幽霊とお友達になりませんか?

しろめしめじ

 

 最悪だ。不幸のどん底だ。

 炬燵の天板に、額をガゴンガゴンとぶつける。

 俺こと公郷丈瑠は、大学入学早々最悪の局面を迎えていた。

 彼女にふられたとかじゃない。元々彼女なんていないし、出来る要素もない。

 決して不細工ではないけど、すこぶるイケメンでもなくまあ普通の一般的な爽や

 か男子のつもりなんだが。身長一七五センチで、贅肉はついていない。浪人している時もジョギングと筋トレを欠かさなかったのが功績を成し、陸上競技に勤しんだ現役時代の体躯を何とか維持している。まあ、日焼けして真っ黒だった肌は色落ち

してしまったけど。

 長く苦しかった暗雲垂れ込める俺の黒歴史――魔の浪人時代からようやく脱出して、これから夢と希望と自由と快楽に満ちた、明るく楽しい大学生生活が始まるってのにさ。誤算だよ誤算。誤算だらけ。

 大学って、専門的な学問を学ぶ所だろう? 

俺は純粋に高齢化が進む日本の農業の将来を案じて農学を学ぶ為に大学に入学したのだ。なのに、何故、数学なんかあるんだよ。三次関数? 高三の時にやっただろっ! もうやる必要なんてねえじゃん! 俺は大地を愛で、大自然の恵みに感謝しながら学術的にアグリ生活がしたいんだあっ! 教養課程の馬鹿野郎ううううううううっ!

 と言ったところで、やんねえと単位はもらえないし、既に一浪しているだけに、留年なんてしようものなら親に何言われるかわかったもんじゃない。理系なのに、数学が苦手科目ってのは、正直はっきり致命的なファクターだった。

「くそう、分かんねえ……もう少し数学ちゃんとやっとくべきだった」

 俺は額に皺を寄せながら、白紙の課題シートを睨みつけた。新入生の理解度を把握したいとか何とかで、数学の講師が俺達に課した宿題だった。

 長期戦を覚悟して晩御飯プラス夜食分のハンバーガーを買い込み、帰宅してラフ

 な黒いスウェット上下に着替え、身も心もリラックス気分でいざ出陣! と、意気込んだものの、気が付けば睡魔に敗れて撃沈していた。 

 今は夜の九時。もう後がない。

「受験勉強やったんでしょ? それに合格したんだし」

「まあ、やったのはやったけど……今行ってるとこは受験科目が選択制だったから、数学は取ってない。国立や他の私立も受けたけど、数学必須の所は全部落ちたわ」

「そうなんだ、大変だね」

「まあな」

 ん?

 俺、誰と話してんだろ。

「うわっ!」

 青白い顔をした黒ぶち眼鏡の少年が、にこやかに愛想笑いを浮かべながら、炬燵の対面側に鎮座している。

「だ、誰だ?」

 超高速背面匍匐後進で炬燵から脱出しながら、俺はその少年を凝視し続けた。

 白いカッターシャツに黒い学生ズボン。どこか幼さの残る顔立ちからして中学生か?

 スリムというよりは不健康な程にか細い体躯。色白の肌に日焼けの痕跡はなく、恐らくは徹底したインドア派であることくらいは想像がつく。

「嬉しいな、お兄さんには見えるんだね」

 少年は嬉しそうに微笑んだ。これを屈託のない笑顔って言うのか、何て言うのか

 な、うまく表現出来無いけれど、少年は顔全体を弛緩させて和やかに笑っていた。クラムボンが笑ったらきっとこうなるんだなって感じの笑い方だ。

 否、そんなことよりも、もっと根本的な問題があるだろう。彼はどこから入って来たか。彼は誰なのか。

 それと、ひっかかることがあった。

 彼はさっき『お兄さんには見えるんだね』って言ったけど、他の人には見えないって事なのか?

 だとしたら、答えは一つ。

 ごくり、と生唾を呑み込む。唾液を嚥下する音が、口蓋と鼓膜に生々しく響く。

「おま、おま、おまえ、えは、ひょひょひょっとして?」

 舌が、蝋石のようにごろんと転がったまま固まって動かない。

 サスペンスやホラー映画での、死亡フラグが立っちまった人の反応そのままだった。予期せぬ死を目前にして、不意に我が身を襲った絶望と驚愕に困惑する表情そのままのベタな演技を、俺は無意識のうちに再現していた。

 心臓がとんでもなく激しいビートを刻む。まるで脳と心臓の位置が入れ替わったかのように、顔じゅうで拍動を感じていた。

「たぶん、お兄さんの想像通りだと思うよ」

 まるで俺の思考を垣間見たような返事に、薄気味悪さを思いながらも、何故か恐怖心は急速に意識から消滅していくのを感じる。たぶん、彼の穏やかで人懐っこい表情のせいかもしれない。

「じゃあ、やっぱり?」

「うん、間違いなく」

「幽霊?」

「そう呼ばれる存在であることは確かです」

 彼はいたって真面目な表情で、俺の質問にストレートな回答を投げ返してきた。

 俺は無言のまま、じっと彼を凝視した。

 こいつ、本当に幽霊か? 全然透けてないし。、姿格好完璧3Dだし。

「どうかしましたか?」

 俺の訝し気な視線を感じ取ったのか、彼はおどおどした態度で眼線を泳がした。

 おいおい、おかしいだろ、それって。このシーンで怯え震えるのは俺の方だろ。

「いや、何、余りにも君の姿がリアルだからさ。本当に幽霊かなと思ってさ」

 俺は頬を引き攣らせながら、無理矢理笑みを浮かべた。

「間違いありません。僕は確実に死んでいますし、なんでしたら死亡診断書を取り寄せましょうか」

 彼は真剣な表情で、顔を真っ赤にして熱く俺に訴えた。

「じゃあさ、透明になったり、壁を通り抜けたりできる?」

「出来ますっ!」

 彼は嬉しそうに表情をぱっと明るくすると、パッと消えた。

「こんな感じで」

「おおっ!」

 俺は思わず驚きと感嘆の声を上げた。炬燵の天板のど真ん中から、彼の頭部がにょっきり出現したのだ。俺の反応がうれしかったのか、にこにこと笑顔を浮かべている。

「分かった。認めるよ。御前はもう死んでいる。立派な幽霊だ」

 俺が頷くと、彼は満足げなまったりとした表情で元の位置に戻った。

「でも凄いな君、その能力を使えば女子更衣室やら女風呂やらいろんな所を自由に出入りできるじゃん」

「出来ませんよ。そんな違法行為をしたら、閻魔大王様に即地獄送りにされてしまいます」

 彼は滅相もないと眉を潜めた。根っからの超真面目人間のようだ。

「真面目だねえ。そうだ、せっかくだから、自己紹介しよう。俺は久郷丈瑠、大学一年だ」

「僕は池上知郎です。トモロウって呼んでください。享年一四歳です」

「じゃあ俺は――」

「兄ちゃんって呼んでいいですか? 三つ上の姉はいるんですが、男兄弟のいる友達がうらやましかったんで」

 トモロウは少し顔を赤めると、はにかみながら俯いた。

「えっ? まあいいけど……」

 若干の戸惑いはあったものの、俺は彼の希望を承諾した。否定すると、徐に恨めし気なマジ幽霊に変貌するかもしれない――という展開も無きにしも非ず、俺は俺なりに最短で最も場を荒立てない判断を選択しておく。

「昔から、ここに住んでんの?」

 俺は何気にトモロウに問い掛けた。

「いえ、今日からです。生きている時の生活拠点はここではないです」

「ええっと、その……亡くなったのはいつなの?」

「先週の土曜日、桜が舞い散る風景を見ながら僕は逝きました」

「えっ! そうなの?」

 幽霊デビューなりたてのほやほやかよ。どおりで不動産屋は何も言わなかったわけだ。

「僕が死んだのは、この部屋の窓からも見える、大学病院の入院病棟です」

 トモロウは少し寂し気に表情を曇らせると、窓越しに外の風景を見つめた。

 確かに、アパートの道を挟んだ隣には、俺が通っている大学の、付属病院がある。真新しいその建造物は、あらゆる怪我や疾病に立ち向かう巨大な白い城塞を彷彿させ、どんな強力な震災でもびくともしないような堂々たる風格に満ちている。

「あの病院の六階の、こっちに面している病室です」

 確かに、トモロウの言う通り、白亜の城塞の側面に無数の窓が見える。

「悪性リンパ腫だったんです。気付いた時には全身に転移していて手遅れでした」

 トモロウは淡々と自分の死因を語った。

「大変、だったんだな」

 俺は言葉を詰まらせながら彼に返した。

 まさか、彼が自分から死因を語りだすとは思ってもみなかったよ。

 無粋だと思ったから、彼の死因については俺からは聞こうとはしなかったのだけど。

 故人の死因か。普通なら、何となく誰しもが気になる事。でも当事者にとっては、とてつもなく残酷な告白だ。自分の運命を終焉に追い込んだ理不尽な原因を、それこそ考えたくもない事実を認めてしまうことになるのだから。

 トモロウの様に、何かしらの未練があってこの世に留まる者達にとって、成仏は苦悶以外の何物でもないのだろう。

 何となく分かるような気がする――いかん。この感情はやばいかも。未成仏霊に同情なんかしてたら、あっちこっちからいろんなのが寄ってくるぞ。

 既に一人来てるし。

「でも、何故この部屋にいるの? 元々ここに住んでいたんじゃないのに」 

 俺は素朴な疑問を彼に投げ掛けた。

「はい。実は、生前お世話になったお姉さんが、の部屋に住んでるって聞いていたので。それで、お礼が言いたくて」

 拍子抜けのするようなトモロウの回答に、俺はほっとした気分になっていた。これが、し生前彼に危害を加えた者が住んでいたので祟りに来ましたとか言ったら、俺はキッチンの塩を容器ごと彼に頭からぶっかけていたかもしれない。ナメクジみたいにはならんだろうが、少しはお清め効果があるだろう。

「そっか、残念だったな……前の住民は俺が来る二週間前に引っ越したよ」

 トモロウは黙って目を伏せると、口元を強張らせた。目が、仄かに潤んでいる。思いが遂げられなかった悔しさと悲しさが蘇ったのだろう。泣きたいのを必死に我慢しているように見える。

「そのお姉さんって、どんな人だったの?」

 重苦しい空気を払拭すべく、俺はあえて明るくトモロウに話し掛けた。

「綺麗な人でした。髪が長くて、スタイルが良くて、色白で。根っからのインドア派みたいです。確か、日に焼けるのが嫌だって言ってましたね」

 トモロウの口元が、嬉しそうに緩む。

「へええ。で、その美人のお姉さんとはどんな関係だったんだ?」

「病院で、勉強を教えて貰ってました」

「学校の先生?」

「いえ、医学生です。院内学級の先生は別にいたんですが、その授業とは別に、ボランティアで勉強を教えてくださってたんです」

「そうなんだ」

 さっきまでの悲愴感の漂う暗雲立ち込めし空間は、彼の嬉しそうな笑顔で一転して穏やかな空気に包まれていた。

「じゃあ、あの病院に行けば会えるんじゃない?」

「僕もそう思ったんですが、何故かこの部屋から出れなくなっちゃって……」

 恥ずかしそうにもじもじする彼を、俺はあっけにとられて見つめ返した。

 どういうことだ、それ。

「トモロウ、この部屋に来た時、どこから入った?」

「窓からです」

「じゃあ、窓から出ればいいんじゃん」

「そう思って試してみたんですが、駄目でした。やってみますから見ててください」

 トモロウと、そろりそろりと窓に近付き、サッシの枠に手を掛けた。

 ばちっ

 青白い火花が、トモロウの手とサッシの間で弾ける。と同時に、トモロウの身体は中空を大きく舞うと、緩やかな放物線を描きながら部屋の片隅に吹っ飛んだ。

「大丈夫か?」

 俺は慌てて立ち上がると、彼のそばに駆け寄った。

「大……丈夫です」

 トモロウは顔をしかめながらも、何とか自力で立ち上がった。

「初めてこの部屋に来た時、空っぽになっているのを見て、茫然としてたら、ドアの向こうにお姉さんらしい人の気配を感じたんです。それで、慌てて外に出ようとしたら、見えない力に弾き返されちゃって」

 トモロウは困惑しながら落ち着きなく周囲を見渡した。

 静電気? いや違う。サッシや周囲の壁までも一瞬青白い光に包まれていた。

 何なんだあれは……。

 思案する俺の顔を、トモロウはきょとんとした表情で覗き込んでいる。

 見たところ、俺をだましてここに居座ろうとしているわけではなさそう。

 言い方は悪いが、トモロウは浮遊霊じゃなくて、この部屋の地縛霊になっちまったのか。

 てことはてことは、だ。

 思いが遂げられるまで、ここに居座るってことかあああああああ?

 俺は頭を抱えた。絶望的だった。スピリチャルな知識も感性も何も無い俺だけど、それぐらいの展開は察しがついてしまった。

 気付かなきゃ幸せな事もある。だが、気付いた以上、それはそれで仕方がない――なんて、単純且つ簡単に納得出来るもんか。

 大学生になったら、一人でアパート生活イコールあんな事やこんな事やどんな事でも自由にやりたい放題生活の生活が出来る――それだけを、その熱き思いを執念とやる気に変えて苦しい浪人生活を乗り切って来たというのに、何て事だああああああああああっ!

 俺は、心の中で悲しみの咆哮を上げまくった。流石にトモロウには悪いから、決して声には出していない。いくら禁欲生活の始まりを予感したとはいえ、それぐらいの配慮をする理性は兼ね備えているつもりだ。

「兄ちゃん、大丈夫?」

「ん、んなああっ?」

 心配そうに呼ぶトモロウの声に、顔を挙げた刹那、俺は我が目を疑った。

 目と鼻の先に、長い黒髪のセーラー服姿の少女の姿があった。スカートの裾を気にしながら、足を崩して畳の上に腰を下ろしている。憂いに満ちたミステリアスな輝きを湛える黒い瞳が、心配そうに俺をじっと見つめていた。

 可愛い。すっげえ美少女!

「えっ? えっ? えっ?」

 俺は戸惑い、慌てふためくと思わず少女からずりずり後退した。

「驚きました? 僕ですよ僕! トモロウです」

 少女はにやにや笑みを浮かべながら、ポケットから黒縁めがねを取り出して掛けた。

 トモロウだ。間違いなく。容姿は別として、眼鏡一つでこうも違うものか? 眼鏡は顔の一部だと誰か言っていたが、まさしくその通りだな。

 でも、何でまた突然、変態――じゃねえ、変身した? 

「その恰好……」

「ハロウィンの時、医学生のお姉さんが自分のお古を僕に着させたんです。わざわざウイッグまで買ってきて。めっちゃ受けましたよ。父も母も涙流して笑ってました。姉は自分よりも可愛いって怒ってましたけど」

「そ、そうなの」

 何故かドギマギする俺。

「兄ちゃん、何だか暗い顔してたんで、和ませようと思ったんです。何ならずっとこの格好のままでいましょうか」

「いや、いい! 元に戻ってくれ。その恰好でいられたら間違い犯しそうで怖い」

 俺は動揺を隠せぬまま、訳の分からない問題発言を口走っていた。

「分かりました」

 トモロウは苦笑すると、あっけにとられるほど一瞬にして元の姿に戻った。

「簡単だなあ」

「簡単です。一度身に着けた記憶のある衣服なら、何でも可能です」

 誇らしげに宣うトモロウを、俺は複雑な思いで見つめた。

 トモロウが男じゃなくて本物の美少女だったら、また違ったんだけどな……。

 否、何考えてんだ俺は。

「どうかしましたか?」

「えっ! 便利だなあと思ってさ、その……早着替えが」

 絶妙なタイミングで突込むトモロウの問い掛けに、しどろもどろになって答える。

 不意に、お腹がぐぐうと鳴った。時計を見ると、午後十時ちょっと前。

「お腹すいたな。飯にするか」

「どうぞお構いなく」

「そうはいかんだろ」

 俺はリュックから紙袋を取り出すと、ぽんと炬燵の上に置いた。ほんのりと香り立つソースの匂いが、闊歩の胃袋を更に刺激する。

「これは、ひょっとして、モックのバーガー!」

 炬燵の対面席にもぐりこんだトモロウの眼が、喜びに波打っている。

 俺は紙袋に手を突っ込むと、薄い包装紙に包まれたハンバーガーを彼の前に並べた。スタンダードのハンバーガーとチーズバーガー三個の計六個。質より量のチープ&がっつりメニューだ。

「安いやつばっかだし。それにフライドポテトもないけど」

 フライドポテトだけじゃなく飲み物も一切買ってこなかったので、冷蔵庫から昨日買っておいたコーラ二リットルサイズを取り出し、横一列に並べたバーガーの端っこにどんと鎮座させる。

「えーと、後は、そうだ、拝まなきゃ」

 俺はパンパンと柏手を打つと、お供え物を前にトモロウに手を合わせた。

「トモロウがお姉さんと会えますように。それと、数学のレポートが無事終わりますように」

「兄ちゃん、柏手は神様に対してするんですよ。仏前は合掌して礼。それに、僕にお願い事されても困るんだけど」

 トモロウは眉毛を八の字にしてのあきれ顔で、深々と吐息をついた。

「え、そうなのか! 俺、今までずっと仏壇の前でもパンパンしてたぜ」

「それって、すっごく恥ずかしい問題発言だと思うんですけど」

 トモロウは冷ややかな目線で俺を見ると、ぼそっと呟いた。

「ま、いいじゃねえか、今度からちゃんとするさ。じゃあ食べるぞ」

 彼の露骨なまでに顔に浮かべる蔑みの表情をさらっと受け流す。些細な事を腹立たしく思う短絡的怒りの感情よりも、空腹に苛む胃袋の方が、完璧に思考を支配していた。

「いただきます」

 俺はハンバーガーを一個手に取り、包装紙を素早く半分だけめくってかぶりついた。薄っぺらいパテとピクルスしか載っていないが、このシンプルさがストレートでなかなか良い。具材がいっぱい顔を出しているのもボリューム感があって見栄えもいいが、手に取ってむしゃむしゃと食べると、中身がはみ出してくるので食べ辛い難点がある。単に俺が不器用なだけかもしれないけど。

「凄い、これだけの量を一人で食べるのか……」

 一個目を数秒で終え、二個目はチーズバーガーを選択した俺に、トモロウは目を見張って呟いた。

「ん、夜食分もある。まあ、食べようと思えば食べれるけど」

「いつも、食事はこんな感じ?」

「そうだな、料理は大したもの作れないし、面倒だから、パンか弁当が多いか……」

「栄養面に問題有ですね」

 トモロウは冷めた表情でしみじみと語った。

 と、不意に、お腹がぐぐうと鳴った。と言っても俺じゃない。

 じゃあ、誰?って。俺以外にいるって言えば一人しかいない。

「トモロウ、ひょっとして今、お腹なった?」

 まさかと思いつつも、トモロウの顔を覗き込む。

「鳴りました。間違いなく」

 トモロウは驚きの表情を隠し切れない感じで、半音上がった声で事実と認めた。

 確かに、びっくりだ。幽霊も食欲もあればお腹も鳴るのか。論文書いて発表したらネイチャーに載るかも。

「お腹、空いてる?」

「空いてます! さっきから唾が止めどもなく湧いてくるんです!」

 トモロウが興奮した声で熱く語った。それが事実である証拠に、彼は一頻り語った後、喉を大きく鳴らして那波つばを飲み込んだ。

 どういう事? 

 生唾を飲み込むって事は、普通に物質化した唾液が分泌されている訳で、それを飲み込むとなりゃあ、実体化した食道やら胃やらが存在するって事になる。

 そんな馬鹿げた話、聞いたことないぞ。

「普通仏様って、お供え物をしたら、それで食べたことになるんだろ?」

 訝し気に彼に問い掛けてみる。

「ええ。今まではそれで大丈夫でした。お供えしていただければ、僕はその気を頂いていましたので、普通に食べているのと同じ感覚で満腹感を得られてたんですが、今日は何故かいつもと違うんです」

「違うってえと?」

「気を頂けないんです。こんな事、今までになかった」

 トモロウは目を伏せると戸惑いの困惑顔で恨めし気に机上のディナーを見つめた。

 不意に、彼は何かを決断したかの真剣なまなざしを俺に注いだ。

「兄ちゃん、少し貰って食べてもいいですか?」

「えっ?」

 思いつめた眼で訴えるトモロウを、愕然としながら見つめる。

「食べるって、口に入れてもぐもぐしたいのか?」

「はい、もぐもぐしたいです」

 眼鏡の奥から、熱いまなざしが俺を捉えている。

 俺は、ごくりと音を立てて生唾を嚥下した。

 もしこれを断ったら、俺はきっと彼に祟られる。

「まあ、いいけど。じゃあ、好きなだけ取っていいぞ」

「ありがとうございます! では、一個ずつ頂きます」

 彼は恭しく俺に頭を下げると、ハンバーガーとチーズバーガーを一個ずつ自分の前に並べて置いた。

「どっちからにしようかな♡」

 嬉しそうに目を細めながら、食べる順番を決めかねているトモロウを、俺は微笑ましく見つめていた。

 何か、凄くいい事をした気分。今死んだら、天国直行便ノンストップファーストクラス待遇かも。

 変な自己満足ににまにましていると、トモロウはハンバーガーの包装紙を丁寧に脱衣し始めた。

「無理しなくていいからな。食べられなかったら残していいぞ」

 まるで初めて食べる料理を前にした子供に気遣う親の気分だ。

 トモロウは黙って頷くと、大きく口を開けて一口目に取り掛かる。彼は味と食感を確かめるように何度も咀嚼すると、ゆっくりと喉を鳴らして飲み込んだ。

 彼の喉ぼとけが、大きく上下する。

「食べれましたあ! 大丈夫ですっ!」

 トモロウは満面をほころばせて破顔しながら喜びの雄叫びを上げた。思いもよらぬ体験に感極まったのか、瞳がうるうるしている。

「コーラも試してみるか」

 俺はグラスを二つ用意すると、冷えたコーラを注いだ。炭酸の気泡が弾ける爽快な涼音と白い泡立ちを、トモロウは期待を込めた熱いまなざしで食い入るように見つめていた。

「トモロウ、行きますっ!」

 トモロウのか細い指が、グラスをしっかりと掴む。緊張しているのか、グラスを持つ彼の手が小刻みに震えている。

 彼は眼を閉じると、慎重にグラスに口を付けた。グラスを持つ手がゆっくりと傾き、潤いを渇望する喉元へと泡立つ褐色の液体を徐々に注ぎ込んでいく。

 彼は眼を開いた。驚きと歓喜の喜びが目尻をゆるゆるに弛緩させている。喉が大きくなる。それはハンバーガーよりもはっきりと勝利の叫びを奏でていた。

 グラスの底が天を向く。

「ぷはああああーーーっ!」

 トモロウは大きく息を吐くと、満足げにグラスをぽおんとテーブルに置いた。

「飲めましたよっ! おいしかったあ。でもこんな事ってあるんですか?」

 トモロウは興奮気味に俺に問い掛けてきた。

「分からん。どうなんだろうね。でも飲み食いできたのは事実! 凄い事になって来たぞ」

 俺の頭の中では、「心霊的存在の飲食行動に係わる新たな事例」というタイトルで論文を書いたら、ノーベル賞取れるかな的な、愚かな野望が渦まいていた。

 まあ、とりあえずは飯が先だ。

「おーし、食べようぜっ!」

「はいっ! 頂きますっ!」

 トモロウはにこにこ笑顔でハンバーガーにパクついた。

「おいしいっ! この味、久し振りです! よく塾に行く前に食べてました」

「そっかあ、大変だったんだね。どこの塾に行ってたの?」

「駅前の英進学館です」

「え? あの、入塾するのに試験があるってとこ?」

「はい、試験と言っても基礎的な内容ですから、大抵合格しますよ」

 トモロウは恥ずかしそうに謙遜した口調で答えた。

「でもあれじゃん。東大とか京大にぞろぞろ合格者を出しているとこだろ? すげえよ。じゃあ、ひょっとして学校も進学校?」

「一応、尊田学園っていう、小中高一貫の学校に行っていました。あ、まだ在学中になってます。学校の配慮でちゃんと卒業させてくれるらしいです」

「すげえ、そこもあれだろ、英進学館の塾生のほとんどを占めてるっていう、東大京大進学者多数の常連校じゃんか」

「いやあ、それほどでも」

 羨望のまなざしを注ぐ俺に、トモロウは困ったような表情を浮かべながらも、恥ずかしそうな照れ笑いで返した。

 こいつ、頭良いんだ。彼の様な将来有望な少年が短い一生で終焉を迎えたと言うのに、俺の様な将来不透明男が、のうのうと命を紡いでいるなんて。

 世の中、不公平な事ばかりだ。

「どうしたの、兄ちゃん。急に深刻な顔して」

 心配そうに俺の顔を覗き込むトモロウに、慌てて作り笑いを浮かべる。

「何でもない何でもない、ちょっと口の中噛んだだけ」

 俺は咄嗟に事実とは違う回答を口にした。

 もし、トモロウに今考えていた亊をストレートに伝えたら、俺は彼に黄泉の国へと引っ張り込まれるかもしれない。そんな憶測が、俺を一瞬にして猜疑心に翻弄される臆病者に仕立て上げていた

「え、そうなんですか? 大丈夫ですか? 痛いんですよね、あれって」

 トモロウは即座の誤魔化しを少しも疑おうとせず、むしろ尚更心配そうに俺を見た。

 いいやつだ、こいつ。

 とは言え、何かのきっかけで瞬時のうちに変貌する恐怖も無くはない。

 でも。

 俺の見る限りでは、それは無い様な気がする。

 トモロウは感涙に咽びながら(ちょっと大げさ?)、ハンバーガーとコーラをじっくり味わって食べていたので、俺が計四個プラス、コカコーラをグラス三杯分胃袋に収めた時、漸く完食した程だった。

「ご馳走様でした」

 トモロウが、俺に向かって手を合わせる。

 でも俺、仏様じゃあないし。

「風呂はどうする?」

「あー僕はいいです、幽霊だし」

「そっか、じゃあ俺行って来るわ」

 着替えをもって、俺はバスルームに向かった。風呂ってったって、ガスと水道の節約もあるのでシャワーでちゃっちゃとすまし、部屋に戻ると、いつの間にかテレビは消え、トモロウは俺がさっき苦しんでいた数学のレポートを食い入るように見つめていた。

「兄ちゃん、これ、僕にも解けそうです。といっても、まだテキストの六割位しか解いていないですけど」

 トモロウはぱっと顔を上げると、得意げに俺を見た。

「それは誠かっ!」

「はい」

 謙遜しながら恥ずかしそうに答えるトモロウに、俺は度肝を抜かれたまま、直立不動のモアイ像と化していた。

 驚愕が、俺の思考からそれ以上の言葉を剥奪した。

 僕にも、と言ったのは俺への気遣いか。残念ながら兄ちゃんは一問も解けてねえです。

「先生、ご指導をっ!」

 俺は、恥も外聞もなく彼の前に土下座した。俺にとっちゃ迷宮とも言える、どうあがいてもクリアー不可能な数字の謎解きダンジョンに、脱出への光明の兆しが見えたのだ。

 こうなりゃプライドもへったくれもない。あの日本地図で有名な伊能忠敬だって、自分より年下の高橋至時を師として仰いだのだ。無駄なプライドなんかかなぐり捨てるのも、時と場合によっちゃあ必要不可欠。これも未来を切り開く為の柔軟且つ臨機応変な対応と、割り切った方がよい。

「いいんですか、僕で」

 トモロウは当惑した素振りで俺を見た。

「おう、ばっちり頼むぜ」

 俺は彼の気が変わらないうちにとそそくさと炬燵に身を寄せた。

「では、この問題からいきますね」

 トモロウは眼を輝かせながら問題の解説をしてくれた。彼の説明は懇切丁寧で分かりやすく、俺のウイークポイントを的確にファローし、理解不可能と諦め拒絶していた関数に対する先入観の城壁を確実に撃ち崩していくのだった。

 凄い指導力。難しい公式をより難しく説明する大学の数学講師なんかとは、比べ物にならない程の実力だ。 

 ただ頭がいいだけじゃない。解説しながら瞬時に俺の理解度を推し量り、次の説明へと繋げていく度量の深さは稀にみる才能だろう。去年お世話になった予備校の講師の中にも、これだけの逸材は誰一人としていなかった。

「ありがとう! 何とか終わったよ」

 俺はトモロウに深々と頭を下げると、ふうううっと大きく安堵の吐息をついた。何だかんだで二時間近くかかったが、白紙だったレポートにはテキストの解答が理路整然と書き込まれている。

「お疲れ様でした。お役に立てて嬉しかったです」

 トモロウは達成感に満ちた満足そうな笑みを浮かべた。

「それにしても凄いな。数学、めちゃめちゃ得意なんだね」

「はい。好きなんです」

 しれっと答えるトモロウを、少し引き目に見つめる。

「この世の中の物全て、数字の組み合わせで出来ているんです。組み合わせが少し違うだけで、全く別の物になったり。化学式何かそうですし、染色体もそうですよね。文学的にもそうです。和歌とか俳句とか川柳とか。直接的ではなく間接的であっても何らかの法則には数字が必ず関わってきます。そう考えると、数学の世界って、どんどん果てしなく広がっていくんです。それこそ宇宙みたいに」

 憧憬の表情で遠くを見つめるトモロウを、俺は感慨深く見つめた。ここまで数学を愛し、熱く語るやつなんて、今まで見たことが無かった。ただ理解しているだけじゃなく、好きだからこそ、俺にその面白さを伝えようと、無意識のうちにとげだらけの数学をオブラートに包んで受け入れやすくしてくれたのだろう。

「トモロウ、これからも頼むぜ。君が会いたいお姉さん探しに協力するから。何なら、俺に憑依して数学の講義やテストを受けてくれると助かるんだけど」

「困ります。今日みたいにレクチャーするのはOKですけど」

 下心見え見えの俺の取引話に、トモロウの眉毛がハの字に下がり、眉間に困惑の縦皺が浮かぶ。

「やっぱり無理?」

「そんなことしたら、確実に地獄行きですし、それに僕、憑依の仕方が分からないんです」

「え? 憑依って、幽霊なら誰でも簡単に出来ると思ってた」

「結構難しいみたいです。僕自身、憑依しようと思った事も無いので尚更です。それに」

「それに?」

「例え出来たとしても、兄ちゃんには無理です」

「そりゃ何故?」

「凄い人が守っているから」

 トモロウが少し怯えた表情で俺の傍らを見つめた。

「へ?」

 俺は恐る恐る彼の視線の先――左隣を見た。

 刹那、両眼の瞳孔が一気に絞り込む。

 あってはならぬものが、俺の視界を埋め尽くしていた。

 深い紫色の光沢を仄かに放つ長い黒紫色の髪の少女。年恰好は俺と同じ位か。透き通るような白い肌。白い着物に薄いブルーの袴を履いている。つんとした感じの高い鼻に薄い唇。氷の様な冷たく鋭い輝きを湛えたエキゾチックな切れ長の目が、俺をじっと見据えている。凄い美少女!

 いや、でも、どっから現れた。

 て言うか、こいつも絶対人間じゃない。 

「ゆ、雪女?」

「ちが―――――――うっ! 私は龍神!、おめえの守護霊だよっ!」

 少女は手に持っていた扇子でぱしりと俺の頭を叩いた。

「守護霊?」

 茫然とする俺を、少女は上目使いに睨みつける。

「そだよ。いつも守ってやってんだから、感謝しろ」

「はあ」

「はあじゃないだろ丈瑠。ありがとうございますだろ?」

「あ、ありがとうございます。龍神様」

 何が何だか分からなかった。地縛霊に進化しちまった浮遊霊の次は守護霊? 

 いったい、どうなってんだ?

「私は佐原宮清羅姫命。堅っ苦しいのは嫌いだから、せいらさんでいいぞ」

「は、はい」

 つんとした高飛車な態度の割には意外な発言に、俺の思考は更に困惑の淵へと追い込まれていた。

 でも何で俺に守護霊が見えるんだ? トモロウもそうだけど、霊なんて今まで見たことも感じた事も無いのに。

「なんてツラしてんだ? ん?」

 せいらが途方に暮れたままの俺を、訝し気に見つめた。

「いや、何で急にいろんなものが見え始めたのかなと思って」

「それはだな、たぶん、この部屋の結界が御前の潜在能力を刺激したんだろな」

 せいらは人差し指で頬をぽりぽり掻きながら眉間に皺を寄せた。美少女には余りやって欲しくない仕草だ。

「結界?」

「ああ。この部屋には強力な結界が張られている。まあ、私には大したものじゃないが、まだ霊界デビューして日の浅いトモロウには厳しいかも」

「そんなの、誰が……」

「分からん。が、そのうち分かるだろ」

 せいらの答えは答えになっていない残念なものだった。追求したい気持ちもやまやまだったが、罰が当たりそうなのでやめる事にした。

 少なくとも、トモロウがここに来る時にはなかったのだ。彼がこの部屋に訪れた後、何者かが、彼をこの部屋に封印したことになる。

 誰が、いったい何の目的で?

 それと、俺の潜在能力ってのは?

