翌日は、定能は昼まで起きられなかった。

 頭ががんがんと痛い。その激痛の中で、昨夜の記憶が蘇る。

 信玄は自分を酔い殺そうとしたのか、それとも酔わせて罪を白状させようとしたのか。いずれにせよ、かろうじて自分は生きていた。

 とにかく作手城に戻ることにした。途中馬上で、何度も彼はもどしそうになった。信玄が自分を見据えていため、それを思い出すたびに汚物が咽からこみあげそうになる。

 今はもう何も考えたくはなかった。一刻も早く自分の城に帰りたかった。

 一足先に帰していた妻が、城内の屋敷の玄関先まで出迎えてくれた。しかし定能は笑顔ひとつ見せずに、さっさと寝所へ入ってしまった。

 城内には、今までと全く変わっていない空気が流れていた。やっとたどり着いた我が城である。今はとにかく考えることを放棄して、眠ることだけを彼は欲していた。

 翌日の昼まで、死んだように彼は眠った。体力が回復すると頭脳も回復し、その分いろいろと考えこんでしまったりする。

 夕刻になって、彼は櫓に上った。窓からは奥三河の山々が見えるばかりで、視線はそう遠くまでとどきはしない。山々は冬の枯れ木に新芽が吹き出しはじめ、まさしく春爛漫である。こうして見ている限り風景は何ら変らず、それだけに自分の身上にも何ら事態の変化はなかったという錯覚に陥ってしまう。しかし今や自分は土壇場の状況におかれているのだということを、我に返るといやでも認識しないわけにはいかなかった。

 誰にも相談できない。妻にも一族の者にも、重臣にも打ち明けられない。苦しみを自分ひとりで抱えこまなければならないのだ。

 いや、苦しみを共有する人が、もうひとりいる――彼には共犯者がいた――祐の方だ。

 ――お方様は、お屋形様が自分たちの不義密通に勘づかれたことを、ご存じなのだろうか――。

 お知らせしなければならない。

 そう思った定能は、供も連れずにすぐに馬をとばし、長篠城へと戻った。

 本当だったら近づきたくもない長篠城だが、そうは言ってはいられない。夕暮れに出発し、夕焼けに追いかけられながらも定能は駆けた。作手から長篠まで直線距離はそうないのだが、その中間の雁峰山を迂回して行かなければならないので、到着した頃はもうすっかり暗くなっていた。幸い月はあった。暦の上では仲春といっても、まだまだ冬の続きのような冷える夜だった。

 長篠城に信玄は仮に居住しているだけで、城主は定能の盟友の菅沼正貞である。だから彼は、城の造りには熟知していた。作手の方角から来ると、ちょうど大手門へと道は通じている。門兵も皆顔見知りで、城内に定能が入るのに苦はない。ただ問題は、今や祐の方の世話役でもなんでもない自分が、どうやって祐の方の部屋に忍びこむかだ。

 実はこういう時こそ、奥平一族の血がものをいう。一応家系伝説では、奥平氏は平安朝天暦の帝――村上天皇の皇子の具平ともひら親王の子孫ということになってはいる。しかし実際彼の中を流れている血は、山の民のそれだった。山の民の出といえば、すでに亡き美濃のまむしの斎藤道三もそうであったし、信長の軍の中でちょうど頭角を現わしはじめている武将の木下藤吉郎などもそうだ。また正統源氏を称してはいるが、三河の徳川とてその出自は怪しい。いずれも同じ山の民の間ならではの情報だった。

 定能は大手門を入ってから、馬を適当な木につないだ。城の、二本の川に面していない平地側には、まず柵が設けられていた。そのあとは人工の水堀と、その掘った土を堀沿いに盛り上げた土居で守られており、三重目の水堀の中が本丸だ。そこは祐の方はいる。

