信玄謀殺

John B. Rabitan

 元亀三年(1572年)十月、武田信玄入道は将軍足利義昭の織田信長追討令に呼応し、三万の軍を率いて甲府を発して上洛の途についた。

 まず、秋山信友の別働隊五千は木曽路から美濃へと入り、十一月には東美濃における織田家の拠点である岩村城を落とし、秋山は信長の援軍も破った。

 これで、かつては同盟関係であった信玄と信長の敵対関係は明白となった。

 信玄の本隊は諏訪を経て遠江に侵攻、岩村城降伏の頃までには遠州の徳川方の各城を落とし、十二月には徳川家康と一言坂で戦い、二俣城を落とし、そして年末も押し迫った頃に遠州三方ヶ原にて浜松からおびき出した家康の軍と信玄の軍は全面衝突して、家康軍を蹴散らした。

 年が明けて元亀四年(1573年……後に天正元年と改元)の一月には奥三河の徳川方の菅沼定盈さだみつの野田城を一ヶ月かけて包囲、その後体調の不調を覚えた信玄はその北にあるすでに武田にくみしていた菅沼正定の長篠城に落ち着いて療養し、体調を整えていた。


            ※    ※    ※


 胸の隆起の谷間に唇を当ててその温かさを味わった後、奥平おくだいら定能さだよしはゆっくりと女の下半身へと、唇をずらしていった。まだ引き返せるという状況から、もはや引き返せないところまでついにきてしまった。

 ひしひしと感じている恐怖とは裏腹に、欲望の赴くまま暗闘の中で、彼は熟女の熱い肌に手をすべらせていた。荒い息づかいが耳元で聞こえるが、それが自分のものなのか相手の女のものなのか、定能自身分からなかった。

 彼の胸は高鳴り、足は小刻みに震えていた。女と交わるというだけでそうなるほど、彼はもはや若くはない。しかし現実として、彼の胸は激しく鼓動を打っていた。そしてそれは行為が進むにつれ、ますます激しさを増していくのだ。本来なら熱く燃えてくる頃なのに、彼は寒気さえ感じた。女はおかまいなしに定能に肌を密着させ、とぎれとぎれの声を出し続けている。

 ふと定能は上半身を起こし、まわりの様子を伺った。今、微かにだが物音がしたのだ。とたんに彼の心は恐怖感に支配され、それ以上は進めなくなった。

 ――誰かに見られているのか……?

 背筋に悪寒が走る。

 女は全くかまわず定能の首に腕をまわし、自分に引き寄せて唇を重ねてきた。

 こんな状況でもまだ定能の中に冷めている部分があって、こういうことになってしまったことについていぶかっていたりする。

 ここは自分の居城ではない。他人の城だ。自分の城へ帰っても、彼の妻は徳川に人質にとられていていない。独り寝の続く鬱憤からついに爆発した欲望が自分を動かし、この女を抱いてしまったのか――。

 しかし、抱いてはいけない女を、彼は抱いてしまっている。

 腰を絡ませている熟女――三十七歳の定能より、いくらも若くはないだろう。

 若い女好みの定能が、平静なら見向きもしない年増だ。それが今は新鮮に感じられたりもする。

 しかしどう考えても、絶対にまずい――。

 頭がそう考えてもからだは勝手に動き、ついに定能は女の中に入った。

 ままよ――自分は武田家と、昔からの縁があったというわけではない。その分、背徳の度合いも少なかろう――。

 一所懸命自分を説得しながら、定能は行為を続けていた。

 長篠城の夜は静かだった。


 信玄の天下号令は目前であった。

 すでに信玄は小田原北条氏と、一時は破棄された同盟を取り戻していた。それは北条氏と越後の上杉謙信との同盟の破局を物語っていた。今や信濃、駿河も信玄の支配下であり、相模も同盟国。上洛を阻む存在といえば、美濃の織田信長のみといえた。信長はすでに上洛を果たしていたが、まだ天下に号令するには至っていない。越後の朝倉、将軍義昭、一向衆など信長の足かせは多い。だが、信玄が上洛して天下に号令となると、どうしてもその信長との全面衝突は避けられようもない状況だった。