「丈瑠、お前は元々霊力が強くてな、暴走すると面倒だから私が抑えてたんだ」

 俺の思考を盗み見たかのように、せいらがタイミング良く呟く。

「面倒な事って?」

「寄ってきちまうのさ。いろんな奴が。自分の存在が分かる者にすがろうとするんだ。己の未練を叶えてもらおうと思ってな」

 せいらの言葉に、トモロウがドキッとした表情で俯いた。

「トモロウも?」

「彼は違う。彼はもっと別の理由があって、この世に留まってる。それが何かは、私にも分からない。ただ分かるのは、今、彼を霊界へと送るべきではないという事だ」

 せいらは幾分か優しい目つきでトモロウを見た。

 トモロウ自身も、せいらの言葉に何かしらの安堵感を覚えたのか、ほっとした顔立ちになっている。

「ひょっとして、トモロウが現れたのは、数学地獄から俺を救う為?」

「それは違うな」

 確証を突いたかと思った俺の推測を、せいらは冷ややかに即答で否定した。




 


 スマホのアラームが、朝の訪れを告げる。

 起きなければ。

 ああでも、次にアラームが鳴るまで寝ていようか……いかん、いかん。今日は一限目から講義があった。それもあの問題の数学だ。

 暁を忘れさせようとする睡魔の誘惑に、必死に抵抗を試みる。

 何だろう。

 おかしい、寝息が聞こえる。それも間近で。

 頑なに開放を拒み続ける重い瞼を、無理矢理こじ開ける。

 至近距離に映る妙な光景。

 切れ長の眼。高い鼻。半開きの唇。しかもよだれが垂れているし。

「わっ!」

 俺は慌てて跳ね起きた。勢い余って炬燵の天板が跳ね上がる。

 そうか、俺、昨夜は炬燵で寝たんだ。

 恐る恐る傍らを見ると、せいらがすやすやと寝息を立てて眠っていた。

 羽織の襟が乱れ、右肩が少しはだけて露になっている。そればかりか、横向きに寝ているせいなのか、胸元が妙に強調され、魅惑の深い谷間が僅かに顔を覗いている。

 添い寝する守護神なんて聞いたことないぞ。

 でも。

 ちょっとそそる構図かも。

「ヴ……」

 せいらは変な声を上げると、突然、眼をパッチリと開けた。途端に、慌てて乱れた襟を直す。

 刹那、凄まじい衝撃が俺の左頬を襲う。

 何が起きたのか。

 後方に大きく吹っ飛びながら、僅かに過る視界の断片に、大きく薙いだせいらの右腕が見える。

 赤みを帯びた彼女の右掌が、俺の身に起きた災いの全てを物語っていた。

「てめえ、私が寝ている間に何か不埒な所業をやっちゃいねえだろうな! ごらあっ」

 せいらは、衝撃で意識朦朧の俺の首根っこを引っ掴むと、くいっと軽々吊り上げた。

「せいら、苦しい。離せ。俺は何もやってない」

「せいらだとおおおっ! せいらさんと言ええええっ!」

 せいらが血走った眼でぎろりと俺をねめつける。風などないのに彼女の長い銀髪は静電気の悪戯にあったかのように逆立ち、白い肌は朱に染まり、顔は憤怒に歪んで発達した犬歯をむき出しにしている。まさに怒髪天を突くの図。

 まずい。

 迂闊な弁明が、油に火を注いでしまったあああっ!

「おはようございます。朝から仲良いですね」

 トモロウは布団の上にちょこんと正座しながら、にこやかな清々しい朝の笑顔を満面に湛えていた。

「トモロウ、助けてくれい! これが、そんな風に見えるかっ!」

 俺が必死で救命を求めているにもかかわらず、状況が呑み込めていないのか、トモロウはきょとんとした表情でこちらを見ている。

「いやあでも、昨夜は二人とも両手を握り合って仲良く寝ていましたよ。正直、羨ましかったです。兄ちゃんと守護霊様は相思相愛の親密な関係なんですね。守る者、守られる者はこうあるべきですね」」

 トモロウは一人感心したように腕を組みながら頷いた。

 駄目だ。こいつ、感性が滅茶苦茶ずれてる。

 視界がぼんやりとくすみ、トモロウの顔が二重に始める。

 いかん、このままじゃあ、守護神に殺される。

 そんなのありかよ……神罰って事か? いやでも、そんな罰当たりなことやった記憶なんかねえぞっ!

 と、不意にせいらの赤銅色の怒りファイスが、通常時の白を通過して真っ青に急変した。

 せいらは徐に俺をハングしていた手を放し――どうせならハグの方が良かったのにーー両手で口を押えてキッチンのシンクへダッシュした。

「ゔぇ⁂×※△ψ★§*%@!!!」

 せいらは盛大にエクトプラズムをぶちまけると、そのまま崩れるようにシンクのへりにしがみついた。

「頭が痛い……気持ち悪い……」

 か細い呻き声が、せいらの口から洩れる。

「二日酔いかよ」

 俺は吐息をつくと、散らかった炬燵の天板に目を向けた。サワーや発泡酒の空き缶が無造作に並んでいる。冷蔵庫に冷やしてあったのをせいらが見つけ、『未成年のくせに何をしているっ!』と激高の末、俺を説教しながらすべて飲み干してしまったのだ。

「お水をお持ちしました」

 トモロウが気を利かしてせいらに水の入ったグラスを手渡した。

「ありがと」

 せいらは喉を鳴らしてグラスの水を飲み干すと、大きく吐息をついた。

「丈瑠、しばらく消える。が、安心しろ、そばには居るからな……」

 息絶え絶えの台詞を残すと、せいらは忽然と姿を消した。でもすぐそばにいるのは分かる。酒臭い匂いが身体に纏わりついて消えないのだ。

「トモロウ、朝ごはんにしようか。食パンしかないけど」

「はい、いただきます」

 トモロウは布団をたたみながら笑みを浮かべた。昨夜、実際に食べるという行為を実感できたのが、相当嬉しかったようだ。

 ランチョンマット代わりにダイレクトメールのチラシを炬燵の天板に並べ、マーガリンとトーストを置く。

 飲み物はコーヒーしかないのでそれを二人分用意する。

「今日、学校に行ってみるか?」

「え? 僕も授業に出るんですか?」

「それは無理かな。でも、もっとやらなきゃならないことがあるだろ」

「え? それって」

「君のお世話になった人を探しに行くんだよ。君が入院してたとこ、うちの大学の付属病院だからな。医学部の校舎うろついてたら、ひょっとしたら出会えるかもよ」

「本当ですか?」

 トモロウの眼か輝く。が、喜びの表情はほんの一瞬で、すぐに落胆のたれ眉に変わった。

「僕、この部屋から出れないんでした」

「最初から諦めちゃ駄目だよ。そうだ、俺と一緒に出るってのはどう? せいらさんも付いてることだし、大丈夫かも」

 俺の背後から、手だけがにょきっと現れてⅤサインをする。

「そうですね、最初から諦めちゃ駄目ですよね」

 トモロウは自分に言い聞かせる様に、俺の台詞を繰り返した。

「そう、何でも前向きに考えなきゃ」

「生前はそうでした。必ず病気を治して、学校に戻って、大学で好きな学問を学ぶんだって。でも、結局死んじゃったんですよね」

 トモロウはどことなく寂しげにぼそぼそと呟いた。

 ドーンと空気が重くなる。

 いかん、まずいこと言っちまったか。

「せめて今度は願いが叶うように頑張ります」

 トモロウは唇をへの字に曲げると、両手の拳をぎゅっと握りしめた。

「そ、そだね。手助けするから」

 俺は冷や汗をかきながらも、トモロウに笑顔で返した。

 よかったよう。立ち直ってくれたよう。これでもし、どん底まで落ち込んだら、トモロウはどうなっちまうのか。まさか悪霊になっちまうのか? その挙句に、俺を冥府へと引き込もうとするのか?

 背中から出てきたせいらの右手がぺしいっと俺の頭を叩く。

「痛っ!」

 そうじゃねえよって事か。教えてくれるのはうれしいけど、せいらも守護神ならちっとは手加減して欲しいぜ。

 べしいっ! と、さっきよりも強烈な平手打ちが俺の頭頂部で炸裂した。

 申し訳ない! せいらさんでしたあっ!

 また背後からにょきっと手が伸びる。

 え、また叩くの? ひょっとして、せいら様じゃなきゃ駄目? 昨日、せいらさんで良いって自分で言ってたよね?

 動揺する俺を嘲笑うの様に、せいらの右手は俺の頭をいい子いい子と優しく撫でると消えた。

「何なんでしょうか……?」

 トモロウはきょとんとした表情で俺を見た。

「さあ、何だろうね」

 俺は苦笑を浮かべた。トモロウ悪霊変貌へのプロセスを想像していたなんて言ったら、流石に傷つくにきまってる。絶対言えない。

 手早く後片付けと洗顔を済ませると、スエットからデニムのパンツとチェックのシャツに着替え、俺はテキストの入っている重いリュックをしょった。

「準備はいいか」

「はいっ!」

 トモロウが力強く頷く。が、表情は何となく不安そうに見える。

 俺だって不安が無い訳でもない。無事に出れる確証は全くなく、下手したらトモロウ共々、俺も部屋の中へはじき戻される可能性はある。

 正直、やってみるしかない。

「おーし、行くぞっ!」

 俺は履き古した黒のスニーカーを履くとドアノブに手を掛けた。

 ドアを開け、一歩踏み出す。

 ふと振り返ると、トモロウはまだ部屋の真ん中で、硬直したまま棒のように突っ立っている。

「どうした?」

「やっぱ怖いです」

「大丈夫だって!」

 ものおじするトモロウの手首を強引に引っ掴む。

 え?

 引っ掴む?

 驚いた。

 幽霊なのに、掴めたよ。俺の右掌の中には、か細いけどしっかりした骨と肉の感触がある。おまけに、温かい。

 幽霊なら冷たいのが定説だろうに。彼ときたら飯は食うわ、腕は掴めるわ、温かいわと、普通の生きている人間と何ら変わらんではないか。

 衝撃的な事実。

 それは、トモロウも同様に感じているらしく、愕然とした面相でぽかんと口を開けたまま、俺の顔を見ている。

「……驚きだな」

「はい、驚きです」 

「じゃあ、行くぞっ!」

「えっ?」

 俺は茫然と佇むトモロウの不意を突いて、そのまま一気に部屋の外へ飛び出した。

 ほんの一瞬の出来事。

 何の問題も無く、俺達は部屋の外に出ていた。

「トモロウ、大丈夫か?」

「はい、何とか無事に脱出成功です」

 大きく息をするトモロウの顔に、安堵の笑みが浮かぶ。

 昨日、トモロウに起きたあの現象は何だったんだろう。俺がいれば大丈夫ってのも、何だか良く分からない。

「丈瑠、あれを見ろ」

 不意に、せいらが俺の肩越しに囁いた。振り向くと至近距離に顔が迫っている。

「うわっ近すぎっ!」

 危うく守護神様の唇を奪いそうになった俺だったが、意外にも、せいらのどつき突込みはなく、彼女の関心は別の方向に向けられていた。

 俺はただならぬ予感にざわつく気持ちを無理やりねじ伏せると、せいらが示した方向を凝視する。大きく開けた扉と壁の接点――否、そのまた向こうを、せいらはじっと凝視していた。その表情は、先程とは打って変わって神妙な顔つきに変貌し。張り詰めた緊張を仄かに醸している。

 俺は訝し気にせいらの目線を追った。

 確かに、何かある。

 あるような気がする。薄い紙の様な白いものが、壁際に落ちている――はず。

 曖昧だった。その物体の輪郭は、点描画の様に背景に飲み込まれ、存在に不安要素の影を落としている。

「トモロウ、そこを動くなよ。丈瑠、来い」

 せいらはトモロウを制すると、ふわりと中空を浮遊し、その「もの」が落ちている傍らに降り立った。

 俺は、せいらの後を追い、恐る恐るその「もの」に近付く。

「これは……」

 せいらは驚きの声を上げると、それをひょいと摘まみ上げた。はがき大の白い紙きれの裏側に、何やら良く分からない達筆で文字が書きなぐってある。こういうの、見たことある。お札だ。神社でお布施を納めて貰ってくるやつだ。でもちょっと、妙な違和感がある。濃茶色っぽい顔料の様なもので書かれた文字は、明らかに漢字ではない摩訶不思議な記号の様なもので、それもびっしり書きなぐってあるのだ。お札自体気味が悪い上に、書かれた文字が更に輪をかけて不快感を増幅させていた。

「お札かよ……」

「ああ。それもただの護符じゃない。己の血を使って、それも馴染みのない神代文字で書かれている。これを書いた輩は只者じゃないぞ」

 せいらは感心した様子でしきりに一人で頷いている。

「丈瑠、面白いもんみせてやるよ」

 せいらはにやりと笑みを浮かべると、そのお札を壁にぺたりと貼り付けた。

「えっ!」

 俺は目を疑った。

 消えたのだ。貼ったはずのお札が、俺の視界から忽然と消え失せてしまっていた。

「剥がすぞ」

 せいらが、壁から手を放す。と、その指先には消え失せたはずのお札があった。

「手品?」

「んな訳ねえだろ。ほら、ゆっくりやるから見てみ」 

 せいらは疑い深い俺にひとくさりぼやくと、今度はわざとらしい位にゆっくりした動作でお札を壁に張った

 また消えた。壁と接触した瞬間、お札は瞬時にして像を消し去っていた。

「どう? 分かっただろ。これは事実。手品なんかじゃない」

 壁から離したせいらの指先には、先程のお札が再び姿を現していた。

「隠し護符だ。これを貼った主が、他の者に勝手に剥がされないように術を施している。こんなこと、誰でもやたらめったら出来る技じゃないのは確か」

 せいらは護符をしげしげと見つめた。

「でもさっき、床に落ちてたのが見えたのは何故?」

「簡単なこと。裏向いてたからさ。偶然のたまものだな。ドアを開けた勢いで剥がれ落ちたのもそう。たまたま貼った奴の押さえ方が甘かったんだろう」

 せいらは、嬉しそうにくくくっと笑った。

「誰が何のために貼ったんだ?」

 俺は首を傾げた。もし、最初か貼ってあったとしたら、当然トモロウは入室不可だ。この御札は、確実にトモロウが入室した後で貼られている。

「何の為かは分からんが、誰が貼ったかは想像がつく」

 せいらの意味深な口調に、俺は綴りかけた言葉を呑み込む。

 いくら鈍感な俺でも、せいらの言霊が秘める意味をはっきりと感じ取っていた。

 今ここで名を出してはならない――せいらは暗にそう語っているのを。

 そのヒントは、昨夜のトモロウとの会話の中にあった。

「とりあえずは学校に行くべきだな」

 せいらの言葉に俺は黙って頷いた。



 

 

 

「うわあ、広いですね」

 トモロウは目を丸くしながらきょろきょろと周囲を見回している。

「手前の古い校舎が農学部。理工学部、文学部、法学部、経済学部と続いて、駐車場を挟んだ向こうに、薬学部。医学部はその奥にある。その向こうにある農学部の試験農場と薬学部の薬草園を挟んだ所にあるのが、君が入院してた大学の附属病院」

「なんか迷子になりそうですね」

「まあな、俺も自分の学部以外は未だに分からん」

 女子二名がすれ違いざまに不思議そうな表情で俺をチラ見した。

「いけねえっ」

 うっかりしてた。トモロウは他の者には見えないんだ。

 俺はデニムパンツのポケットに手を突っ込むと、イヤホンを取り出し、慌てて耳に装着した。これを付けていれば、見た目はハンドフリーでスマホの会話を楽しんでいるように見えるから、怪しまれることはないだろう。

「おーい、久郷」

 正面から長身の男が駆け足で近づいて来る。友人で、同じ農学科の森崎だ。身長百八十センチのひょろっとした長身痩躯の体型。二重瞼の目は金魚のそれの様に大きく、高い鼻は顔の中心でこれでもかと言わんばかりに自己主張している。何か武道をやっているとかで、髪は短めのつんつん頭。一見、爽やかなイメージがいいのか、俺と違って女の子にもてる。世間一般の評価と価値観じゃあイケメンなんだろう。

 そんな奴なんだが、何故か平凡な俺とつるんでいる。普通、イケメンはイケメンで集まってない? あれって、漫画やドラマの世界だけ?

「課題、終わった?」

 森崎の目が躍っている。こいつ、何か企んでやがる。奴が人に何か頼みたいことがある時って、必ずと言っていい程こんな感じになる。

「まあ何とか」

「ほんと? 良かったよお。悪い、ちょっと見せてくんない? どうしても解けないやつが二問あってさ」

 頭かきかき俺に嘆願する森崎。ほらきた。こういう事ね。

「いいけど」

「ありがたやー」

 森崎は蠅のように手を擦り合せながら、長身を大きく曲げて俺に深々と頭を下げた。

「ところで、彼は弟君?」

 森崎は腰を折り曲げたまま、横目でちらりとトモロウを見た。

 えっ? トモロウを? 何故に?

「えっ、おまえ、見えるの?」

 驚きの余り、おれは不自然な返事を介していた。「見えるの?」はマズかった?。

「そりゃ見えるよ。幽霊じゃあるまいし」

 否、幽霊なんだけど――とは返さなかったけど、俺とトモロウは思わず顔を見合わせた。

 トモロウの姿、俺以外にも見えるのか。

「は、初めまして。従弟なんです。学校が創立記念日でお休みなので、兄ちゃんの大学を見に来ました」

 トモロウはどぎまぎしながら森崎に深々と会釈した。。

 流石、トモロウ。突っ込みどころのないはったりをぶちかましても違和感一つ無くまとめ上げた。

「従弟かあ。どおりで顔が似てないと思った」

 森崎は納得したのか、満足そうに何度も大きく頷いた。

「これ課題な」

 俺はB4番の課題用紙を森崎の胸元に突き出した。トモロウの事であまり絡んでこられると面倒臭い。

「さんきゅ。講義が始まる前に必ず返す。今度、飯おごるから」

 森崎は片手をひょいと上げると、そそくさと足早に消えた。

「なんで、奴にも見えるんだ?」

 俺は雑踏のまにまに見え隠れする森崎の背中を見つめた。

 なんかすっきりしない。

 てっきり俺しか見えないものと思っていた。俺が強い霊力の持ち主的なことをせいらが言ってたから、素直にそれを真に受けていた。

 選ばれし者って感じで。

 でも、誰にでも見えてんだったら、すれ違いざまに怪訝そうな目線を俺に向けた女子達のあの行動はいったい何だったのか。

「そりょあ、平日に制服姿の中学生を連れて歩いていたら、不思議に思うだろ」

 せいらが背後からひょいと顔を出す。

「なるほど、確かに。じゃあ、やっぱりトモロウってみんなにも見えてるのか」

「ああ、見えてる。お前の霊力に助けられてな」

「俺の?」

「また後で教えてやるよ。今、私の姿はお前とトモロウしか見えてないから、会話する時は注意しろ。不審者と思われるかもしれないからな」

 せいらは俺の周りをふわふわ漂いながら周囲を見回した。

「何か探しているのか?」

「例のお札の持ち主さ。気の所在を感じるんだ。きっとこの中にいる――てか。貴様、何で守護霊の私にため口きくんじゃねえっ! この罰当たり者がっ!」

 せいらはいきなり声を荒げると、俺の頭頂部をぺしいっと叩いた。

「まあいい。ちょっとは許してやる。これでも私、寛大だから。優しい龍の女神さまだからな」

 腕組みしながらねめつけるせいらを、俺は茫然と見つめた。

 なんちゅうくそややこしい性格の守護神。

 トモロウも、どうリアクションを取ればよいのか分からずに、俺とせいらの間でおろおろしている。

「兄ちゃん、授業行かなきゃ」

 パッとひらめいたかのような表情で、トモロウが俺を促した。

「大丈夫。まだ十五分ある」

「早めに席について、少しでも予習しなきゃ駄目だよ」

 トモロウは、頬を紅潮させながら、真顔で俺をたしなめた。

 やっぱ凄く真面目なんだ、こいつ。学校に通ってた時、ずっとそうしてたのか。

「大丈夫か?」

「平気だよ。一人で探してみる」

 トモロウは笑顔で親指を下に向けた。

 おいおい、それをするなら指の方向逆だぞ。

「分かった。一時間半後にここで落ち合おうぜ」

 トモロウと別れ、俺は教室に向かった。

 せいらは俺の周りを漂いながら、しきりに周囲を気にしている。これだけあからさまにやられたら気が散って仕方が無いのだが、相手は守護霊様だ。迂闊な事を言って愛想をつかされても困るので、ここは黙って彼女の動向を伺うことにした。

 校舎の前で立ち止まり、振り向いてみる。

 トモロウの姿はない。いったいどこまで探しに行ったのだろう。見渡す雑踏の中に、彼の姿は片鱗すら見当たらなかった。

「心配なのか?」

 せいらが上目遣いに俺を見つめる。

「そんなこたあないけど」

「お前、ひょっとしてショタコン?」

 せいらがにんまりと興味津々といった感じの笑みを浮かべる。

「違うっ! それにショタコンだなんて、もはや死語だぜ」

 俺は必死に弁解しながら速足で教室へと向かった。

 教室に入ると、無事課題を模写し終えたらしい森崎が、満足げな笑みを浮かべながら近づいて来る。

「いやあ、助かったよ」

 森崎は俺に深々と頭を下げながら、恭しく俺にノートを手渡した。

「約束だぞ。今度、飯おごれよ」

「おう、この後行く?」

「この後って、次の講義があるだろ」

 怪訝な視線を送る俺に、森崎は呆れた表情を浮かべた。

「今日はこれで終わりだぞ。お前、校舎の前の掲示板見なかったのかよ。講師の都合で二時限目以降休講になってたぜ」

「えっ?」

 見落としてた。

「今日は、やめとく」

「従弟君がいるからか? いいよ、一緒におごってやるよ」

「いや、ちょっと用事あるし」

 何気に目線を泳がせる。

 とにかくトモロウの事で、余り追及されても困る。こいつは悪い奴じゃあないけど、口から先に生まれてきたような男だ。大学生になって早々、おしゃべりな彼を生理的に嫌う輩が付けた彼の別名歩くスピーカーは、言い得て妙だった。

 ほどなくして講師が登場。

 いよいよ始まるのだ。

 講師が唱える睡魔召喚魔法に耐え凌ぐ、長くて退屈な修行の時間が。






 チャイムが、退屈な講義の終わりを告げる。

 いつもなら睡魔との闘いを繰り広げているうちに終わるのだけど、今日は少しは頭の中に入ってきたような気がする。昨日のトモロウから受けたレクチャーが何よりも大きい。

 講義中爆睡していたにもかかわらず、まだ眠たそうにまどろんでいる森崎に別れを告げると、俺はそそくさと教室を後にした。

 春めいたポカポカ陽気の中、大勢の学生がキャンバス内を行き来している。

 さて、トモロウはどこまで探索の旅に出たんだろう。 

「兄ちゃん」

 不意に背後からトモロウの呼び声が響く。

「トモロウ、よく見つけられたな」

「何となく、導かれるものがあって」

 トモロウは少し照れ笑いを浮かべながら、袖で鼻の下を擦った。

「お目当ての人は見つかったか?」

「それが……」

 ひょろんと垂れ下がったトモロウの困惑眉毛が、如実に厳しい現実的経過報告を物語っていた。

「でも、新な事実を発見しました」

 一転して、トモロウの眼が探求心に満ちた希望の光で輝く。

「何?」

「兄ちゃんと別れた途端に、僕の姿が消えちゃったんです」

「え?」

「しばらくは大丈夫だったんですが、十メートル位離れた途端、急に影が薄くなり始めて。人に見られたらまずいと思って木の陰に隠れたと同時に、完全に消えちゃいました」

「何でだろ」

「分かりません。でも、兄ちゃんとの距離に何らかの関係があるようです」

「というと?」

「今も兄ちゃんを見つけて十メートル付近に近付いたころから僕の姿が実体化し始めましたから」

「まさか、人には見られていないよな」

 俺は、慌ててトモロウに問い掛けた。

「恐らくは……」

 どこか自信なさげなトモロウに、俺は一抹の不安を覚えた。

 振り向くと。目と口が埴輪状態で顔面蒼白の女数名。明らかに、トモロウをガン見している。

「まずいっ! さりげなくここを離れるぞっ!」

「えっ? 見られちゃいました?」

 トモロウの質問には答えず、俺は高速逃走歩行に移行した。

「あ、待ってください」

 トモロウが慌てて俺の後を追う。

 幸いにも、興味本位で追いかけて来る者はおらず、このまま気のせいかもと納得してくれるのを望みたい所だ。

「兄ちゃん、ここは……」

 トモロウが、興味深そうに周囲を見渡した。

 白い高層建築物が塔の様に聳え立ち、この大学のキャンバスの中で明らかに異質な存在を醸している。行きかう学生も、他の学生とは一線を引く高尚な雰囲気を纏っているかのように見える。

「ここは医学部の校舎。病院はこの建屋の向こう側だ」

「道理で。何か懐かしい気がしたんです。病院から出歩く事は余りしなかったんですけど」

 トモロウは眼を細めた。

「せいら、さっきのトモロウの事だけど、分かるか?」

 相変わらず周囲をつぶさに見まわしているせいらに、俺は率直な疑問をぶつけた。

「ったく。ため口に呼び捨てかよ。しゃあねえな。あれは、あれだよ」

 せいらは俺の呼びかけが気に入らなかったのか、ひとくさり苦言を濁すと、分かっているのかいないのか意味不明な事をぶつぶつと呟いた。

「よく分からん」

「簡単に言えばヤドリギみたいなもんだ」

「ヤドリギ?」

「そうさ。たまたま波長が合ったんだろうけど、トモロウは丈瑠の霊力を取り込んで実体化しているんだ。ま、本人が意識してやっているようには思えないけどな」

「俺の霊力?」

「そ。多分、霊力の及ぶ範囲が御前を中心にして半径十メートル。これから離れれば自然と実体を失ってしまう」

「分かったような分からんような」

「そだな。今風に言えばワイファイの圏内に入るか入らないかの違いと言えば分かるか?」

「納得」

 真顔で迫るせいらに圧倒されて無理矢理頷いたものの、何となく半信半疑な俺だった。

「あれ、君は……ひょっとしてトモロウ君?」

 振り向くと、微笑を浮かべた長身長髪黒髪色白美女が俺の背後に立っていた。

 濃紺のデニムパンツにクリーム色のセーター。上から羽織った皺一つない白衣と飾らない銀縁の眼鏡が知的で清楚な魅力を引き立てていた。

「美月さん、覚えてくれてたんですね!」

 トモロウは、嬉しそうに目を潤ませた。

 この人がトモロウの憧れの人か。

「良かったあ、元気になったんだね。私、亡くなったって聞いてたから。あ、ごめんなさい、変なこと言っちゃって。気を悪くしないでね」

「いや、それが……僕、これでも死んじゃってまして」

「えっ?」

 申し訳なさそうに伏目がちに答えるトモロウを、美月さんは怪訝そうに見つめる。

「実は……」

 俺は、事の一部始終を美月さんに説明した。

「信じられない……けど、事実なのね」

 美月さんの表情に暗い翳りが走った。トモロウを見つめる彼女の眼が小刻みに震える。大きく開かれた彼女の瞳に湛えられた輝きが、やがて雫となって溢れ出し、頬に幾筋もの軌跡を描き始めた。

 美月さんが、トモロウを抱きしめる。

「ごめんなさい。力になれなくて」 

 トモロウは目線を中空に泳がせながら、戸惑いつつも美月さんの抱擁に身を委ねていた。

「お姉さん。お姉さんはちっとも悪くないです。お姉さんに勉強を教えて貰えて、僕はとっても嬉しかった。学ぶことが、きっと未来への懸け橋になる――そう信じていましたから。だから、僕はどうしてもお姉さんにお礼が言いたかった。有難うございました。それと、どうしても謝りたかった。頑張れなくてごめんなさい」

 トモロウの眼に揺らめく輝きが表面張力を一気に凌駕する。彼は眼を閉じると、美月の華奢な肩に顔を埋めた。

 小刻みに震える彼の肩を、俺はぼやける視界越しに見つめていた。

 目頭が熱かった。胸の奥から込み上げてくる歓喜の躍動を、俺ははっきりと実感していた。

 彼は、目的を果たしたのだ。

 これでやっと、彼は旅立つことが出来るのだ。

 トモロウは某アニメのワンシーンの様に、無数の天使に伴われながら、明るい光の中を天に召されていくのだろうか。

 トモロウに祝福の眼差しを捧げる一方で、不可思議な感情が俺の意識を翻弄していた。

 何なのだろう……嬉しいはずなのに。素直に喜ぶべきなのに。昨夜、彼と出会ってさほど時を経てはいないものの、その記憶が走馬灯のように蘇ってくる。

 トモロウとの出会いは、余りにも非現実的な、信じられない展開だった。ありふれた時が繰り返されると思っていた大学生活が、いきなりスタート直後からあり得ない出来事に呑み込まれ、翻弄されたのだ。

 でも、わくわくした。

 長い長い受験勉強の果てに、やっと大学にもぐり込めたものの、一時の解放感を除けば、俺は虚無感のような無気力に苛まれる時を送っていたと言っても過言じゃない。入学して大した時を経ていないにもかかわらずだ。それこそ、まだ受験勉強中の方が幸せだったかもしれない。あの時は、大学生になるという、はっきりした目標があったから。

 今は、どうだろう。目標って、あるんだろうか。ほどほどに勉強して。とりあえず大学院までいって、のんびり面白おかしく大学生活を送って、後は適当に就職か……。

 こんなの、目標じゃないよな。

 トモロウに申し訳ない。やりたい目標がはっきりと見えてて、その夢を実現しようと努力して、病魔に身体を蝕まれても諦めずに夢に向かって進み続けて。それでも、志を叶えないままに死んでしまったトモロウに、本当に本当に申し訳ない気がする。

 でもトモロウに出会えたことで、俺は見失いかけてた未来を、ほんの少しは再び見つめ直す気持ちになれたような気がした。

 心から感謝。

 ありがとう、トモロウ。俺はこれからも、ずっとずっと未来永劫、君の事は忘れない。

 柔らかな日差しの中、少し冷たい風が俺の頬を撫でていく。それはまるで、今、俺の眼前で繰り広げられている再会の時に区切りを促すように感じられた。

 いよいよ、か。

 眼元が、俺の意思に反してプルプルと痙攣した。限界にまで張り詰めた感情の躍動的決壊が秒読み段階であることを、俺は否応なしに悟っていた。

 俺の心の中で、静かに進行するカウントダウン。

 日差しが、一段と明るさを増したような気がする。

「兄ちゃん」

 トモロウが不安げに俺を見上げた。

「ん? どうした」

 次にトモロウの口が綴る別れの言葉を予感しながらも、俺は必死になって平静を保った。

「成仏、できません。おかしいです。これで僕の思いは遂げられたはずなのに」

 緊張で固まっていたトモロウの両肩が、すとんと下がる。

「なぬ? 何故に?」

 拍子抜けする彼の言葉に戸惑いながら、俺は傍らに佇む清羅に問い掛けた。

「恐らく、まだ何か成し遂げなきゃならない事があるってことよ」

 せいらは腕を組みながら、神妙な面持ちで一人頷く。

「その何かって、何?」

「私にも分からん」

 せいらは開き直ったように即答で返す。

 何でい。神様なんだからそれぐらい分かんじゃねえのか。

 と、俺は心の中でぶつぶつぶつ。

 刹那、スパーーーンと小気味良い平手打ちが俺の頭頂部に炸裂。怒りの一文字目で俺をちろりと一瞥するせいら。こいつ――否、清羅様のやろう、俺の心ん中読みやがった。

 美月さんは、困惑したまま目線を泳がしているトモロウを、優しいまなざしで見つめながらくすっと笑った。

「トモロウ君、君がやりたいって思う事、片っ端からやってみたら? きっとこれは頑張った君への神様からのプレゼントかもよ」

「はい、そうしますっ!」

 トモロウは直立すると力いっぱい清々しく宣言した。

 て、ことはだ。

 もうしばらく、トモロウの居候生活は続くって事か。

 俺は苦笑いとともに、込み上げてくる吐息を呑み込んだ。さっき俺の意識を埋め尽くした惜別の情は、正直言って魔が差したと言うか……まさかこんな展開になるとは。

 喜んでいいのか、悲しむのが本音なのか、まるで水と油のような相反する気分に、俺の思考は消化不良を起こしていた。

「ごめんなさい、自己紹介してなくて。私、大矢部美月です。医学部の三年生です」

 美月さんはこちらが恐縮してしまう位、深々と御辞儀をした。

「俺――いや、僕は農学部農学科一年の久郷丈瑠です。よろしくお願いします」

 俺も美月さんに負けずとも劣らぬ程に頭を下げた。

「私は丈瑠の守護霊、清羅姫だ。せいらと呼んでくれ。時におまえ、これに見覚えは無いか?」

 せいらは挨拶もそこそこに、徐に美月さんの鼻先に神札をちらつかせた。

「いえ。何ですかこれ?」

 美月さんはまじまじとお札を見つめると首を傾げた。

「本当に知らないのか?」

 せいらが大きな目をぎろりと見開き、いつになく厳粛な面持ちで容赦無く美月さんを問い詰める。

「え、ええ……」

 美月さんはせいらの勢いに押されてか、表情を緊張で硬く強張らせながら目線で俺に救いを求めて来る。

「不躾ですまなかったな」

 せいらは美月に浅く頭を垂れた。素っ気ない素振りだったが、せいらなりには誠心誠意を込めた謝罪なのだろう。

「その御札、何だか気味悪いですね」

 美月さんはうねうねと書かれた血文字に眉を潜めた。

「厄介な代物だからな。消しておくぞ」

 せいらは顔をしかめると、ふうっと御札に息を吹きかけた。次の瞬間、御札はせいらの掌の中で紅蓮の炎を上げると一瞬にして燃え尽きた。

「凄い……これが本当の神技ですよね」

 美月さんは鼻息荒く興奮気味にせいらを凝視した。

 ちょっと待て。 なんかおかしい。

 するするうっと何事もなかったかのように話が進んでいるけど、おかしいだろこの展開。

「美月さん、ひょっとしてせいらの姿、見えています?」

「ええ」

「普通に?」

「はい、普通に見えてますよ。私、見えちゃう人なので」

 美月さんは、恥ずかしそうにはにかんだ笑みを浮かべた。

 俺は驚きを隠せぬまま、せいらを見た。

 だがその事実にせいらは気付いていたのか、驚く素振りは一片も見せずに、笑みを軽く口元に湛えた。 

「修行すれば、結構な霊力に目覚める素質がある。ま、守護する者が、それを望んでいるかどうかだ」

「美月さんの守護霊って?」

 目を凝らして美月を見る。

 見えない。せいらは華々しく自分から姿を現したけど、美月さんの守護霊は、その点奥ゆかしいのか、その影すら俺の眼に捉えられない。

「丈瑠、諦めな。ノーメイクだから出たく無いそうだ」

 俺は、驚きの後遺症で弛緩しっぱなしの頬を摺り下げたまま、面倒臭そうに宣うせいらを凝視した。

「何、それ……訳分かんねえええええ」

 嘆きの黒山羊さんとなり果てた俺は、ただただ啼いた。

「なんか気になる。せいらなら分かるんだろ? せめて名前だけでも教えてくれ。美月さんの守護霊って何者?」

「ひ・み・つ、だそうだ」

「へ!」

 超真顔で答えるせいらに、俺の顔面は完全に弛緩していた。口は閉じる機能を忘却の彼方に追放しており、一昔前のギャグマンガなら、きっと下顎が地面に到達しているシーンに違いない。

 ノーメイクだの、名前は秘密だの、いったい何だってんだ?

 昨今の守護霊事情はどうなっているのだ?

