定能にとって砂をかむような毎日が続いていたが、三月の半ば過ぎになるまで信玄から何の音沙汰もなかった。甲軍三万は、相変わらず山間の村落にいて動かない。一気に上洛を果たすため機を伺い、時が熱するのを持ち構えてひたすら息をひそめているようにも思われる。その間、周りの山々はますます新緑の濃さを増し、一年でいちばん緑が美しい季節となっていた。

 幸い左馬介に自分がしゃべった内容は、まだ広まってはいないらしい。しかしこのまま何ごともなく時が過ぎるということは、どう考えてもあり得ない。

 そんな時に定能は、鳳来寺郷に呼ばれた。無論、信玄にである。またいやな予感がする。本当に一刻も早く軍を動かし、この三河の地から立ち去ってもらいたいものだ。

 鳳来寺郷は、春の真っただ中であった。

 信玄の投宿する宿房の書院に通されると、相も変らず信玄は力ない様子だった。どこぞ病でもと、ふと思ってしまうほどだ。

「すまんが」

 いきなり信玄は、用件を言いだした。

「そなたを信用しないではないが、やはり事が重大であるゆえ…」

「は」

「人質を出してくれい」

 定能は一瞬信玄を見上げたが、すぐに頭を下げた。口止めの甲州金を積んだだけでは、信玄は安心できないらしい。なだめと脅迫の両方で自分を縛り上げようとしていることから察すると、信玄はよほど事の露顕を恐れているようだ。

 ただ、この信玄の申し付けは、左馬介がまだ何も信玄に言っていないということを物語ってもいた。

「さすれば作手に戻りました後、一族の者とも計らいまして」

「うん、明日、明後日のうちにもな」

 奥平家はもともと敵方から寝返った家だけに、人質を取られるのは仕方がない。それにしてもさすがに甲軍三万の兵を動かし、いくさをすれば連戦連勝の大将だ。このような些事に対する用意周到さにも、定能はかえって舌を巻く思いだった。

 作手に戻ると、さっそく一族の者を広間に集めた。

「仕方のないことじゃろう。今まで要求されなかったことの方が不思議」

 詳しいいきさつを知らない父の道文入道は、ただ徳川から武田へくみしたための人質としか思っていない。

「お屋形様に忠誠を誓い、武田に弓ひくことなど決してないと誓えるのなら、人質のひとりやふたりくらい出したとしても何の不安もなかろう」

 信玄の真意をただひとり知っている定能は、父のしたり顔が歯がゆかった。

「しかし出すとしても、誰を」

 定能のことばに、七、八人ほどいた一族の者たちは、互いに顔を見合わせた。人質として、いちばん相手が納得するのは妻であろう。しかし定能の妻は長く徳川の人質となっていて、最近ようやく解放されて戻ってきたばかりだ。しかもそれ以来病がちになり、この日も朝から寝込んでいた。

 それに妻は、彼女が徳川の人質になっているにもかかわらず、奥平家は徳川を裏切って武田へ寝返ったのである。いわば、すんでのことで見殺しにされるところだったのだ、

「父上!」

 鋭い声で定能を呼んだのは、彼の次男の仙千代だった。わずか十四歳である。

「みどもが参りましょう」

「仙千代!」

 定能の長男で十九歳になる九八郎が、驚いて弟を見た。

「今人質になったりしたら、お屋形様といっしょどこに連れて行かれるのかわからないのだぞ。この三河には、おそらくいられない。それでもいいのか?」

「しかし母上を差し出すわけには……」

 それは誰もがそう思っていた。だからといって家臣級の者を出したのでは、信玄は納得するまい。しばらく誰もが無言でいた。

「ほら、みどもが参るしか、ないではござらぬか」

 仙千代は笑みさえ浮かべていた。

「よう言うた!」

 道文入道の声が、沈黙を破って響いた。

「男児としてのその心意気、祖父は感じ入ったぞ。それでこそ末は立派な大将じゃ、九八郎は長男ゆえ行かせられぬ。そなた、頼むぞ」

 もはや父には逆らえず、定能もしぶしぶ承知した。

 翌日にはさっそく家臣の黒屋甚九郎をつけて、仙千代は鳳来寺郷へ送られることになった。その一行に、定能も自ら同行した。

 そしていよいよ引き渡しの時、定能は仙千代の両肩に手を置いた。その体のぬくもりが、自分の手のひらに伝わってくる。親として子を思う気持ちはないではないが、今の乱世ではそれを全面に出せないことが多すぎる。

