最終話:ある異教徒の祈り
わたくしは、アポカリアという女です。
わたくしは、創造主に付き従う者です。
そして、救世主の復活を信じる者です。
……ぁあ。神様とは、オリンポスのことでも、皇帝のことでもありませんよ?
慈愛によって、東方の救世主をお救いになった、ただ一人の神様のことです。
「アーメン。……」
わたくしは今、コロッセオにいます。
荒縄で、柱に縛り付けられています。
どうせなら、あの高貴なる方のように、磔刑がよかったのですが……
欲をかくのは、いけないことですね。
「アーメン。……」
今の皇帝ディオクレティアヌス様は、わたくしたちが憎いようです。
わたくしたちは巫女による神事を拒み、皇帝への礼拝を忌避します。
皇帝と距離を取る者達が、異教崇拝の名の下に、影で集まっている。
これだけで、ディオクレティアヌス様が怒る理由には十分なのです。
「アーメン。……」
わたくしは今、三人の処刑人たちと向かい合っています。
一人目の男は車を押し、炎が踊る鉄板を運んできました。
二人目の男は、細長い鉄の棒を持っていました。
「アーメン。……」
三人目の男が、その鉄の棒を受け取りました。
そして、わたくしに向かってこう問いかけるのです。
「・・・汝は、誰を崇めるか?」
わたくしの答えは、一つです。
「偉大なる天上の神と、
「・・・汝は、皇帝陛下を崇めないのか?」
「皇帝陛下は人間です。どうして、陛下を崇めることができましょうか」
「・・・信仰を改めるつもりはないのか?」
「ありません」
「・・・ならば、仕方ない」
処刑人は、棒の先端をわたくしの左太股に押し当てました。
「ぁあッ! ……」
「・・・汝は、誰を崇めるか?」
わたくしは身を捩り、縄の中で藻掻きました。
棒の赤い先端には、わたくしの皮膚が張り付いていました。
「……偉大なる天上の神と、救世主を信じます」
「・・・信仰を改めるつもりはないのか?」
「ありません」
「・・・ならば、仕方ない」
処刑人は、棒の先端を炎にかざしました。
そして、わたくしの秘部を見つめました。
「……どうぞ?」
わたくしは誘いました。
「・・・ぁあ。……ッ」
処刑人は、棒の先端をわたくしの右脇腹に押し当てました。
「ぅうっ……」
「・・・信仰を改めるつもりはないのか?」
「ぁりません……決して」
「・・・それは何故だ?」
処刑人は、本当に不思議だ。という声で聞きいてきました。
「……わたくしは知ってしまったのです。神の慈愛を。メシアの情けを。楽園の導きを」
「・・・」
処刑人は、困ったような顔をしていました。
彼は、可哀想な人です。
彼の仕事は、公衆の面前でわたくしを辱め、屈服させ、改心させ、泣かせ、慈悲を乞わせることなのです。
──神聖にして寛大なるディオクレティアヌス様。邪教にこの身を許した哀れなわたくしを、どうか赦し、お救いくださいませ……
そう、わたくしに言わせなければならないのです。
そのようなこと。
ちっぽけな人間の一人に過ぎない彼に、できるはずがないのです。
「アーメン。……」
わたくしが信仰に目覚めたのは、今から3年前のことです。
わたくしの実家は、とても豊かでした。
わたくしは読み書きと算学を覚え、商人の家に嫁ぎました。
この、嫁いだ先で、人生の転機が訪れたのです。
わたくしの主人は、地下礼拝所に通うほどの、熱心なキリスト教の信者だったのです。
初め。わたくしは主人のことを、酷く不気味に感じました。
主人はわたくしを安心させるために、こんな話をしました。
「この神様はね、今までの神様とは少し違うんだ。この神様はね、僕たちに聖書ってものを残したんだ。これはね、口伝えよりも、聖地よりも、神官よりも大事なものなんだ。神様の言葉を、紙で、文字で知ることができる。そのことが、とても新しいことなんだ」
主人は、嬉々として語りました。