「あのう……」

 トモロウが、遠慮がちな声で俺の顔を覗き込んだ。

「やりたい亊、一つ思いつきました」






「いい所だな」

 俺は軒並み続く真新しい家並みを眼で追った。

「この辺りは新興住宅地なんです。少し前までは雑木林が広がっていたんですけど、入院している間に家で埋まってしまいました」

 トモロウは懐かしそうに周囲を見渡した。

 夕暮れ時の閑静な住宅街。都市部じゃ恐らく考えられないような広い庭付きの戸建て住宅が、整備された道路を挟んでどこまでも続いている。その各々がデザインを競い合うかのように、個性的なフォルムを際立たせていた。歩道も自転車が余裕ですれ違えるほどゆったりした幅を取っており、住民にとって優しい環境に恵まれている街並みだった。

 但し、坂道が辛い。

 街路樹の桜が等間隔に植えられた歩道は、結構な傾斜を保持しながら、その先のゴールをひた隠しにしている。丘陵地を開発した住宅地故に、やむを得ないのだろう。でも、未だゴールが見えないのは辛い。

 電車で三十分、駅からバスで十分、後は坂道を徒歩で十五分——それが、昨夜トモロウから聞いた彼の家までのアクセスだ。

 歩きやすいようにとベージュのチノパンにチェックのシャツといった軽い服装でのチャレンジだったが、何分も歩かないうちに、俺は全身汗でだらだらになっていた。せいらも俺同様に坂道対策だと言って、ミニスカートサイズの袴を履いている。色は、いつもと同じ淡いブルー。色に何かこだわりがあるのかもしれない。

 一番元気なのはトモロウだろう。俺もせいらも息を荒げながらの行軍だったが、彼は終始笑顔の上機嫌でアスファルトの路面を踏みしめ、先頭を切って歩いていた。

『僕の家まで行っていいですか?』

 それが、彼が思いついたやりたい亊の一つだった。

 霊体となってから、しばらくは家にいたらしい。その後、友人や学校の先生、お世話になった方々へあいさつ回りをしていたとのことだった。

 だが、肉体を伴わない状態では、何となく夢の中を彷徨っている感じで、現実味がないらしく、何となく映像を見ているような感じがして、彼自身実感のない環境に戸惑いを覚えていたそうだ。

 だからこそ、仮とは言え肉体を得た今、彼は家に帰るという、叶わなかった憧れの夢の実現を導き出したのだ。

 と言っても、家族との再会はNG。もし、死んだはずのトモロウが帰って来たとしたら、彼の家族は歓喜と困惑に翻弄されながらも、思いもよらぬ行動を起こすかもしれない。

 現世と冥府の規律を乱すと、取り返しの着かないことになる。

 せいらも、その点は頑として譲らなかった。

 トモロウもそれは承知の上で、家の前までの道のりを歩くだけで十分と納得していた。

 もし、トモロウがひょっこり家族の前に現れたら、彼の家族はきっと彼を手放したりしないだろう。そうなれば、俺自身どうなるのか予想も付かなかった。

 通学路を自分の足で歩き、家の前まで行く――そこまでが、俺とトモロウとで交わした約束だ。

 決行日は日曜日の夕刻。この時間帯なら、夕食の支度などで出歩く人は余りいないだろうと考えたのだ。それでも目立たない格好がいいだろうということで、念のため、トモロウには制服ではなくて黒のスエットにデニムのパンツを着るように言い、更に帽子をかぶらせることにした。

 途中から俺とせいらはパワーダウンし、彼が俺達を先導する格好で進撃する羽目になったものの、思っていた以上に人通りは無かった。彼の知人とひょっこり出くわすのではと危惧し緊張していたのだが、良い意味でそれは裏切られていた。 

「もう少しで着きます。頑張ってください」

 トモロウは振り向くと、興奮気味の声を抑えながら俺達にそっと囁いた。

 せいらは額の汗をぬぐうと、無言のままトモロウに微笑み返す。

 驚きの余り、俺は思わず彼女を食い入るように見つめた。

 神様も汗をかくのか。

 否、そんな事よりも、せいらのそのさりげない仕草が、妙に人間味を帯びていて、意識していなかった心の隙を不意打ちされたような気分だった。

 彼女の微笑みには、決して愛想で浮かべたものではなく、心の奥底からにじみ出てくる様な、優しい温かみが込められていた。それこそ、幼い我が子を見つめる母親の様な。

 彼女が見せた一瞬の柔らかな仕草に、俺は今までに感じなかったときめきを覚えていた。

 普段はぶっきら棒な姉さん的イメージが強いのだが、それは自分を強く見せる為の、偽りの姿なのかもしれない。荒々しい言動と所業に隠された、慈愛に満ちた真の一面を垣間見たような気がする。

「おい、丈瑠」

 不意に、せいらが俺をぎろんとねめつける。

「我に惚れるでねえよっ! このすっとこ野郎‼」

「えっ! あっ! 決してそーゆーことじゃ……」

 うわああっ! こいつ、また俺の心を読みやがったっ!

「こいつじゃねーだろっ! せいら様だろうがっ!」

 せいらはいきなり俺の肩に腕を回すと、強引に引き寄せた。彼女の柔らかで豊かな胸が、不可効力とは言え、罰当たりな位に俺の腕にぐいぐいと当たっていた。

 おおっ!

 予想だにしなかった感動的アクシデントに、本能が暴走し掛ける。俺はぐっと歯を食いしばると、心の中で賢者の石を掲げながら、荒くれる感情の制御に挑んでいた。

 当のせいらはと言うと、御顔を拝見する限りでは怒っちゃいない。それどころか、楽しそうにニマニマ笑っていやがるではないか。

 怒るどころか、むしろ俺の狼狽振りを楽しんでいるかのようにも見える。

「着きました。ここです。」

 小声ながらも、トモロウの声は弾んでいた。

 まだ真新しい、白い外壁の総二階の家。玄関までのアプローチの両サイドには、いろいろな花がぎっしりと植えられている。アプローチの横に隣接するカーポートには、黒いミニバンと四ドアセダンが一台ずつ並んでいた。

「おかしいな」

 トモロウが眉を潜める。

「どうした?」

「家の明かりが点いていないんです。車はあるのに。それに今日はーー」

 玄関のドアが開いた。

 動けなかった。

 俺も。

 せいらも。

 トモロウも。

 その家の住民もそうだった。

 四十代位の白髪混じりの男性と長い黒髪の女性。男性はグレイのジャケットに黒いパンツ、女性は淡い桜色のワンピースを纏っている。その後ろに、グレイのパーカーに濃紺のデニムパンツ姿の女子校生。母親と同じ長い黒髪が、夕陽の光を受けて艶やかに煌めいている。恐らく前述の二人はトモロウの両親で少女は歳が三つ上と言ってた彼の姉のようだ。

 父親の浅黒く角ばった顔は、トモロウとは似ても似つかぬ風貌だった。だが母親の面立ちや肌の白さはトモロウの面影が見受けられ、彼が母親にであることが一目瞭然だった。  

 それよりも驚いたのは、彼の姉。背格好と容姿、髪型が、女装したトモロウとそっくりそのものだったのだ。

「ともちゃん!」

 母親が、驚きの声を上げる。

 凍てつき、停止していた時が、再び流れを刻み始める。

 母親は駆け寄ると、トモロウをしっかり抱きしめる。慌てて後を追う父親と娘。

 トモロウは硬直したまま、大きく見開いた眼を中空に泳がせていた。

 彼の瞳が震えている。

 残照を受け、茜色に輝く彼の眼鏡のレンズの奥で、精いっぱい見開いた眼が、決壊寸前の涙を辛うじて表面張力で耐え凌いでいた。

 トモロウはためらいながらも、恐る恐る泣き崩れる母親の肩を優しく抱いた。

 まるで親子の再開を祝うかの様に、鮮やかで濃厚な残照が、二人の黒いシルエットを浮かび上がらせていた。

 時が、停止していた。

 風が、雲が、鳥が――森羅万象のすべてが。


「ごめんなさい。人違いです」


 トモロウは、ぎこちない笑みを浮かべながら、母親の耳元で囁いた。

 時が、再び動き始める。

 急速に盛り上がったハイライトシーンが、一気に色褪せた現実へと回帰していく。

 母親は、はっと我に帰ると慌ててトモロウから離れた。

「御免なさい。そうよね、そんな事ある訳無いよね」

 彼女は自分自身にそう言い聞かせながら、トモロウに頭を下げた。

「妻の失礼を、どうか許してください。最近亡くした息子と君が余りにもそっくりなので、つい取り乱したようです。本当に御免なさい」

 父親は静かな口調でトモロウと俺達に謝罪すると、深々と頭を下げた。

「あ、そんな、大丈夫です」

 トモロウは、緊張した面持ちで、言葉を噛みながら恐縮する父親に声を掛けた。

「君、この近くに住んでるの?」

 母親が目を潤ませたまま、愛し気にトモロウを見つめた。

「いえ。実は……道に迷っちゃって。バス停探してるんですけど、この近くにありませんか?」

 トモロウは恥ずかしそうにちろっと舌出した。

「その仕草、トモそっくり! ほら」

 少女が上ずった声でトモロウにスマホを見せた。

 入院中に撮影したのだろう、病衣姿で、照れくさそうにちろっと舌を出すトモロウのアップが、画面いっぱいに埋め尽くしていた。

「ほんと、そっくりだ」

 俺は驚きの表情を演じながら相槌を打った。

「これから、どこへ行こうとしてたの?」

 母親がにこやかに口元をほころばせながらトモロウに尋ねた。漸く落ち着きを取り戻したらしく、表情から悲しみの陰りは消え去っていた。

「えっ、駅の方です」

 トモロウは一瞬戸惑ったものの、何とか取り繕う。

「送ってあげようか」

 母親の後ろから、父親が優しく俺達に声を掛けてきた。

「え、いいんですか?――あ、でも、どこかへお出かけするとこなんですよね?」

 トモロウは一瞬歓喜の表情を浮かべたものの、一転して躊躇い気味に父親に尋ねた。

「娘の誕生日祝いに、ちょっと外食でもと思ってね。いつまでも暗い気持ちのままでいても、たぶん息子も喜ばないと思って。あ、でも気にしないで。方向は一緒だから」

 父親の提案に母親も姉も嬉しそうに頷いた。

 俺はせいらに目配せすると、彼女も同じことを考えていたらしい。思いもよらぬ展開に、困惑したままのトモロウの肩を軽くぽんと叩いた。

 せいらの不意打ちに驚いてびくっと小さく飛び上がったトモロウを、彼の母は一瞬不思議そうに首を傾げた。

 そうか。せいらの姿は見えていないのだ。俺がせいらにした目配せも不自然といやあ不自然なんだけど、トモロウの家族みんなの意識は当然彼に向けられている訳で、俺がどんな不自然な行動をとろうとも恐らく見ちゃいないだろう。いい様な悪い様な、少々複雑な気分だった。

「それじゃあ、お言葉に甘えて――」

 そう切り出した俺を、トモロウが慌てて遮った。

「あ、ありがとうございます。でも、いいです。ご家族の大切な時間を邪魔したくないので」

 トモロウは伏目がちに言葉を紡いだ。肩が、小刻みに震えていた。それは、彼の台詞が決して本心ではない事を如実に物語っていた。

 何我慢してるんだ。

 やってみろ。

 気のすむままに。

 思いのままに。

「この近くにバス停、ありませんでした?」

 背後から目線で熱く語りかける俺の思考を振り払うかのように、トモロウは父親に口早に語り掛けた。

「あ、ああ。ここから百メートル位先にあるけど……でも遠慮しなくてもいいんだよ」

 トモロウの言葉に、父親は残念そうな表情を浮かべた。

「あ、いえ、ありがとうございます」

 トモロウは大げさな位、深々と頭を下げた。

 その仕草は、バス停を教えて貰った事へのお礼だけではない。

 トモロウが父親に捧げた言葉は、幾重にも重なる彼の家族への思いが込められている様な気がした。生前も今も変わらず、自分に愛情を注いでくれている家族への、精いっぱいの感謝の気持ちが込められていたように感じられるのだ。

 それは、真の意味での別れの挨拶。彼が、いまわの際に家族に伝えられなかった言葉を、今ここで伝えているのだ。自分の言葉で、溢れんばかりに盛り付けた思いを込めて。

 胸が、張り裂けそうだった。

 重く、味気ない無味乾燥の空気が肺を満たし、不愉快な違和感を伴うしこりとなって、臓器の一つ一つを苛んでいく

 家族のもとに駆け寄りたい思いを、自分自身の意思で強引にねじ伏せているのだ。

 再び顔を上げた彼の表情は、穏やかな微笑みに包まれていた。でも、俺には、その表情の裏側に潜む、彼のもう一人の――耐えがたい苦悩にのたうち回り、断末魔の咆哮に身を震わせる姿が、俺にはシンクロして見えた。

「それじゃあ、これで失礼します」

 トモロウは、再びぺこりとお辞儀をした。

「そう……気を付けて帰ってね」

 残念そうに頷く母親の眼を、瞬く間に涙が満たしていく。

「お邪魔しました」

「失礼します」

 俺は慌てて挨拶をすませると、足早に立ち去ろうとするトモロウに続いた。

 不意に、トモロウは立ち止まると、何かを思い出したかの様に振り返った。

「お誕生日、おめでとうございます」

 少女は、両眼を大きく見開いて満面に驚きの表情を浮かべた。

 トモロウは照れ笑いを浮かべると、手を振りながら再び歩き出した。

 彼女のスマホの待ち受けを飾っていた画像の様に、ちろっと舌を出して。

「ありがとう、トモ…………」

 少女は、言葉を呑み込んだ。

 大きく震える彼女の唇は、反射的に紡いだ思いもよらぬ言葉を、ぐっと噛み締めた。

 彼女の涙腺が、胸の奥から込み上げてくる感情の噴流に緊張を解く。

 俺は黙って会釈をすると、先を歩くトモロウの後を追った。 

 残照の朱色が柔らかに注ぐ道を、俺達は無言のまま歩き続けた。

 先陣を切って進むトモロウのシルエットが、切り絵の様にはっきりと風景に浮かぶ。

 追い付きざまに、俺はトモロウの顔を覗き込んだ。

 茜色に輝く眼鏡の奥に、揺らめく別の輝きがあった。

 だが、その揺らめきは、まだ一滴たりとも結束を解くことなく、かろうじて耐え凌いでいた。

 彼の意地の象徴だった。

 固く結んだ唇をぷるぷる震わせながらも、トモロウは暴走しかねない感情の手綱をとり、ぎりぎりの所でさばきながら、それでも容赦無く、大きなうねりとともに込み上げてくる思いに抵抗し続けていた。

「安心しな、人払いしておいたから」 

 せいらが、トモロウの肩をそっとたたく。

 流石、せいら、なかなかの気配りを見せてくれる。

 せいらの意図が汲めなかったのか、トモロウは不安げなまなざしを彼女に投げ掛けた。感情が高ぶり過ぎて、行間を読み取る思考が働いていないのだ。

「思いっきり泣きなさい。もう、我慢しなくていい」

 麻痺しているトモロウの思考状況を察したのか、せいらはトモロウの耳元で言葉短くそっと囁いた。 

 俺を罵倒する時とは全く違う、柔らかで温かな言霊の宿ったせいらの配慮が、ストレートにトモロウの涙腺を刺激した。

 彼の唇が小刻みに震える。耐えに耐え抜いた瞳の緊張が一気に解き放たれた瞬間だった。涙が湧水の様に溢れ出る。

 但し、唇は固く結んだままで頑なに開こうとはしなかった。

 いくらせいらが人払いしてくれたとは言えども、外で声を上げて泣くのは抵抗があるのだろう。彼にとってそれは最低限のプライドなのかもしれない。

 せいらもそれは察したらしく、それ以上トモロウに声を掛けることはなかった。

 不意に、慌ただしく路面を蹴る足音が背後から近づいて来る。

 ジャギンクしているランナー?

 せいらが人払いしたはずなのに。

 せいらは眉間に皺を寄せると、緊張した面持ちで背後を振り返る。が、瞬時にして警戒態勢は解除され、代わって仄かな微笑が彼女の口元に安堵の彩りを添えた。

 腑に落ちぬせいらの仕草につられて、俺は背後を振り向いた。

 瞬間。

「トモッ!」

 足音の主が、トモロウを背後から思いっきりハグ。

 セミロングの髪が、残照に踊る。

 見覚えのある横顔。

 さっき出会った家族の中の一人――トモロウの姉だ。

「ひよ姉……ちゃん」

 振り向きざまに間近に迫る姉の顔を、トモロウは驚いた表情で見つめた。

 そして。

 彼は、今まで必死に我慢してきた家族に係わる禁忌の言霊を、無意識のうちに唇で綴っていた。

「やっぱり、トモロウなのね」

 彼の姉はぎゅっとトモロウを抱きしめたまま、声を上げて泣き崩れた。

 トモロウは顔面に幾筋もの涙の分流を描きながら黙って頷いた。

「姉ちゃん、ごめん。僕、がんばれなかった」

「そんなことないよ。トモは十分頑張ったよ。最後の最後まで、学校に行く事、諦めなかったじゃない」

 しゃくりあげながら詫びるトモロウに、姉は優しく語り掛けた。

 見てられねえ。

 てより、視界が曇って見えなかった。

 心の奥底から込み上げてくる感情が、熱い噴流となって視界をすりガラスの様に塗りつぶしていた。

 全世界が泣いた感動を呼ぶ銀幕の名作よりも、全世界が共感したベストセラー小説よりも、今、俺が目の当たりにしている現実のワンシーンの方が、遥かに泣ける。

 目の前で繰り広げられている真実故に、感受する情報が想像を創造したフィクションにはない重厚感と生々しさを孕み、さながら「どぶ漬け状態」で五感を刺激しているのだ。

 これで泣けない奴は、よっぽど性格がひん曲がった奴に違いない。

 ふと、気になってせいらを見てみる。神様はこんな時もやっぱ別物――違った。

 泣いていた。

 大きく見開いた眼からは、大粒の涙がぎろんぎろんと輝きを放ちながら白糸の滝の様に絶え間なく軌跡を描き、それでも泣き声を上げるのははばかったのか、唇をぎゅっとへの字に結んでおり、ぷるぷる震えながらも頑なに封印を解こうとはしなかった。

 トモロウ同様、これもせいらの精いっぱいのプライドの現れなのだろう。

 何だか安心した。

 せいらの妙に人間味のある感情の表現に、何となくほっこりとした気分になった。

「驚かしてごめんなさい! 私、池上日和です。この子の姉です」

 日和はいきなり深々と頭を下げた。

「あ、俺、久郷丈瑠です」

 俺も彼女につられて会釈で返す。

「でも、どうして? 死んだはずなのに」

 にわかに信じがたい現実に直面している不条理な状況を漸く自覚したのか、トモロウの姉は急に不安気な面持ちで頬を硬直させた。

「それは、俺が説明するよ」

 俺は袖で涙を拭いながら、彼女に全てを打ち明けた。初めは、狐につままれたような話に釈然としない彼女だったが、トモロウが話に補足してくれた事で漸く受け入れたられたらしく、次第に落ち着きを取り戻し始めた。

「トモと話が出来て良かった……私が病院に駆けつけた時、もうしゃべれる状態じゃなかったから」

 日和は悲しそうな微笑を浮かべながら、トモロウを見つめた。

「でも信じられない……本当に幽霊なの?」

 彼女は怪訝そうに眼を細めながら、トモロウの両頬を指で摘まんで引っ張った。

「姉ちゃん、痛いれす」

 トモロウが今度は別の意味合いで涙ぐむ。

「池上さん、そのままトモロウを見てて」

「えっ?」

 振り向いた日和に、そのままそのままと両手で制止し、俺は二人からゆっくりと離れた。

「あっ!」

 日和が驚きの声を上げた。

 数メートル程離れたところで、トモロウの身体はシースルー状態に変貌していた。

「十メートル以上離れると、トモロウは身体を保てなくなるんだ」

 俺は駆け足で二人の元に戻った。

「これがさっき説明した俺の霊能力さ。でもその力が発揮できるのも半径十メートル以内が限度」

「凄い。羨ましいです」

 俺を見つめる彼女の眼の輝きが、その台詞が決して社交辞令ではない事を物語っていた。

 たぶん、自分にもその力があれば、トモロウといつでも一緒の入れると思ったのだろう。

「やっぱり本当に死んじゃってるんだよね。そりゃそうだよね。お葬式もしたし、火葬場にも行ったもんね。納骨もしたし」

 日和は重いトーンの声で伏目がちに呟いた。

「生々し過ぎるよ、姉ちゃん」

 トモロウが苦笑を浮かべながら肘で姉の横っ腹を軽く突いた。

「池上さん、ちょっと聞いてもいい?」

「はい?」

 日和の声が語尾だけ半音上がる。

「なんで、俺達の後を追っかけて来たの?」

 ふと脳裏に引っ掛かった俺の疑問。それもトモロウ本人が別人だと否定したのにも係わらず、間違いなくトモロウ本人と自覚して追いかけて来ている。

「それは――公郷さんの隣にいる綺麗なお姫様が教えてくれたんです。彼はトモロウ本人だって。確かめたければ、後を追っておいでって」

「なぬっ?」

 慌てて隣に佇むせいらに目を向ける。と、せいらは腕を組みながら、満足げな笑みを満面に浮かべていた。どうやら、日和に綺麗なお姫様なんて言われたから上機嫌の様だ。

 ん?

 何だこの違和感。前にもよく似たことが、あったような……。

 あっ!

「池上さん、ひょっとして、見えてます?」

 恐る恐る、くいっと横にいるせいらを指さす。

 何でい! と、言わんばかりに睨みつけるせいらの目線がちと怖い。

「ええ、見えてますよ」

 平然と答える日和を思わずガン見する。

 美月さんといい、日和といい、霊感の強い人ってそんなにいるもんなのか?

「ま、偶然だな」

 ちらっとせいらを見る。こいつ――否、清羅姫様め、また俺の思考を読みやがったよ。

「偶然じゃないです。はっきり見えます! 私、昔から見えちゃう人なんです。時々ですけど。自分の守護霊と会話したこともありますし、トモだって死んだ後に家に帰って来てた時、何となく感じましたから」

 せいらの台詞が自分との会話の回答かと思ったのか、日和はやや憮然とした雰囲気を醸しながら必死に弁明した。

「あ、気にしないで、この神様、時々俺の心読んで勝手に返事するんだ」

「へええ、以心伝心ですか。いいですね。ほんとに仲良いんだ」

 日和は感心した面持ちで呟いた

 いやいやそうじゃないって。

「そなたの力、なかなか大したものだな。修行すれば結構な仕上がりも期待できるが、どうやら守りの神はそれは望んでいないようだな」

 おいおいこれとよく似た台詞、前にもどっかで聞いた事があったぞ。

 せいらは顔ではニヤニヤ笑いを浮かべながらも、何故か左足で俺の右足を思いっきり踏んづけた。

「危険な目に合わせるわけにはなりませぬので。申し訳なくは思っていますが」

 唐突に、彼は日和の傍らに現れた。

 白い衣と袴姿の青年。長い白髪。通った鼻筋、きりっと引き締まったりりしい口元。波打った優し気な眼が、整った面立ちに愛嬌を添えている。歳は若そうだが俺よりは年上だと思う。

 たぶん、ずっと年上だ。

 明らかに、人間じゃないし。

「清羅姫、お久しゅうございます」

 彼は徐に跪くと、せいらに深々と頭を下げた。

「久し振りだな、白眉、変わりはないか」

 せいらは満面に笑みを浮かべながら、思いっ切り上目線で彼を見下ろす。

 せいらの知り合い?

「昔、神界でちょっとな」

 せいらは、にへらっと怪しげな笑みを浮かべながら目線を泳がした。

 こいつめ、日和にトモロウと合わせる為じゃなく、自分がこの男と会いたかっただけじゃねえかよ。

 慌ててせいらの反撃を警戒したが、意外にも上機嫌の彼女からは何の動きも無い。

「初めまして、私はハクビハシリミズノミコト。日和の守護霊です。白眉と呼んで下さい」

 白眉は俺に穏やかな笑顔を向けた。

 神様なのになんて腰の低い、しかも自然体の爽やかイケメン。どうだあ、俺っていい男だろ的な感じの嫌味さとクドさが微塵も無い。

 あ、そうだ。俺も挨拶になきゃ。

 深々と頭を二度下げ、ぱんぱんと二回柏手を打つ。

「私は公郷丈瑠と申します。よろしく御願い致します」

 白眉様に手を合わせた後、一礼。

「いやあ、まあ、よろしく」

 白眉は困惑顔で苦笑を浮かべながら頭を掻いた。

 え? やり方間違えた?

 この前トモロウに教わった通りやったんだけど。

「お参りしてどうすんだよっ!」

 すこーんとせいらの見事などつき突込みが俺の後頭部に炸裂した。

 俺とせいらの即興漫才的なやり取りを楽しそうに見ていた日和の顔が、不意に寂しげに曇った。

「そろそろ、バス来ちゃうな。お母さん達には、見送って来るって言って来たから、ここまでだよね……そうだ、皆さん、これからうちに来ませんか? バスに乗り遅れたことにして。外食取りやめにして、お寿司か何か頼めば……トモ、お寿司大好きでしょ? ね、そうしよ?」

 日和は別れを惜しむ涙で頬を濡らしながら、両手でトモロウの肩をぐっと押さえつけると、息せき切ったようにまくしたてた。

 トモロウの顔に、一瞬、迷いともとれる困惑の色が浮かぶ。

「姉ちゃん御免。僕は家には行けない。もうこの世にはいないんだし。もし、今家に行けば、お母さん、僕の事、放さないような気がするんだ。でも兄ちゃんがいなきゃ、この体は消えちゃうし、それに、このまま成仏しなかったら、何年たっても中学生のままだし。やっぱり、いつかは成仏しなきゃまずいと思うし。寂しいけど……」

 トモロウは言葉を詰まらせ、俯いた。

「じゃあ、会いに行っていいかな? せめて成仏するまでの間。お父さんとお母さんには内緒にするから」

 日和の言葉に、トモロウは驚いたように顔を上げた。

「公郷さん、いいですか?」

 日和の澄んだ瞳が、俺を正視していた。

「う、うん」

 予期せぬ展開に動揺しつつ、俺はとっさにⅤサインで返した。

 間違えた! OKだろ、ここは。

 あたふたする俺を、日和は微笑みながら見つめていた。

 スマホのメアドを交換していると、遠くから低いエンジン音が聞こえてくる。

 バスだ。とうとう来てしまった。巨大な白いボディが、家並みをぬって近づいて来る。そのフロントガラスに映える残照は、濃厚な朱色から落ち着きのある紅へと変貌を遂げていた。

 次第に近づきつつあるバスを、トモロウは恨めし気に見据えていた。普通なら心待ちにしているその姿も、今の彼には、つかの間の家族の会話を切り離す残酷な現実の使徒でしかないのだろう。

 彼の気持ち、俺にも分かる。

 落暉のささやかな名残を受け、深い憂いの影を際立たせている日和の寂しそうな横顔を見ていると、何だかとてつもなく切ない。

 俺がこのままトモロウと一緒に日和の家に戻り、二人の両親に訳を説明し、時折会いに来ると提案したら、どんなに喜ぶだろう。

 でも。トモロウは、あえてそれを自らの意思で否定した。

 自分が成仏したいからじゃない。俺に迷惑を掛けたくないからだ。

 バスが停留所に泊まり、エアーの排出音とともにドアがゆっくりと開く。

「また、連絡するね」

 日和はトモロウの頭を軽くポンポンと叩くと、俺に会釈した。

 トモロウは姉に笑顔で答えると、踵を返し、軽やかな足取りでバスのステップを上がっていく。さっきとは大違いだ。彼の家族の前から立ち去る時と。あの時の、家族の中に飛び込みたい思いを強引に断ち切って突き進んだ苦悶の行軍とは似て非なるものだった。

 姉とまた会える――その新たな展開が、彼を孤独の苦痛から解き放ったのだろう。

「じゃあ、行きます」

 俺は軽く手を上げて日和に別れを告げた。そして、白眉様に一礼。

 バスはほぼ貸し切り状態だった。日曜日のこの時間は、ほとんど乗客のいない路線らしい。

 乗客は、俺とトモロウ以外には、駆け込み乗車して来たセーラー服姿の女子高生が一人だけ。トモロウの近所の人かと思って焦ったが、特に驚きも関心も示さなかったので問題無かったと言える。トモロウは二人掛けの座席に着くと、窓側ににじり寄り、車窓から日和に手を振った。俺は彼の横に腰を下ろすと、トモロウ同様車窓から日和に手を振る。

 日和は、微笑みながら手を振り返していた。

 それは、あくまでもトモロウにだろうけど、それでも何だかうれしい気持ちで胸がいっぱいだった。

 ただ、白眉様が苦笑いを浮かべていたのが気になる。

 バスがゆっくり動き始める。

 トモロウは次第に離れていく姉の姿を、いつまでも車窓から追いかけていた。

 そんなトモロウの思いを断ち切るかのように、バスは左折した。

 大きな吐息をつくと、トモロウは座席に深く腰を沈めた。一瞬寂しそうな暗い表情が顔を覆ったものの、俺の顔を見るなり、彼は気を使ったのか、慌てて作り笑いを浮かべた。この辺、ちょっと不器用な奴なのだ。そりゃそうだ。大人びてはいるが、まだ中学生だもの。

「せいらさん、兄ちゃん、今日はありがとうございました」

 トモロウは嬉しそうに口元を緩めた。

「どうだ、私の御膳立て、大したもんだろ」

 俺達の前の席に座った女子高生が、突然背もたれ越しに振り向く。

 え?

 え?

 え?

 にまにまと得意気にほくそ笑む彼女の顔は、紛れもなくせいらだ。

 でも、どうして?

「普通に会話出来る様に実体化してみた。どお、いい感じでしょ」

 せいらは、したり顔で長い黒髪をさらりと掻きあげた。

 そうか、これだ。さっきの白眉様の微妙な表情の訳は。一抹の疑問は解決したが、直面の疑問は現在進行形だった。

「それは分かった。でも、何故にJK?」

「いつもの恰好じゃ不自然じゃん」

「ま、そりゃあ、そうだけど」

「変?」

「変じゃないよ。似合ってる」

 だから困るんだ。似合い過ぎているから。それに、何か甘酸っぱい様ないい匂いもしてるし。

 妙に、胸の動悸が半端ないし。

 いかんいかん、まずいだろ、この感覚。

「せいら、あのさあ」

「何だ?」

 しまった、またタメ口きいちまったよ。

 怒られると思ったが、奇跡的にも怒りの激情は開場しなかった。俺が余りにもタメ口で連呼したから、せいらもとうとう呆れて諦めたか?

「白眉って、せいらの何なの?」

「何、気になるのか?」

 せいらは意地悪そうに眼を細めると、覗き込むように俺をじっと見据えた。

 おいおい、何て質問の仕方してんだ。どういう関係なのかとか、もっと適当な聞き方あんだろう。これじゃなんか、俺がせいらと白眉の関係を意識している様な言い方じゃないかよ。

 俺は自分の頭を拳でごんごん叩いた。叩いたからって、名案が出る訳でもないのだけど。

「白眉は私が神界にいた時の幼馴染さ。まあ、奴の方が、ちぃとばか年上だけどな。私の遊び相手兼ボディガードだった。それだけの関係で、それ以上でもそれ以下でも未満でもない」

「ちいとばかし年上って、どれくらい?」

「なあに、たった二二二歳だけ」

「たったって……」

 俺は言葉を失った。

 じゃあせいらって、いったい何歳なんだ?

「丈瑠」

 至近距離に硬い表情のせいらの顔。ヤバイ! 歳を詮索していたところを読まれたか?