 その当時、奥三河の長篠城主菅沼正貞、田峯城主菅沼定忠らとともに信長の同盟者である徳川家の山家やまが三方衆さんぽうしゅうと呼ばれていたのが、同じく奥三河の作手つくで亀山城主奥平おくだいら監物けんもつ定能さだよしだった。その奥平定能はじめ山家三方衆は、甲府を発した甲州勢が破竹の勢いで遠江に迫り、徳川家康のいる浜松城の支城である二俣城を落としたとの情報を受けた十二月に、こぞって徳川を離反して武田方についていたのである。

 もっとも、菅沼一族の本家である田峯城の菅沼貞忠はすでに一昨年、武田家の秋山信友がこの奥三河にゲリラ的に侵攻して来た時にすでに武田家に降伏し、近隣の奥三河の土豪への説得工作を進めていた。この時は武田家への帰順を断乎としてはねのけ、徳川への忠誠を誓った定能であった。

 しかし、今回の信玄上洛軍発動とともに五千の兵を預かった別働隊の山県三郎兵衛尉昌景が奥三河を通過し、近隣の土豪を説得して味方に引き入れつつ南下していったのを機に、かねてより菅沼貞忠に説得されつつあった菅沼正貞、そして定能も武田家への帰順を考え始めていた。

 山県の部隊がわざわざ別働隊として奥三河を通過したのが、そもそもはそれが狙いだったともいえる。武田家としても、山岳戦に強い彼らをどうしても味方にほしかった。

 もともとは今川家に仕えていた奥平家だが、桶狭間の戦いの後に徳川家に仕え、姉川の戦いには徳川の一将として参戦した定能である。それがまた、いわば敵方の武田家に寝返ったことになるが、国境くにざかい近辺に本拠を持つ土豪としては、情勢を見ての寝返りはいわば普通のことであり、そうしないと生き残れない時勢である。

 また、奥三河は武田家の勢力圏と徳川家の勢力圏のちょうど中間に位置しているという地理的特徴からも、それが可能だった。そして信玄が二俣城を落としたことによって、山家三方衆は意を決したのである。

 彼らは乱世の習いとして、妻子を徳川に人質に取られている。寝返ればその人質の命はないかもしれない。だが、天下の形勢の前には自らの妻子の命などは私事であり小事であった。

 やがて信玄は先にも述べた通りに年末に徳川家康も三方ヶ原で蹴散らしたのだが、山家三方衆は早速このいくさに武田側として参戦、定能も五百騎を率いて山県正景の旗下に入り、旧主の家康に弓を引いた。

 また信玄は明けて元亀四年――後に天正元年と改められるこの年(一五七三年)の一月には三万の兵で徳川方の菅沼定盈さだみつの守る野田城への攻撃を開始し、わずか四百の兵で守るだけのその野田城をひと月以上もかけて二月の半ばに落としたのだが、山家三方衆はその戦にも加わり、現地の地理に明るいという強みをもって功績を立てている。

 その野田城攻防戦のあと、ようやく作手に戻った定能は、折しも満開の桜の中を信玄が落ち着いたこの長篠城へとやって来た。初めて新主君の信玄にまみえるためであった。ところがその場で直ちに定能は、信玄からある重い役目を仰せつかった。


 女は今日、甲斐よりこの長篠城へ着いたばかりだった。その世話役を命ぜられた定能は、挨拶言上のために女のもとに参上した。が、女は愚痴ばかりを言っていた。

「もう四ヶ月もお屋形やかた様の留守を預かって、やっとお呼び寄せ下さったと思ったら、お屋形様は陣中のことゆえとてお会いになっても下さらぬ。もうわらわからだは火がつきそうで……お屋形様のお情けが頂けるものとばかり思っておったのに…!」

 定能が何と答えてよいか迷っていると、女は定能のそばまで寄り、その腕を引いた。

「あ、何をなさいます!」

「そのほう、お屋形様の代わりに、妾にお情けをたもう」

 一度抵抗しようとしたが、女の甘い香が鼻にとびこんでくると、あとは定能の男としての慾情の方が理性より表面に立ってしまった。

 今日、作手からここへ向かう途中には思ってもいなかった状況が、今ここで展開されている。先ほど初めてまみえたばかりの信玄の眼光の鋭さが、今でも目に焼きついていて、それが行為の最中でも彼を怯えさせた。その信玄は、同じ城中にいる。男と女が裸になって肌を接していても、社会という柵からは逃げられないようだった。だが体は正直で、おかまいなく女の中で暴れまわっていた。