 信玄がいるのも同じ本丸だから、かなり危険な侵入だ。正面から入れば、小姓はすぐに自分の来訪を信玄に告げるであろう。

 城には医王寺の方から流れてくるもう一本の小川が、寒狭川と大野川の合流点に向かって、城域を縦断するかたちで流れていた。それが本丸の表門の手前で右に折れ、そこが滝となって深い渓谷を刻み、南側の寒狭川に流れこんでいた。つまり本丸と弾正郭の間は、自然の険しい谷となっているのだ。

 定能は本丸の表門に入らずに闇に紛れ、城中のかなり大きな滝沿いに渓谷へ下り、小川の寒狭川への注ぎ口から再び本丸への断崖を登った。

 土居をよじ登って本丸へ侵入した彼は、すぐに屋敷の床下へと入った。祐の方の部屋の下と覚しきあたりまで来ると、一度庭へ出て縁側へ上がり、そっと襖を開けた。

 すでに眠っていた祐の方は、あわててはね起きて身構えた。定能はその場に平伏した。

「先日の世話役、奥平監物でございます。本日はこの前のようなことのために、参ったのではございません!」

 定能は、声を押し殺して言った。祐の方からため息がもれた。それでも声は厳しかった。

「では、何をしに参ったのか」

「お方様は、後悔されておられましょうか」

「後悔も何も…、そなたが勝手に致したこと。妾は拒みきれなかっただけじゃ!」

 何と理不尽な――。定能は目がつりあがる思いだったが、それでも、

「お詫び申し上げます」

 と、言って、深く頭を下げた。しばらくは闇の中からは、何も返事は返ってこなかった。やっと低い声が、頭上でした。

「もう、済んだこと。時は戻りませぬ。そなたも忘れてたもう。わらわも夢とかたづけておりまする!」

「それが、お方様」

 定能は、膝を進めた。

「どうやらお屋形様は、ご存じのようでして」

「え?」

 その声はひきつっていた。

「なぜ?」

 やっと聞き取れるほどの声だった。

「分かりませぬ!」

 その時、ふすまが荒々しく開けられた。その手に持つ手燭てそくで、襖を開けた僧形そうぎょうの男の顔が照らされた。信玄の怒髪天を形相ぎょうそうが、はっきりと見えた。さらに低い声が、ゆっくりと震えながら響いた。

「一度は許そうと思ったのだ。それを、それを……」

 はじめは呆気にとられていた定能は、あわてて信玄の方を向いて座り直した。

「ち、違います。今日は不義を致すために、参ったのではございませぬ!」

「何か違うのか! 現にこうしてうぬは、祐の部屋におるではないかッ!」

「ですから!」

 信玄は手燭を畳の上に置いた。その光に、声だけでなく信玄の全身が怒りに震えているのがよく見えた。もう何を話しても無駄だと、信玄は思った。

 定能は脇差をぬいた。

「この通りでござる」

 その脇差を腹にあてて力を入れ、定能は自らの腹を裂こうとした。ところが腹の筋肉に無意識に力が入っており、脇差が刺さらない。その手首を、信玄が蹴り上げた。脇差が宙に飛んだ。

「うぬのような泥棒猫に、人間様のような最期を遂げさせてたまるか!」

 怒鳴りながら、信玄は太刀を抜いた。

「手打ちにしてくれる!」

「お待ち下さい!」

 太刀が振り下ろされたのと、祐の方が定能の前に飛び出したのは、ほとんど同時だった。

 鋭い音がした。血しぶきが飛んだ。

 すべての動きが止まった。その中で祐の方のからだが、畳の上に崩れる音だけが響いた。

 信玄は太刀を落とした。

「お祐!」

 信玄は祐の方に駆け寄り、自らも血まみれになって、そのからだを抱いた。

「お屋形…様…」

 祐の方はあえぎながら力をふりしぼって、細い声で言った。

「監物様は、今宵はほんに妾に謝罪に来られたのです」

 首が垂れた。信玄の腕の中の女の、全身が重くなった。

「お祐ッ!」

 祐の方はもはや、何も答えなかった。定能はただ、呆然と成り行きを見ていた。

「とにかく、うぬは帰れ!」

 信玄は涙まじりに、定能へ叫んでいた。


 翌日も一日、定能は作手城に篭っていた。

 事態は、もしかしたら信玄に知られたのではないかという憶測の域を出ていた。もはや、すべてが現実である。その憶測を祐の方にも知らせんとする仏心が仇になって、取り返しのつかないことになった。単に祐の方とともにいたところを信玄に目撃されたという現実に加え、自分の所為せいで信玄は祐の方を斬殺してしまうという結果になってしまったのである。