「何度も言うが、私に惚れるなよ」

 真顔で呟くせいらの言霊が、俺の心を大きく抉る。

 そうじゃないって。

 そういう意味じゃないって。

 確かに俺、勘違いされるような言い方したかもしれないけど、ただただ純粋に立ち位置と言うか、人生の――否、神生の中でどうかかわって来たのかを聞きたかっただけで、深い意味はないってのに、何だよこの展開。

 まあ正直言ってせいらのセーラー服姿にはどきっとしたし、今でもどきどきしているし、でもそれはそれで男と言う生き物の悲しい性な訳で、それ以上でもそれ以下でもそれ未満でもない。

「あっ」

 突然、トモロウが小さく呟く。

「どうした?」

「どうした?」

 俺とせいらは見事なシンクロでトモロウにハモって問い掛けた。

「あそこ、僕が通っていた学校です」

 トモロウは懐かしそうに窓越しに外を指さした。押し迫る夕闇の紺青に黒く巨大な影を落とす建造物が、視界を過っていく。

「戻りたかったな」

 トモロウは悔しそうに下唇を噛み締めた。今までに見せた寂しさに苦悶する感情を遥かに凌ぐ無念の思いが、彼の表情を支配していた。

 美月への御礼や家族との会話は、実体化する事でなんとか叶えられた。でもこればかりはどうにもならない。それはトモロウ自身が十分に理解しているはずだ。

 今の状況、一歩間違えたら学校の地縛霊になりかねない。何とか、気持ちの方向転換をせねば。

「トモロウ、回転寿司に行かねえか? 俺達は俺達で君の姉ちゃんのバースデイを祝おうぜ」

「行きたいです! でも、いいんですか?」

 トモロウの表情が、パッと明るくなる。

「何、遠慮しなくてもいいぜ、丈瑠のおごりだ」

「せいらは自分で出せよ」

「私がお金持ってるわけねえだろ。そうそう、バス代も頼むぜ」

 せいらは小馬鹿にしたような表情で舌をちろっと出した。

 何だよ、トモロウの真似かよ。

「くくくくっ」

 トモロウが顔を真っ赤にして声を押し殺しながら笑っている。せいらの仕草に、彼の顔から、さっきまでの暗い表情は完全に一掃されていた。

 どうやらツボにはまったようだ。これでとりあえず地縛霊化は回避できたか。ナイスだぜ、せいら――姫さま。

 俺はシートに深々と身体を沈めると、安堵の吐息をついた。






「あのう、実はお願いがありまして」

 六月の最初の日曜日、トモロウは妙にかしこまった表情で俺達の顔を覗き込んだ。

「どうしたの、急にあらたまって」

 日和が不思議そうに首をかしげる。

「オープンキャンパスの体験講義の事? トモロウ君が受けたがっていた医学部は申し込んでおいたけど」

 美月さんがトモロウの横に腰を下ろす。

 今日は日和、美月さん、そして守護霊の皆様と俺で結成した「トモロウを成仏させる会」の定例会合の日だった。場所は俺のアパートの一室。

 せいらが言うには、トモロウが成仏できないのは、決してこの世への未練が断ち切れない訳じゃないらしい。だったら何なのってとこだけど、そこが分からないから困っている。

 結局、とっかかるにしろ良く分からないので、取り合えずトモロウが興味を示しそうなネタをああだこうだ言おうということになった。その中で、最初に話題に上がったのが、一週間後にある我が大学のオープンキャンパスの件であった。

 医学部の体験講義は予約制で、彼がどうしても聴講したいと目をうるうるさせて懇願するので、美月さんに取り計らってもらい、受講枠をゲットしてもらったのだ。もちろん、彼の実体化キープの為に俺も付き合うことになっている。彼はやる気満々なんだけど、恐らく俺は睡魔との激しい攻防戦に身を置くことになるだろう。因みに、同じ日に農学部も体験講義があるのだけど、彼は小指の先すら関心の素振りを見せようとはしなかった。ぷんこぷんこ。

「その、体験講義なんですけど、もう一人追加して頂けないかと……」

 トモロウは、俯き加減に目線を逸らすと、遠慮深げにぼそぼそ呟いた。

「え? もう一人って私?、ごめん、その日模試があるからいけないんだ」

 日和が手を合わせてトモロウに詫びた。

「あ、姉ちゃんじゃなくて、その……」

 トモロウは申し訳なさそうに後ろを見た。

「ぬ?」

 俺はよく分からん驚きの唸り声を上げたまま、固まっていた。

 トモロウの後ろに、見知らぬ少女が座っていた。

 セーラー服姿で、髪型はポニーテール。肌は透き通るような白さで、日焼けしたら真っ赤になるのが想像出来る程。銀ぶち眼鏡の奥には二重瞼の澄んだ瞳が恥ずかしそうに揺れている。歳はトモロウと一緒位だろうか。派手さはないが、素朴にかわいい。

 ただ、何故か驚きのリアクションしたのは俺だけで、守護霊の二柱も美月達も特に慌てた素振りを見せてはおらず、それも大いに引っかかっていた。

「誰、この娘?」

 俺はトモロウにぶつけられる質問はそれが精いっぱいだった。いったい何がどうなってどこからどうやってここに来たのか。質問は自噴井のように止めどもなく溢れて来るにもかかわらず、驚きが先行して言葉の組み立てが追い付いてこない。

「三春さん、だよね。三春志桜里さん」

 俺の質問に答えたのは、意外にも美月さんだった。目を細め、やさしく微笑みながら、其れでいて何処か切なく悲し気な憂いを醸している。

「覚えてくださったんですね」

 少女は少しはにかみながら、嬉しそうに微笑んだ。

「うん。忘れないよ。ごめんね、私、少しも力になれなかった」

 美月さんの眼が、きらりと光った。

「ううん。美月さん、自分を責めないで下さい。仕方が無いんです。これも運命なのだから」

 三春志桜里の声はか細く、小さく、それでもとてつもなく温かい言霊を紡ぎ出すと、美月さんの心をやさしく包み込んでいった。

 何分空気を読むのが苦手で鈍感な俺だけど、今回は察する事が出来た。トモロウと同じ病棟に居た娘なんだろな。

「三春さんは僕よりも一ヶ月後に入院してきたんです。院内学級で知り合って、お互い医学の道を目指してるって分かってから、一緒に頑張ろうって言ってたんですけど……僕より一ヶ月早く旅立ったんです」

 トモロウがぽつりぽつり苦しそうに言葉を綴った。

 言葉が、重かった。

 そして、言葉が、出なかった。

 二人とも、頑張ってたんだ。

 生きよう。

 自分達の未来を諦めずに、そう心に誓って戦ってきたんだ。

 自然と、涙がこみあげて来る。

 運命って何なのだろう。さっき、志桜里は運命だから仕方が無いって言っていた。トモロウも前にそんな感じの事を言ってたような気がする。

 必死で繋いできた努力を御破算してしまう運命って何なのか。俺みたいに先の事を考えずに今を生きている奴とか、日々惰性で生きて来て、人生の一分一秒の重みと不可逆性を全く意識していない奴とかが、のうのうと生き永らえている運命って、いったい何なのか。

 何だか、二人に申し訳なくて、勿論、二人の身近な人生にも同情して、込み上げて来る熱い感情が、俺の涙腺を激しく刺激し続けていた。 

「丈瑠、そう自分を責めるな。お前の悪い癖だ」

 せいらが、俺の耳元でそっと囁く。

 俺は黙って頷いた。

 普段はおっかないけど、せいらの優しさは確実に俺の心に届いていた。

「志桜里ちゃん、ひょっとしてトモロウと付き合ってるの?」

 不意に、日和が爆弾的発言を投下した。

「違います! 違います!」

「そんなんじゃないです」

 トモロウと志桜里は、互いに両手を振り回しながら、顔を真っ赤にして全面否定した。

 何だかますます怪しい。

 真偽は分からないものの、予期せぬ微笑ましい展開に、重くどんよりした空気は一瞬にして払拭されていた。

 日和がクスッと悪戯っぽく笑みを浮かべながら俺を見た。

 この娘、凄い。決して無意識のうちに呆けた訳では無く、意図的に仕掛けたのだ。深い暗黒に沈んだ俺の部屋に、救済の光を差し伸べる為に。

 でも、感心しているだけじゃなくて確認しなきゃならない事が一つある。

「みんな、三春さんが居る事知ってたの?」

「まあな。危害は無いと見たので特に騒ぎたてもせんかった。トモロウの知り合いのようだったしな」

 せいらが腕を組みながら、うんうんと頷きながら答えた。

 その横で、白眉も追従して頷いている。

「美月さんと日和さんも分かってた?」

「ええ、知ってる子だったから。トモロウ君と仲が良かったしね。今も一緒にいるんだなあって」

 優しそうな笑みを二人に注ぐ美月さんに、驚きの表情はない。

「私もそう。志桜里ちゃんの事は前から知ってたので」

 日和も、表情一つ変えずに同意した。

 ショック。俺だけが知らなかったって? 俺の霊能力って、そんなもんなの?

「丈瑠、落ち込むな。お前の力は私がリミッター掛けてるからな、しゃあねえんだよ」

 せいらはあっさり言ってのけると、俺の肩をぽおんと叩いた。

「何、それ?」

「前にも言ったと思うけど、あんまり強いと色々見えちまうだろ。そしたらさ、連中も気づいてくれた嬉しさの余り、寄ってきちまうんだ。特に丈瑠の能力は特殊だからな。生き返れるって勘違いする奴も出て来るかもしれんだろ? そうなると厄介だから係わり持たねえようにしてるんよ。ま、私が付いてる限りは大丈夫だけどな」

 説得力のあるせいらの説明に、俺は、固まった状態でかくかくと頷いた。

「兄ちゃん、申し訳ないんですけど、そんな訳で、霊力の御裾分けを三春さんにさせてもらっています」

 トモロウが申し訳なさげにぺこりと頭を下げた。

「宜しくお願いします」

 トモロウに続き、三春志桜里が深々と頭を下げる。

 何だか、彼女を家に連れてきた息子の父親になった気分だ。

「分かった。いいよ。受けて立つぜ」

「有難う御座います」

 二人は正座すると、父親に結婚を許されたカップルの様に、三つ指ついて俺にむかって頭を下げた。

 思わず苦笑いを浮かべる。

 これじゃあ、ますますトモロウの親父じゃねえかよ。

 と、その時、不意にインターホンが来客を告げた。

「ん、誰だ?」

「ちょっと待て!」

 立ち上がろうとした俺を、せいらが慌てて引き止める。

「何故に?」

「入れる必要はない! ろくでもない奴だし」

 血走った怒り眼で訴えかけるせいらの勢いに押されて、俺は立ちかけた膝を元に戻した。口調から察するに、せいらは客が誰だか分っているらしい。

 が、ドアはガチャリと派手に音を立てて勝手に空いた。おかしい。鍵はちゃんと掛けたはずなのに。

 困惑する俺をよそに、不意の来客に警戒した白眉とせいらが実体を解く。

「何だよ、いるんじゃねえか。お、なんかすごいメンツ♡」

 にたにたしながら強引に上がり込んできたのは森崎だった。確かに、ろくでもない奴かもしれないが、それ程悪い奴でもない。

「どうしたんだよ、急に」

 せいらの手前、不満げに奴に問い掛ける。

「どうしたはないだろ、最近、おまえの周りで不審な気配を感じるんで、心配だから来たんだぜ」

「不審な気配?」

「ああ。と言っても、ここにいる皆さんじゃないぜ。まあ、おまえはおっかねえ姫さんに守られてっから大丈夫だけどな」

「えっ! 」

 俺は言葉を失った。

 こいつ、せいらが見えてるのか?

 のようだ。

 ドアが開いた瞬間、せいらは実体化を解いたから、それなりの力が無いと見えないはず。

 てことは、こいつも能力者?

 せいらは、はっしと腕を組み、露骨なまでに嫌悪と憤怒の怒り眼で、森崎をねめつけている。

 せいらがここまで露骨に拒否するって事は、森崎の奴、ひょっとして何かとんでもねえものに憑りつかれているのかよ。

「お久しぶりいいっ! らぶりぃせいらちゃん! 」

 なななにい!

 森崎の背後から、ひょっこり顔を出した若造に視線が釘付けになる。長身の森崎とほぼ同じくらいの背丈で、レモン色のさらさらロン毛。日焼けサロンの常連客の様な浅黒い顔は体躯とはアンバランスな程に小さく、おまけに目鼻立ちはギリシャ彫刻の様に整っている。言うなれば童顔の美青年。玉虫色のらめらめシャツに、金のストライブが入った黒いぶかぶかハーフパンツといった異様なファッションが裏付けるかのように、何とも言えない雰囲気を放っていた。

 チャラい。

 チャラいけど、只者じゃない。

 霊力を抑えられているとは言え、流石にわかる。

 彼は人間じゃない。だいたい、いきなりせいらの名前を呼ぶところから普通じゃないのは、はっきりしている。

 何かしらの神だ。それも、森崎の守護霊。

「せいら、知り合い?」

「知り合いじゃないっ! 知ってるけど」

 せいらはむっとした表情でボソッと呟いた。

「冷たいなあ、せいらちゃんは。熱い口付けを交わした仲じゃろに」

 えっ?

 ガングロ美青年の問題発言に、俺は心臓から口が――じゃない、その逆の事態になりそうな直下型驚愕スプラッシュ状態に陥っていた。

「黙れっ! あれは事故――」

 顔を真っ赤にしながら懸命に弁解し掛けたせいらの前に、突如黒い影が割って入った。

 白眉だ。

「姫に不埒な悪行を働いた輩というのは、御前か」

 全身から夥しい紅蓮のオーラを立ち昇らせながら、白眉は静かに激昂していた。

「げっ! 白眉? 君もいたのかい。元気そうだね」

 ちゃら神は、へらへらと苦笑を浮かべると、するすると森崎の背後に消えた。

「いやあ、何だか気まずそうだな。また出直してくるわ」

 森崎も同様に苦笑を浮かべつつ、後退りするとドアの向こうに消えた。

「公郷さん、友達ですか?」

 日和が首をかしげた。

「うん、大学のね。でも何だったんだ? あいつ」

「背後の者があれだからな。守られる者も似ちまうのさ」

 せいらが忌々し気に侮蔑の言霊を吐く。

「せいら」

 俺はせいらをガン見した。それも無意識のうちに名を呼び捨てで呼んで。頭を目いっぱい叩かれるかもしれないという危機感よりも、自分の中で大きくうねる根拠のない苛立ちが、たまらないくらいに俺を追い詰めていた。

 何だろう、この感覚。

 嫉妬?

 まさか!

「なんだ?」

 せいらは不機嫌な顔でぶっきらぼうに俺に返した

「さっきのチャラ神とキスしたのか?」

 俺は真正面からせいらを凝視すると、ストレートに問い掛けた。

「事故だ」 

 せいらは俺の視線から不愉快そうに眼を逸らすと、忌々し気に呪詛を吐いた。

「したんだ……」

 落胆の思いに駆られながら、俺は肩を落とした。

「ちがーう! 事故だって!」

 せいらは目をぎろんとひん剥いて俺に食って掛かって来る。

「めっちゃ怪しい」

「公郷君。間違いなく事故だった。私もそう信じたい」

 白眉は眉間に苦悩の三本皺を寄せながら、ぐぐうっと下唇を噛み締めた。

「本当に事故だってば!」

「どんな事故だよ」

「百二十八年前の神無月の打ち上げの時に酔っ払って、転んだ拍子に奴と――うわああああっ!想像もしたくないっ!」

 せいらは頭を抱えると首を左右に激しく振った。

「まさしく不慮の事故ですね」

 美月さんが哀れみの言葉をせいらに掛ける。

「そうよお、そうなのよお、分かってくれる?」

 せいらは悔し涙と無念の鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、美月さんの両手をはっしと握った。

「白眉さん、あのチャラ神、何者なんです?」

 心配そうに清羅を見守る白眉に、俺はボソッと尋ねてみた。

「彼はあれでも仏法を守る二十八部衆に属する、迦楼羅なんです。字名は風雅。元々ガルダという神鳥だったんですが、龍神の気に触れ、進化したんです。分かりやすく言えば烏天狗」

「その……龍神の気に触れてってのが」

「言うなあああああっ! その先言うなあああああっつ」

 せいらが力任せに俺を突き飛ばす。

 俺は無抵抗のまま、大きく放物線を描いてドアまで飛んだ。

「痛~~!」

 俺は後頭部をさすりながら上半身をゆっくりと起こした。ったく。あのお姫様は手加減てのを知らないのかよ。

 不意に、ドアが開いた。

「何やってんだ?」

 森崎が不思議そうな顔で俺を見下ろしている。

「お前こそ」

「ん、いやあ、差し入れ」

 森崎は俺の膝の上にコンビニの大きな袋を置いた。アパートの前のコンビニで買って来たらしい。俺にとっては馴染みの袋だけど、こんなに爆買いしたことはない。

「ありがとう。何でまた?」

 怪訝な顔付きで見る俺に、森崎は申し訳なさそうに肩を落とすと、大きなため息をついた。

「俺を守ってる神様が、お前の姫様に何かやらかしたらしくてさ、お詫びの品を届けろってんでな」

「えっ? やっぱりお前、見えてる人?」

「まあね」

 俺の問い掛けに、森崎はすんなり素直な返事を返して来る。

「トモロウの事も分かってたのか?」

「トモロウ? ああ従弟君か。もちろん。でも、あそこまでリアルなのは稀だぜ。驚いたのなんのって」

「上がってくか、みんなにちゃんと紹介する」

 せいらの尖った視線を背後から感じてはいたが、差し入れだけ貰って追い返すわけにもいくまい。それに、同じ能力者として、奴には色々聞きたい事があったし。

「いやあ、お姫様の許しが出ないと無理っぽいな」

 へらへら笑っていた森崎が、不意に真顔になると、顔を俺の顔に寄せた。

「お、おい! 俺の唇を奪っても迦楼羅にゃなれねえぞ」

「公郷、あの髪の長いお姉さんに気を付けろ」

 鬼気迫る俺の拒絶には答えず、森崎は俺の耳元でそう囁くと一礼をして立ち去った。

「何事だ?」

 せいらが訝し気に俺を睨んだ。俺と森崎の会話を聞いていなかったのか。珍しく俺の心の中も覗かなかった様だ。

「差し入れだってさ。あいつの守護霊からせいらへのお詫びだと」

 スナック菓子やらスイーツやらがぎっしり詰まったコンビニの大袋をどんと炬燵の上に置く。あいつ、結構な出費だったろうな。

「風雅の奴、馬鹿にしおって。こんなもので私が許すと思っているのかあっ!」

「じゃあ、返してくるか」

 コンビニの袋に伸ばしかけた俺の手を、せいらが慌てて払い除ける。

「待てっ! せっかくだからみんなでいただこう。あの若者にも悪いからな」

 せいらは卓上に袋の中身をぶちまけると、スナック菓子の袋を次々に開封していく。

「いいんですか? こんなにお菓子を食べるの、久し振りです」

 トモロウの眼がキラキラ輝く。

「遠慮はいらん。あの若造、ああ見えてなかなか出来た奴だな。しかしながら守護霊の尻拭いを守護を受けている者がやるなど、前代未聞だぞ」

 せいらはぶつくさ言いながら、ピーナッツチョコレートを口に放り込んだ。

「志桜里、好きなだけ食べろ、トモロウも彼氏ならもう少し気をまわしてやれっ!」

「はいっ! えっ?」

 せいらの予期せぬ声掛けに、志桜里とトモロウは再び顔を真っ赤にして俯いた。

「えへっ、二人ともどこまでも純情なんだねえ」

 美月さんは眼を細めながらしみじみ語った。

 そんな美月さんの横顔を、俺は正直困惑しながら見つめた。

 髪の長いお姉さんといやあ、美月さんしかいない。日和も髪は長いが、彼女だとしたらお姉さんとは呼ばないだろう。森崎の奴、いったい何を気を付けろと言うのか。あいつには、俺に見えない何かが見えるのか? でも、それならせいらや白眉も俺に同じ様な指示を出すはずだ。

 奴のやっかみ?

 そうとは思えない。

 せいらなら分かるだろうか。

 ちらりとせいらに目線を向ける。今の俺の思考も、せいらは感知しているはず。だが、シュークリームを一心不乱にパクついているその横顔に、俺に対してのメッセージ性は一片たりとも感じられなかった。

「信じられない! 私、食べるなんて久し振りです!」

 志桜里が感涙に咽びながらせいらと同じくシュークリームを頬張っている。その横顔を、トモロウがうれしそうに見つめていた。

 そうか、そうだよな。志桜里はトモロウよりも一ヶ月早く亡くなっているんだものな。

 しみじみと深く共鳴しながら、俺もシュークリームに手を伸ばす。

 ぱしいっ

 容赦のないせいらの平手打ちが俺の手を場外に跳ね飛ばす。

「だめええええ。甘いもんは女子だけ。トモロウは特別許す」

 せいらが、じろりと俺を見据えた。

「何だよ其れ」

 不満げにぶうたれながらも、俺は素直に手を引っ込めた。

 どういう事だ?

 俺の手を払いのけた瞬間、せいらの思考が俺の脳裏にメッセージを書き込んでいたのだ。


 心配するな


 それだけだった。

 具体的な内容は一切無く、ただその一言だけが、まるで耳元で囁かれたかのようにはっきりとしたフレーズを伴って俺の意識化で実体化していた。

 これ以上の詮索はするなって事か。

 せいらのメッセージを良い意味で捉えるようにしておこう。

 俺は、卓上に目を向け、愕然とした。

 あれだけあったスナックやらスイーツが、もはや跡形もなくなっていた。






「緊張しますね」

 トモロウが、ぶるぶるっと武者震いする。それを見た志桜里がクスッと笑った。

 体験講義までまだ三十分はあるが、待ちきれない二人に付き合って早々に大講義室に陣取っていた。しかも、一番前のど真ん中ときた。

 居眠りできないじゃねえか――なんて、二人に抗議するのもみっともないので、ここは我慢することにした。

 まだ時間があるとは言うものの、講師の教授がメディアでも有名な方らしく――俺は知らんかった――席は既に八割程埋まっている。

 せいらは俺の背後で姿を潜めており、美月さんは今回の講義のスタッフなので同席出来無いとのことで実質保護者は俺一人。

 二人の顔を知っている医師と出くわしたらまずいので、二人とも眼鏡無しのマスク着用で対応することにした。服装はそれぞれ中学の制服を着用。

 俺は濃い目のデニムのパンツにオリーブ色の長袖Tシャツといった、トモロウたちとは対照的に、極めてラフな格好での参加だった。

 不覚にも居眠ったりしないだろうなという、一抹の不安を抱えながらの妙な緊張感が、俺の思考を隙間なく埋め尽くしていた。

 定刻五分前に講師登場。

 テーマは「感染症とその予防」。

 俺はありったけの精神を瞼に集中し、個人用肉体シャッター(瞼だよ)が不覚にも下りないように気合をいれる。

 講師は、簡単な自己紹介の後、講義を開始した。

 意外にも、面白い。

 講師が凄い人って、こうも違うのか。スクリーンにパワーポイントで資料を出しながら、黒板も使用し、それでいて教壇の一角に留まらず、大きく左右に動きながら受講する学生全員に呼び掛けるような語り方に、俺は自然と引き込まれていた。

 講義はあっという間に終了し、質疑応答に移る。早速手を上げたのはトモロウだった。   

 あどけない少年の先頭きっての挙手に、教授は上機嫌で彼を指名した。

 ここからは驚きの連続だった。中学生とは思えないトモロウの難解な質問に、教授は思わず驚きの声を上げ乍ら、それでも俺達凡人に分かりやすいよう、丁寧に回答をして下さる。引き続き挙手したのは志桜里で、これまたトモロウ同様に専門用語をふんだんに散りばめたスペシャルな質問をよどみなく唱える。

 ここからは他の追従を許さない二人祭りの始まりだった。他の学生も何人か挙手するのだが、目の前の二人に圧倒されて、もはや見る影もない。

 質疑応答も唖然としているうちに終了し、俺達は講義室を後にした。

「公郷君」

 振り向くと、白衣姿の美月さんの姿があった。白衣の下も上下ともに白。白のブラウスに白いスラックス。 

「あ、お疲れ様です」

 と、軽く会釈。

「二人とも凄いね、あの質問、大学生でもなかなか出来ないよ」

「え、そうなんですか?」

 感心する美月さんに、俺は驚きのリアクションで答えた。

「うん。一応、質問が出なかった時を考えて、さくらを仕込んでおいたんだけど、用無しだったね。二人とも、あれだけの知識をどうやって身に着けたの?」

「入院中、二人で医学書読んでたんです。ほら、お姉さんに時々お借りして」

 トモロウは照れくさそうに俯いた。

「えっ? ひょっとして読んだだけで頭に入ってるの?」

「ええ、まあ。完璧じゃあないですけどね」

 トモロウは静かに微笑んだ。一つ間違えれば調子づいているように取られがちな台詞も、不思議とそう嫌味っぽくは聞こえない。

「凄い……もう、驚きの連続ドミノだわ。よおし、頑張ったご褒美に、パフェおごるね! 私の後をついてきて」

「有難うございます。あ、でもいいんですか? 後片付けとか大丈夫ですか?」

 トモロウが心配そうに美月さんに声を掛けた。

「大丈夫よ。用事があるからって、他の人にお願いしてきたから」

 美月さんは遠慮気味のトモロウにVサインで答える。

 颯爽と歩き出す美月さんの後を、二人が慌てて追従する。必然的に俺も以下同文。

 行先は、学校から少し離れたファミレスだった。二人の顔を知る医師に見つからないための配慮なのだろう。流石に、食べる時にマスクは無理だし。

 美月さんの計らいで注文したのは特大のツリーパフェ。座った目線よりもそのてっぺんは高く、一瞬驚きを通り越して途方に暮れてしまうボリュームだ。 

 気が付くと、二人はぴったり寄り添いながら巨大甘味の白い巨塔に戦いを挑んでいた。

 ひゅうひゅうってはやし立てようとしたいところだが、せいらが俺の後頭部を叩いてブレーキを掛ける。

「二人は、これからどうするの?」

 美月さんが、黙々とパフェを陥落していく二人を優しく見つめる。

「大きな図書館に行きたいです」

「美術館も行きたい」

 トモロウと志桜里は目を輝かせながら、口々に希望を述べる。

「いいよ。連れて行ってあげる。あ、でも、車、家に置いてあるから、ちょっと付き合ってね」

「凄い、車持ってるんですか?」

「うん、でもちっちゃいやつ」

 俺は、ありったけの羨望の眼差しを美月さんに注いだ。私大の、しかも医学部の学生で車まで持ってるって……ひょっとしたら、凄いお金持ちの御令嬢?

 でも元々、今俺が住んでるアパートにいたんだよね。

 どう考えたって、お嬢様が住むような所じゃない。まあ、庶民の俺からしたら、ごく普通のアパートなんだが。

 パフェとの戦いに勝った俺達は、美月さんに先導されて彼女の住まいに向かった。

 ファミレスから歩いて十五分。民家の間に突如現れた雑木林の向こうに、それはあった。

「ここが、美月さんの家?」

 思わず、ごくりと喉が鳴る。

 アパートでも、マンションでもない。一軒家だ。それも、古びてはいるが、おしゃれなこじんまりした白壁の洋館だった。

 生い茂る薔薇の生け垣は、手入れが行き届いているとは決して言えない代物だったが、それでも洋館の豪奢な雰囲気を醸すのに十分過ぎる存在感を誇っていた。

 キャッチボールが優にできる石畳の長いエントランスを進むと、すぐわきに車庫があり、車が一台停められている。

 黒のミニクーパー。美月さんが小さいやつって言ってたから、てっきり軽自動車だろ思ってたらとんでもない代物だ。

「驚いた? でもこれ借りものだから。家も車もね」

 俺達の驚いた表情がうれしかったのか、美月さんはにんまりと笑みを浮かべた。

「家賃とか、高くないんですか?」

 なんて下賤な質問をしてんだよ、俺は。と、思った時には遅かった。俺の意識化に巣食う低俗な好奇心が、常識というフィルターをぶっ飛ばして、思いついたままの言葉を紡いでいた。

「家賃はただ。払っているのは光熱費だけよ」

 絶句だったよ。涼し気な表情でさらっと答えた美月さんを、俺は思いっきり見開いた眼で凝視した。

「嘘みたい……あ、そうか、親戚の家とか」

「残念でした。はずれだよ」

「まさか、訳あり物件?」

「違う違う!」

 妙に受けたらしく、美月さんは手を大きく横に振って否定した。

「小児病棟で読み聞かせのボランティアしてた時に知り合ったおばあちゃんなんだけど、息子さんの家族と一緒に住むことになったから、住んでくれないかって言われてね」

「へえええ、そんなことってあるんですね」

 信じられないような話。もっと信じられないのは、ミニクーパーはそのおばあちゃんが乗ってたってことか。

「家、寄ってく?」

 俺達の反応が予想以上だったのか、美月さんはうれしそうに俺達の顔を見回した。

「いや、時間が無いからな、早く行かないと二人の希望に添えなくなるぞ」

 今まで姿を消していたせいらが、不意に話に割って入る。

 でも時間が無いってのはどういう事なのか。ちょっとぐらいなら、家の中見せて貰ってもいいかなって思うんだけど。

 俺の思考を読んだのか、せいらは深いため息をついた。

「丈瑠、忘れるな。お前は今日」

「死んでいる」

「違――うっ! ふざけてる場合かっ! お前は今日、いつもの倍以上の霊力を消費しているんだ。それを忘れるなっ!」

「俺は大丈夫だよ」

「大丈夫じゃないから言ってるんだっ! 電池切れでぶっ倒れたお前を誰が運ぶんだ?」

 せいらは鬼女の様な凄まじい怒りを満面に噴出させながら、激しく俺を罵った。

「ごめんなさい。僕達のせいで……」

 せいらの変貌ぶりに責任を感じたのか、トモロウと志桜里が恐縮しながらせいらに深々と頭を下げた。

「あ、いや、トモロウ達を責めるつもりで行ったんじゃなくて、つまり、その、実は良く分からないから困っている」

 自分の失言が招いたトモロウ達の反応に困惑しながら、せいらは言葉を濁らせた。

「分からないって何が?」

 俺は眉間に皺を寄せた。

「お前の霊力の量だよ。すぐに尽き果てるかと思う位使っている割にもかかわらず、滾々とよどみなく湧き出て来る。神の私ですら見極め出来ないってのは、どういうこった?」

「いや、俺に言われても分からん」

 顔を思いっ切り近付けて来るせいらに俺は苦笑を浮かべた。

「分かった。じゃあ、まず二人の行きたいところツアーを優先しますね」

 ちょっと残念そうな表情を浮かべながらも、二人に気を使ってか、美月さんは口元にそっと笑みを浮かべながらポケットから車のキーを取り出した。

 俺はすかさず助手席に滑り込むと、トモロウと志桜里に後部座席に座るよう促す。俺なりのちょっとした気遣いだ。

 車の乗り心地の良さと美月さんの安全運転とが相まって、クルージングは快適そのものだった。

 ただ、せいらは何故か異様なまでに緊張していた。

 表面上は平静を装っているものの。張り詰めた気の感じが否応なしに伝わって来る。多分、俺の事を気遣ってるのだと思う。予想のつかない俺の霊力の限界に備えて、せいらなりに心配してくれているのだろう。

 けど、神様ですら見極められない俺の霊力のリミットって、何を意味しているのか。

 当面、俺の頭から離れそうもない。

 美月さんはトモロウ達の希望通り、県営図書館と県営美術館を回ると、昼食にイタリアンレストランでピザを御馳走してくれ、更には国立博物館までナビゲートしてくれた。しかも、入場料やら食費やら全て彼女のおごりだった。

 せめて入場の時だけトモロウと志桜里の姿を消そうかと提案したけれど、美月さんは苦笑いしながら、それはフェアじゃないと優しく拒否るのだった。

 真面目なのだ。

 根っからの真面目人間。

 だから、トモロウや志桜里が急逝した事にも責任を感じているのだ。

 彼女が二人の希望を叶えようと尽力を尽くしてくれるのは、彼女なりに償おうとしている表れなのかも知れない。

 別に、自分自身の医療行為が原因じゃないのに。それこそ、それ自体していないのに、何故、そんなに責任を感じるんだろうか。反対に、何も出来なかった事が負い目になっているのか。

 そこまで自分を追い詰める必要はないと思う。

 辛いと思う。

 いずれ、自分の医術で病に悩む人達と直に対峙する時が来る。その時、美月はどんな思いで患者と接するのだろうか。いくら身を削って治療して

 も、全ての病を完治させるのは不可能だ。これから先、もし力が及ばなかった事例が起きた場合、彼女はその都度自分を責め続けるのだろうか。

 俺なら耐えられない。

 だから思うのだ。美月さんは、実は医者には向いていないのではないかと。こんなこと、本人には決して言えないけれど。

「着いたよ。ちょっと待ってね、駐車場に車を入れるから」

 俺の身勝手な思考を遮るかのように、美月さんが落ち着いた声で話し掛けてきた。

 海岸に面した小さな駅。住宅地を抜けた海沿いの国道と並走する線路が真っ直ぐ続いている。志桜里が最後によって欲しいと指名した場所だった。

 後部シートを向くと、二人は今までのはしゃぎぶりとは一転し、何となく暗い表情で俯きながら沈黙を保っていた。

 美月さんが駅前の駐車場に車を止めると、俺達は無言のまま車から降りた。

「駅の中に入っていいですか?」

「ああ、いいよ」

 志桜里にそう尋ねられた俺は、即座に頷いた。

 この駅に何か思い出があるのだろうか。

 でも、俺の返事に微笑みを浮かべた志桜里の表情は、何となく寂しげにも見えた。生前の記憶がシンクロしているのか、澄んだ瞳にきらめく憂いを俺は見逃さなかった。

 だが、俺はあえてそれを追求しなかった。彼女自身の思い出なのか、それとも、彼女と俺達の知らない誰かとの思い出なのか。

 入場券を買い、駅のプラットホームに向かう。 

 駅には数名の人影があったものの、皆、それぞれスマホ片手に自分の世界に浸っており、俺達に関心を示すものは誰もいない。

 志桜里は、先頭を切って俺達をプラットホームの端の方に誘導していく。反対車線のプラットホームが途切れ、やがてキラキラと煌めく水面がダイレクトに目に飛び込んでくる。

 夕日の光が蒼い海にオレンジ色のしぶきをちりばめている。 

「ここの景色、大好きなんです」

 志桜里が嬉しそうに目を細めた。

「志桜里ちゃんの家、この近く、なの?」

 トモロウが、何度も噛みながら緊張した面持ちで志桜里を見つめた。

「うん」

 志桜里が、そんなトモロウを優しい目で見つめた。

「トモ君に、見せたかったんだ。病気が治ったら、こうやって二人で、一日の中で一番きれいなこの時間のこの景色を一緒に見れたらいいなって、ずっと思ってた」 

 志桜里の眼が、残照の深紅に染まり、やがてそれは大粒の涙となって彼女の頬を伝い始めた。

「志桜里ちゃん……」

 トモ君に志桜里ちゃんか……。二人とも、元々そう呼び合っていたのか。俺達がそばに居るから、今までは互いに名字で呼んでいたのだ。何となく不自然さを感じてはいたのだけれども、これで謎は解けた。

「あれ?」

 美月さんが訝し気に線路の先を目で追った。

 列車だ。まだ遥か向こうだけど、濃いグリーンの車体が近づいて来るのが見える。

「どうしたんですか?」

「この時間に来る列車はないはず」

「えっ!」

 俺は食い入るように美月さんを見つめた。彼女の言っている意味が理解出来なかった。

 じゃあ、あれは何?