 しかし、ただの徳川から鞍替えしたからというだけが理由の人質なら、その時の定能の目を潤ませはしなかったであろう。この人質の本当の理由は、自分と信玄しか知らない。それだけに複雑な思いであった。だから、じっと仙千代の顔を見つめただけで、定能は何も言わなかった。

 仙千代の人質としての引き渡しも済んだ後、村落の間の小径を馬で通っていた定能に、近づいてきた小者こものがいた。いかにも定能を待ち受けていたかのようなその小者は、定能の前で身をかがめ、

「油川の身内衆でござる」

 とだけ言って、定能に一通の書状を差し出した。書状は油川左馬介からで、「今宵お屋形様を招いての宴を開くので、ぜひ定能にも出席してほしい」とのことが簡潔に書かれていた。

 どうもいやな予感のする話だ。しかし断わる口実も見つからず、また出なかったら後が恐いような気もしたので、定能は承知した旨を答えた。

 そのまま作手に帰ることはやめにし、寺の塔頭に参拝などしながら時間をつぶし、定能は夕を待った。

 もはやあらかじめあれこれ考えることはやめよう。疲れるだけだ。すべて成り行きに任せよう……鳳来寺山の杉木立の中の石段を下りながら、定能はそう考えていた。


 妹の祐の方の葬儀では、お屋形様になみなみならぬお世話を頂いた――これが油川左馬介の、信玄を宴に招いた口上であった。まだ喪も明けてはいないしいくさの陣中ということで一切の歌舞楽曲はなく、ただ酒肴が運ばれただけであった。

「お、監物も参ったのか」

 少し遅れて参上した定能は、まずは信玄の前にて遅参の詫びを入れたが、その定能の顔を見て信玄の眉が少しだけ動いた。信玄はもうすっかり出来上がっているようで、赤い顔をしていた。

「そなたが招いたのか?」

 信玄は左馬介を見て言った。

「は」

 また少し信玄の眉が動いた。信玄はそのあとまだ何か言いかけたが、そのまま口をつぐんで杯を干した。

 定能は末座に着き、一同を見回した。金剛堂の庫裏の一室なので、そう広い部屋ではない。座を占めているのは五人。すべて油川家の郎党ばかりであった。定能の前にも酒肴が運ばれてきた。寺の庫裏での宴ゆえ酌をする侍女もなく、定能は手酌で一杯飲んだ。その時、

「時にお屋形様」

 と、左馬介が身を乗り出した。定能の来着により、これまで続いていた話も話題がとぎれたのであろう。そして左馬介は、信玄の前まで進み出た。

 始めに感じたいやな予感が、定能の中でますます大きくなった。もしや左馬介はこの場で祐の方斬殺の、事の次第をはっきりさせようとしているのか。そしてその証人として自分は同席を求められたのか――そう思ったとたん足がむずむずしてきて、定能は座っていられないような気分になってきた。

 左馬介はまさか自分が、信玄から金子きんすをもらって口止めされたとは知るまい。だから自分を証人として立てるかもしれない。しかしそれは困る。そんなことになったら祐の方の死の真相を、左馬介にしゃべったことが信玄にばれる。ばれたら人質としてとられたばかりの仙千代の身の上さえも危なくなる――。

 頼む、左馬介殿、おやめ下され、――定能は心の中で祈っていた。

「お屋形様。実は南蛮渡来の珍しい酒が手に入りましたので、ご賞味賜わりたく持参致しました」

 左馬介の手には、白い陶器の瓶があった。

「そうか。ではせっかくの勧め、これにて頂戴致そう」

 信玄は脇に置いてあった大杯をとった。

「それがしの手にて、お酌致します」

 左馬介が自ら、信玄の大杯に酒を注いだ。赤い色をした酒だった。

「ほう、たしかに珍しいのう。そなた、どこでこれを?」

「はい。先に野田城を落としました時、城中にあったものでございます。織田・徳川両家は堺の商人を通しまして、このような南蛮物をいくらでも買い付けている様子。この酒の赤い色は、武田家赤揃えにふさわしいと存じ、ぜひお屋形様にと思いまして、それがしが頂戴して秘蔵していたという次第でございまする」