 昨夜は一睡もしていない。もちろん、食事ものどを通らない。それだけでなく、家族の誰もの顔も見たくなかった。

 このままで済むはずがない。それは、いやというほど分かりきっていることだ。

 この作手の城を、信玄の兵が取り囲むのではないか。ただその軍勢の喚声と駒音が響いてくるのを恐れていたが、いつまでたっても周りの山は静かだった。信玄の軍に包囲されたのならば捕獲される恥辱から逃れるための切腹も辞さない覚悟はできていたが、周りが静かである以上はそれもできない。

 ただ、名誉を守るためとか、責任を取って詰腹などという考え方は、この時代の誰もが持っているわけではない。まだ「武士道」というものが確立していないのに加え、こういう山奥の小城の城主はいわゆる土豪であって、半士半農の色合いが強い。だから今の定能にできることは、ただ怯えながら時間を送ることだけだった。

 気持ちはいて、いらいらと落ち着かない。胸をかきむしり転がりまわって暴れ、壁に頭を何度もぶつけたい衝動に駆られた。だが、彼の年齢がかろうじてそんな衝動を制御した。もし若い頃だったら、そうしていたであろう。その代わりに時には部屋の中をうろうろと歩き回り、外の景色を眺めたりもした。外は何もかもが明るく陽光輝く春である。暖かい風に明るい陽射しと、景色が明るいだけに余計に自分の心の暗さが際立ってしまう。

 そしてため息をつく。この春が自分の生涯最後の春になるのかと、そんな気がしてますます外の春の明るさと心は隔離される。だが、心の片隅では、これまで多くの合戦に出て生死と隣合わせでよくぞこの乱世にここまで生き延びてきた。だから、今回も何とかなるのではないかという気持ちがなきにしもあらずだったが、冷静に考えたら今度ばかりはだめだろうという気にもなる。やはり徳川にいればよかったという気持ちも湧いてくる。時間を戻したいとさえ切実に願った。

 また、目覚めればすべてが夢であったということにもなってほしいとも思うが、これはまぎれもない現実である。そうなると、その現実の前に、自分という一個人が跡形もなく消えてしまえばいちばんいい、いや、消えてしまいたい、消えてしまうべきだと、そんなとりとめのないことを考えているうちに、一日も終わろうとしていた。

 そしてとうとう、時が来た。

 夜になってから信玄のお召しがあった。定能の体は、とめどなく震えだした。だが、それを断ってはそれこそ義理が立たない。落ち度は自分にある。

 だが、そのお召しがあったことを定能に伝えに来た父の道文も、さっさと支度を始めている。

「あれ? 父上もお出かけでございますか」

 力なく定能が尋ねると、

「だから、お召しはこの近辺の武田方のすべての城の城主、重臣を含めてだと、先ほど伝えたではないか。わしも、九八郎もともにのお召しだ。田峯の定忠殿も参られよう」

 父は不機嫌そうだった。そして、

「こんな暗くなってから急に」

 と、ぼそぼそと愚痴をこぼしながら身支度を続けていた。定能は気が動転していて、父が告げてきたお召しの使いの言上の内容などは頭に入っていなかったのだ。

 しかしそうなると、どういうことなのだろうかと思う。自分を処罰するためならば、自分だけ召されるはずだ。近隣の城主も召される。何かの軍議かとも思うが、信玄とて昨日のことがあった翌日に軍議ができるのだろうか。いや、乱世の御大将ともなれば、そういった私情を振り捨てることが必要なのかもしれない。それともまさか、大勢の家臣たちの前で、自分を断罪するつもりなのか。

