした。

「ああ、ああ、佐々木君、君はいい部下だ。仕事は早いし、なにより従順でいい。しかしな、俺は女の涙というものを一番信用していない。それどころか嘘の証とすら思っている。俺がな、ここに来る前、まだ東京で働いていた頃に付き合ってた女がな、親が病気で死にそうだから、その治療費として金を貸してくれって泣いて頼んできたんだ。俺は馬鹿正直に貸したさ。カードごとな。そしたら次の日には失踪され、負債だけが残されたよ。俺は両親に泣きついてこの町に戻ってきた。あの女がいなければな、今頃こんなクソみたいなところで働いてねえんだわ」

 男は興奮した様子で続けた。

「それにな、あの女はな、俺の反撃を恐れて、先に爆弾を仕掛けやがったんだ。俺の悪口をな、写真とセットで会社の連中にばらまきやがった。俺の友人にも、みーんなにばらまいた。慰めてくれた人もいたが、俺はもうあそこにはいられなくなった。一生この町に閉じこもってるしかなくなったんだよ。わかるか? わかんねーだろうな。俺はなあ、俺はなあ、それから人間、とくに女が信じられなくなった。だが、職場では相手をしないわけにはいかない。日々ストレスが溜まって、たまにこうして発散してたんだよ。我ながらなにをしているんだと思うよ。でもやめられないんだよ。わかるか? ああ、君はいい人だよ、でも人間なんだよ、女なんだよ、気色悪くてしょうがねえんだわ。こんな状況になった以上、君を疑ってしまうのはしょうがないことなんだ。君が悪いんだよ。人間なんかに生まれたから」

「…………」

 あたしは硬直したまま、男の一方的な語りを受け流していた。男はすっきりしたのかまた大きな深呼吸をする。こちらも少しだけ息を吐いた。しかし、その直後、男は床に横たわっていたカッターを手に取り言った。

「君の言葉の正しさを証明してもらえないだろうか?」

「け、携帯のフォルダを見てもらえればわかると思います」

「もう削除したんだろ?」

「してないです、最初から存在しないデータを消すことはできないですっ」

 男は、はぁーと大げさにため息をついた。

「だからさあ、女の涙は大嘘なんだって。何度言ったらわかるんだよ。俺にいい案があるんだがな、君も同じように自分のことをアップしたらどうだ? この際だから自分の身をもって謝罪してくれないか」

 もはや、人間の言葉は通じないらしい。そして、どうやっても元カノへの恨みを晴らしたいらしい。

 だからって。

「自分のことをアップって……」

「簡単だよ」

 急に男は立ち上がって、強烈な力で再びあたしの襟元をつかんだ。それに引っ張られてあたしの体も浮いた。

「や、やめてくださ――」

「君もさ、もうここにはいられないようになればいいだよ。な? それで五分五分だろ? 丸く収まるじゃないか。いいだろ?」

 言うなり、手にしていたカッターであたしのシャツを切り裂いた。

「いやあああああ」

 左頬に、固いこぶしが飛んでくる。

「しゃべるなって」

 体験したことのない衝撃に、気を失いかけた。遅れて激痛が走り、自然と涙がこぼれ落ちる。

 手早く服を剥いでいく男の後ろで、携帯のライトが自動的に消えた。暗闇のなかで、アンドロイドがこちらを見ていた。

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