「もう200年も前だったかな。『約束の地』にこだわったヘブライ人は、帝国に故郷を滅ぼされてしまった。それ以来、神の教えは広がらなくなった。それよりも昔、ガリアやブリタンニアには、ドルイド教っていう宗教があった。でも、帝国に神官たちを殺されて、信仰は廃れていった。さらに昔、東方にはギリシアとは別の多神教世界があった。でも、その多くが口伝えの信仰だったから、そのうち忘れられてしまった」
わたくしには、とても難しい話でした。
「でもね、この宗教は違うんだ。どれだけ人が殺されても、どれだけ居場所を追われても、どれだけ長い年月が経っても、この聖書さえあれば、いつでもどこでも神の教えを確かめ、広げることができる。文字通り、不死身で、永遠の教えなんだよ」
*
帝国は以前にも、この新しい宗教を弾圧したことがあるそうです。
ですが、それは無意味でした。ほとんど、効果がなかったのです。
帝国があまり本気ではなかったということと、帝国がキリスト教の本質──聖書の存在を見落としていたことが、その理由だったようです。
どれだけ多くの信徒を殺しても、聖書という装置がある限り、新たな信徒が生産され続ける。この奇跡の構造が、わたくしたちの信仰を生み、勢いづけ、より強固なものとしているのです。
*
わたくしは今、柱と鎖で繋がれています。
わたくしは今、羊の毛皮を被っています。
わたくしは、迷える羊です。
「アーメン。……」
ぁあ。神様。
この哀れなわたくしに、どうか最期のお導きを。
「・・・グルルルル……、……ウ」
わたくしの目の前に、一頭の獅子が現れました。
わたくしは、恐れませんでした。
わたくしは縄目が刻まれた体を、火傷に爛れた肌を、砂に汚れた裸体を、衆人の目に晒してきました。今更、生贄の羊として、獅子の血肉となることに、なんの躊躇いがあるでしょうか?
「アーメン。……」
わたくしには、神の慈悲があります。
わたくしには、一人の信徒として、立派に旅立つ義務があります。
わたくしには、わたくしにしかできない、大切な使命があります。
「・・・グゥウウウウウ……」
獅子は一歩、また一歩と、わたくしに近づいてきます。
わたくしを見る幾千の瞳は、わたくしが泣き叫び、逃げ惑い、のたうちまわり、皇帝の赦しを乞いながら、自らの信仰に対する悔恨を叫びながら、その血肉が蹂躙されることを望んでいます。
……だからこそ、彼ら彼女らは、わたくしを見ずにはいられないのです。
絶対に、彼ら彼女らは、わたくしから目を逸らすことができないのです。
猛獣を前にしても、わたくしが平然としている様を、見てしまうのです。
衆人は、わたくしの神に対する信仰の強さを凝視せざるを得ないのです。
そして、誰かが気が付いてしまうのです。
また、誰かが興味を持ってしまうのです。
──彼女を、猛獣や帝国を恐れない強靱な人物に変えてしまうキリスト教とは、いったいどんな宗教なのか?
──現世の責め苦を忘れ、死の恐怖から解き放たれる。……そんな気持ちに、私もなってみたい
信徒が一人。女が一人。聖書が一冊。
この程度の勤勉では、世界に教えを広めることはできません。
大勢が集まる、大勢が注目するこの
わたくしが、衆人の前で、超然とした顔のままなぶり者にされることが、わたくしの使命であり、献身であり、信仰なのです。
コロッセオで命果てることにより、わたくしは帝国に神の教えを勧めることができるのです。
「アーメン。……」
「・・・グゥウウ」
わたくしは、目を瞑りました。
「・・・ガアアっ!!」
慈悲深い獅子は、わたくしの肉を切り裂き、その魂を神の元へと送ってくださいました。
コロッセオの死神 七海けい @kk-rabi
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