 とにかく、どうせ行かなければならないのだから行くしかないと、定能は腹を決めた。

 松明たいまつを先頭に、父、息子の九八郎、そして定能の三人はわずかの家臣を連れて馬で城を出た。馬上、定能は何度も城門を振り返って見た。城門といっても瓦の乗った櫓門などではなく、屋根のない物見が脇についた柵程度の塀の木戸のような門だ。この門も、これが見納めかもしれないのである。だが、状況的には、そうとも決まっていないような気もする。そんな定能の心を知りもしない父と九八郎は、どんどん馬を月明かりの夜道にと進めていた。


 長篠城の大広間には武田家家臣団のほとんどが、ひしめきあう状態で集められていた。

 そこで信玄から直々に、側室の祐の方が急な病で身罷みまかったと告げられた。人々はどよめきたった。

「よって、この地にて葬儀を行なう。今や上洛の途上ゆえ、甲府に戻るわけにはいかぬ。そしてその菩提を弔うため、お祐の四九日が過ぎるまで、全軍この地に留ることになる。おのおの、そう心得よ」

 信玄の声が広間に響きわたっても、人々のざわめきは一向に収まらなかった。

 それが終わって集まった人々が広間を退出する際に、ひとりの小姓が定能をつかまえて耳打ちした。

「お屋形様がお呼びです」

 全身の血の気がひいた。

 ついに時が来た。

 すでに腹を決めていた定能は、それも当然のことだと、ボーッとした頭とともに信玄のいる部屋へと向かった。

 信玄はすでに上座についていた。開けられた襖の外の廊に定能が平伏すると、

「お入りあれ」

 と、いう信玄の声がした。妙に優しい声だった。

「そこもとたちは下がれ」

 信玄は案内あないの小姓を払うと、自分の前の場所を定能に示した。その座に定能がついた時、彼は自分と信玄との間に、柴の布がかぶさった何かがあるのを見た。

 信玄は布をとった。そこにはまるで碁石のような形に鋳造された甲州金の金貨が、山と積まれていた。信玄はそれを両手ですくって、定能に差し出した。

「頼む」

 と、言った信玄の目はうつろだった。

「これをくれてやる。そのかわり、祐のことは、他言無用ぞ。特に……」

 一度言葉を切って信玄は、甲州金を持つ両手をさらに定能の方へと差し出した。震える手で定能は、それを受けとった。

「特に、仁科の五郎と葛山の十郎には」

「承知…」

 定能の声も弱々しかった。信玄は手渡した碁石金の他、まだ床の上に残っていた山をも風呂敷に包み、それを定能に渡した。

 定能は何か肩透かしを食らったような気がして、あとは口数少なく呆然として静かに退出していった。


            ※    ※    ※


 その晩、信玄は泣いた。老いの涙を誰にも見せることなく、ただ亡き愛する人へ、しかも自らの手で冥土へ送ってしまった人へと捧げた。

 とにかく今は、定能の口さえ封じておけばよい。

 定能を殺すわけにもいかない。だからといって罪を祐の方にきせることもできず、そこで祐の方は病死ということにした。

 もしあの時自分が定能を斬っていれば、山家三方衆を失うことになったであろう。となると祐の方は身をもって、武田家を救ってくれたことになる。だから信玄は今さらながらに、祐の方が哀れに思えてしかたがなかった。

 しかし今、信玄がもっとも恐れているのは家臣よりも身内だった。自分自身がまず、父を追放した張本人だ。さらに長男の義信が、まるで自分が父にしたのと同じようなことを、自分にしようとした。だから義信を幽閉し、義信は自刃して果てた。

