もともと定能には、武田家お家乗っ取りの意志などなかった。だからいつまでも、武田家にいる必要もない。今度こそ父が何と言おうと徳川へ帰属しようと、実はかなり前から定能は決心していた。

 信玄の子の武田勝頼はいくさ上手だが、武田全軍を統括する腕を持っているとは思えない。そんな大将に仕えても意味がない。国境くにざかいの土豪はいかに天下をとる大将に仕えるかで、その家の運命が決まる。だから形勢を見ての寝返りは、彼らの宿命であった。

 一族を前に定能は固く口止めした上で信玄の死を知らせ、自らの徳川への帰属の意志を告げた。

「だが徳川が、また受け入れてくれるかのう」

 やはり不承知のような態度を見せた父に、定能ははっきりと言った。

「いえ、実は徳川の方からすでに何度か、帰属の意志を打診してきているのです」

 これは定能が初めて身内にも公開する情報だった。

「しかも、帰属すれば家康殿の長女の亀姫様を我が九八郎に嫁に下さるという話もあります」

 父の道文入道は苦い顔をしていた。

 するとそれに呼応するかのように、

「父上、それがしは絶対に反対です!」

 と、定能に向かって突然大声を出したのは息子の九八郎だった。

「甲府には仙千代が人質としてとられているのですよ。それがしにとっては大切な弟です。今徳川についたら、仙千代はどうなるか… 父上はご自分の息子が殺されてもいいのですか」

「おだまり!」

 そこへ間髪を入れず母、つまり定能の妻の一喝がとんだ。

「あなたは何を言うのです。小義のゆえに大義を害しては、家は滅びて自身も殺されますよ。今は奥平の家のことだけを考えなさい。弟を思うてもそれで家が滅んだら、智者とはいえますまい!」

 封建思想が根本理念であった頃である以上、それは全くの正論であった。個人の情よりも、お家大事なのである。だからこそ、かつて自分が徳川への人質になっている時に、夫の定能が武田へと寝返ったために見殺しにされかけた身であっても、それが言えるのである。

 それだけに説得力があって、もはや九八郎は何も言えなかった。

「その通りだ!」

 定能が妻の言葉を受け継いだ。

「信玄亡き武田家は、これからは落日だ。これにひきかえ徳川はまさしく日の出の勢いだ。徳川の盟友の織田弾正忠は、この三月にもまた上洛しているというぞ」

 そのひとことで、ついに奥平家の徳川帰参は決定した。

 ただ、父の道文入道は、徳川家の帰順をどうしても認めず、ついにたもとを分かつことになった。これまで今川から徳川、そして武田へとあるじを変えてきたのはことごとく父のいいなりだった。だがここで初めて定能は、その父に逆らった。


 天下の大勢も大きく変っていった。年号も元亀から天正と変わり、秋になってから京では織田信長が将軍義昭を追放した。

 その同じ頃に奥平家は信玄の死という情報を手土産に徳川方に再び寝返った。徳川帰順に反対する父と定能の弟の常勝は、そのまま作手城に残った。定能一家と定能のさらに下の弟の貞治の一家は、夏の終わりから秋の初めの季節の変わり目に作手城を後にした。

 さらには、これまでなら山家三方衆は常に合議してその行動をともにしてきた。しかし今回は他の菅沼二家を出しぬいての、奥平家の単独行動であった。これで山家三方衆は、敵味方に分かれてしまったわけである。その菅沼二家のうち菅沼正貞の居城である長篠城は数か月前に徳川の攻撃を受けて開城、徳川の手に移っている。

 定能によって徳川にもたらされた信玄の死という情報は、徳川の勢いをますます盛んにさせた。さらには盟友である織田信長にもすぐさま伝えられた。

 定能が寝返らなかったら家康も信長も信玄の死を知らずに、いまだに情勢を様子見していたかも知れなかったのである。

 そのすぐ後に、武田家に人質となっていた定能の次男仙千代は、奥平の寝返りに対する武田勝頼の激怒にふれて殺された。それもわざわざ甲府から三河まで送り付けられ、鳳来寺郷で磔刑はりつけにされたのである。

 もとより定能にとってはあらかじめ覚悟していたことだったので、さほど驚かなかった。しかしその刑場が鳳来寺郷の金剛堂の前だったと聞いた時は、さすがに背筋に冷たいものが走った。それは信玄が毒殺された場所であるが、勝頼がそのことを知るはずもないにもかかわらずにである。

 

 それから二年後の天正三年二月、定能にとって因縁の深い長篠城の城番に、定能がすでに家督を譲っていた長男の九八郎貞昌が任じられた。

 武田勝頼が三河に侵攻してきたのは、まさしくその直後の三月であった。そして手始めに武田軍は六千の兵で、わずか五百ばかりの手勢が守る奥平貞昌の長篠城の攻略にかかった。つまり甲軍は真っ先に、奥平の城を攻めたのである。

 長篠城には家康が援軍を申し入れてきた。だが九八郎貞昌は信長の援軍をも依頼した。よって援軍は一万八千もの大軍となり武田軍と設楽原しだらがはらで激突、世にいう長篠の合戦の火蓋ひぶたが切って落とされた。織田・徳川連合軍は鉄砲三千挺の鉄砲隊を使って大勝、以後武田家は衰退をたどることになる。

 

 一方その後の奥平家だが、定能の長男九八郎貞昌は織田信長からいみなの一字をもらって信昌と改名、約束通りに家康の長女のの亀姫を妻に迎えた。

 その後信長は、本能寺にて非業の最期を遂げる。そして秀吉の時代には定能は秀吉の労によって美作守に叙任、そして時代は秀吉の死と関が原の戦いを経て徳川の天下になる。そして、奥平家は譜代大名とはなったがあちこちに転封され、最終的には豊前・中津藩十万石の藩主として明治四年の廃藩置県に至る。

 奥平定能の存在によって武田信玄は死んだ。そして徳川の天下に至った。それを考えると、たかだか十万石という徳川幕府の奥平家への処遇は冷淡ともいえるかもしれない。

 しかしそれは当然のことであった。奥平定能は徳川へ帰属した後も信玄の死を伝えたのみで、その死に自分が関与していたことや信玄の死の真相については終生黙し通したのである。

 無論、そのことは何の記録にも記されてはいない。


(信玄謀殺 おわり)


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信玄謀殺 John B. Rabitan @Rabitan

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