 近づくにつれ、より鮮明に変貌を遂げるフォルムは、どうみても列車だった。

「さっき、時刻表をちらっと見たんだ。間違いないよ」

「そんな……」

 そう言えば妙だ。列車が間近まで迫っているというのに、駅の構内ではそれを知らせるアナウンスが全くないのだ。ましてや、列車待ちの客達も誰一人としてベンチから腰を上げる者はいない。

 やがて列車は、静かに駅に滑り込んで来る。

 車両には、ぽつりぽつりと人影は見えるが、何故かはっきりとその姿を見ることが出来なかった。

 列車が僅かなブレーキ音と連結部の金属音を響かせながら、志桜里とトモロウが並んで立つちょうど前で停止した。

「皆さん、大変お世話になりました。これで私、何の未練も無く、あちらの世界へ旅立つことが出来ます」

 志桜里が、俺達に深々と頭を下げた。

「え、あ、いやあ」

 突然の振りに、俺も美月さんも大したリアクションが出来ないままに茫然と立ち尽くしていた。

「この列車、ひょっとして冥界行きなのか」

 俺の問い掛けに、志桜里は黙って頷いた。

「トモ君、私、向こうに行ったら一生懸命勉強する。そして生まれ変わったら、今度こそ医者になる」

「志桜里ちゃん、僕も一緒に行きたい。一緒に行って勉強したい」

「トモ君はまだ来れない。やらなきゃならない事があるから」

 志桜里はゆっくりトモロウに近付く。

 硬直したまま直立不動のトモロウの唇に、志桜里はそっと唇を重ねた。

 美しい光景だった。

 囃し立てる気が全く湧いてこない。目の当たりにした二人の姿は純愛に満ちて、神々しく、清廉で、そして底知れぬ切なさと寂しさを醸していた。

「待ってるからね。また一緒に勉強しようね」

 志桜里はトモロウから離れると、微笑みながら列車に乗り込んだ。

「僕も、すぐに行くから……好きだから……志桜里ちゃんの事、これからもずっと好きだから。だから、必ず待っててっ!」

 列車の扉が閉まる。そして、重く古びた車体が、名残惜し気に車輪をきしませながら、ゆっくりと動き出す。

 トモロウは手を振り続けていた。止めどもなく涙を流しながら、次第に遠のいていく列車を、いつまでもいつまでも見送っていた。

 俺は、その後ろ姿をじっと見守り続けた。俺自身、トモロウに負けないぐらい涙を流しながら。美月さんも。そしてせいらも、声を押し殺しながら唇を震わせていた。

 このシーンを垣間見て泣かない奴はいない。もし、涙を流さず、無表情のまま傍観しているだけの奴がいたとしたら、そいつはきっと心も体も枯れ果てた寂しい奴だと思う。

「どうして……どうして僕は成仏出来ないんだろう」

 寂しそうに呟くトモロウの姿が、柔らかな夕陽の光の中に黒いシルエットとなってぼんやり浮かび上がっていた。

「仕方が無いよ」

 なんて気の回らない声の掛け方なのだろう。

 情けない。

 自分で自分が嫌になる。

 自分自身を激しく罵りたくなる感情の隆起を、俺は無理矢理奥歯で噛み締めた。

 突然、猫の肉球模様のピンク色のハンカチが、トモロウの鼻先に突き出される。

 面食らうトモロウの前に、ふふんと鼻で笑う日和の顔があった。セーラー服姿で、黒いリュックをしょっている。どうやら以前話していた模試の帰りらしい。

「姉ちゃん! どうしてここに?」

「模試終ってから飛んできた」

「場所、良く分かったね」

「私がご案内しました。姫様からの伝心がありましたので」

 日和の傍らで、白眉が微笑んでいた。伝心ってのは、テレパシーの事なのだろうか。

「志桜里さん、行っちゃったのか」

 日和の問い掛けに、トモロウは鼻を啜りながら頷いた。

「あの子、トモの事、きっと待ってると思う。だからトモは、やるべき事をやろう」

「やるべき事って……」

「分からない。姉ちゃんも分からないけど、たぶんそのうちきっと分かるよ」

 日和の台詞は不確かなニュアンスを含んではいるものの、何故か前向きに進んでいけるような、不思議な言霊を宿していた。

「姉ちゃん」

 トモロウは顔を上げた。

 まだ涙ぐんではいたが、さっきまで彼を取り巻いていた寂寥の渦が、少しほころびたような気がした。

「俺もとことん付き合うから」

 俺はトモロウの頭を拳でぐりぐりしてやった。

「痛いよ兄ちゃん」

 トモロウの顔に笑顔が戻った。

「そろそろ帰るぞ。丈瑠の電池切れも時間の問題だからな。てめえの足で帰れるうちにかえらないと面倒なことになるからな」

 せいらが真顔で俺達に退却をせかす。

「せいら、俺、そんなにやばいの?」

「ああ、超ヤバイ」

 にわかに信じがたい状況だった。俺自身、決して疲れている訳でもなく、むしろ気をはってるせいか、元気過ぎるくらいなのに。

 でも守護霊の神様が言うんだから、従うしかない。

「車でアパートまで送るね」

 美月さんが俺を気遣ってか、心配そうに声を掛けてくれた。

「大丈夫だ、歩かせるから。甘やかしちゃ駄目だ」

 せいらが憮然とした顔で美月さんに即答した。

「おいおい、さっき言ってた事と矛盾してねえか?」

「これも修行」

「何でやねん」

 ふくれっ面の俺を見た日和が、ぶはっと笑った。

「遠慮しなくてもいいですよ」

「大丈夫!」

 美月さんが気を使ってくれるものの、せいらは頑なにそれを拒んだ。

「もし途中で動けなくなったらどうすんだよ」

 不満をたらたらぶちまけながら、俺は自動改札を抜けた。ふと気が付くと、トモロウがいない。

 いた。改札の駅員に何か話しかけている。俺は歩みを止めると、彼がこちらにやって来るのをじっと待った。知らない間に十メートル離れちまうと、まずいことになる。俺がここから移動して、トモロウが突然消え失せたら、駅員はいったいどんな顔するだろう。見てみたい気もするけど、騒ぎが大きくなったら困るので、俺は素直に回避を選択した。

 しばらく待っていると、トモロウは何故か自動じゃない改札から、嬉しそうにほくそ笑みながら出てきた。

「ごめんなさい、遅れて」

「何してたんだ?」

「実は、これを貰ってきました」

 トモロウは照れくさそうに舌をちろっと出すと、掌の中に大切に握りしめたそれを俺の鼻先に突き出した。

「これって……」

「入場券です。今日の記念に。志桜里ちゃんも同じものを持って行きましたし。お揃いって事で」

 うううん、お揃いっていやあ、お揃いだけど。まあ、本人が満足してるのならそれはそれでよしか。

「じゃあ、大事に持っとけよ」

「はいっ! 家宝にします」

 トモロウは、入場券を愛おし気にまじまじと見つめると、大事そうにシャツのポケットにしまった。

「せいら、マジで歩くのか?」

 先に駐車場に着いた美月がおいでおいでしているのを恨めし気に見つめながら、俺はダメ元で清羅に尋ねた。

「ああ、マジだ」

 せいらは俺の懇願を容赦無く突っぱねた。

「ここからだと二~三キロはあるぜ」

「大丈夫だ、それぐらいはもつ」

 相変わらず憮然とした面相で拒絶を繰り返すせいらに、俺は妙な違和感を覚えた。

 女神様は、いったい何をおたくらみになっているのでございましょうか。

 心を読まれているのを想定して、極力敬語で疑問を思い浮かべてみる。が、せいらの仏頂面に変わりはなく、答えるそぶりを見せようとはしない。

 ひょっとして、何か怒らせるような事をやっちまった?

 それは無いと思う。

 たぶん。

「公郷さん、私も歩きます」

 美月と一緒に駐車場で待機していた日和が、駆け足で戻って来る。

「え、大丈夫?」

「大丈夫です。家の方向は同じなので。途中でバスに乗ります。トモロウとも話がしたいし……」

 日和は振り返ると、車中から様子を伺っていた美月さんに軽く頭を下げた。

 美月さんは、ちょっと寂しそうな笑みを浮かべながら、俺達に手を振ると、ゆっくりと車を駐車場から出した。

 俺は走り去るミニクーパーを吐息と共に見送った。

「行くぞ」

 せいらは、俺の未練たらたら目線を遮るかのように俺の目線の前に立ちはだかった

「ああ」

 今度は、俺の方が思いっきり不機嫌にふてくされた態度でせいらに答えてやった。

 さりげなく日和に目線を向ける。彼女はトモロウと今日の模試の内容で熱い議論を交わしている現在進行形。白眉はそんな二人を微笑まし気に後ろから見守っている。

 打ち返す潮騒の心地よい調べに誘われながら、俺達は海岸沿いの道を進んだ。

 俺の横を漂うせいらに再び目線を向ける。

 残照を浴びてオレンジ色に染まったせいらの横顔は、何処か思いつめた様な憂いを湛えていた。

 せいらの奴、やっぱり何か隠している。 

「せいら」

「なんだ?」

「何か心配事でもあるのか」

「いや、気にするな」

 気にするよ、そりゃあ。さっきから何となく不機嫌だし、タメ口きけば何かと絡んできたくせに、何故か今はスルーだし。

「おい」

 俺は右手の親指と人差し指で、せいらの両頬をきゅっと挟んだ。

「にゃにぃすんらよお」

 せいらはカワハギのように口をふにふにさせて俺を睨みつけた。

「隠し事はよそうぜ。守護霊と守護され人の間柄だろ。他人じゃないんだから」

「うううううっ!」

 せいらは顔を左右に振って強引に俺の束縛を振り払った。流石に反撃してくるだろうと思ったが、意外にも何も仕掛けてこない。

 拍子抜けしてしまった。

 全く相手にされていない腹立たしさよりも、今までにないせいらの態度が不気味にすら感じられる。

 こいつ、いったい何を企んでいる?

 ひょっとしたら、トモロウと志桜里の純愛に感動して、自分に置き換えて余韻に浸っているのか?

 せいらが意識している相手といやあ、間違いなく白眉だろう。でもそれなら、俺のそばをふわふわ漂わずに、率先して白眉に絡みに行くはずだ。

 てことは、ひょっとして俺?

 まさしく、禁断の恋の相手。まさか……?

 現に、俺のそばを離れずにいるではないか。いや、それは俺の守護霊だからだし。

 憶測だらけの思考がとんでもない妄想となって、俺の頭の中を埋め尽くしていく。

 不意に、せいらが目を鋭く細める。頬がしゅんと強張り、瞬時にして緊張が彼女の表情を一転させた。

 まずい。俺の思考を覗き見された?

「丈瑠、気を付けろっ! 敵襲だっ!」

「え、何?」

 せいらの思いもよらぬ一声が、俺の行動をワンテンポ遅らせた。きょとんとしている間

 に、巨大な黒塗りのワンボックスカー二台が俺達の退路を断つかのように前後を塞ぐ。

 無数の人影が車から飛び出し、俺達を包囲した。ダークスーツに黒いサングラス。推定年齢二十代後半から三十代前半。細身だが明らかに筋肉質な体躯をしている。某番組で逃げ惑う芸能人を追い掛けるアレ的な奴らが総勢十名。思いっ切りベタな怪しい集団だ。

「公郷丈瑠君だね」

 黒服のリーダー格と思しき男が、愛想笑い一つ浮かべずに俺に問い掛けた。

「違います。人違いです」

 俺は咄嗟に否定。

 と、奴はにやりと笑みを浮かべた。

「姑息な手を使うんだね。だが君の事は調査済だ。誤魔化しは効かない」

 奴がそう言い放った直後、黒服達が一斉に動く。

 くそう。こうなったらやるだけやるしかない。

 俺は拳を固め、臨戦態勢にはいった。とりあえず恰好だけは。残念なことに、俺は武道経験も喧嘩での修羅場経験も全くなく、俺の経歴を知っている者から見れば、明らかに勝算はゼロ。無謀な抵抗だった。

 とっ捕まる前に一発くらいは殴れるか。

 そう思った矢先、間近に迫っていた男達の身体が大きく弾き飛ばされ、中空を舞った。

「手出しはさせんぞ」

 黒服達の間にどよめきが起きる。

 俺の前に、実体化したせいらが立っていた。

 澄んだ瞳で、男達をかっと据えている。

 静かで、奥ゆかしい闘気が、せいらを中心に大きく渦巻き、立ち尽くす黒服達を完璧に圧倒していた。

 堂々としたその立ち姿に、俺は底知れぬ安堵感を覚えていた。

「サンキュー、せいら」

 抑えきれない感謝の思いが、不意を突いて俺の喉からこぼれる。

 せいらはちらっとこちらを見ると、にやりと笑みを浮かべた。

 俺はどぎまぎしながら、その一瞬の残像を脳裏に焼き付けた。

 ぞっとするほどに可愛かった。

 残照のせいなのか、込み上げて来る闘志の現れなのか、せいらの色白の頬は桜色に染め上げられ、俺の気持ちを根本からからめとっていた

 勇ましさとは違う、不思議と落ち着き払った立ち振る舞いに、俺の心は完璧に鷲掴みされていた。

 背後から迫る無数の靴音。振り向くと、ミニバンの後ろに何台もの黒塗りの高級車が連なって停車し、そこからも超ベタな黒服達が続々降りて来る。

 不意に、雲一つない空から、不規則な軌跡を描きながら閃光が走る。

 同時に耳をつんざく轟音が、大地を激しく揺らした。

 瞬時にして、後続の黒服達は地に伏せていた。

 白眉だ。

 せいらと同様に実体化した白眉が、日和を庇う様に立ちはだかると、静かな眼差しでうめき声を上げる黒服達をねめつけた。

「今度は容赦しない。次はその命、あると思うな」

 白眉は無表情のまま、静かに言葉を紡ぐと、じっと周囲を見渡す。      

 動く者はいなかった。

 否、動ける者は、が正しい。

 彼らは、突然姿を現した二柱の神々の存在と自分自身が受けた圧倒的な力に、闘志そのものを根こそぎ奪取されていた。

「流石、いい仕事見せてくれるねえ」

 聞き覚えのある声が、黒服達の背後から響く。

 俺はぎょっとした表情で、その声の主の姿を追った。

 声の主は、黒服達の背後からゆっくりと姿を現した。

 森崎だ。

 ダークスーツの男達とは対照的に、チャコールグレイのカットソーの上に、チェックのシャツ、ボトムスは洗いざらしのデニムといういつものラフな風貌が、そこにはあった。  

 ただし、いつもの様なへらへら笑いは無く、珍しくきりっと引き締まった真顔で俺と対峙している。

「公郷、悪いけどちょっと付き合ってくんね?」

「先に理由を説明しろよ。こんな大勢で俺達を取り囲んで、どういうつもりだ?」

「まあ、頼んでもまともに引き受けてくれそうには思えない内容だからな。特にお姫様は絶対反対だろうから」

「じゃあ断る」

「おいおいそれはねえだろ。そうなりゃ力ずくってことになっちまう」

 奴の横に人影がぼんやりと浮かび上がると、超高速度でハイクオリティのスリーディー画像へと進化を遂げた。

 あれは迦楼羅――風雅だ。彼は以前と同じく派手派手で微妙ないでたちに変わりはないが、笑み一つない真顔での対峙が、何となく歪な空気を醸していた。

「纏わりつく嫌な気配に何となく覚えがあると思えば貴様だったとはな」

 せいらはあからさまに侮蔑を込めた憤怒の表情で、風雅を見据えた。

「せいらちゃんの守り人を借りたい」

「何故に?」

「話せば長くなる。まあ、私が話したところで、そなたは聞き入れてはくれぬのは百も承知。ただ、時間がないんでね。やむなくこのような形をとらせてもらった」

 チャラいイメージを払拭するかの様な風雅の高圧的な態度に、俺は困惑と同時に得体のしれない戦慄を覚えていた。

「断るに決まってんだろうがっ!」

 罵声を浴びせるせいらの身体から、紅いオーラが激しく渦巻きながら立ち上る。

 風雅は大きく吐息をついた。重く、深く体の奥底から絞り出されたそれは、意外にも悲壮感漂う寂寥の調べを奏でながら、張り詰めた空気を静かに凍てつかせていく。

「どうしてもか?」

「どうしてもだっ!」

 せいらが跳ぶ。

 紅蓮の炎と化した気の渦を纏い乍ら、風雅に拳を打ち据えようと――。 

 止まった。

 風雅が軽く手をかざした刹那、せいらは空中で停止したまま、硬直した。

「姫様っ! 」

 白眉が慟哭の叫びを上げ、中空を駆る。が、彼もまた、せいら同様、中空で停止したまま身動きが取れなくなった。

「無駄だよ、二人とも。君達は私の作った結界の中にいる」

「いつの間に?」

 白眉が悔しそうに風雅を睨み付ける。

「人間達に神力を披露した時さ。私の力とうまく拮抗してくれたから、少しも気付かれずに施術出来た。感謝するよ」

 風雅は何となく悲し気に皮肉めいた台詞を紡ぐと、開いていた手を閉じ、拳を結んだ。

 消えた。

 せいらと白眉が、瞬時にして消失していた。

「貴様、何しやがったあっ!」

 すまし顔で佇む風雅を、ありったけの憎悪を込めて睨み付ける。

 俺の中で、何かが切れた。

 今までこんなにまで怒りを感じた事があっただろうか。

 全身を駆け巡る熱い気の噴流が、底知れぬ狂気の扉を押し破り、恐怖を感受するリミッターを粉々に打ち砕く。

「ちょっとまて、こんな奴でもまがりなりにも神様なんだぜ。その言葉遣いはちょっと失礼じゃねえの?」

 森崎が眉を顰めた。

 でも、それもおかしくないか? いくら自分の守護霊とはいえ、「こんな奴」呼ばわりする彼の方こそ失礼だと思うのだが。

「公郷、何も言わずに俺について来てくれ! 時間が無いんだ」

 森崎は真剣な表情で熱いまなざしを俺に注いだ。

「分かったよ。但し、条件がある」

「何だ? 言ってみろよ」

「この子には手を出すな。このまま家に帰してやってくれ」

 横目でちらっと日和を見た。驚きの表情を浮かべる日和の横顔が視界に映る。

「ああ、大丈夫。保証する。元々標的はお前だけだったからな」

 森崎は満足げな笑みを浮かべながら、ゆっくり近づいて来る。

 不意に、俺と森崎の間に影が滑り込んだ。

 日和だった。

 あっけにとられる森崎の隙を突き、日和が奴の手首を掴むと思いっきり捻り上げる。

「うわっ!」

 体制を崩された森崎は、弧を描きながら路面に転倒した。

「公郷さん、逃げて下さいっ!」

「え?」

「大丈夫。私、合気道やってますから」

 驚きだった。日和の華奢な体躯からは想像出来ない事実だった。

「このっ!」

 森崎が身を捻りながら日和に足払いを掛ける。

 日和は森崎の手首から手を離すと後方に跳躍。体制を崩しながらも何とか踏み止まる。

 が、身構える間もなく、森崎が一気に間合いを詰める。

 冷徹な輝煌を放つ森崎の眼が、まっすぐ日和を捉えている。

 腰だめにした奴の右拳に容赦の無い闘気が満たされていく。

 奴の右拳が空を裂く。

「何っ?」

 森崎の表情が驚愕に歪む。

「……悪かったな」

 俺は苦し紛れに精いっぱいの笑みを浮かべた。

 日和を打つはずだった奴の拳は、俺の鳩尾に深々と食い込んでいた。

 余裕は、全くない。奴の拳は異様に重く、的確に俺の鳩尾を突き上げていた。一瞬呼吸できなくなるくらいのダメージと、胃の中のものをぶちまけてしまいそうな嘔吐感が、俺の喉元を支配していた。

 俺は苦痛に身悶えしながらも、奴の腕に両腕を蛇の様に絡め、自由を奪った。

「日和ちゃん、逃げて!」

「公郷、さん」

 日和が、驚きの目で俺を見ている。俺の反撃への驚きか。それとも、ひょっとしたら「日和ちゃん」なんてちゃん付けで呼んじゃった事への恥じらい? それとも嫌悪なのか?

「兄ちゃん、姉ちゃん、逃げてっ!」

 いつの間にか森崎の背後に回ったトモロウが、奴の首に腕を回して、ぐいぐいと締め上げていた。

「トモロウっ!」

「早く、今のうちに!」

 必死で叫ぶトモロウの声を耳にしながらも、俺はその場を動けずにいた。

 トモロウの背後に浮かぶ、風雅の憮然とした表情に、俺は嫌な胸騒ぎを覚えていた。

 風雅は口早に祝詞を唱えると、右手で手刀を紡いだ。

 その気配に気付いたトモロウが振り向く。

「逃げろっ!」

 俺は森崎の腕から手を離すと、一気に跳躍した。

 森崎が、体制を崩して前のめりにつんのめる。

 脇を過ぎるトモロウの顔。

 俺はそのまま、風雅の前に立ちはだかる。

 真っ直ぐに振り下ろされる薫風の手刀。

 閃光が視界を奪うと同時に、強烈な衝撃が俺を激しく打ち据えた。





 ここ、どこだろ。

 ふかふかの感触は、どうやらベッドの上らしい。

 何がどうなったのか。

 意識が酩酊し、思考が完璧に吹っ飛んでいる。

 はっきりわかっているのは、風雅が放った何かをまともに受けた所まで。

 後はどうなったのか全く分からない。

 ゆっくりと目を開ける。

 心配そうに俺の顔を覗き込む日和とトモロウの顔が両眼いっぱいに映る。

「よかったあ」

 日和が安堵の笑みを浮かべながらぼろぼろと涙を流した。

「兄ちゃん、大丈夫?」

 ハの字眉毛で目をうるうるさせているトモロウに、Ⅴサインで返すと俺はゆっくりと身を起こした。

「ここは、何処?」

 日和に声を掛けると、彼女は困った表情を浮かべながら首を横に振った。

「分からないんです。大きなお屋敷なんですが、どこの誰のかは」

 俺は上半身を起こすと、頭をガシガシと掻いた。

「俺、どれ位寝てた?」

「一時間位かな」

「そっかあ」

 まるで丸一日寝ていたんじゃと思う程に、頭はすっきりしていた。頭だけじゃない。体も今までにないくらい、活力に満ち溢れている。

 迦楼羅――大津天風雅の攻撃を受けたダメージや後遺症は皆無だった。それどころか、いつもより遥かに調子がいい。俺の身体、いったいどうなっちまったのか。

「日和さん、ごめんな、巻き込んじゃって」

「あ、いえ、大丈夫です。私の方からついて来ちゃったんで」

「えっ?」

「丈瑠さんの事、放っておけなくて。家には遅くなるって連絡してあるので大丈夫です」

「ん?」

「え、あ、ごめんなさい、久郷さん、でした」

  彼女は恥ずかしそうに顔を真っ赤にすると、俺から眼を逸らして俯いた。

「丈瑠さんでいいよ。丈瑠でもタケちゃんでもいいし」

「じゃあ、私の事は日和ちゃんでお願いします。日和でもいいですけどお」

「日和にしよっか。その方が大人っぽくていいっしょ」

「分かりました! じゃあ私も丈瑠って呼びます! さん付けだとどこかよそよそしいし、君付けも何となく他人っぽいし……」

 日和はあわらあわらしながら目線を中空に泳がした。

 この娘、面白い。ずっとか勉強一本やりのインドア派超真面目女子校生ってイメージだったけど、合気道はやるは、そんでもってこの会話だよ。

 今の時代にしちゃあ、奇跡に近い超純情乙女。

 可愛い。

 可愛過ぎるよ。

 恥じらいに満ちたしぐさの割には、思いを貫き突き進む行動力と発言力を兼ね備えた女戦士だ。

「姉ちゃんと兄ちゃん、何だか恋人同士みたいだね」

 トモロウがにまにま笑みを浮かべながら、ひゅうひゅうと囃し立てる。その台詞に触発された日和は、完璧にゆでだこ状態になっていた。

「そんなこと言っちゃ、丈瑠――はきっと迷惑だしょ」

 いきなりの「丈瑠」運用に、日和は戸惑いながらも何とか初荷の実績を上げた。

 迷惑じゃない。

 て、言うか、この展開って……。

 俺を助けようと森崎に対峙した彼女の姿を見た瞬間、俺の中で、彼女への愛おしさが爆発的に増殖していた。小柄な体躯にもかかわらず、長身の森崎に挑む姿に、俺はときめきと感動を覚えていた。

 それこそせいらが身を挺して俺を黒服達から守った時に垣間見せたあの横顔――自信に満ちた表情に浮かぶ、頼もしさとりりしさを兼ね備えた魅力的な美が、一瞬にして色あせてしまうほどに。

 でも。どうなんだろう。

 急展開のきっかけで日和側にぶれた心のゲージをグイっと引き留める妙な感情が、俺の意識にブレーキをかけている。

 何だか、胸の内がもやっている。

 俺は戸惑っていた。

 いつの間にか、せいらと日和を天秤にかけている自分に。

 馬鹿だと思う。

 せいらは俺の守護霊だ。結ばれる訳が無い。それに、恐らくせいらは白眉の事を……。

 だったらどうする?

 今この時この瞬間が俺の人生にとって大いなるターニングポイントかもしれないんだぞ。

「迷惑じゃないよ」

「えっ?」

「いいと思う」

「えっ?」

 日和は戸惑いながら俺を見つめた。

 俺、何言ってんだろ。もっとちゃんと言えねえのかよ。何か抽象的で掴み処がないし。

 こんな台詞聞かされたって混乱を招くだけだろうよ。遠回しな言い方だったけど、告った事になるんだろうか。

 だが残念な事に、俺の心の迷いが、ボキャブラリー貧困者の本領をフル覚醒させていた。

「私も、いいと思います」

 日和が、ゆであがった蛸状態でぽつりと呟いた。

 不意に、沈黙が訪れる。

 おどおどしながら俯いたままの日和を、俺は困惑しながら見つめた。

 これって、遠回しなりに告った事への、遠回しなりにOKの答えって事なのか?

 もし、せいらがここにいたら、きっと俺の後頭部を思いっきりぶんなぐっていただろう。『はっきりしろや、この野郎!』って、罵声を浴びせながら。

「よう、気が付いたか」

 ノックもせずに森崎が部屋に入ってくる。

「貴様っ!」

 俺はベッドから跳ね起きた。

「驚いたな、全然元気じゃん」

 森崎は目を丸くしながら、軽い足取りでベッドの傍らに近付いて来る。

「確かに。私の雷撃を至近距離で受けて無傷とは驚きだ」

 森崎の傍らに実体化した風雅が、興味深げに俺を見つめた。

「もし、あのままトモロウが食らってたら?」

 俺は風雅をねめつけた。

「成仏していたよ。霊体じゃなくても、普通の人間でも同様の結果になったはず」

 風雅は悪びれる素振りを微塵も見せずに、朗々と語った。

「俺は普通じゃないってことかよ」 

「霊体を実体化できる奴が普通の奴かよ」

 森崎の指摘を受けて何となく自覚出来た。

 確かにそうだ。これで常人だなんて言ったら嘘になる。

「森崎、一つ聞いていいか?』

 俺はじっと森崎を見据えた。

「何だ?」

「さっき日和に手首を捻られた後、反撃に出て彼女に殴り掛かったろ、あの時、本気で殴るつもりだったのか」

「んな訳ねえだろ。寸止めにするつもりだったよ。まさかお前が間に割って入ると思わなかったからな。すまなかった」

 森崎は意外と素直に謝罪の弁を述べると、腰を九十度に曲げて深々と頭を下げた。おれは奴に頭を上げるように促した。根は真面目な奴の事だ。その言葉に偽りはないはずと信じたい。

「んで、いったい俺に何をしろってんだ?」

「実体化してほしい霊体がいるんだ」

 森崎は顔を上げると、今までになく真面目な表情で俺を見た。

「えっ?」

 俺は驚きの声を上げると同時に、その言葉を呑み込んだ。

 以前、せいらが俺に話してくれた事がある。俺の力に魅入られ、実体化を求めて寄って来る悪霊が現れるかもしれないと。

 でも、実際には俺の力を狙ってくるのは悪霊だけじゃないって事か。

 そうかもしれない。俺の力を使えば、故人と会話をしたり、食事を楽しんだりできるのだから。人によっては、それで金儲けをしようって企む奴も出てくるだろう。

 森崎も、そんな下賤な輩と同族か?

 そうは思えないし、思いたくもない。

「誰を実体化して欲しいんだ? その理由も知りたい」

 俺は、込み上げて来る疑念を押さえつけながら、森崎に事情を問うた。

「俺の叔母の子供さ。去年、5歳で亡くなった。悪性の脳腫瘍でね。見つかった時には手の施しようがなかったらしい。遅くに出来た一人息子だったから、立ち直れないくらいに落ち込んじゃてさ。未だに子供の事が忘れられずにいる。だから、公郷の力を借りて、亡くなった子供――陽って名前なんだけど、会わせて少しでも話をさせてあげれれば、気持ちの切り替えが出来るんじゃないかってね。なんせ、亡くなる間際は会話できる状況じゃなかったから」

「それで、俺に」

「ああ。公郷がその少年の幽霊と親しく話してんの初めて見た時、びっくりしたよ。おまけに実体化してるし」

 森崎が感心して頷くのを、俺は胡散臭そうに見据えた。奴の説明は引っかかることばかりだ。それならそうとちゃんと説明してくれれば、こんな誘拐じみた事――否、完璧に誘拐だぜ、これ――をしなくても、場合によっては協力できた話だ。おまけに、日和を巻き込まずに済んだかもしれないし。

「何故、こんな遠回しな事態を引き起こしたか疑問に思ってるよね」

 心中を察したのか、風雅が目を細めながら俺を見つめた。

「一つは、個人的にせいらが私を嫌っているから。まあ、それは自分の蒔いた種だからしかたがないとして。もう一つは、賢明な彼女ならこう考えると思ってさ。依頼者が実体化した亡くなった我が子と対面したら、きっと別れたくなくなるだろう。そうなったら、きっと君をこの屋敷に幽閉するんじゃないかってね」

 風雅は苦笑を浮かべた。

 確かに、真正面から話を持ってこられても、せいらならそう考えて、絶対俺を行かさないだろう。この二人には、自己中心的な考えはないと信じたいけど、実際、その母親がどう思っているのかが気になる。あれだけの人を雇い、その上、俺が今いる部屋も、そのインテリアからして半端ない豪奢さと気品を兼ね備えている。てことは、その母親はかなりの資産家で、目的の為なら金に糸目をつけない感じがするのだ。

 もし、この話を断ればどうなるのか。

 考えたくない。

 せいらと白眉が風雅の結界に閉じ込められたままになっている今、俺達だけで抵抗するのは無理がある。

 風雅の神力に太刀打ち出来たのも、またやれるかって言われると自信がないし。そうなれば日和やトモロウだって今度ばかりは只で済まないことになるかもしれない危機感がある。後は、風雅と森崎がどこまで人道的に対処するかだけど。

「少しだけ話が出来れば、それでいいのか」

 しばらくの沈黙後、俺は躊躇いながらも彼らの意向を承諾した。

「ああ、ほんの少しだけでいい。叔母が陽に伝えたかった事、陽が叔母に伝えたかった事、それぞれが心置きなく話せれば、それでいい」

「分かった」

 俺は頷いた。淀みなく語る森崎の言葉に、嘘偽り企む陰りは、俺には感じられなかった。

 俺に、人の心を見抜く心眼はない。だから確証はないが、言葉だけでなく、奴のしぐさや表情に俺を陥れようとする感じが見受けられなかっただけだけど、まんざら外れてはいないと思う。

「万が一の時には、私が君を守る」

 風雅は真顔で俺を見つめながら、グイっとⅤサインを示してきた。この人――じゃなくて神様の方が噓臭い。

「風雅、せいらと白眉はいつになったら解放してくれるんだ」

 俺は風雅に尋ねた。おいおい、神様を呼び捨てにしちまったぜ。自分ながらに呆れてしまうわ。ここまで神と人との垣根を取っ払っちまうのは、やっぱまずいよな。

「もうしばらくまて。実は、あの結界、私の力では解除出来んのよ」

 風雅は腕を組んで顔をしかめると、俺の無礼な発言を責めるのではなく、申し訳なさそうに、がっかりするような回答を述べた。

「え、なんじゃそれ」

「対悪神用プレミアムエクセレント結界なんでな。構成している気のエネルギーが尽きるまでは無理だ」

「あとどれ位?」

「半日ってとこか。その後の事を考えるとぞっとする」

 風雅は目を閉じると、深刻な表情を浮かべながら頭を抱えた。結界が解かれた後の自分の身を案じているのだ。その辺は覚悟しとけよ。

「じゃあ、早速。公郷、立てるよな?」

「ああ」

 森崎の言葉に頷くと、俺はベッドから降りた。

「私も、ついて行っていいですか」

 靴紐を縛っていると、日和が心配そうに囁いた。

「日和は家に帰った方がいい。御両親が心配しているだろうから」

「嫌です。一緒じゃなきゃ。何かあったら私が丈瑠を守る」

 日和は拳をぎゅっと握りしめながら、俺に強く訴えた。

「分かった」

 俺は彼女の拳をそっと握った。彼女は慌てて拳を解くと、今度は手をぐっと握り返してくる。

「へええええ」

 森崎がそんな関係だったのかよ的な好奇な視線とともにニマニマ笑みを浮かべた。

「姉ちゃんがこんな強いとは思わなかった」

 トモロウがニコニコしながら日和の横に並んだ。

「大切な人の為だから」

 日和は、ぽつりと、ずしりと来る台詞を刻印した。言ってから、恥ずかしくなったのか、またまた顔が真っ赤に茹で上がっていく。

 なんかこの娘、すごく積極的でアクティブ何ですけど。見た目から感じられるか弱さと控えめなイメージが、ぐすぐすと崩れていく。ある意味、萌えるタイプかも。世のオタクな人々が降臨するのを待ち望んでいる神的存在かもしれんぞ。

 廊下に出ると、例の黒服達がずらりと整列していた。総勢二十名は下らない。

「彼らは叔母のボディガード兼執事だ」

「こんなに大勢?」

「まだいるよ。ここにいるのはほんの一部」

 開いた口が塞がらなかった。

 森崎の叔母って、いったいどれだけの人物なんだ。まさか、アンダーグラウンド的なお方?