 五郎盛信や十郎信貞とは、同じようなことになりたくはない。盛信には仁科家を、信貞には葛山家をそれぞれ継がせているとはいえ、二人は自分と祐の方の間の子だ。特に盛信は十七歳という多感な年頃、真実を知れば自分に刃を向けてくるは必定。だから定能に口止めしておく必要があった。

 そう理性で考えながらも、信玄にとって最愛の女性を失った悲しみは、別の次元で紛れもない事実だった。天下人を目指す彼が抹殺しなければならない感情であることは分かってはいても、今宵だけはひとりの女を愛した「ひとりの男」でいたかった。明日になれば、武田家の当主という立場に戻らなければならなくとも……。

 もはや誰を怨むでもなく、信玄は声を殺して泣き続けていた。


 祐の方の葬式は、長篠城から山間やまあいに入った鳳来寺で行なわれた。そこは山家三方衆の帰依も厚く、奥三河随一の大山岳寺院であった。

 時にすでに初夏を迎え、ともすれば汗ばむ陽気であり、山の麓は色とりどりのさまざまな花が満開であった。戦々いくさいくさで倦み疲れていた信玄の目には、よく晴れた空の下に明るく輝く景色は心を和ませるものとして映った。だがそれも束の間、この郷へ来た目的が祐の方の葬儀であるという現実が、暗く重く彼にのしかかる。

 鳳来寺は文武天皇の勅願寺という古い由緒のある寺で、鳳来寺山という山全体がその寺域だった。麓の鳳来寺郷は本当にまわりが山に囲まれたわずかな谷間の里で、まるでここだけ時間が止まっているかのようにひっそりと静かにまとまっていた。ところが今やその静かであるはずの里に、長篠城をひきはらった武田軍三万の兵が入り込み、宿房や民家に駐屯していた。里から見上げると、周りを囲む山々の中でも鳳来寺山はひときわ高くそびえ、緑の中の所々に垂直の岩肌を見せているという奇観だった。

 本堂は、山の中腹まで人工の石段を登った所にある。山に入ったとたんに、鬱蒼たる杉木立の中を石段は蛇行して登るので、なかなか先が見えない。葬儀の行列は厳かに、そんな神秘な霊山を登っていった。石段とほぼ並んで沢が流れ落ちてくる。まわりは杉の大木の密林だが、時々巨大な奇石が姿を現したりもした。

 やがて本堂にたどり着いた。葬儀の導師は法性院ほうしょういん大憎正の称号を持つ信玄が、自ら勤めた。祐の方の死因が死因だけに、読経の声すら重々しく堂内に響きわたった。

 祐の方を荼毘だびに付した後、信玄は弟の信廉のぶかどと山の麓の宿房で対座していた。二人は同母兄弟であり、ほとんど双生児に近いくらいよく似通っていた。

「兄上は本当に、お方様の四九日が過ぎるまで、この地にお留まりになるおつもりか」

 信廉の言葉には、あきらかに不満がこめられていた。

「ああ」

 信玄の答えは力がなかった。せいこんも尽き果てているような様子だった。

「心中お察し致すが、今は上洛目前のいちばん大切な時。その時にこのような所へ長期滞在しては、近隣諸侯はどう思いますやら。下手をしたら徳川が、一気に巻き返しにくるのではとも思われましてな」

「あの小僧に、そんなまねはできんよ」

 信玄は微かに笑った。

「野田城も落とした。山家三方衆もわが味方だ。地の利も当方にある。それに朝倉と盟約して信長を挟み討ちすることになっているのは五月、まだたっぷり日はある。それまでの時間かせぎと兵たちに休養を与えるという意味でも、しばらくここにおってもよかろう。こんな山の中だ。まさかこのような所に武田軍が潜んでいるとは誰も思うまい」