「この赤い色は、何の色かのう」

「それがしがお毒見致しましたるところ、どうも葡萄の実から作られた酒のように拝察致しました。赤い色は葡萄の実の色ではないかと」

「ほう、唐詩にもある葡萄の美酒か。では、飲んでみよう」

 ひと口だけ口をつけて、信玄はまた杯の中の赤い液体を見た。

「妙な味じゃのう」

「なにしろ南蛮の酒でございますれば」

 今度は一気に、信玄は赤い酒を飲み干した。

「うむ、なかなかじゃ。返杯をつかわそう。そなたも飲め」

「恐れ入りましてございます。ですが今、すべてお注ぎ申しましたので」

「もうないのか。しかし葡萄の実からこのような美味な酒ができるとはのう。我が領国の甲州でもひとつ葡萄でも栽培して、同じ酒を作ってみようかのう」

 力なく笑ったあと、信玄は別の瓶子へいじをとった。

「ま、普通の酒でもよかろう。わしの酒を飲め」

「は、頂戴致しまする」

 左馬介は信玄の杯を受け取って酒を注いでもらったあと、これもみごとに飲み干した。

「失礼つかまつります」

 左馬介は席に戻った。信玄はもう他の者と、別の話題をしている。

 定能はまずは安心した。だが、いつ左馬介が例の話題をもちだすかと思うと居ても立ってもいられず、とにかく適当な口実を考えて早々に退出しようと思っていた。ところがなかなかその機会も得られない。仕方なく仏頂面で、ただ杯を重ねていた。信玄は上機嫌だ。都合のいいことに、完全に自分は無視されていると定能は感じていた。

 だいぶたって、夜も更けてきた。歌舞はなく、ただ酒肴を口に運んで談話するだけでも時間はずいぶんと早く立つものだ。だいたいこういう陣中での酒宴での話題といえば、いくさでの手柄話がほとんどだ。国元を偲んでの話はなるべくしないという不文律もある。だがそのような話に加わるような気に、定能はなかなかなれなかった。話しかけられたら相槌を打つ程度だ。そして、いい加減そろそろ抜け出そうと定能が考えていた矢先、上座の方で鋭い音がした。続いてすぐに、人々が騒ぎだした。

「お屋形様!」

 警護のため次の間に控えていた信玄の小姓やさむらいたちが、飛び出して来て信玄に駆け寄った。信玄は前向きにかがみ、苦しそうにあえいでいた。

御酒ごしゅを過ごされましたか」

 侍のひとりが話しかけても信玄は何も答えず、ひたすら苦痛に満ちた顔で腹を押さえているだけだった。ただちに侍たちに信玄は運び出されていたが、部屋の外に出てから激しく嘔吐していたようだった。信玄はそのまま帰還、宴も打ち切りとなった。

 定能はことの成り行きに、ただ呆然としていた。信玄は俄かに発病したのか、それともただ酔いつぶれただけなのか。確かに野田城の戦いの時より持病が悪化し、そもそも長篠城滞在はその療養のためだったとも聞いている。

 だが気になるのは、先ほど左馬介が信玄に飲ませた南蛮酒だ。それほどまでに強い酒だったのか、あるいはその酒があたったのか……。

 ――いかにお屋形様といえども――。

 その時ふと、左馬介の言葉が記憶の中に蘇ってきた。左馬介を見ると、彼はまわりと同調してあわてふためいている。もしやあの南蛮酒――いや、まさか――さまざまな思考が、定能の頭の中を巡り廻っていた。


            ※    ※    ※


 その夜のうちに油川左馬介とその一族郎党は、手勢を置き去りにしたままどこぞへ出奔した。

 信玄が目覚めたのは翌日の夕刻で、目を開くと弟の信廉をはじめ、重臣たちが自分を囲んで見下ろしているのが目に映った。

「あ、お屋形様!」

「お目覚めあそばされましたか」

 室内にいた他の者たちも、どっと寝ている信玄の脇に寄ってきた。寝かされていたのは、鳳来寺の庫裏のようだ。

 信玄は応えようとした。が、口が開かない。上に掛けている直垂衾ひたたれふすまの中から目を動かして、人々を見回すのがやっとだった。起き上がろうとしても、全身が自分のものではないかのように、微動だにしなかった。

 ひたいに脂汗がにじんできた。

「お屋形様、もうしばらくお休み下さい!」

 侍医の板坂法印が、静かに枕元で言った。

 それから数日間、意識はあるものの全く体が動かない日が続いた。そして激しい腹痛と嘔吐、下痢を繰り返した。時には喀血もした。もちろん食物は、何も受け付けない。頭痛もするし、手足の先の感覚がない。その手も激しく痙攣けいれんするし、胸も激しく動悸を打つ。そして皮膚には、紅斑が出はじめた。顔も別人のように腫れあがっている。