 長い長い廊下を進むと俺達は突き当りの部屋に通された。

 側面一面ガラス張りの窓から、沈みかけた夕日の僅かな残照が降り注ぎ、部屋全体を深紅に染め上げている。

 なんだこれは。

 広い。広過ぎる。ホテルや旅館の大宴会場ぐらいある。驚いたのは、その部屋のインテリヤ。ふかふかの絨毯が敷き詰められたフロアーに、大量のぬいぐるみに滑り台、電動の車のおもちゃ(乗れるやつ)、ミニカーやらプラレール、おもちゃのブロックが至る所に置かれている。それも、几帳面にきちんと整理整頓されているのだ。

「遊戯室だ。陽の遊び場」

 森崎の説明を聞く前から何となく予想はついていたものの。改めて正式に肯定された回答を聞くとなお一層愕然としてしまう。

 このワンフロア―を、一人の子供の為にかよ。

 俺は生唾を飲み込んだ。

 子を思う母の愛情の深さというよりも、むしろ狂気の所業の様にも思えた。

「最初は普通の子供部屋位だったんだ。それが、いつの間にか隣の部屋を次々に潰してしまって、気が付いた時にはこんな感じさ」

「旦那さんは?」

「別居中。旦那は小児科医なんだけど、叔母が、自分の子供の異常にどうして気が付かなかったって、相当攻め立てたらしい。専門外だから仕方がないんだけどね。彼女の父親も内科医だったから、その辺は理解しているんだけど、そうなると叔母は自分の親も攻めたて始めてさ、好き勝手始めちまって、挙句の果てはこの有様さ」

「じゃあ、ここまで広げちまったのは亡くなってからなのか」

「ああ。叔母はおもちゃをたくさん用意して、遊び場所を広げれば、陽が帰ってくると思い込んでいるらしい」

「病んでるな」

「ああ、病んでる」

 森崎は深い吐息をついた。

「それで、見かねて俺の事を話したのか?」

「いや、違う。話を持ち出したのは叔母からだ」

「何故に?」

 俺は眉をひそめた。俺の能力を知っているのは相当限られているはず。いったいどこからその情報が流れたのか。

「公郷が初めてトモロウ君を学校に連れて来た時、実体化したところを目撃されている。見間違いだろってことで噂にはならなかったけど、防犯カメラにばっちり映ってたんだ。しかも親し気に会話しながら歩くおまえの姿もね」

「それを、叔母さんが見たのか?」

「そういう事。陽が亡くなってからそっち方面も関心が深くてさ。学生の話を耳にして、自分で調べたらしい。叔母は俺の霊能力の事も知ってるから、何とかして陽と合わせろってしょっちゅう言われててさ。今度はその映像を見せられてすぐに誰か調べて連れて来いって……」

「おい、ちょっと待って。おかしいだろ。防犯カメラの映像なんてそう簡単には見れんだろ。それこそ関係者じゃないと」

「あ、言ってなかったか。叔母は俺達の行ってる大学の理事。因みに父親は理事長で爺さんは名誉会長をやってるわ」

 そういう事か。そりゃあ、こんな豪邸にも住めるわな。

「そんな訳で俺に御前達を連れてくるようにと指令が下ったのさ」

「金で友を売ったのかよ」

「嫌な言い方するねえ。安心しな、金は貰ってねえよ。まあ身内って事で学費は免除して貰ってっけどよ、それはまた別の話だ」

「で、その叔母様はどこにいる?」

「この部屋の奥さ」

 おいおい。まだ部屋の戸口とは言え、いろんな事を結構大きな声でしゃべってたぜ。大丈夫かよ、本人に聞こえてんじゃないか、おい。

 俺達は森崎に先導されながら部屋を突き進んだ。

 部屋中、クッキーを焼いたような甘い匂いが立ち込めている。

 きちんと整理されたおもちゃやミニハウスを抜けると、かわいらしいぬいぐるみで埋め尽くされたクイーンサイズのベッドがあり、その傍らに、白地に淡いブルーのワンピース姿で、顔を伏せて腰かけている女性の姿があった。

「叔母さん、連れて来たよ」

 森崎の声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。歳は三十代後半位か。目鼻立ちの整った美人なのだろうが、憔悴し、生気を失ったその表情は、本来の美しさと若さをごっそり奪い取っていた。

「あなたが公郷君?」

 喉からやっと絞り出したか細い声で、彼女は俺に声を掛けた。

「はい」

「彼から話は聞いてますか?」

「ええ」

「お願い、陽に会わせて」

 彼女は俺の手首をぎゅっと掴むと、ぎょろりとした眼球が零れ落ちんばかりに両眼をかっと見開いた。

 一瞬、ぞぞっと冷たいものが背中を走った。

 鬼気迫る表情で縋りつく彼女に困惑しながら、俺はある事実に気付いた。

 トモロウをが実体化しているのは、俺の意志でって訳じゃないのだ。志桜里の時も、気が付けば実体化してたし。

 どうすりゃ出来るんだ?

 そうだ、悩むまでもなかった。当人に聞けばいいんだ。

「トモロウ」

「はい?」

「トモロウは、どうやって実体化したの?」

「へ? いやあ、何となくって言うか……気付いたらなってました」

「じゃあ、志桜里さんの時は?」

「ああ、あの時は、志桜里ちゃんも実体化すればいいのにって思ったらなりました」

「じゃあさ、陽君が実体化擦ればいいのにって祈ってくれ」

「はい。でも陽君って何処にいるんだろ」

「あそこにいる。見知らぬ人が押しかけて来たから怖がって隠れたみたい」

 日和がベッドのから少し離れた所にあるログハウスっぽいミニハウスを指さした。

 そうか、日和は見える人なんだ。残念ながら俺には全く見えん。

 トモロウは姉の指さす方向を見ると、手を合わせて何やらぶつぶつと唱え始めた。

 変化はすぐに現れた。

 ミニハウスの傍らに恐る恐るこちらを覗く小さな男の子の姿が見えた。黄色のパーカーにデニムのパンツを履いている。

 あの子が陽君か。間違いない。面立ちが何となく母親に似ている。

「陽っ!」

 母親は子供のそばに駆け寄り、倒れこむようにひざまずくと、力いっぱい抱きしめた。

「陽、会いたかったあああああ」

「僕もだよ、ママ」

 陽は嬉しそうに微笑むと母親の胸に顔を埋めた。

 母親は嗚咽を漏らしながら、愛おし気に我が子の髪に顔を摺り寄せた。

 何だか、すげえいい事した気分。トモロウは満足げに腕組みしてるし日和も目を涙でうるまさせている。

「ごめんね、ママ」

 陽が、母親の耳元でぽつりとつぶやく。

「どうしたの?」

「僕の方が先に死んじゃって」

「陽は悪くない。悪いのはママ達よ。ママもパパも、誰も陽君が苦しい思いをしているのに、誰も気づかなかったんだから」

「ママは悪くない。パパだって、それにじいじだって悪くない。これが僕の運命だったんだよ。だから、お願い! 誰も責めたりしないで」

 母親は、はっと我に返った。

 この子は全てを知っているのだ。自分のやり場のない気持ちを、夫や親を責めることで胡麻化そうとしていた姿を。

 きっと陽は、亡くなってからも、いつも母親のそばにいたのだ。そして彼は見ていた。彼の死を境に、笑う事を忘れ、自虐の念に囚われ続ける母の姿を。それだけじゃない。父親や祖父をも攻め立てた挙句、妄執に囚われ続ける母の姿を。

 ひょっとしたら、陽はそこまで母親を追い込んでしまった自分の運命に責任を感じながら、呵責の念に苦しめられ続けていたのではないだろうか。

「ママね、どうしても陽に言いたかった事があるの」

「ぼくもだよ、ママ」

「陽、生まれて来てくれて、ありがとう」

「ママこそ、ぼくを生んでくれてありがとう」

 二人はにこっと微笑み合った。

 母親は満足げに子供の頭をなでると、思いつめた様な熱い目線を注いだ。

「陽、これからもずっと、ママのそばにいてくれる?」

「うん」

「ありがとう!」

 母親は満面の笑みを浮かべながら、我が子の頬にキスをした。

 母と子の微笑ましい感動のワンシーン。

 の、はずだった。

 でも俺はこの場面にふさわしくない位に研ぎ澄まされた戦慄を覚えていた。

 予期していた中での最悪パターンだ。

 森崎と薫風が俺との約束を守るのか、それとも最初から叔母側についていたのか。 

二人の動き次第では、俺は一生この屋敷に幽閉されることになる。

「ママ、僕の話、聞いてくれる?」

 陽が、母親の耳元でそっと囁いた。

「うん、なあに?」

 母親はうれしそうに陽の顔を見つめた。

「いつまでもママと一緒にいたいけど、このままじゃ駄目なんだ」

「え?」

「ぼくがママに言っておきたい事を言うね。ぼくね、もう一度、ママとパパの子供になりたいんだ」

「どういう事?」

「ぼくはもうすぐ生まれ変わる。その時は、必ずママの所に来る。だからもう一度パパと仲直りして欲しいんだ」

「本当なの」

「本当だよ」

「ママ、僕との約束、守ってね。絶対だよ」

 陽の身体が、ゆっくりと空間に溶け込み始める。

「陽……」

 母親が驚きの声を上げた。

 俺も愕然としたまま、陽の姿を目線で追った。別に俺から十メートル以上離れたわけではない。それに、俺自身のエネルギー切れって訳でもない。

 なのに、陽の身体は着実に空間の隙間をぬうようにして広がり消えていくのだ。

「転生する準備に入ったのさ。陽はこれが伝えたくて、ずっと叔母さんのそばにいたんだ。でも、そばにいれるのは、今日が最後だった。叔母が旦那とよりを戻さなきゃ、陽は希望通りの転生が出来ないからな。ぎりぎりだった」

 森崎が淡々と語った。

「おまえ、知ってたのか?」

「ああ。陽は俺に伝えてくれって何度も頼みに来てた。でも俺がいくら話しても、叔母は信じてくれなかったからな。やっぱ本人が伝える方が説得力あるっしょ」 

「んなら先に言ってくれよ。一瞬焦ったよ。このままこの屋敷に監禁されるかもって思ったぜ」

 俺は不満たらたら森崎に愚痴った。

「最初に言っただろ、ちょっと会わせるだけだって」

 森崎はいつものへらへら笑いを浮かべながら、茫然としたまま座り込んでいる叔母の傍らに近付いた。

「叔母さん、やる事は一つ、だろ?」

 奴はそういうと、ベットの傍らに放置されていたスマホを叔母に手渡した。

「そう……そうよね。ありがとう、風人」

 彼女は森崎に笑顔で答えた。そして、俺の方を見ると、申し訳なさそうに眉を下げた。

「公郷さんでしたよね。ごめんなさい、私のわがままでご迷惑をお掛けして。この御恩は一生忘れません。また後で改めてお礼をさせてもらいます。本当に有難うございました」

「あ、いいっすよ。これくらいの事」

 深々と頭を下げる彼女に、俺は恐縮しつつ言葉短に返した。俺の中でぐつぐつしていた彼女への当初の苛立ちと腹立たしさは、もはや完全に昇華されていた。

「あの、お願いがあるんですけど、丈瑠の能力、絶対に秘密にしていただけませんか? 人に知れ渡ってしまうと大変な事になってしまうので」

 日和が徐に、おずおずと森崎の叔母に申し出た。

「分かったわ、誰にも言わない。風人もね」

 彼女はにっこり微笑むと森崎にもその旨の同意を促した。

「あいよ」

 森崎は、いつもの様に軽い返事で返す。こいつ、本当に分かってんだろうか。

「公郷さん、幸せね」

 森崎の叔母が目を細めた。

「へ?」

「あなたのことを心配してくれるしっかり者の彼女がいて。彼女の事、大事にして挙げて下さいね。あ、ごめんなさい、余計な事言っちゃって」

「あ、有難うございます」

 何言ったら良いのか分からず、俺はお礼の言葉と共に深々とお辞儀をした。

 傍らの日和を見ると、またまたゆでだこ状態になっていた。

「さあ、今度は叔母さんが幸せになる番だ。俺達、これで帰るから」

 森崎はそう言いながら携帯を掛けるジェスチャーをした。

「有難う、分ったわ。あ、そうだ。今度、また皆さんでいらっしゃい。御馳走しますから」

「有難うございます。失礼します」

 俺達は別れの挨拶をすると、ゆっくりとした足取りで出口に向かった。おもちゃを踏んずけないように気遣いながらの行軍は、どうしても速度をセーブする必要があり、かえって部屋にとどまっている彼女の様子をうかがいながらの進捗であるので、入室時より時間がかかっているのは否めない。俺達が遊具の間を進む際に、彼女が別居中の夫と携帯で会話している声が否応無しに聞こえてくる。彼女は最初只管謝罪し続けていたが、やがて明るい声に変った。内容はよく聞き取れなかったが、何となくうまく事が運んでいるように感じられた。

「みんな、有難うございました」

 部屋を出るなり、森崎は俺達に深々頭を下げて陳謝した。

「どう、この後みんなで飯食いに行こ。御礼に俺が奢るから」

「悪いけど、今日は帰るよ。日和の御両親に心配掛けちゃまずいし」

 森崎の誘いをやんわりと断る。

「そっかあ。ま、遅くなっちまったしな。でもさあ、お前、こんなかわいい彼女とどこで知り合ったの?」

 おい森崎、ぶしつけに何を聞く。

「トモロウの姉なんです」

 日和は恥ずかしそうに顔を赤らめながら答えた。

「じゃあ、公郷の従妹?」

「いえ、違いますよ」

 驚いた表情で否定する日和を、森崎は訝し気に見つめた。が、すぐにその目線は俺に向けられる。どうやら、トモロウが奴と初めて出会った時に、咄嗟に俺の従弟だと嘘をついたことが引っかかっているようだ。が、それもほんのつかの間に過ぎず、何となくあの時の俺達の心中を察してくれたように思えた。

「そっかあ、そう来たかあ。運命って分らんもんだね」

 森崎は妙に感心した素振りでロマンチックな台詞を呟いた。

 こいつが言うと、良い感じのフレーズもなんか軽くなっちまう。

「日和さんは、家どこ? 車で送るよ」

 森崎、人の彼女の住所聞いてどうする?

 てより、俺、ちゃんと言ってないのに日和の彼氏になっちまってるし。あの時の雰囲気からして、告った感はあるけど、俺、ちゃんとはっきりくっきり言ってなかったし。

 でも。

 決して否定はしない。

 否定なんかするもんか、馬鹿たれ。

 俺は日和の彼氏なんだ。それが周囲のゆるゆるした雰囲気から飲み込まれた結果だとしても、それはそれでよしとしてくれ。

 これも運命なのだよ。

 家の方向が一緒だから車で送ると言う森崎の誘いを日和がやんわりと断り、俺達は最寄りのバス停に向かって歩く事にした。

 森崎が自分の車を持っているのには驚いた。それも中古車じゃなく、真新しい国産のRⅤ車。車名は忘れたけど、よくテレビのCMでやってるやつだった。こいつも結構いい暮らししてやがる。

 屋敷は高級住宅地の中にあり、その中でも一際敷地が広く、どこまで歩いても同じ塀が続いている。森崎が言うには、この塀の途切れた角から道をはさんで三十メートルほど行ったところにバス停があるらしい。

「ごめんね、家に着くの遅くなっちゃうね」

「大丈夫よ。いつも塾とか模試とかで家に帰るの九時過ぎてるから」

 腕時計を見ると午後七時。ここからバスでどれ位かかるのだろう。

 俺と日和は、手こそつないでいないが、お互いの体温を感じるくらいにぴったりと寄り添いながら歩いていた。

 トモロウはというと、実体化を解いて俺と日和の回りをうろうろしている。二人とも守護霊のいない状態なので、変な連中(霊ちゃんの類)が来ないように監視しているのだ。

 頼もしいというにはちょっとな感じもあるけど、せっかくなんで彼の好意に甘える事にした。たぶん、姉にも自分のいい所を見せたいんだろう。

 それとも、俺達に気を遣っているのか?

 車が一台、俺達の脇を通り過ぎたかと思うと急停車してハザードを点滅させた。

 運転席のウインドウが下がり、見覚えのある顔が現れる。

「二人ともどうしたの?」

 美月さんだ。彼女は、はてなマークに包まれながら俺達を不思議そうに見つめていた。

「あ、帰る途中です。ちょっと寄り道してて」

「デートかな? ん?」

「え、まあ、その帰りです」

 森崎の話を出すと長くなるし、ややこしくなるので、その当たりはさらっと流しておいた。

「あれ? せいらさんと白眉さんは?」

 美月さんは俺達の背後に目線を向けると、不思議そうに首を傾げた。

「ま、ちょっと色々あって、今はいないです」

「ふうん……もしかして、守護霊同士でデートかな?」

 美月さんはニヤッと笑みを浮かべる。まあ、むこうも二人――じゃない、二柱っきりにはなっているけど、そんなお気楽な気分じゃないと思う。

「どお、家まで車で送ってあげるよ。せいらさんが居ないのなら、怒られる心配は無いよね」

「あ、でも、もうすぐバス停なんで」

 日和が俺の方をちらっと見ると、やんわりと美月さんに断りを入れた。彼女なりの美月さんへの気配りなんだろう。

「バスって、この時間、もうないよ」

「え?」

「え?」

 俺と日和は驚きをハモっていた。

「本当ですか?」

「本当だよん」

 あっけらかんと答える美月さんに、嘘をついている素振りはなかった。

「二人とも、乗って。このまま歩いて帰れる距離じゃないでしょ」

「すいません、お願いします」

 美月に勧められるままに、俺と日和は後部シートに乗り込んだ。

「あれっ! トモロウ君は?」

「ここにいます」

 実体化したトモロウが助手席に滑り込む。

「じゃあ行くね。送る前にちょっと家によっていい? 後ろの食材を冷蔵庫に入れたいんで」

「買い物の帰りなんですか」

 俺は後ろをちらっと振り向き、カーゴスペースに目線を落とした。

「うん。ディスカウントスーパーでまとめ買い。お肉とかあるからさ」

「了解です」

 美月さんは静かに車を走らせた。

 しばらく行ったところで、徐に車を止める。

「ここバス停だけど、時刻表見てみ」

 俺は車から降りるとバスストップの表示に書かれた時刻表を見て愕然とした。バスは一時間に一本。それも、六時以降は平日祭日共にゼロだ。

 くそ、森崎の野郎。美月さんが来なかったら、きっと途方に暮れてたぜ。

「ありがとうございます。美月さんが通りかからなかったら、やばかったです」

 俺は美月に向かって手を合わせた。

「こらこら、拝むんじゃないよ。御利益ないよ」

 笑いながら答える美月。この台詞、前にも誰か言ってたよな。

 車はしばらく直進していたが、不意に左折し、小さな路地に入っていくと、見覚えのある家に到着。

 さっきの屋敷とすげえ近く。まだものの五分も乗っていないのに。

「ちょっとだけごめん」

 美月さんが慌てて車から降りる。

「荷物運ぶの手伝いますよ」

 俺も彼女に続き、車を降りる。結局日和とトモロウもそれに続き、全員で荷物を運ぶ事になった。

 荷物は肉に野菜、そしてインスタントラーメンや大量のお菓子、トイレットペーパーとかなりの量があり、全員荷物持ちとなって美月さんの後に続いた。

「ごめんねえ、なかなか買い物に行けなくて、いつもまとめ買いしてるんだ」

「大丈夫です」

 恥ずかしそうに詫びる美月に、日和が笑顔で答えた。

「ちょっと待ってね」

 美月は鍵をがちゃがちゃさせながら、ドアを開けた。

「さ、どうぞ、入って入って!」

 美月に勧められるままに、俺達は家の中へと入った。

「あ、凄い」

 日和が地味に驚きの呟きをもらした。

 開放的な吹き抜けの玄関は広く、そこからまっすぐ続く廊下は、外観以上の奥行きが感じられた。突き当りのリビングダイニングは俺の部屋の五倍は優にある広さ。しかも対面式のキッチンは大理石で出来ており、重厚な造りの六人掛けのテーブルは、見るからに高級そうな雰囲気を醸している。リビングスペースはL字型のソファーに畳一枚分位の巨大なテレビが鎮座しており、俺はまずそれで度肝を抜かれた。

 一人じゃ広すぎる。

 ここ以外にも二階も含めて部屋があるし、俺だった落ち着かない。

「美月さん、一人で住んでて怖くないですか」

 俺はふと思った疑問を彼女にぶつけてみた。

「うん、掃除は大変だけど。何だか落ち着くんだ。優雅な気分になれるというか」

 美月さんはニコニコしながら即答で返した。

「あ――分かった、君、やっぱりここがいわく付き物件だと思ってるでしょ?」 

 美月さんは、未だ不安げに部屋を見回す俺に気付くと、悪戯っぽくニヤニヤ笑いながら、幽霊の手真似をしておどけて見せた。

「残念だけどいませんねえ。悪い奴がいれば、それくらいは私でも分かるしね」

「確かに」

 おどける彼女に、俺は納得した。と言うより、安心したっていう方がフィットするかも。

「とりあえず片付いたし、どお、少しお茶でも」

「有難うございます。でも今日は遅いので、また今度お願いします」

 美月さんの好意を踏みにじりたくはなかったが、余り遅くなると日和に悪いし。何しろ、彼女は受験生な訳で、御両親にとっては一人娘だから今回は丁重にお断りした。

「分かったわ。じゃあ、ちょこっとだけ。どうしても見せたいものがあるんだけど、いいかな?」

「ま、ちょっとだけなら」

「じゃあ来て」

「あ、はい」

 美月さんが足早に歩きだすのを慌てて追いかける。俺達が帰路を急いでいるのを気遣ってか、廊下を駆け抜けると、二階に続く階段を漕ぎみよい足音と共に駆け上がって行く。

「ここよ」

 美月さんは、階段を上がった突き当りの部屋のドアのノブに手を掛けた。

「さ、どうぞ」

 彼女はゆっくりとドアを開け、照明をつけると、俺達を部屋の中に招き入れた。

「え?」

 俺は息を呑んだ。

 白一色だった。

 十畳程の洋間なのだが、壁も床も天井も家具やベッドも、全てが白一色。

 だが、俺が思わず言葉を失ったのは、それだけではなかった。

 俺の眼は、部屋の中央に据え付けられた白い椅子に釘付けになっていた。その椅子には、白いワンピースを着た長い黒髪の少女が、ちょこんと腰掛ていたのだ。

「凄いでしょ。人形よ」

 美月が震える声で愛おし気に呟いた。

 俺は大きく喉を鳴らして生唾を嚥下した。

 本当に、人形なのだろうか。

 全長五十センチ程にもかかわらず、その存在は際立つものがあった。

 大きく開かれたつぶらな瞳は、まるで生きているかのような生々しい神秘的な輝きを放ち、俺の視線を絡め取っていた。はにかんだような朧げな微笑みも、飾らない自然なリアルさがある。長く伸びた髪も艶やかで、潤ったような白い光沢を放っている。

「これ、美月さんの?」

 俺はうわづった声で美月さんを見た。美月さんは俺の驚きぶりに嬉しそうな笑みを浮かべた。

「今はね。元々はここの家の持ち主のものだったのよ」

「貰ったの?」

 彼女は何処か悲しげに首を横に振った。

「違うわ。引き取ったのよ」

「引き取った?」

「ええ。持ち主だったこの家の大家さんは、昔、幼い娘さんを病気で亡くしてるの。娘さんへの思いが断ち切れずに、この人形を自分の手で作ったそうよ。それこそ本当の自分の娘の様にかわいがっていたのよ」

 美月さんは何処か愛おしい表情で、ベッドのそばの壁に目線を向けた。

 白いフレームに入れられた、一枚の色あせた写真。人形と同じように椅子に腰かけている少女と、そばに寄り添う若い女性が写っている。二人は人形と同じ様な白いワンピースを身に着け、すました表情でこちらを見ている。女性は母親なのだろう。歳は二十代位。美しい顔立ちだが、魔女の様な鷲鼻が特徴的だった。

「そんなに大切な人形なら、何故この家に残して行ったんだろ」

「そんなことしないわ。する訳ないでしょ、大切な娘なのに」

 俺の素朴な疑問に、美月さんは目を吊り上げると不機嫌な表情で台詞を吐き捨てた。

 背中を悪寒が走る。

 美月さんがおかしい。どう考えても普通じゃない。この人形の事を語り始めてから、何だかいつもの美月さんと違う何かが、彼女に付きまとっているような気がする。

「兄ちゃん」

 トモロウが、不安げに俺の耳元で囁く。俺は黙って頷くと、日和にそっと目くばせした。

 日和も、異常な光景に違和感を覚えていたのか、黙って頷く。

 俺達は人形に見入る美月に気付かれない様に、ゆっくり後退りしながらドアに近付く。

「あれ、みんなどうしたの?」

 美月さんは不意に振り向くと、怪訝な表情で俺達を見た。

「えっ! あのう美月さん、俺達もう帰らないと」

「どうして?」

 美月さんは怪訝そうに首を傾げた。

「どうしてって……日和の家の人、心配してると思うし」

「大丈夫よ」

「いや、大丈夫じゃないです」

「そうなの……そんなに帰りたいの。私を見捨てて行っちゃうの」

 美月さんは、眼を潤ませながら、悲しそうに俺達を見た。

「丈瑠。美月さん、憑りつかれてるよ。たぶん、あの人形に」

 日和は震える声で呟くと、生唾をごくりと嚥下した。

「ああ、間違いないな。日和、トモロウ、逃げるぞっ」

 俺達は踵を返すとドアに向かってーーあれ?」

 俺は愕然としたまま立ち竦んだ。

「何よ、これ……」

 日和は、か細く消え入りそうな声で、悲しそうに呟いた。

 ドアが、消えた。

 それだけじゃない。

 壁が、床が、天井がぐすぐすと崩れ、次々に朱と黒の背景に反転していく。溶岩を切り出して組み上げたかの様な、どす黒いごつごつした石壁。所々に灯された篝火が、朱の炎で闇を不気味な血の色に染め上げている。

 もはや、元の部屋の痕跡は、全く残っておらず、その広さも元の部屋の数倍以上の規模にまで及んでいた。

 その奥には、石を積み上げて作られた祭壇らしきものが見えた。

 唯一、元の部屋と変わっていないのは、祭壇の上にしつらえられた椅子。そして、それに腰を下ろす白い人形。

 美月さんはその人形に寄り添いながら、気味の悪い笑みを浮かべて俺を見つめていた。

「丈瑠君、あなたの力でこの子に体をあげてくれない?」

「美月さん、目を覚ましてくださいっ! あなたはその人形に憑りつかれてるんだっ!」

 俺は美月さんを睨み付けた。

 突然、美月さんはケラケラと甲高い声で笑い始めた。

「私? 起きてるわよ。変な事言うよね」

「そうじゃなくて……」

「私は助けたいの。生きたいと思う命を。まだ学生の身だけど、私なりに出来ればと思って、患者さんの為に色々頑張ってみたわ。メンタル面の支えになれば、免疫力が改善されて症状が少しでも良くなるんじゃないかと思ったりしてさ。でも、甘かった。結局、誰も救えなかったよ。トモロウ君も、志桜里ちゃんも……何の役にも立てなかった。落ち込んで、もう何もしたくないと思った。そんな時、この子と出会ったの。もう一度生きたいと願いながら、苦しんでいるこの子に」 

 美月さんは、大粒の涙を流しながら、真剣な顔つきで俺達にその思いを訴えた。

 驚きだった。

 ここまで、患者の事を思っていたなんて。医学生とは言え、医師じゃないから直接手を差し伸べられないもどかしさと、それでも、自分も患者の命を救いたいと願う使命感に挟まれ、美月さんは人知れず苦しんできたのだろう。

 何て声を掛けたらいいのか、俺には分からなかった。

 でも、今はっきり言える事は一つ。

 目覚めて欲しい。

 いつもの美月さんに戻って欲しい。

「美月さん、そう自分を責めないで下さい。僕も志桜里ちゃんも、これが運命だったんです。そりゃあ僕だって生きたかった。勉強して、大学に行って、医者になって大勢の人を救いたかった。でもね、僕は病気になって、患者の気持ちを知ることが出来た。見えない未来への不安と、自分の力だけではどうする事も出来無い悔しさを味わう事が出來た。だから、生まれ変わったら、患者の気持ちを汲み取れる医者になりたいという目標も出来た。それに……病気になったから、命の重さを実感出来たし、志桜里ちゃんや美月さんとも知り合えた。短い人生だったけど、こんなに実のある人生って、今思えばなかなか無いんじゃないかって思ったんです!」

 トモロウは、頬を紅潮させながら、熱い言霊で絶叫した。

 トモロウが、ありったけの思いを込めた渾身の叫びだった。

 だが、美月さんの表情に変わりはなかった。

 まるで、彼の魂の叫びを否定するかのように、終始冷ややかな笑みを浮かべながら佇むだけだった。

「丈瑠君、日和さんを家に帰してあげたいんでしょ? だったら早くこの子に体をあげて」

 美月さんの声だが、顔はもはや彼女ではなかった。目と口角が恐ろしく吊り上がり。般若のような面立ちに変貌している。

「そうしたら俺達を解放してくれるって約束できるか?」

 俺は美月を睨み付けた。美月というより、美月の意識を支配している何者かを。

「約束する」

 美月さんは嬉しそうに表情を崩した。

 そうか、こいつ、俺から十メートル離れたら実体を維持出来ない事を知らないんだ。

「丈瑠、言いなりになっちゃだめっ! こいつ、絶対に約束なんか守らないっ!」

 日和が険しい表情で俺に訴えた。

 美月さんの表情が不満げに歪む。

「きゃあっ!」

 日和の身体が大きく後方に吹っ飛んだ。

「姉ちゃんっ!」

 トモロウが慌てて日和の背後に回って抱き留めたが、耐え切れずに転倒した。

「大丈夫かっ!」

「大丈夫ですっ!」

「僕もですう」

 日和はスカートの裾を押さえながら立ち上がると、下敷きになったトモロウに手を差し伸べた。日和、安心しろ、暗過ぎて何も見えん。

「有難う、怪我無い?」

「うん。姉ちゃんごめん、支えられなかったのは決して姉ちゃんが重かったからじゃないから」

 トモロウが申し訳なさそうに八の字垂れ眉毛で誤った刹那、日和の拳が彼の頭頂部に炸裂した。

 見るからに、こっちの衝撃の方が凄そう。

「丈瑠っ‼ 早くしないと次は日和の体をバラバラにしてやる」

 美月さんが怒号の台詞を口汚く吐き散らした。

 もはや美月の声ではなかった。

 男でも、女でもない。

 何て言えばいいんだろう。強いて言えば、複数の声が重なって合唱しているような声だ。素人ばかりの即興合唱隊が、練習無しでぶっつけ本番アカペラコンサートをやったみたいな感じ。

「分かったよ。やるから日和とトモロウに手え出すなっ!」

 俺はゆっくりと人形に近付いた。

 不意に、人形の表情が変わった。

 笑ってやがる。美月さんと全く同じ表情で、嬉しそうに、にんまりと笑ってやがる。

 俺は、ちらっとトモロウに目くばせした。

 トモロウは渋々頷くと、手を合わせてぶつぶつと祈り始める。

 人形が動いた。

 ゆっくりとぎこちない動きで立ち上がると、動くはずの無い唇を大きく開けた。

 人形の口から、黒い霧が溢れ出す。

「何だ、これは……」

 俺は愕然としたまま、霧の動向を目で追った。

 霧は空中で収縮を繰り返しながら人形を覆うと、次第に人の形状を成していく。

 だが、その姿は余りにも違和感があった。

 バランスが無茶苦茶なのだ。手足は細長いが胴はドラム缶の様に太い。おまけに顔はその胴体と同じくらいの大きさがある。元の人形とは全く違う風貌だった。否、正しくは過剰にデフォルメされた風貌と言おうか。唯一元の姿に近いのは、髪型位なものだ。完全に実体化したら、どんな姿になるのか。

 余り想像したくない。

 不意に、視界が大きくぶれる。立ち眩み?

 思わず膝まづく。

 駄目だ。体に力が入らねえ。俺の霊力を、高性能の掃除機の様に吸い取って行く。この化け物、実体化にどれだけ霊力を使うんだ。

 霊力の流出にブレーキ掛けようにも、やり方が分からない。

 まずい、このままじゃあ……。

「兄ちゃん!」

「丈瑠っ!」

 トモロウと日和が駆け寄って来る。

「兄ちゃん、もうやめなよっ! このままじゃあ、兄ちゃんの魂を持ってかれるよっ!」

 トモロウは、俺が危惧していた事をずばり言い放った。

「やめたいけど、やめ方がわかんねえ。そうだ、こいつから離れれば」

 立ち上がろうと踏ん張ってみる。

 駄目だ。足腰に力が入らない。

 と、その時だった。不意に、力の流出に歯止めがかかった。

「兄ちゃん、今のうちに早くっ!」

 傍らでせかすトモロウを見て、言葉を失った。

 トモロウの身体が実体を失いかけていた。こいつ、自分に流れていた俺の霊力を遮断したんだ。

「トモロウ、やめろっ! そんな事をしたら、御前の方こそ魂を持ってかれるぞっ! そうなったら転生出来なくなるかもしれないだろうがっ!」

 俺はトモロウを叱咤した。が、トモロウは首を横に振った。

「僕の事はいい。早く姉ちゃんを連れて逃げて」

 トモロウは笑っていた。とてつもなくほっこりする優しい笑顔で、俺を見つめていた。

 不意に、日和が立ち上がった。

「二人は、私が守る」

「やめろっ!」

 今にも化け物に飛び掛かろうとする日和を、必死で抱き留める。

「日和、自分をもっと大切にしろっ! 御前はトモロウの分も生きなけりゃならないんだぞっ!」

「放してっ、このままじゃみんな死んじゃ――」

 俺は、手を振り払おうと暴れる日和を、更に強く抱きしめると、半狂乱になりながら俺をに抗議しようと開きかけた唇に、俺は力強く唇を重ねた。

 俺の腕の中で日和の身体からふっと力が抜けていく。

 俺は唇を離すと、放心状態の彼女を見つめた。

「日和、俺が絶対守ってやる。だから絶対に死に急ぐな」

 彼女は黙って何度も頷くと、俺の腕の中に身を寄せてきた。

「行くぞおおっ!」

 俺は二人を抱えながら、渾身の力を振り絞って立ち上がった。

 異形はそのバランスの悪さからか、歩みはでんでんむしむし並みに遅く、気力を振り絞れば難無く逃げ切れそうだ。但し、この空間から出られる逃げ道があればだけど。

 虚脱感に支配されつつある足を踏ん張りながら、一歩一歩路面を踏みしめていく。

 刹那、凄まじい轟音と共に直ぐそばの石壁に亀裂が走ると、土煙を上げて崩れ始めた。

「危ないっ!」

 落ちてくる瓦礫を避けながら、俺は二人を抱きかかえたまま後方へと下がった。

 いったい何が起きたのか。

 舞い上がる土埃の中に、人影らしきものが見える。

「ほうら、上手くいったでしょ」

 のんきな間延びした声が聞こえる。

 それも、思いっきり聞き覚えのある声。

 風雅だ。

「何がうまくいっただ! この野郎! てめえ、一度殺すぞっ!」

 激しい剣幕で罵るその声は、せいら!

「姫、二度目は是非私どもに」

 落ち着き払った声で、結構きつい事言ってるのは白眉!