 甲斐も山国だったが、遠くを山に囲まれている盆地であった。それに比べれば、ここは本当の山中の谷間の里だ。すべてが外界から遮断されているような気にもなってくる。

「しかしその朝倉ですが、信長が近江から兵を引いたとたん、本国の越前へひっこんでしまったではありませんか。これでは信長包囲陣は成り立ちませぬ」

 信玄は少しうなって、首を垂れた。が、すぐに顔を上げた。

「わしとの盟約を忘れずにいてくれたなら、五月には必ず朝倉義景は出てこよう。わしは信じておる。すべては五月に命運が決まる」

「はあ…」

 信廉はまだ、浮かない顔をしていた。


            ※    ※    ※


 甲州軍は山に囲まれた鳳来寺郷で、静まりかえっていた。その孫子の旗が示すように、「山の如く」動かなかった。祐の方の四九日が過ぎるまでという信玄のことばどおりだとすれば、四月に入るまでこの状態が続くことになる。

 それが定能には心苦しかった。

 信玄がこの地を去って西上してくれたら、心の闇も過去のものとなるかもしれない。しかし信玄は我が本拠地の近くに、どっしりと山の如く動かないのだ。手打ちにならずに済み、しかも口止めに甲州金まで山と積まれた以上、自分は許されたということは明日だ。ただそれでも、あの出来事は彼の中に今でも暗い影を落とし続けていた。

「父上、信玄公は本当に、天下人になりましょうや」

 ある日定能は人払いをしたあと、父の道文入道に聞いてみた。日焼けした顔に幾筋ものしわを浮かべて、父はじろりと定能を見た。

「そなたは、そうではないと言うのか」

 定能は急に反問され、何と答えはよいのか分からず、ただ黙ってうつむいていた。

 かつては今川氏に仕えていた親子が桶狭間で今川義元が信長に討たれて以来、松平元康――今の徳川家康へついた。そして今は武田家に属している。いずれも父の決断に、定能は従ったまでのことであった。

 その武田軍は、今は動きを止めてしまった。その間、天下の状況はどう変るかわからない。何しろ刻一刻と状勢が激しく変化する乱世である。そのことを言おうとして、定能は顔を上げたがやめた。思えば甲州軍の今のような状況を作ってしまったのは、自分ではないか。

「そなた、なぜ急にそのようなことを? 武田家の命運に、不安でもあるのか?」

「は、はい、それが……」

 定能はうつ向いたまま、ふと思いついたことを言った。

御年筮ごねんぜいに出ましたは『馬前に人去りて、仮軍となる』ということでございました。馬すなわち午歳の前は巳歳。お屋形様は巳歳のお生まれですし」

 御年筮――一年の始めに行なう武田家のその年の吉凶を占う易では、たしかにそのような卦が出ていたのも事実である。

「それで近々、信玄公は亡くなるとでも?」

 道文は声をあげて笑った。すぐにその顔を、厳しい表情に戻すと、

「そのようなこと、ゆめ他言するなよ!」

 と、父は低い声で言った。


 作手城に来客があったのは、その日の夕刻であった。

 油川あぶらかわ左馬介さまのすけと名乗る男は、定能よりほんの少し年配のようであった。

「はじめてお目にかかり申す!」

 城内の奥座敷で、みごとな髭をたくわえて武骨そうな男は、定能の前に両腕をついた。

「それがし、お屋形様の身内の者にて…!」

「え?」

 定能は慌てて上座を譲ろうとしたが、左馬介はそれを辞退した。

「身内と申しても、お屋形様とは又従兄弟またいとこでございましてな、武田一族の中でも祖父の代より油川の姓を名乗っておりますので、今や家臣の一員でござる」

「さようでございますか。で、今日は?」

 さっそく定能は、左馬介の来意を尋ねた。あの事件以来、人づきあいにも神経質になっているのだ。

「妹の祐のことでござる!」

「祐?」

「お屋形様の側室であった…」

 定能の体は一瞬硬直した。そして少し間をおいて、重い口を開いた。

「お方様のことで? それが、お妹御?」

「さよう。それがし、祐の兄でござる」

 定能の額には汗さえにじんできた。またもや間を置いて、

「み、みどもに何用で?」

 と、震える声で定能は言った。

「それがし、妹の死についてどうも不審な点がござってのう。急な病と伺ってはおるが、どうしても納得がいかぬ。病というよりも斬殺された形跡があるとも、一部では取り沙汰されておりましてな。で、貴殿はたしかその折、妹の世話役でございましたな」