 そんな状態が二、三日続き、そんな中で油川左馬介が出奔したという報告はを信玄は横になったまま聞いた。

「捨ておけ」

 やっと短いことばなら発することができるようになった信玄は、ただそれだけを言った。自分が重病であるということは、もはや全軍に知れわたっているかもしれない。ただどうも普通の病ではないと、信玄自身は思っていた。

 そして毒をもられたに違いないという考えは、しだいに確信に近くなっていった。そうでなければこの急激な体調の変化は納得いかないし、だいいち最初に倒れたのが、他ならぬ祐の実家の油川家の宴でだ。しかもその油川左馬介は出奔したという。

 喀血したことから家臣たちからはどうも労咳だと思われているようだが、自分の病が服毒のためであることは、あるいは侍医なら薄々感づいている可能性はある。だが、その動機に到っては絶対に自分しか知らない。

 妹を殺された左馬介の怒りは、当然であろうと信玄は思う。それに左馬介は身内だ。信玄自身いちばん恐れていたことだったが、自分が父に、そして長男の義信にしてきたことが、とうとう自分に返ってきてしまった。しかたがないといえばしかたがない。

 そもそも祐の方や左馬介の祖父の油川信恵のぶしげは信玄の父の信虎の叔父であったが、信虎と敵対して戦って戦死している。その自分の父の信虎を滅ぼしたのは信玄自身だ。

 それに今の油川家は親族とはいえ、信玄配下のなくてはならない家である。左馬介の兄の彦三郎は川中島で壮絶な最期を遂げてはいたが、その遺児の四郎左衛門は若いとはいえこれもなくてはならない武田家の武将なのである。左馬介のとがを責めて、四郎左衛門までもが離反するのが恐かった。だから左馬介の出奔を、信玄は放置することにした。

 だが、問題はなぜ、左馬介がその妹の死の真相を知ったかだ。

 信玄は左馬介が自分を毒殺したにしても、その動機に到っては絶対に自分しか知らない……最初はそう思っていた。しかし、よく考えれば、もう一人いるではないかと気がついた。

 ――おのれッ、奥平監物! 

 信玄は心の中で、何度もうなっていた。

 あの宴席に、奥平定能はいた。自分以外では唯一真実を知る存在だ。だからやつが、左馬介にしゃべったに決まっている。そして左馬介をそそのかして仇を打たせて自分を殺させ、お家乗っ取りをたくらんだに違いない。

 所詮は徳川からの寝返り者だった。やはり斬っておくべきだった。しかし今さらそう思っても遅い。自分の体が刻一刻死に近づいていっていることは、信玄自身がいちばんよく知っていた。

 ――わしは死ねぬ。今が一番大切な時なのだ。それなのに……

 信玄の中で、定能への怒りが煮えたぎっていた。

 ――この大事な時に、うつけ者が! 奥平監物ッ! うぬの思惑通りにはさせぬぞ! 

 床の中にいても信玄は、しきりに策を弄していた。

 ――わしは死ねぬ。死ぬわけにはいかぬ。たとえ死んだとしても、死ぬわけにはいかないのだ。監物の思う通りにさせぬためにも……

 信玄はまだ起き上がることはできなかったが、とにかく一族と重臣をその枕頭へ集めた。

「皆の者、よく聞け!」

 横になったままの、言い渡しだった。

 まず武田家の後嗣は四郎勝頼の子、信玄にとっては孫である七歳の武王丸とすることが告げられた。さらに武王丸が十六になるまでは、勝頼を陣代とすること。諏訪法性の兜は勝頼に与えるが、武王丸元服の折は武王丸に譲るべきこと。孫子の旗は武王丸にのみ許すことなどを信玄は述べた。

 久々にこれだけの長いことを一気にしゃべったので、信玄は息が切れた。まだ何か言おうとしたが、もはや無理であった。

「お屋形様、ご無理なさらずに!」

 侍医の板坂が口をはさんだが、少し間をおいたあと、信玄はまた話し始めた。

「わしは死ねぬ。たとえわしが死んだとしても、死んだことにしてはならぬ。三年間は隠し通せ。その間、決して甲斐を出るな。三年たったら、わが旗を瀬田の橋にかけよ!」

 皆、うなだれてそれを聞いていた。

 信玄は三年間喪を秘せと言う。確かに今ここで信玄が死んだと知ったら、近隣諸侯のうち敵対者は甲斐へ攻め込み、同盟者までが一斉に反旗を翻すであろう。

 だが信玄の真意は、もっと別のところにあった。喪を秘すことによって、奥平定能のお家乗っ取りを成就させないことである。自分が生きてさえいれば、人質もとられている関係上、定能は何もできないはずだ。