 みんな、助けに来てくれたんだ。

 突然舞い降りた極度の安堵感に、俺は二人を抱えたまま、その場に座り込んだ。

「おい風雅! この土埃、何とかしろっ!」 

「はいよ、ではこれでチャラということで」

「何ほざいてやがるっ!」

 せいらの罵声と共に、一陣の風が沸き起こる。視界を奪っていた土煙は、風に乗って一気に上昇し、消えた。

 ほんの目と鼻の先――石壁に大きく開いた穴の前に、せいらと白眉、そして顔を腫らした風雅が立っていた。

「みんな、無事かっ!」

 せいらは俺達の傍らにしゃがむと心配そうに顔を見回した。

「丈瑠、すまない。守護霊でありながら、御前をこんな危険な目にあわせてしまった」

「日和さん、申し訳ありません。私としたことが」

 せいらと白眉は俺達に深々と頭を垂れた。

「助かったよ。来てくれてうれしいよ。ありがたいよ」

 俺はせいら達に答えながら号泣していた。

 涙が止まらなかった。

 助かったのだ。

 そう思えば思う程、涙は止めどもなく溢れ続けた。

 自分一人の力で、日和とトモロウを何としてでも守らなければならないという重責から解放されたからなのかもしれない。

 それは日和も同様の気持ちになっていたのだと思う。彼女もまた、肩を震わせながら号泣していた。

「おいおい、感謝されるのありがたいけど、泣くこたあないだろ」

 せいらは呆れ返りながら、俺を見つめて笑った。

 頼もしかった。なんかこう、心の奥底から熱いものがぐっと込み上げて来る。

「清羅姫命様――っ! 守護霊のありがたみが分かったよう。これからもずっとよろしくお願いしますよう」

「ああ。分かったから泣くな」

 せいらは面倒くさそうに、それでいて何となく嬉しそうに俺を窘めた。

「でも何で、ここに囚われているのが分かったのだあ?」

 俺は助かった嬉しさと安堵の余り、語尾がバカ〇ンパパになっていた。

「こやつが教えてくれたんだ。御前達が異様などす黒い気に飲み込まれたってな」

 異形の者を見聞しながら一人頷く風雅に、せいらが憮然とした面立ちで目線を向けた。

「面妖な。こいつはちょっと厄介かもね」

 突然の来訪者に戸惑う異形を、まじまじと見た風雅が、物憂げに呟いた。

「これだけの結界を築き、異世界の時空とつなげてしまう程ですからね」

 白眉が、感慨深げに淡々と答えた。

 そんなに凄いなら、ちっとは動揺しろよ。二柱とも、言ってる台詞の割には、全然落ち着いちゃってるし。

 てよりさあ、見るからに異形の方がおどおどしちゃってるよ。三神を前に落ち着かないのして落ち着かないのか、何だかきょどってるし。。

「だしょ? だから目には目を結界には結界をって訳よ! 結界同士干渉し合って異世界の壁を壊せたし、せいらちゃん達も予定より早く解放出来たし、あひゃっ」

 ワンテンポ遅れて得意気に語る風雅の後頭部に、せいらの回し蹴りが炸裂。風雅は顔面から床面に叩きつけられた。

「やっと入れたぜ。うわっ! 何これ……げっ、変なのいるし、俺の神さんぶっ倒れてるし」

 壁の穴から、森崎がひょっこり姿を現せた。

「森崎!」

「お、公郷!、みんな無事か?」

「何とか」

 俺はよろよろしながら何とか立ち上がった。

「日和さん、怪我無い?」

「はい、丈瑠が守ってくれましたから」

 心配そうに声を掛ける森崎に、日和はしっかりした口調で答えた。

 俺としてはちょいと照れる。守るってったって、たいしたことやっていないのに。

「すいません。僕は死んでます」

 トモロウが申し訳なさそうに森崎に頭を下げた。

「まあ、それは仕方ないわな。生き返ったらそれも怖い」

 森崎は苦笑を浮かべながら、困惑顔で頭をガシガシと掻いた。

「公卿、二人を連れて穴から逃げろ。俺はあの変なのを倒す」

 森崎が、さっき俺達と対峙した時以上の真顔で異形を見据えた。

「待てよ、俺達人間には勝ち目はない。風雅も言ってたぜ。あれ、相当やばい奴みたいだぞ。それこそボスキャラ級」

 俺は慌てて奴を引き留めた。

「いや、俺の手でやってやる。ずたずたにな。風雅の敵討ちだ」

 奴は険しい表情で目前の異形を凝視する。

「え、それは……」

 違うと言い掛けた俺の鼻先に、森崎は右手をぐいっと突き出した。 

 見ると、森崎の右手には、一振りの木刀が握られている。

「俺の獲物だ」

 奴はにやりと不敵な笑みを浮かべた。俺の言った「それ」はそれとは違うのだが、せいらを見ると知らん顔しているし、どうしたものか。

「木刀、持ってきたのか」

 とりあえず、俺は奴に同調した。

「ああ。昔、某パワースポットの近くの土産物屋で買ってきたやつさ。店の親父が言うには、邪神を追い払う御利益あるって話だぜ」

 うーーん。どう見てもどこでも売ってる様な代物なのだが。森崎は得意気にいうものの、何だか眉唾っぽい。

「風人、気を付けろ。こいつ、妙な術を使うぞ」

 風雅が後頭部をさすりながらゆっくりと立ち上がった。

「風雅、生きてたか」

 森崎が安堵の笑みを浮かべながら守護霊に話し掛けた。

 おい森崎、話し方が滅茶苦茶フランク過ぎるだろ。相手は神様だぜ。ま、俺も偉そうには言えねえけど。

「こいつ、念術を使うぞ。いきなり後頭部に衝撃波をぶち込みやがった」

 風雅は忌々し気に異形を睨み付けると、俺達に苦言を吐いた。

 俺は返答に困り、頷きながらせいらをチラ見するものの、我関せず的な態度で目線をひょいと外す。

 まあ、あの異形の者が妙な術を使うのは確かだ。現に、日和とトモロウは目に見えない力で吹っ飛ばされているし。決して嘘ではない。

 こうなりゃ全ての災いはこの異形にふっかけておこう。さすれば全ては丸く収まる。

 だが、当の異形はやはり不満があるのか、無駄にでかい顔を大きくゆがめながら咆哮を上げると、激しく首を横に振った。

 とたんに、鼻をつく様な腐敗臭がむわっと立ち上り、俺の嗅覚に絶望的ダメージを及ぼしていた。

「げ、耐えらんねえ」

 俺は手で鼻と口を覆った。ただ臭いだけじゃない。それは鼻腔に忍び込むと強引に嗅細胞を侵食し、脳をぐっと鷲掴みにすると、思考の奥底まで入り込もうとしてくる。

 まるで、過去のあらゆる匂いの記憶を全て排除してしまうかと思うほどの強烈さだ。そのおぞましき悪臭の微細な粒子一つ一つに、生きている者へ嫉妬、憎悪、嫌悪が凝縮されているようにすら感じられる。何しろ、憑依でもするかのように、執拗なまで纏わりついて鼻から離れないのだ。

 こいつ、本当にこの家の持ち主の娘?

 人としての痕跡は全くなく、どちらかというと異様に巨大化した餓鬼って感じ。

「違うな。こいつの中にこの家の主の娘はいない」

 俺の思考を読んだせいらが、躊躇いもなく答えた。

「じゃあ、何?」

「邪霊の集まりだ。亡き娘を思う母親の気持ちに付け込んだ下賤の輩。それも一体、二体じゃない。数えきれない位たくさんの邪霊が絡まり合って形状を成している」

「えっ?」

 俺は驚きと理解不能な現実の展開に疑問符をぶちまけた。

「稀にみる霊の集合体。しかもその核を成す存在は、人形そのもの」

「え、人形そのものって……」

「人の念が擬人化したものだ。この人形の持ち主のな。今や無数の邪霊どもに寄生されて、もはや人格も何もないけど」

「じゃあ、美月さんに憑依しているのも邪霊なのか?」

 せいらはふんと鼻で笑うと首を横に振った。

「娘の母親の霊だ。人形に憑依している邪霊よりも厄介な存在かもしれない。それと、おまえの家の玄関に貼ってあった護符な、誰が作ったと思う?」

「まさか、美月さん?」

「そういう事だ。ま、正確には、美月に憑依した母親の思念が書かせた。娘を生き返らそうといろんな禁術に手を出していた節がある。アパートに張り付けたのは、トモロウや我らが絡んで邪魔立てするのを予期していたのだろうな」

 せいらはそう答えると、ふわりと俺の前に躍り出る。

 その左右には白眉と風雅。

 俺が見るからに最強の布陣だった。

「俺の出る幕なさそうだな」

 森崎は舌打ちすると、残念そうに呟いた。

 何て奴だよ、こいつは。あの得体の知れない化け物に、マジで木刀一本振り回して立ち向かうつもりだったのかよ。

 呆れたと言うか、ある意味尊敬に値する。

「おい、不細工!」

 せいらは、目前に立ちはだかる異形の者に罵声を浴びせる。奴はその一言に、頬をびくびく痙攣させながら、クワッと口を開いた。

 あーあ、やらかしやがった。

 またかよ、おい。

 慌てて鼻を押さえる。ふと隣を見ると、日和達も皆同じ格好でスタンバイしていた。

「大丈夫、風の向きを変えたから、臭いはこっちに来ないよ」

 風雅が振り返りながらのんびりした口調で吉報を伝える。

 すげえ、そんな事出来るんだ。そういや、さっきも立ち込める濃厚な砂塵を一瞬のうちに何処かへ取っ払ったし。

 でも、それならさっきもやって欲しかったよ。

「よいか、話しを聞け。貴様らの力では、何人いようが私らには勝てない。降参するなら冥界への道を開いてやる。でも、もし抵抗するならば、全ては無に帰すだけ。転生すら出来んようになる。さあ、どちらを取る?」

 せいらが、畳み掛けるような強い口調で異形を問い詰める。さながら、霊能力者がお払いの祈祷をするがのごとく。

 まあ、御祓いに違いはないのだが。人を介してではなく、神様が直接執り行うんだから、その効力は言うまでもないはずだ。

 せいらの警告に対し、異形は沈黙を守っていた。何を考えているのか。何を推し量っているのか。凍てついた険しい表情からその真意は読み取れない。

「それがお前の答えか」

 せいらは異形を見据えると、憮然とした表情で呟いた。

 異形は答えていない。

 ただ無言のまま、口を醜く歪めただけだ。

「奴の答えって?」

 俺の疑問符を黙殺すると、せいらは滑るような足取りで傍らをすり抜けていく。

 刹那、地面から何かが飛び出した。しかも、一つ二つじゃない。無数にだ。

 それは、人に似て非なるもの。落ち武者の様に振り乱した髪。獣の様な鋭い爪、耳の付け根まで大きく裂けた口、ぎょろりとした見開いたままの眼球は、白目が黄色く濁っている。細い手足とは対照的な、ポッコリ飛び出た腹。何より不気味なのは土色の肌。あれは、生きている者の色じゃない。

 これ、見た事がある。といっても、実物じゃない。

 昔、興味本位で見た地獄草子に載っていた怪異。

 餓鬼だ。

「せいらっ!」

 慌ててせいらに声を掛けた瞬間、奴らは皺だらけの皮膚を収縮させながら大きく跳躍すると、一斉に彼女目掛けて飛び掛かった。

 その数、ざっと二~三十。いや、もっといる。

 せいらは動かない。

 白眉も風雅も微動だにしない。

 余りにも唐突な反撃に、対峙する術を失ったのか?

 不安と戦慄が俺の思考を鷲掴みにする。

 瞬間、耳をつんざく波動音と共に、せいらの身体から無数の青白い閃光が不規則に空を滑走し、餓鬼共の身体を貫いた。

 餓鬼共は悲鳴を上げる猶予すら与えられぬままに、ぐすぐすとその姿を無に帰してゆく。

「凄い」

 吐息の様に綴った俺の感嘆の台詞は、余りにもありふれた短いものだった。

 興奮し、気が高ぶっているのが自分でも分かる。

 このメンツなら、あの異形に勝てる。

 勝機を感じとった俺の潜在意識が、躍動する感情の暴走を抑えきれず、感極まったあまりに言語中枢を完璧にロックしていた。

「餓鬼……それも羅刹の類」

 せいらは舌打をすると、いつになく真剣な表情で俺を見た。

「丈瑠、所詮雑魚キャラだが気をつけろ。またゾロゾロ飛び出して来るぞ。それに、奴らは人を食う」

「マジかよ。どうすりゃあいい?」

「ぶん殴れ」

「何だよそりゃ」

 俺が憮然とした面相で不満をこぼした刹那、日和が大きく目を見開いた。

 壁が、消えた。壁だけじゃない。天井も、祭壇らしきものも何もない。ただ、風化した灰色の岩と砂だけの荒涼とした大地が、目の前に広がっていた。

 問題なのは、その光景。数えきれない数の餓鬼どもが異形を取り囲み、地平線の果てまで地表をびっしり埋め尽くしているのだ。 

「また、集めに集めたものだな」

 白眉が顔をしかめた。

「まったく」

 風雅がうんうんと頷く。

「この不細工面はもう見飽きた」

 せいらが面倒臭そうにぼやく。

 この場に及んでこの三人――否、三柱、全く緊張感が無い。勝ち目があると踏んでいるからか。それとも単なる開き直りか。

 でも守護霊達が落ち着き払っているからか、俺達も取り乱して正気を失うまでに至っていない。

 その点は、メンタル的に救われている。

「さっさと片付けて元の世界に戻るぞ」

 せいらは不敵な笑みを浮かべた。

「それと、三人とも、一時的に霊力制御を解除しましたから」

 白眉は微笑みながら静かに語ると、そっとⅤサインをする。

 霊力制御って?

 俺と日和は顔を見合した。

「ひゃほーい! 大暴れできるぜ」

 森崎は嬉しそうに雄叫びを上げた。

「みんな、本気出していくよっ」

 せいらの身体が、ふわりと中空を舞う。

「御意」

 白眉がそれに続く。

「はいよっ」

 風雅は俺達に何かをそっと囁いた。よく聞き取れんかったものの、唇の動きを読むとこうだ。

『驚かないでね』

 どういう意味だ。

 首を傾げた刹那、それは始まった。

 せいらの身体が青白い光に包まれる。仄かに浮かぶボデイラインのシルエットもやがて点となり、光の中へと消えた。

 白眉は白銀色の炎を纏うと、巨大な火の玉となって大地を焦がしていく。。

 風雅は紫色のつむじ風にすっぽり呑み込まれると、空高く舞い上がった。

 せいらを包んでいた青白い光が、次第に形状を成していく。上下に果てしなく伸長し、やがてそれは立体的なフォルムを描き始める。伸長し、発達した顎、大きく見開いた金色の眼、鞭の様な長い髭。全身蒼い光沢を放つ滑らかな鱗に包まれ、筋肉質な腕には象牙の様に反り返った爪が、口には巨大鮫のような鋭い牙牙が、がっしりと並んでいる。

 龍だ。巨大な蒼龍。頭から尾の先まで百メートル以上はある。

 そうだ。

 せいらは龍神だった。

 その横に、更に一回り巨大な白龍が佇んでいる。

 白眉だ。

 忘れてたよ。彼も龍神だったんだ。

 いけねえ。

 こんな思考を書き込めば白眉が読んだら嘆くだろうな。

 まあ幸いにも、白眉は俺の思考を読まなかったのか、彼の怒りの対象は異形とその取り巻きに注がれている様に思える。それともあえてスルーしたのかは不明だ。

 二柱の竜神は、中空に漂いながら咆哮を上げて異形を威嚇した。

 その更に上空を舞う巨大な影。

 風雅だった。

 せいら達に決してひけを取らない、紫色の光沢を放つ艶やかで巨大な羽根をゆっくりと羽ばたかせながら、きりっと引き締まった鋭い目で異形を見据えている。発達した鴉の様な嘴と鋭い爪。手には錫杖を携えている。

 頼もしい三神を前に、異形は無言のまま身じろぎもしない。ただ、餓鬼達はせいら達の真の姿を目の当たりにして、明らかに色めきだっているように思えた。慄き、うろたえ、おびえながら、成り行きと身の振り方を模索しているように見える。

 違うな。奴らにそんな思考力は存在しない。

 恐らく直面している恐怖に戸惑っているだけだ。あくまでも目の前の、点の恐怖に。

 仕掛けるのは、どちらからか。

 せいらだ。身をくねらせながら中空を猛スピードで突き進む。

 無数の稲妻が空を駆り、せいらを中心に不規則な軌跡を描きながら、大地に蠢く餓鬼達を薙ぎ払っていく。

 せいらに続き、次は白眉が動いた。白眉の全身から白銀色のオーラが迸る。それはまるで矢の様に変貌すると、容赦なく地上の餓鬼に降り注いだ。

 数えきれない無数の光の矢が、餓鬼達を容赦なく貫く。餓鬼は悲鳴をあげながら燃え上がり、瞬時にして灰と化していく。

 風雅は舞うように大きく羽ばたくと、巨大な旋風をいくつも生み出した。旋風は次々に餓鬼を飲み込むと容赦なく切り裂いていく。

 三神の力は、目を見張るものがあった。

 ほんの一瞬きのうちに、地表を埋め尽くしていた餓鬼を殲滅していた。

「ありゃりゃ、これじゃあ俺達の出る幕ねえな」

 森崎は残念そうに木刀をぶんぶん振り回した。

 冗談じゃねえ。

 俺は調子のいい森崎に心の中でぼやくと、安堵の吐息をついた。見ると、日和もトモロウもほっとした表情で周囲を見渡している。

 後は、あの異形だけだ。

 圧倒的な三神の攻撃をもろともせず、表情一つ変えずに佇むその存在は、恐怖よりも脅威というべきかもしれない。

「丈瑠、あれは……」

 日和が上ずった声で地表を指差す。

 その指先を目で追った瞬間、底知れぬ戦慄が俺を咥え込んだ。

 地表がもこもこと蠢きながら、次々に忌まわしき形状へと変化を遂げていく。

 餓鬼だ。それも、見る見るうちに身動き出来ない位にびっしりと地表を埋め尽くしていく。さっきよりも遥かに多い。

 地表の異変に気付いたせいらが、怒りの咆哮を上げる。

 彼女を中心に壮絶な稲妻のスコールが大地に降り注ぐ。白眉もそれに続き、光の矢ならぬ光の流星群を大地に降臨した。

 餓鬼達は抵抗する術もなく、ただ逃げ惑うだけで、瞬時にして燃え尽き、灰と化した。

 風雅は嘴を開くと甲高い雄叫びを放った。巨大な羽が激しく羽ばたくと、地表ごと餓鬼達を引っぺがすと、そのまま天空へと舞い上げ、佇む異形の頭上から一気に落下させた。

 餓鬼達は容赦なく異形の上に振り注ぐ。が、異形の身体に触れる寸前、餓鬼の身体は次々に弾け跳ぶと、周囲に灰白色の悍ましい砂丘を築いた。砂丘は音も無く崩れると、再びわさわさ蠢く無数の妖忌を生み出していく。

「きりがないな」

 森崎が忌々しげに呟く。

 確かに。くたばってもくたばっても蘇って来るし、しかも、数は一気に倍以上に膨らんでいる。いくら三神が圧倒的に強くても、これじゃあ下手すら延々と同じ事をエンドレスに繰り返すだけだ。

 否、違う。その都度数が増えているとしたら、かえって状況が悪化しているんじゃねえか。

「兄ちゃん、まずい事になってきた」

 トモロウが表情を硬く強張らせながら、俺を見つめた。

「どうした?」

「奴ら、どんどんこっちに近付いて来る」

 トモロウの言うとおりだった。

 三神の攻撃のおかげで今まで俺達に近付くことも出来ずにいた連中が、数にものを言わせながら、じわじわと着実に間合いを詰めつつあった。だが、俺達の守護霊が結界の様なものを張ってくれたのか、奴らは俺達から半径十メートル程距離をとったまま、一気に遅いかかってこようとはしなかった。

 でも、安心は出来ない。

 それは、あくまでも俺の想定に過ぎないのだから。

 奴らは、単に俺達の様子を伺っているだけなのかもしれないのだから。

 不意に、餓鬼どもの間から黒い影が飛び出した。

「危ないっ!」

 森崎の木刀が影を薙ぎ払う。

 消えた。

 否、上空だ。

 俺は食い入るようにそれを凝視した。

 すらりとした細身の体躯。色白の長い四肢。餓鬼じゃない。美月さんだ。

 美月さんは、長い髪を振り乱しながら、数メートル程間合いを取って着地すると、ぞっとするような冷たい眼で俺達を睨み付けた。

「あの姉ちゃん、憑依されてるな」

 森崎が、獲物を追う鷹のような鋭い目つきで美月を凝視する。

「ああ。何だか分かるか?」

「ばあさんだな。魔女みてえな鼻の」

「ばあさん?」

「兄ちゃん、ひょっとしたら、人形の部屋に掛かっていた写真の……」

 トモロウの喉が、ごくりとなった。

「思い出した! 人形を抱いた女の子と一緒に映ってた・・・せいらが言って通り、あの母親が憑りついているのか」

 俺の記憶に蘇ったのは、大事そうに人形を抱えた女の子の横に寄り添う母親の姿。特徴のある面立ちだったから、鮮明に記憶に残っている。それはまさしく、西洋の魔女を彷彿させる鷲鼻。でも、婆さんじゃなかった。見た目二十代位。若いお母さんって感じだったんだが。

「ほんと、そっくりだ……」

 日和が、吐息の様なか細い声で呟く。

「日和、見えるのか?」

「うん。さっきまでは見えなかったけど、今は、はっきり見える」

 日和は目凝らしながら、美月をじっと見据えた。

「おまえら、凄いな」

 俺は感慨深げに呟いた。これが、白眉が言っていた霊力制御解除の恩恵なのか。でも、俺には何も見えない。

 力の差なのか。

 無意識のうちに、俺は唇を噛んでいた。

 言いようのない悔しさと嫉妬心が、もつれあいながら、俺の精神を醜く蝕んでいく。

 情けなかった。

 息苦しいわだかまりの様な思考が、俺の脳内に浅ましい感情を生み出していた。

「兄ちゃん、大丈夫。僕にも見えません」

 トモロウが超真面目な表情で、俺に話し掛けてきた。こいつ、俺の心情を見抜いて気を遣ってやがる。

「ありがとな」

 俺は苦笑を浮かべると、美月さんに目線を向けた。

 美月さんは憤怒に顔を歪めながら、俺達を射抜く様な鋭い眼で凝視し続けている。

 俺達、じゃない。

 俺を、だ。

「標的はおまえのようだな。ったく、おまえばっかもてもてかよ。羨ましい限りだぜ」

 森崎は心にもない台詞を嘯くと、にやりと笑みを浮かべた。

「あのねーちゃんは、俺が祓ってやる」

「どうするつもりだ?」

「まあ見てな。これでもバイトで御祓いやってんだぜ」

「バイトでお祓い?」

「ああ。言って無かったか? 俺ん家、神社なんだ。そこで時々やってるのさ。これでも結構引き合いあるんだぜ」

 森崎は徐に木刀を地面に突き刺すと、俺の前に立ちはだかった。

 唯一の武器を捨てるって……まさか、こいつ、美月さんを無傷で救おうとしているのかよ。

「来いよ。俺が相手になってやる」

 森崎は美月を見据えながら、力いっぱい叫んだ。

 美月さんは口元を大きく吊り上げて冷笑を浮かべると、間髪を入れずに地を蹴った。

 数メートルもの距離を助走も無しで、しかも低い高度で滑空して来る。

 人知を超えた信じ難い運動神経に、俺は瞬きするのを忘れていた。 

 だが、森崎は至って冷静だった。迫り来る美月の進路に向けて素早く早九字を切る。

 美月さんが、森崎と接触――寸前で、ぴたりと中空で停止した。

 森崎が築いた早九字の結界が、美月の四肢を絡めとっていた。

 美月さんは眼を引ん剝くと、獣のような重低音の唸り声をあげながら、森崎にありったけの憎悪の視線を向けた。

「動けねえだろ。待ってろ、姉ちゃん。俺が助けてやる」

 森崎は徐に美月さんの顎を右手で引っ掴むと、彼女の唇に自分の唇を重ねた。美月さんは手足をばたばた動かしながら顔を背けようとするが、目に見えぬ森崎の結界は執拗に彼女を拘束しているらしく、全く動けない。

「お、おい……」

 それ以上、言葉が続かなかった。日和とトモロウは声すら上げることが出来ないらしく、ただ顔中が口と化していた。

 こいつ、何考えてんだ? こんな時に、それも無理矢理やってるし。 

 ずぼっ 

 何やら水気たっぷりの効果音と共に、森崎は美月の唇から己のそれを離した。

 何だか、奴の顔に違和感がある。頬が、餌をため込んだリスのように、ポッコリと膨らんでいるのだ。それだけじゃない。頬が、時折不規則に蠢いていた。口の中から何かが推しているような。それも、生き物か何か。

 間違い無く、何かを口に含んでいる。

「ぶほっ」 

 苦しそうに顔を歪めながら、森崎はそれを派手に吐き出した。彼の吐瀉物は、どす黒い霧状に変化し、中空を漂うと徐々に人型の形状を成し始めた。

 上下黒の喪服に、白髪の混じったぼさぼさの黒髪。皺だらけの顔は、頬肉がごっそり削げ落ち、鬼気迫るものを感じる。そして、特徴のある鷲鼻。血走った眼を吊り上げ、憤怒の表情で俺達を睨み付けている。

 こいつが、美月さんにとりついていたのか。そうか、前に森崎が俺の耳元で囁いた「気を付けろ」ってのは、この事を言っていたのだ。奴なりに何かを感じ取っていたのだろう。

 でも、本当にあの少女の母親なのか?

 風貌は、森崎の言う通り婆さんだ。幸せそうな柔らかな表情で、娘にやさしく微笑みかけているあの写真とは、果てしなくかけ離れている面立ちに困惑してしまう。一致するのは、唯一鼻しかない。 

「あれって、母親の幽霊なのか?」

「ああ。でも元々は幽霊じゃない。もっと厄介な奴。生きている者の思念が具象化したもの――生霊だ。でも今はその成れの果てだな。婆さん、かなり前に死んでるみたいだし。霊って言えば霊なんだけど、霊本体が思念に食われちまってる感じって言えばいいか」

 森崎は事無げに言ってのけると、何やらぶつぶつ呟きながら右手の手刀を左手でこしらえた鞘に納めた。

 中空に停止していた美月が、森崎の腕の中に倒れ込む。

「今の、何?」

「ああ。早九字の法を解いたんだ。これやんねえと、お姉さんは宙づりのままだしな」

 淡々と語る森崎に、俺はよく分からんままにうんうんと頷いた。

 早九字って、どうやらそういうものらしい。


 死ね死ね死ね死ね


 婆さん化した母親の霊が、醜い言葉を吐き散らしながら一気に接近して来る。

 森崎は慌てて木刀に手を伸ばそうとするが、美月さんの身体で両手が塞がっていて届かない。

 こうなりゃ、俺がやるしかないっ!

『危ない兄ちゃん!』

 不意に、トモロウが婆化母親の前に立ちはだかる。

『よせっ! 逃げろっ!』

 俺は慌ててトモロウに退くよう叫んだ。だが、彼は俺の静止を振り切り、握りしめた右拳を思いっきり奴の顔面に叩き込む。

 トモロウの拳が、敵の鷲鼻にめり込んだ。

 実体化している? 幽霊なのに?

 そうか。

 奴は、トモロウに流れ込んでいる俺の霊力に触れて、実体化したのか。

 婆化母親の身体が猛スピードで後方に吹っ飛んでいく。

 不思議な事に、母親の顔に変化が生じていた。

 彼女は若返っていた。顔からは皺が無くなり、うるおいのある艶やかな肌を取り戻していた。鼻血を流しながら飛んでいく彼女の表情に、苦痛の表情は無く、むしろ微笑んでいるかのように見える。

 これが俺の霊力か。それも、リミッターが外れてパワーアップしてるから、実体化どころか若返っちまったのか。

 まさか。

 慌ててトモロウを見る。が、そこには見慣れた中学生のトモロウがいた。

 ひょっとしたら幼児化しちゃったかと思ったのだが、そうでもなかった。

 俺の力がどう作用するのか、本人すら分かっちゃいないのが辛い。

 母親は後方に群がる餓鬼なぎ倒しながらすっ飛ぶと、異形にがっちり抱き留められた。

 母親は、愛おし気に異形の顔を見上げると、そっと何かを囁いた。

 異形は、不意に口を大きく開けると、事もあろうに母親を頭から咥え込み、一気に呑み込んだ。

「なんて事を」

 日和の表情が驚愕と困惑で歪む。

 異形の意思じゃない。母親がそうさせたのだ。

 朧気ながら、俺には母親が綴った囁きを唇の動きから察していた。

『私を食べなさい』

 彼女はそう綴ると、満足げに微笑んだのだ。

 異形の身体の身体が、小刻みに震え始めた。数メートル近くあった巨大な体躯がみるみる間に収縮し、デフォルメされていた頭部や胴体、そして四肢が、元の人形らしいバランスの取れたサイズに変貌を遂げていく。同時に、身体を染め上げていた暗黒色が、際立つ白色に塗り替えられていった。

 俺は息を呑んだ。

 人形だ。それも、写真の少女と同じくらいのサイズの。

 餓鬼達は異形のメタモルファーゼに触媒されたのか、奇声を上げると涎を垂らしながら俺達目掛け飛び掛かって来る。

 やばっ!

 身構えた刹那、餓鬼達は次々に弾け跳んだ。腹が熟れた柘榴のように裂けると、次々に灰塵と化していく。

「森崎、何かした?」

「いいや、やる前に自爆しやがった」

 森崎は拍子抜けした表情で首を横に振った。

「日和?」

 黙って横に振る。

「まさか、トモロウ?」

「違います」

 トモロウも驚きを隠せぬままに完全否定。

 じゃあ、せいら達三神?

「違うな」 

 俺の真横でせいらが意味深な笑みを浮かべた。こいつ、いつの間にか変化を解いている。白眉と迦楼羅もだ。道理で、派手な反撃に間が開いた訳だ。

「いったい、何?」

 きょとんとする俺に、白眉が微笑みを浮かべた。

「君達の霊力の成せる業ですよ。君達は無意識のうちに結界を張っているんです。それも凄まじい生命エネルギーが巨大な噴流を成してここを取り囲んでいる。トモロウ君も含めてね」

「ぼ、僕も含めてですかっ? 恐縮です!」

 トモロウは顔を紅潮させながら体を硬直させると、深々と白眉に頭を下げた。

「さっきの母親の霊は、憑依したお姉さんの霊力で擬態して突破したみたいだけど、餓鬼達の妖力じゃあ、この結界を壊すなんて出来ないし、見ての通り触れるだけで消し飛んでしまう。おかげで俺達も一息入れれるし、助かるよ」

 風雅がトモロウをニマニマ笑いながら見つめた。

「せいら、何故あの人形だけ神々の総攻撃が効かないんだ?」

「どうやら、奴だけ別の次元にいるようだな。姿こそ見えるが、眼に見えぬ壁があった」

「何故?」

「我々が力を使い果たすのを待ってたのです」

 白眉が衝撃的な告白を神妙な面持ちで淡々と語った。

「え、じゃあ、みんなはパワー切れ?」

 俺は動揺を隠しきれぬまま、慌てて白眉に問い掛けた。

「そんな訳ないでしょ! 奴がどう出るか、ちょっとカマかけてみただけ」

 風雅が表面上困惑顔を造形しつつ、さらっと答えた。ひょっとしてこの二人、敵意悟られないように演技しているのか?

「今、奴は私等と同じ空間にいる。母を食った瞬間からな」

 せいらは地面にどっかと腰を下ろすと、胡坐をかいて腕組みをした。

「お、おい……」

「あー気にするな。奴を油断させるためだ。如何にも力切れを演じているだけだから」

 せいらは高飛車な態度で俺の言葉を強引に遮った。

 だろうとは思っていたさ。白眉や風雅のとっている態度からして。

 違うんだよ、俺が言おうとしたのは。胡坐をかいていると、袴がかなり上までめくれあがって、隙間から太腿の付け根のかなり際どい所まで見えてるけど、いいのかよってことだよ。

 見る限り、下着は履いていないみたいだし。こんなこと冷静に言うのもなんだけど。

 あ、まずい。思考を読まれたら殺される。

 慌てたものの、せいらの手加減無しの叩き込みが頭頂部で炸裂する訳でもなく、嵐の前の静けさ的な妙に不気味な時だけが過ぎていく。

 めきっ!