「は、はあ!」

 今度は声だけでなく全身が震えだすのを、定能は感じていた。

「貴殿ならば何か、ご存じではないかと思いまして、お伺いした次第でござる」

 定能は目を伏せて、しばらく黙っていた。返す言葉が見つからなかった。

「いかがですかな。何かご存じのご様子だが、聞かせては頂けませんかな!」

「い、いえ、あの折にはすでに世話役は解任されておりまして……!」

「ん?」

 左馬介の眉が動いた。

「あの折…と申すは、やはり何かあったのでございますな。教えて下され」

「い、いえ、それは申せませぬ!」

 定能はしまったと思った。狼狽のあまりそう言ってしまったが、それが左馬介の膝を、一歩進めさせることになってしまった。

 沈黙が流れた。どうしたらいいのか、定能には分からなかった。どんなに時が流れても目の前に左馬介がいて、自分を見据えているという状況からは、逃げ出せるすべもなかった。

「何も存じませぬ。お方様は御病おんやまいで…」

「いや、貴殿は申せぬと言われた。と、いうことは、何かご存じのはず!」

 左馬介の視線に汗びっしょりになった定能は、もはやこれまでと覚悟を決めた。

「申し訳ござらぬ!」

 大声で叫ぶと、一歩下がって定能は、ゆかに頭をこすりつけた。

「お方様は長篠城内である者と不義密通され、その者ともどもお屋形様にお手打ちになったのでございます。すべて、世話役としてのそれがしの至りませなんだこと。なにとぞ、お許しを!」

 少し宙を見つめて、左馬介は何かを考えていた。その沈黙が、定能にはとてつもなく長い時間に感じられた。

「そうか……」

 つぶやくような左馬介の言葉だった。

「お屋形様が祐を斬ったのか……やはりな…」

 左馬介は、すくっと立ち上がった。

「いかにお屋形様といえども…」

 それまでの紳士的な物腰ではなく、悪鬼のごとき表情で吐き捨てるように言った左馬介は、平伏したままの定能を見下ろした。

「貴殿のせいではござらぬ。憎きはお屋形様よ。いや、よう話して下された。礼を申す!」

 立ったまま一礼して、左馬介は出ていった。

 まずは、定能は大きくため息をついた。

 しかし後味が悪かった。あれほど口止めされていたことをしゃべってしまった。しかも自分に都合の悪い部分のみは、嘘でごまかしたのだ。せっかく過去の出来事となりつつあったあの事件が、これで定能の中で蒸し返されることになる。左馬介が信玄を糺弾したりしたら、真実を知るのは自分だけなのだから、自分は必ず信玄の怒りにふれよう。

 信玄には特に五郎盛信と十郎信貞にだけは言うなと釘を刺されていた。だが、自分がしゃべった相手は、その五郎君や十郎君ではない。そのことで自分を正当化しようともしたが、いずれ左馬介の口から五郎君、十郎君の耳にも入ろう。正当化はもろくも崩れた。

 そればかりではない。左馬介が真実を知ったら、自分は左馬介の怒りをも被ることになる。

 定能は時間を逆戻りさせた上でどこかへ奔走してしまえればと、とにかく悔やんだ。今川、徳川と仕え、武田家で三家目だ。だがこんな事態に追い込まれたことは、今まで仕えていた所ではなかったことだった。

 父の意に反してでも武田家から離れた方が、身のためではなどと考えてしまう。しかしいざ信玄が天下人になったりしたらこの奥平家は……。こんな時に、ふとあの御年筮が思い出された。一層のこと、信玄が死んでくれたら、……。しかしそれは、あまりにも大それた考えだった。

「どうしたらいいんだ」

 定能はひとりの奥座敷で、頭をかかえてうずくまった。

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