 だが、懸念もある。左馬介による自分の毒殺が定能との共犯であったとしたら、自分が服毒させられたことを定能は当然知っていることになる。やはり、定能は誅殺しておくべきではないか、そう思った信玄は、

「それから」

 と、言いかけたがやめた。定能の処分を今ここで、自分が家臣たちに命ずる訳にはいかなかった。そうしたら、祐の方のことを含めてすべての事件が明るみに出てしまう。だから信玄は言いして口を閉じ、唇を噛み締めた。それだけではなく、これ以上何かをしゃべるのを、彼の体力が許さなかったということもある。


 ――奥平監物! 許さん! 怨霊おんりょうとなりて子々孫々までたたってやる! 


 信玄は心の中で怒号を発した。しかしその声はまわりの人々には、ただのうめき声にしか聞こえなかった。


            ※    ※    ※


 作手城に篭っていた定能の耳に、風説が入ってきた。

 三万の甲軍は鳳来寺郷を引き払い、全軍北上を始めたという。そのことについて定能は、信玄から何の連絡も受けていなかった。

 もっとも、やっとこれで信玄が奥三河からいなくなってくれたわけである。「鳳来寺郷からのお屋形様のお使者です!」という小姓のいやな取り次ぎも、もう聞かなくてすむのだ。

 そして時を経て、空も青さを増し新緑が目に痛い季節に、甲軍は甲府に到着したという情報が入ってきた。信玄は馬上人々の歓声に応えながら、堂々と躑躅つつじヶ崎の別館へと帰還したという。おそらく次男仙千代も、甲府に連れていかれたであろう。

 しかし、なぜなのだろうと思う。馬上で帰還したということは、病ももうすっかりよくなっているということになる。それなのに信玄は、なぜ上洛を中止したのか――? 

 そもそもは上洛とは名目だけで、最初から今の時期には甲府に戻るつもりだったのか……

 それはあり得る。武田軍三万とはいっても、そのほとんどが平時は農民である。従って、農閑期にしかこのような大規模な遠征軍は出せないのであり、農繁期もさらに彼らを拘束していたら領内の農産物の出来高に影響する。そのような理由も、可能性として定能の頭の中を飛来していた。


 だがある日、作手の城に届けられた一通の書状が、そんな定能の疑問をすべて氷解させた。


信玄公しんげんこう服毒ふくどく之事のこと南蛮なんばん渡来とらい砒霜ひさうてふ毒薬どくやくにして微量びりゃう也者なれば雖不即死そくしせずとはいへども四月中ニ者しがつちゅうには逝去せいきょ必定ひつぢゃうさうらうそれがし仇討あだうち之事果のことはたし畢候間をはりしさうらふあいだ往何処者不知候いづくにゆくかはしらずさうらふなんじよくおもんばかりて可決向後事かうごをけっすべきこと肝要かんえうニ而候にてさうらう

  元亀四年四月

  左馬介(花押)」


 定能は書状を握りしめた。

 ――馬前に人去りて、仮軍となる――

 御年筮の卦をもう一度つぶやいてみて、そしてほくそ笑んだ。

 信玄は死んだ。

 もうこの世にはいない。

 甲府に帰還した信玄は、信玄ではなかったのだ。おそらく弟の信廉あたりが、信玄に化けていたのだろう。

 だが、そのような策を弄したということは、信玄の死は天下には公表されてはいないらしい。上杉も織田も徳川も、そして北条もおそらく、信玄の死をまだ知らずにいるのであろう。

 しかし信玄は死んだ――そしてそのことを自分は知っている。

 そして知っているだけではない。直接殺したのは左馬介だが、もし自分が徳川にいたならば信玄は殺されずにすんだであろう。自分の所為せいで天下の形勢が大きく変った。

「信玄は死んだ。信玄は死んだ。信玄は死んだ。信玄は死んだ!」

 定能は何度もつぶやいていた。そのまま、櫓に上った。奥三河の山々は、真っ赤な夕陽に染めぬかれていた。

 空は晴れていた。もうひとついえることは、もうびくびくして暮す生活は終ったということだった。恐怖の元であった信玄は、もういない。定能の心も空と同様に、いつしか晴れていった。

 これでよかったのだと、もう一度彼はつぶやいた。

 あとはこれからのことを、考えねばならない。

 定能はさっそく一族の者を、本丸屋敷の広間に集めた。

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