「あうっ!」

 油断していた俺の左頬に、突然日和の右拳が炸裂。

「な、何故に?」

 俺は驚愕に黄昏ながら日和の顔を確かめた。

「ごめんなさいっ! せいらさんが丈瑠に何か憑りついたから、意識を乗っ取られないように思いっきりぶん殴れって、それで――」

 日和が戸惑いながら俺の顔を見つめている。

「そう、あり、がと」

 困惑する日和に苦笑いで答えつつ、せいらに抗議の一睨みをする。が、反対にぎろりと睨まれてしまい、瞬時にして強気から超弱気に転じてあたふたする俺だった。

「なあ、神さん。油断させてどうするつもりなん?」

 森崎が風雅の耳元で囁いた。

「今は秘密。奴に気取られたら困るし」

 風雅はとぼけた口調で森崎に答えると、呑気に大欠伸した。

 ゆるい。緩過ぎるぞ。この神様達。

 餓鬼達には学習能力が無いのか、目前の仲間が粉々に弾けを飛ぶのを目の当たりにしながらも、踏み止まる奴はいない。

 身の安全は三神の折り紙付きだけど、決して、いい気分ではなかった。

 奴らは皆、俺をガン見していた。

 俺だけを。獲物を追う、獣の様な鋭い目つきで。

 奴らにとって、俺の力はとてつもなく魅力的らしい。

「まあな。あいつらは地獄で業火に焼かれても復活するが、所詮生まれ変わっても餓鬼でしかない。それ故、結局同じ苦しみを繰り返し味わうことになる。だが、おまえの力を手に入れれば、人として生まれ変れる――人形の変貌を目撃して、本能的にそう悟ったのだろうな」

 俺の思考を読んだせいらが、おぞましき事実を静かに語った。

 てことは、これから先、俺はこんな類の怪異に狙われ続けるのだろうか。

 守るべきものが増えても、俺はちゃんと守れるのだろうか。

「大丈夫、いざとなったら私が守ってあげるよ」

 不意に、耳元で聞こえる優しい囁き。

 日和だった。

 驚く俺に、彼女は微笑みながらそっとⅤサインで答えた。

 目頭が熱い。止めようにも、何だか次から次へと熱い思いが込み上げて来る。

 感動していた。テレビドラマや小説で味わったことのある高揚感を遥かに凌ぐ感情のここまで魂が奮い立つ思いをしたのは、今まで何回あっただろう。

 漢字二文字で簡単に表現出来るような薄っぺらいもんじゃない。

 でも、今回は違った。少なくとも、違うと思う。

「大したものよ。あの娘、おまえの心情をしっかり感じ取っているではないか」

 せいらがにやりと口元に笑みを湛えると、肘でごんごん俺の脇腹をつついた。

「安心しろ。私も守ってんだからな。どんな怪異異形が来ようと蹴散らしてくれる。それに、おまえももう少し成長すれば、悪意を持つ輩を簡単に追っ払えるようになる。それまでは修行だな」

「修行って? 滝に打たれるとか?」

 俺の問い掛けに、清羅が呆れた顔で吐息をついた。

「違う違う。そんなんじゃない。日々、生かされている事に感謝すること、人を傷つけたり陥れたりしないこと、簡単に困難にくじけないことだ。その日々の積み重ねこそ、人として命を受けたものが生きる修行の道だ」

 優しい表情で諭すように語るせいらを、俺は黙って見つめていた。その言葉の一つ一つが、俺の意識に熱い刻印を刻んでいた。当たり前の様な、それでいて正面から向かい合うのは難しい様な、だが絶対に眼を逸らしてはならない大切な事なのだ。 

「見ろ、奴らの動きが変だ」

 森崎が訝し気な表情で進撃し続ける餓鬼どもを凝視した。

 森崎の意図する意味は一目瞭然だった。相変わらずこちらに突っ込んでくる群れはあるものの、一部の者たちは別方向へと行動し始めたのだ。やがてそれは次第に伝播し、その群れは波状に数を増やしていった。

 奴らの向かった先は、あの人形。

「何考えてんだ?」

 俺は首を傾げた。

「おまえに近づけないから、あの人形を食らって元の姿に転生しようとしてるのさ」

 せいらが侮蔑に満ちた口調で吐き捨てると、冷ややかな目線を餓鬼どもに注いだ。

「おいおい。自分の親玉だろ?」

「主従関係はないと思われます。彼らは強引に地獄から異形に連れてこられただけのように思えますから」

 白眉の回答は非の打ち所がなかった。それなら分らんでもないな。

 さっきまでは異形だけ別空間に身を隠していたから、血迷った餓鬼に襲われる心配もなかった。でも、今度は勝手が違う。同じ空間座標内に存在するのだから。

 餓鬼が、一斉に人形に飛び掛かる。

 刹那、突然の轟音に大地が揺らぐ。思いもよらぬ衝撃に足元をすくわれた餓鬼達が、次々にもんどりうって転倒する。

 地震? にしては妙だ。

 俺達の結界の中は少しも揺れていない。それとあの人形の周りも以下同文。だが、餓鬼達のひしめき合う大地だけは、これでもかと言わんばかりに激しくうねり、その力に耐えかねた地表が大きく裂ける。それも、一か所じゃない。二か所、三か所――数えきれない亀裂が地表を迷走すると、一斉に崩落した。

 信じられない光景だった。ほんの一瞬のうちに、何もない荒野の大平原が、複雑に入り組んだ底深い峡谷と化していた。

 それも、人形が佇む付近と俺達の結界内を除いて。

 餓鬼達は悲鳴を上げながら、爪を立てて壁と化した地面にしがみつこうとするが、やがて耐え切れなくなったのか、次々に崖下へと滑落していく。

「これは……?」

 森崎の声が震えていった。大抵の事じゃ動じない奴の図太い精神力も、今回ばかりは別格だったようだ。

「あの人形の仕業です。用済みと判断したのでしょう。それに加え、自分に牙をむく無礼な輩と化した以上、奴にとっては邪魔な存在になったのですから」

 白眉が落ち着いた口調で淡々と語る。

 身勝手な話だった。勝手に召喚し、勝手に殺され、勝手に排除される――ほんの砂一粒程度だが、何となく餓鬼達が哀れに思えた。

 峡谷は餓鬼達を呑み込むと、再び隆起し始めた。

 揺れが収まった。亀裂と峡谷だらけの大地が、再び殺伐とした平原の広がる荒野に転じていた。信じられないことに、あれだけ派手に断裂していた地表が、まるで完成したジグソーパズルのように全てのピースが地表を継ぎ目無く覆っていた。

「餓鬼が、消えた……」

 日和が、茫然としたまま、震える声で呟いた。

 俺は、ああ、と呟いた。

 呟いたつもりだった。だが実際には声は言葉として紡ぎだされる事はなかった。重苦しい脅迫概念と耐え難い戦慄の波状攻撃で、俺の舌根は機能を放棄していた。

 これが、あの人形の力なのか。いくらせいら達が三人揃ってかかっていっても、勝てる相手じゃないのではないか。

 不安が俺の頭の中を暴走していた。声をあげて泣き叫びたい衝動を、紙一重の所で必死に捩じ伏せていた。

 動揺ぶりを察したのか、せいらは俺の肩にそっと手をのせた。

(いいか、よく聞け)

 せいらの思考が、声となって俺の頭の中に直接言葉を紡いだ。驚いてせいらを見つめると、眼でこちらを向くなとの合図。慌てて視線を再び人形に向ける。

(奴に似気取られるといかんのでな、手短に言うぞ)

(分かった)

 せいらの言葉にすかさず心の中で相槌を打つ。

(丈瑠、トモロウと一緒に奴に食われろ)

(えっ?)

 思わず本当に声を上げそうになってしまった。

 どういう事よ、それ。まさか俺を人身御供にしてこの場を治めて自分達だけ逃げ出そうってんじゃ……。

(馬鹿者、戯けた事考えてんじゃないっ! 守護霊がそんな無責任な事をするわきゃねーだろっ!)

 せいらの怒りの思考が俺の意識を容赦無く殴打した。

(奴を外から攻めてもまた違う次元に身を隠すだろう。だから、中から攻めるのさ)

(えっ? でも、どうやって?)

(私等三柱の力をお前に注ぐから、それを奴の中にぶち込んで欲しい)

(ぶちこむってったって……)

(大丈夫、僕がお手伝いします)

 トモロウだった。いつの間にか、背後から俺の二の腕を掴んでいる彼がいた。

(兄ちゃんが受け取った神様の御力、僕が奴に打ち込みます)

(出来るのか?)

(出来ます!)

 驚いて振り返ると、自信満々の笑みを浮かべているトモロウの顔があった。

(さっきあのお祖母さんの霊を吹っ飛ばしたでしょ?)

(あの時……そうか!)

 俺は黙ったまま頷いた。確かにそうだ。トモロウなら俺の霊力を使って志桜里や陽を実体化したりしてきた。ならば、俺を経由して三神の力を使うことも可能かもしれない。

(これから手順を伝える。他の二人にもな)

 せいらはそういうとイメージを俺の脳裏に焼き付けた。

 俺は奴に感づかれぬよう、心の中で頷いた。

「やるぞっ!」

 掛け声とともに、せいらが立ち上がった。白眉と風雅もそれに続く。

 三神は結界の外に出ると、立ち止まって人形と対峙した。

 敵との距離は約数十メートル程。

 せいらの身体から無数の稲妻が迸る。同時に、白眉の放った無数の光の矢と風雅が生み出した無数の旋風が、それぞれシンクロしながら人形に襲い掛かる。

 人形は、ゆっくりと右掌をせいら達に向けた。

 ガラスの砕けたような粉砕音と共に、せいら達の放った攻撃が一瞬で四散する。

 人形の口元が意地悪く吊り上がる。

 笑っていやがる。慢心に満ちた不愉快な笑みを満面に浮かべ、歓喜を爆発させていた。

 人形は右掌だけでなく左掌も前に突き出した。

 三神の神体が大きく弧を描いて吹っ飛ぶと、結界の中へ落下した。

 何が起きたのか?

 音も光も匂いも何もしない。物理的な攻撃でないのは確か。

 念動力か?

「みんな、大丈夫かっ?」

 慌てて声を掛けるが、倒れたままで返事はない。多分演技なのだろう。

 そう信じたい。否、そう信じるしかない。

 人形は嬉しそうに表情を歪めながら、滑るような足取りで、こちらに向かって歩いて来る。

 結界まであと五メートル、四、三、二――。

 俺は走った。すぐ後ろにトモロウが続く。

「せやああああっ!」

 人形の顔目掛けて拳を打つ。

 刹那。人形は、くわっと口を開いた。

 俺はたじろいだ。下顎がすとんと足首まで下がり、言わば全身が口と化したのだ。しかも、口腔内は真っ暗闇。おまけにとんでもなく生臭い。

 だが、戸惑う俺を急き立てるように冷たい手が背中を押す。

 人形の手だ。人形のか細い手が、想像を絶する力で俺に抗う隙を与えようとはしない。

 口の中の湿気を孕んだ空気が、ねっとりと俺に纏わりつく。

 力が入らなかった。身体から、凄まじい勢いで生気が吸い取られていくのを感じる。おまけに、身体はずぼずぼと呑み込まれ、もはや半分以上口の中に納まっている。

 まずい。このままだとごっくんされてしまうぞ。

 くそうっ!

 三神達はどうした?

 あれ、ひょっとしてマジぶっ倒れてるって訳じゃねえだろな。

「兄ちゃんっ!」

 一抹の不安が脳裏を過った刹那、それを一掃するかのようにトモロウが叫んだ。

 トモロウが、俺の腰にしがみつく。

 同時に、とてつもなく熱い気が俺の身体に流れ込む。

 振り向くと、せいら達三神と日和、森崎の姿が見えた。俺の背に右掌を押し付け、目を閉じている。

 止めどもなく全身を駆け巡る霊力の激流が、俺の中で更に加速し、大きく開かれた暗黒の深淵へと突き抜ける。

 細胞が歓喜の咆哮を上げる。身体の奥底から突き上げて来る心地良い高揚感がアドレナリンを爆発的に分泌させているのか、鼻が曲がるくらい耐えられない口臭も、霊力を奪われるのに伴って蓄積していた疲労感や脱力感も、一瞬にして吹っ飛んでいた。

 まるで無敵の超人になったかのような変な自信が意識を支配し、不安や恐怖を根こそぎ一蹴していた。

「兄ちゃん、行くよっ!」

 トモロウが俺の腰にしがみ付きながら叫ぶ。

「おらあっ! 食ってみやがれっ! この野郎っ!」

 俺は吠えた。

 こいつには負けない。負ける気がしない。

 人形も俺達の気迫に何かしら感じ取ったのか、俺を無理矢理口の中へと押し込んでいた奴の手の動きが逆転。今度は俺を引き離そうとする。

 今更抵抗しても、もう遅いわ。

 それに、俺は囮。

 主役は、トモロウだ!

 俺はトモロウの腰を掴むと、両手で支えながら彼を奴の口腔内の奥へと突っ込んだ。

 トモロウは不安定な体制をもろともせずに、口腔内の闇の空間に右拳を撃った。

 目の前に朧げな像を留めている『のどちんこ』目掛け。

 トモロウの拳から夥しい閃光が迸る。

 白い光が、漆黒に塗りつぶされた空間を一気に消し去っていく。

 俺達を排除しようとしていた人形の手の動きが、ぴたりと止まった。

 無機質な軽い破砕音が響くと同時に、視界の映像が荒涼とした砂と岩の風景に変わった。人形は跡形も無く消え去っていた。ただ、その殺風景ながらも見慣れた空間を、無数の白い玉響が埋め尽くしていた。

 その一つ一つに、顔らしきものがぼんやりと浮かんでいる。

 苦悩、怒り、悲しみ、嫉妬、恐怖……様々な表情を浮かべた玉響達は、抵抗する力も再び凝結する意思もないのか、ただふわふわと中空を漂い続けていた。

「あれが、人形の正体さ。微弱な不成仏霊の集合体。こいつらは所詮自分の事しか考えられない輩だけど、我が子に会いたい、例え人形の身体でいいから蘇らせたいって思う母親の強い意志に引き寄せられて、人形を依り代にして集まったんだな」

 せいらは、物憂げな表情を浮かべながら、玉響の群れを見渡した。

「この人形の持ち主は、人形に魂が宿っているって知ってたのか」

 俺はせいらに素朴な疑問を問い掛けた。

「たぶんな。恐らく本人は、自分の娘の魂が宿っていると思ってたんだろう。だから、自分の死後もその思念が残留して、人形の世話をし続けた。美月に憑依したのもその為さ」

 せいらはそう答えると、玉響の大群に向かって右掌を翳した。

 雷鳴と共に、いくつもの稲妻が中空を駆け巡る。

 ばらばらに右往左往していた玉響達が、稲妻に追い立てられてわらわらと集まり始める。

 白眉が、無言のまま、右手を天空に突き上げた。

 無数の光柱が空から降り注ぎ、玉響の包囲網を築く。

「仕上げは、私」

 風雅は印を結ぶと、軽く前に突き出した。

 刹那、凄まじい竜巻が巻き起こると、玉響達を呑み込み、空高く舞い上がり、消えた。

「あいつらは、何処へ?」

 森崎が玉響達の消えた空を見上げた。

「冥界さ。無理矢理成仏させたよ」

 風雅が親指を立てながら得意気に笑みを浮かべた。

 刹那、視界が闇に呑み込まれる。

「え、何?」

 俺は茫然としたまま硬直した。

 俺達は、家の中にいた。美月が、間借りしているあの家らしき建築物の中に。明かりがついておらず、かろうじて窓から差し込む月光が仄かに様相を示す程度だが、朧気に見える家具やテーブルは紛れもなく美月さんの家だ。

 余りにも唐突だった。何の前触れもないままに、ほんの一瞬きで風景が変わったのだ。

 あの異形が消滅したせいなのだろうか。ひょっとしたら、あの世界は異形自身が作り上げた空間だったしれない。

 そうだ、肝心な事忘れてた。

「みんな、いる?」

 俺は周囲を見渡した。輪郭は何となく見えるから、大丈夫かとは思うけど。

「いるぞ」

「います」

「いるよ」

 せいら達三神は揃ってる。

「丈瑠、私はここにいます」

 うん、日和は俺にぴとっと張り付いているから分かる分かる。

「僕もいます」

 トモロウもいるね。ずっと俺の腰にしがみついたままだし。

「俺もいるぜ」

 森崎もいると。じゃあ全員――揃ってないっ!

「美月さんがいないっ!」

 俺は狼狽した。人形を倒すことに気を取られ、美月さんを放置してしまった。

「大丈夫、ここにおるぞ」

 若い女性の声。でも、美月の声じゃない。初めて聞く声だ。

 不意に、俺の背後に明かりがともった。慌てて振り返ると、まばゆい白い光の中に、美月を抱きかかえて床に座っている、薄桃色の羽衣を纏った長い髪の美少女が目に飛び込んで来た。澄んだ瞳、すっきり通った鼻筋に薄い唇。これでもかと言わんばかりに整った面立ちは大人びてはいるものの、見かけは日和と変わらない位か。あくまでも人間ならばの話だけど。

「あなたは?」

 俺は恐る恐る彼女に声を掛けた。

「私は弁財天。字名は月見姫です。この者の守護霊なのですが、邪霊に封じられておりました。この度は私共々助けて頂き、本当に有難うございました」

 月見姫は俺達に深々と頭を下げた。

「いえ、そんな、もったいなき御言葉、有難うございました」

 俺はあたふたしながら頭を一八〇度近くまで下げた。

「ツッキー、そんなにかしこまらなくてもいいんじゃない? 神様なんだからさ。彼らが恐縮しちまってるよ」

 風雅がやれやれといった感じで、緊張した空気を和まそうと月見姫――ツッキーに声を掛けた。

「風雅の知り合い?」

「いや、今日が初顔合わせ。あ、でも会議の場であってたかも」

 俺の問い掛けに、風雅は何食わぬ顔で答える。

 おいおい、この神様ときたら……。

「ん、くふう」

 微妙な息遣いと共に、美月さんが目を覚ました。

「あれ、私、どうしたんだろ……あ、月見姫様」

 美月は驚きの声を上げると月見姫を見つめる。そうか、彼女も見える人だから、自分の守護霊のこと、知ってるのか。

「美月、もう大丈夫。この者達が我々を救ってくれた」

 状況が呑み込めずに動揺する美月さんに、月見姫が優しく囁きながら、自分達がどうやって助け出されたかを語った。ただ森崎の除霊方法については、月見姫が配慮したのか割愛されていた。

「ここは、私の家ですか?」

「ええ。でも、美月はもう、ここでは生活出来無い」

「えっ?」

 美月さんが訝し気に眉間に皺を寄せた。

「部屋をよく見てみなさい」

 月見姫を照らす後光が更に輝きを増し、部屋全体を明るく照らした。

 俺は息を呑んだ。天井の一部が抜けて板が大きく捲れ上がっている。壁は煤け、テーブルの上には白い埃が降り積もっている。

 見る限り、人が生活出来るとは到底思えない、廃墟に近い残状だった。

 不意に、部屋がギシギシときしみ始める。

「みんな、今すぐここから出るぞっ!」

 せいらが緊迫した表情で声を上げる。

「え、何?」

 どういうこった? 訳が分からん。

「この家が、消える」

「え、消えるって?」

 せいらの回答と同時に、脳内増殖した疑問符が俺の脳裏を埋め尽くす。

 いくら廃墟化したからって、いきなり消えるなんて――えっ!

 俺は我が目を疑った。大きく剥げ落ちた天井が、まるで点描画の作成風景を巻き戻し再生しているかのように、粉々に崩れ始めた。

 日和が無言のまま俺の腕にしがみつく。激しく脈打つ彼女の拍動が、直面している恐怖を更に駆り立てた。

「ここ、二階だから階段に気を付けて」

 美月さんが懸命に声を上げながら立ち上がる。が、ぐらりと身体が崩れた。憑依されていた後遺症だろうか、明らかに衰弱し切っていた。

「俺につかまって。肩を貸します」

 森崎が美月さんの傍らにそっと寄り添う。

 奴が付いていれば大丈夫か。俺は俺の守るべき人を守る。

「日和、トモロウ、行くぞっ!」

 俺達は足早に部屋を出ると階段を駆け下り、家の外へと脱出した。

 振り向くと、さっきまでいた二階はもはや存在しておらず、一階部分も見る見るうちに崩落し、消失した。家だけじゃない。すぐそばの車庫も車も、同じように輪郭を失うとぐすぐすと崩れ始めると、瞬く間に塵と化し、消え失せた。

「何なんだよこれ……」

「たぶん、あの家も車も、何年も前に朽ち果てていたのさ。それを人形に憑依した連中が、自分達の思い通りに動く使い魔を囲う為に何とか維持してたんだろうな。我らが脱出するまでかろうじてもってくれたのは奇跡的だった」

 せいらは安堵の吐息をついた。

 使い魔というのは、言うまでもなく美月さんの事だ。

「何故、こんな事態になっちゃったんですか?」

 俺は月見姫に尋ねた。神様にこんなことを聞くのは失礼かと思ったけど、森崎に体を預けてぐったりしている美月さんには、どう見ても話を聞ける状態ではなかった。

「あの女の霊が現れたのは三月の半ばでした。突然、病院の小児病棟を訪れると、子供達が集まる交流室に人形を置いて立ち去ろうとしたのです」

「人形って、あの?」

 月見姫は黙って頷いた。

「異様な瘴気を感じた私は、結界を築く為に人形と対峙しました。人形の目的は、すぐに分かりました。そこに集まる子供達の魂を吸い取ろうとしていたのです」

「病に苦しむ子供の魂をか? 何故に弱り切った魂を?」

 せいらは首を傾げた。

「その反対です。病院の子供達は、病気に打ち勝とうとする強い意志を持っています。とんでもなく浅はかな考えですが、そうすれば生身の肉体を得られると思ったようです。人形に宿る意識が、私にそう訴えかけてきました」

「とんでもない思い込みですね」

 俺は神妙な面持ちで呟いた。

 呆れた話だった。余りにも自分勝手で偏執的考え方だ。

「所詮そんな低俗な輩なのさ」

 俺の思考を察してか、せいらが吐き捨てるように言った。

「私が人形を封印している間に、美月はあやつを追いかけたのですが、反対に憑依され、私も背後から隙を突かれてあやつに呑み込まれてしまったのです」

 月見姫は苦悶の表情を浮かべた。

「間一髪のところで、人形は私が異界に封じたのですが、あやつはこの屋敷に異界に通じる道を築き、取り戻しました。但し、私の施術した封印までは解けず、ここからは出れなかったのです」

「それで、美月を使って獲物を取り込もうとしていたのか。でも最初、トモロウを丈瑠の部屋に封印しようとしたのは何故だ?」

 せいらが首を傾げた。

「あやつは、彼が自分達に災いをもたらす者だと予知していました。それで、神代の呪法を用いて永久に封印しようとしたのです。ですか、貼る寸前に、すぐに剥がれるように私が札にこっそり細工をしておきました。助けを求める私の残留思念を添えて」

「それを私が見つけたってわけだ」

 月見姫の話を聞いてドヤ顔のせいらは、得意気に俺に向かって親指を立てた。

「じゃあ、せいらは月見姫様や美月さんの事、初めから知っていたの?」

「大方はな。札に仕込まれていた隠し文に詳しく書かれいたからの」

 俺の問い掛けに、せいらはふふんと鼻で笑った。

「あやつが丈瑠を狙い始めたのは、美月がそなた達と大学で出会ってから。禁忌の存在として敵視していたトモロウが常に丈瑠のそばにいましたが、あやつの我が子を生き返らせようとする欲望は、それを白紙化させる程、凄まじいものでした」

 月見姫は、表情を曇らせると、俺をじっと見つめた。

「丈瑠、あなたには申し訳なく思っています。そして、美月にも。私がついていながら、これほどまでに苦しめてしまうことになってしまった」

 月見姫は大きく吐息をついた。

「いえ……悪いのは、私です。私が自分の力を過信しなければ、こんなことにはならなかった。申し訳ありません。皆さんを巻き込んでしまって。本当にごめんなさいっ!」

 美月さんは悲痛な面持ちで、目に涙を浮かべながら深々と頭を下げた。

「姫様もあなたも悪くない。危険を顧みず、病室の子供達の命を守ろうとしたんだから、むしろ被害者だ。顔を上げてください。ここいる者の中に、お二人を恨んでいる者は誰もいませんよ」

 森崎が温和な笑みを浮かべながら、美月さんの耳元で優しく囁いた。

 美月さんの瞳から、大粒の涙がとめどもなく流れ落ちる。

 くそっ! 森崎の奴、おいしいとこ持っていきやがった。けど、ま、いいか。咄嗟にああやって声を掛けられるのが、森崎の良い所だ。

 俺は森崎に親指立ててグッジョブの評価。すると、森崎も同じようにグッジョブで返して来る。

「これから、どうしよう」

 美月さんは途方に暮れた表情で、崩れ落ちた家をただぼんやりと見つめていた。

「良かったら、とりあえず叔母の所に来ませんか。うちの大学の理事なんです。学生が困ってるって知ったらほっとかないですよ。俺が話付けるんで」

「え、それはちょっと……」

 森崎は戸惑う美月さんをよそに、スマホで叔母に連絡を取り始めた。

「オッケー取れました。大丈夫だって。あ、心配しないで、俺の車で送るから」

 森崎は爽やかな笑顔を浮かべながらスマホをポケットにしまった。

「みんなも送るぜ」

「サンキュ、助かる」

「これで飯おごるのはチャラな」

「え、まあいいか」

 俺は苦笑を浮かべた。そんな約束、すっかり忘れていた。何かとあったとは言うものの、最終的には俺の方が色々助けてもらったんだから、奢るのはこっちだろうと思うんだが。

「兄ちゃん、姉ちゃん、僕もそろそろ行かなきゃ」

「ああ、森崎が送ってくれるってさ」

 トモロウは寂しそうな笑みを浮かべると、何故か黙って首を横に振った。

「え、トモロウ、おまえ……」

 トモロウの意図すること、いくら鈍感な俺でもすぐに察しがついたよ。

 もちろん日和も同じ。大きく見開いた眼に込み上げて来る涙が、それを証明していた。

「兄ちゃん、何故僕が今まで成仏できなかったのか、何故兄ちゃんと知り合うことになったのか、やっとわかったよ」

「それは、何なんだ?」

「美月さんを助けるため。それと――」

 トモロウはそこまで言い掛けると、不意に言葉を呑み込んだ。

「やるべき事は、全てコンプリートしましたあ」

 トモロウはおどけながら俺に敬礼をした。そして、舌をちろっと出した。

 でも、眼は笑っていない。

 涙を限界まで溜めてうるうるしているじゃねえか。

「行く、のか」

 俺は、それ以上の言葉を紡ぐことが出来なかった。

 かっこ悪い。大学生だろ、もっとましなセリフ言えないのかよ。

 俺は自分を叱咤し続けた。いつかこの時が来るのを想定していたはずだ。だが、情けない事に、込み上げて来る感情の熱い噴流が俺の思考を鷲掴みにし、止めどもなく溢れ出る涙を拭うことすら出来ずにいるのが現状だった。

「トモっ!」

「姉ちゃん!」

 トモロウと日和は抱き合うと周囲を気に留めることなく号泣した。

「安心しろ、人払いしてるからな。思いっきり泣け」

 俺にそっと囁くせいらも涙をぼろぼろ流している。

 何だろ、何処からともなく列車の警笛が聞こえる。この近くに駅なんかあったっけ。

 空だ。

 見えた。無数の星が広がる夜空を、飛行機とは明らかに違う軌道を描きながら近付いて来る光の行進があった。細長い軌道にそって、いくつもの窓明かりが見える。

 月の白い明りに照らされて、その全容は明らかになった。

 列車だ。それも、見覚えがある。

 昼間、志桜里が旅立った時に乗っていった列車と同じものだ。

 列車は地面に降り立つとゆっくりと速度を落とし、俺達の前で止まった。見ると、不思議な事に車輪はちゃんと線路の上に乗っている。

 ドアが静かに開く。

「トモロウ!」

 志桜里がドアの向こうで手を振っている。

 トモロウは涙を拭うと、志桜里に手を振って答えた。

「姉ちゃん、僕、行くね」

「うん……」

 日和は頷くと、名残惜しそうにトモロウの頭をぐりぐりと撫でた。

「トモロウ君、有難う」

 美月さんは、衰弱し切った身体を森崎に支えられながら、両手でトモロウの手を握ると、すぐさま彼を抱きしめた。

「僕の方こそ。入院中、お世話になりました。美月さんに勉強を教えてもらって楽しかったです。何とかその恩返しが出来たから、僕はもう満足です。幸せになって下さいね」

 トモロウは優しい笑みを満面に湛えながら、美月さんを見つめた。

 美月さんは言葉を綴れなかった。彼女は、感極まる余りにか、涙で顔を濡らしながらしゃくりあげるのが精一杯だった。それでも笑顔で彼を送り出したいのだろう、無理矢理微笑むと、徐にトモロウの額にチュッとキスをした。

 ちょっと美月さん、志桜里のいる前でそれはまずいんでねえの? 

 さりげなく志桜里を見ると、案の定、怒りの三角眼でぎろんぎろん二人を凝視している。

「せいらさん、白眉さん、風雅さん、有難う御座いました」

 トモロウはせいら達に深々と頭を下げた。

 せいら達は黙って頷いた。三柱とも声こそ上げてはないが、滝のように流れる涙を抑えきれず、終始無言のままだった。彼らにも彼らなりの意地があるらしい。

「森崎さん、お世話になりました。月見姫様、美月さんをよろしくお願いします」

 トモロウのお願いに、月見姫と何故か森崎までもが親指を立てて返事を返す。

「兄ちゃん」

 トモロウが、ハの字眉毛を更に下げながらぎこちない笑みを浮かべた。

「ん?」

「有難うございました。兄ちゃんと知り合えて楽しかった。それに、僕がやりたかったことを叶えてくれたし」

「俺の方こそ、有難うな。おかげで数学が楽しくなった」

「でしょっ! 数学程楽しくて奥の深い学問はないですから」

 トモロウの表情がぱっと明るくなる。

「元気でな」

「はいっ! といっても、僕、死んじゃってますけど」

「志桜里ちゃんと仲良くな」

「はいっ! 勿論」

 トモロウは顔を真っ赤にしながら、舌をちろっと出した。

「兄ちゃんも、姉ちゃんとお幸せに! 」

「ああ、任せとけ」

 俺は日和を見つめた。

 日和は恥ずかしそうに俯くと、俺にぴとっとすり寄って来る。

「じゃあ、行きますね」

 トモロウはにやにやしながらふわりと跳躍し、列車に乗り込むと、待っていた志桜里の横に並んだ。

「皆さん、有難うございました。さようなら」

 俺達に向かって、彼は深々とお辞儀をした。

 列車のドアが閉まり始める。

「また、会おうな」

 俺は叫んだ。

 それは、俺がトモロウに送った最後の一言。

 閉まり始めたドアのエアー音で聞き取りにくかったけど、トモロウは俺にこう返してくれた。

『はい、必ず』と。

 列車は、ゆっくりと動き始めた。

 車窓越しに手を振るトモロウと志桜里の姿が見える。

 でも、見てしまった。志桜里が微笑みながら、何食わぬ顔でトモロウの頬をむにゅーっとつねっているのを。

 あーあ、美月さんのせいだぞ。この後、喧嘩にならなきゃいいけど。

 俺は苦笑を浮かべつつ、月光の中に消えて行く列車をいつまでも見送った。






「何をもたもたしているっ! この大事な時に」

「仕方ねえだろっ! 緊急のオペが入っちまったんだ」

「そんなもん、森崎にやらせとけっ!」

「奴は心療内科医! 外科医じゃないっ!」

 傍らで激しく叱咤するせいらに言い返しながら、俺は病院の廊下を疾走した。

 ようやく分娩室の前に到着すると、白衣姿の森崎が、相変わらず派手な装いの風雅とニマニマ笑いながら立っていた。

「何とか間に合ったな。まだ生まれてねえよ」

「良かったあ」

 俺はほっとして額の汗を袖で拭った。

 トモロウが旅立ってから、俺は彼が叶えられなかった夢を叶えようと猛勉強。そして医学部を再受験したのだ。私立だと学費が半端ないから頑張って国立大学を受験し、見事に受かりましたぜ。因みに日和も同じ大学の医学部に入学。あれからお付き合いは続き、以前農学部でお世話になっていた私立大学の附属病院に採用された翌年に結婚。ちなみに妻も外科医だ。

 森崎の奴も、自分がこれからも美月を守るのだと熱い思いに覚醒し、医学部に編入。私大の医学部という、俺だったら経済的にリスキーな選択手段だが、奴は財力に恵まれているから学費の心配は全くなかった。実に羨ましい限りだよ。

 だが正直のところ、俺も奴と同じパターンの道が無かったわけでもない。俺の医学部受験を森崎から聞かされた彼の叔母が、彼と同様に編入試験受験するように勧めて下さり、しかも合格した暁には入学金学費免除の特待生待遇を申し出てくれた。

 だけど丁重にお断りしました。そこまで甘える訳にはいかない。

 ちなみに、彼の叔母は今、一男一女の母親でもある。

「たけるん、ひよりんがお待ちかねだよ。風人の嫁ちゃんには、出産に立ち会うって言ってるんだろ?」

 風雅が俺の背中を楽しそうにバンバン叩く。

 たけるんにひよりんって。おいおい、いつからそう呼ぶようになったんだ?

 そういう俺も、神様に向かって「おいおい」は失礼か。

「すげえな美月さんも。三か月前に出産したばかりなのに、もう復帰したのかよ」

「ああ、どうしても日和さんの赤ちゃんを取り上げたいんだってさ」

 森崎はどことなく得意気に呟いた。

 森崎の嫁ちゃん――美月さんは産婦人科の医師で、三か月前に女の子を出産。この時、不思議な事があって、それに由来して娘の名前も決まったのだが……。

「何をもたもたしているっ! 早く行けっ!」

 せいらの容赦の無い蹴りが俺の腰に炸裂。

 香港映画のチェーンアクションのように中空を駆り、俺は分娩室の扉に激突――開いた。

 ドアの向こうに微笑む白眉の姿があった。

 勢い余って看護師に抱き着きそうになるのを、彼は片手でひょいと俺の身体を支えてセーブ。そしてもう一方の手で何事もなかったかのようにドアを閉めた。

(有難う、白眉)

 心の中で感謝を込めて二礼二拍一礼していると、日和が苦悶の表情を浮かべながらも微かに微笑みを浮かべた。

「丈瑠、間に合ったねえ。緊急オペ、お疲れ様!」

 美月さんが破顔の笑顔を浮かべる。

 その背後で、月見姫が笑みを浮かべながら静かに琵琶を奏でている。落ち着きのある静かな音色が、分娩室を優しく満たしている。残念ながら、この音色を楽しめるのは霊能力者限定だ。常人にはせいぜい風の音にしか聞こえない。

「いいタイミングだねえ。そろそろ出て来るかな。日和、がんばれっ! 旦那も来たし、頭が見えて来たよっ! この子はパパが来るのを待ってたのかな?」

 美月さんが明るい声で日和に声を掛ける。

 俺は、ただ茫然と立ちすくむだけ。顔を真っ赤にしながら呻く日和の様子に、俺、つくづく思ったよ。俺なら耐えられねえかもって。

 新たな魂を生み出す母性の強さって、凄いんだな。

「ひよりん、もういきまなくていいよう」

 おいおい、美月さんまでひよりんかよ。

「はい、おめでとう! 生まれたよっ! 元気な男の子!」

 元気な泣き声が分娩室中に響く。

「森崎先生!」

 俺の息子を抱きあげた助産師が驚きの声を上げる。

 経験豊富で何が起きても動じることのないベテランの彼女の狼狽ぶりに、周囲の空気が一瞬にして凍りつく。

「どうしたの?」

 美月さんは訝し気に助産師に問い掛けた。

 ちょっと何? 何かまずい事でもあったのか?

 一抹の不安に駆られながら、俺は助産師に近付いた。

「この子、右手に何か握ってます」

 助産師が、ぎゅっと結んだ息子の右拳を凝視している。

「ん、どれ?」

 美月さんがそっと手を差し伸べた瞬間、彼の小さな手は紅葉のようにぱっと開いた。

 彼の手のひらから零れ落ちたそれを、俺は反射的に伸ばした掌で受け止める。

「これは……」

 羊水でじっとり濡れ、小さく折りたためられたそれを、指先で恐る恐る広げてみる。

 俺には見覚えがあった。忘れもしない。忘れるなんて出来るもんかよ。

 涙が止まらなかった。込み上げてくる感情を無理矢理押さえつけるなんて、今の俺には出来ない。

 泣かせてくれ。

 史上最高のうれし泣きだ。

「ごめんなさいね、赤ちゃん、大丈夫ですよ!」

 助産婦が心配させまいと、無理矢理笑顔を作って息子を日和の横に寝かした。

「有難う、お疲れ、日和」

「どうしたの、赤ちゃんに何かあったの?」

 不安げに俺を見つめる日和の目の前に、俺は息子が握りしめていたものを差し出した。

 とある駅の入場券。旅立つ志桜里を見送りに行った時、あいつが記念にとわざわざ持ち帰ってきたやつ。

 日和は驚きの表情を浮かべると、最高の笑みを浮かべ、声を上げずに号泣した。

「不思議な事がこうも続くなんて……先生の赤ちゃんの時と一緒ですよね。それも、同じものを握っているなんて……」

 助産師は動揺を隠しきれない様子で、美月さんに必死で訴えかけている。

「そうよねえ、不思議だよねえ」

 美月さんは苦笑を浮かべながら助産師に会わせてうんうん頷いた。美月さんが女の子を生んだ時、彼女には事情を説明しているから、今回の出来事も喜びこそすれ、助産師みたく不安は皆無なのだ。

 そんな大人達のざわめきをよそに、息子はすやすやと眠っている。

 俺と日和は顔を見合わせると、二人で息子を見つめ、そっと囁いた。

「おかえり、トモロウ」

                                 〈了〉


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