 頭の中が真っ白になった。もはや彼には、過去も未来も存在しなくなった。今ひと時の官能がすべてだった。それだけが恐怖から抜け出る道だと彼は思った。女は熱く声を発してはいたが、それは決して貴婦人の域を逸脱することはなかった。


            ※    ※    ※


 悪夢だと信玄は思いたかった。知りたくはなかった。知らずにいたかった。しかし彼は知ってしまった。

 目の前に控える情報源の忍びの三ツ者を、今にも一刀両断で斬り捨ててしまいたいという衝動を、信玄は必死に抑えていた。

 なぜ、知らせたのか――なぜ、自分は知ってしまったのか――。

「もうよい! 下がれ。よいか、このことは、ゆめ他言無用ぞ」

 ほとんど怒号に近い声を三ツ者にあびせ、信玄は唇をかみしめた。

 今日、甲府よりゆうかたが、この長篠城へと到着した。信玄が呼んだのである。祐は信玄の最愛の女だった。かつて彼が愛した諏訪御料人――かつては敵方であった諏訪頼重の娘――は十七年前、信玄が三十四歳の時に死んだ。そのすぐ後に、心にぽっかり空いた穴を埋めるべく、信玄は自分と同郷になる甲斐の出で身内の中でも最もその美貌をうたわれていた祐姫、今の祐の方を側室として迎えた。わずか十五歳だったその姫も、今では三十を超えている。ほぼ正室的地位にあった三条夫人も、一昨年に死んでいる。

 その祐の方が、この長篠城に着くや否や……

 そもそも今回の出兵はいくさを目的とした出陣ではなく、あくまで上洛の軍だ。だからこそ最愛の女とともに都の地を踏むべく、信玄は祐の方を呼び寄せた。遠江と三河を平定した今こそが、その好機だと思ったのだ。

 それにしてもなぜあのような男に祐の方の世話役などを命じてしまったのかと、信玄は悔やまれてならなかった。所詮徳川からの寝返り者の、新参者なのだ。新参者など、信じるべきではなかった――。

 それに祐も祐だ。上洛軍とはいえ都の地にわが旗を立てるまでは戦の陣中と心得、愛する女が同じ城中に来たからとて自分は逢うのも慎むつもりでいたのだ。それなのに世話役ごときに体を許すなどとは、祐の自分に対するあてつけなのだろうか――。

 誰にも打ち明けられない悩みに、信玄は苦しんだ。あらためて怒りが湧き起こる。猛将の山県三郎兵衛あたりに間違えて漏らそうものなら、

「今がいかなる時か、お屋形様はお心得あるや。戦の陣中でござる。しかも上洛を目前に控えている時ではござらぬか。そのような大事を前にして家臣の色恋沙汰など、たとえその相手がお屋形様の御側室といえども、大事の前の小事でござる。離反謀叛なら話は別でござるが!」

 などと言って、血相をかえて詰め寄ってくるに決まっている。そのことは充分に分かってはいるがやはり口惜しくて、その晩信玄は一睡もできなかった。


            ※    ※    ※


 翌朝早々に、奥平定能のもとに、信玄からの通達があった。

 祐の方の世話役は解任。ただちに作手城へ戻れとのことであった。

 定能は全身が震えた。信玄に知られてしまった。そうとしか考えられない。昨日のことが、できればあの女が主君の側室だと知らないでのことであったのならと思ったりしたが、無駄であった。彼は知っていた。知っていて慾情に負けた。妻が徳川に人質にとられているままだからということを心の中で繰り返すことだけが、唯一の精神の逃げ場だった。もちろんそのようなことが、何の言い訳にもならないことは分かってはいる。いずれにせよ昨夜はあくまで過去であり、決して未来にはならない。

 作手に帰る途中の馬上でも、彼はいろいろと考え続けた。

 武田家にとっては新参者の自分を側室の世話役にしたということは、よほど自分を信頼してのことだったろう。ところが自分はその信頼を裏切った。そうなると、自分の徳川から武田家への寝返りさえをも疑われるのではないか、自分は徳川の間者だと思われはしないか――。

 作手城に戻ると、気分がすぐれぬと言って彼はひとり部屋に閉じこもった。

 まだ妻は徳川に人質になったままだから、いっそうのことまた徳川に帰参しようかとも思ったが、大義名分がない。

 定能は頭をかかえこんだ。こんな年になってこのようなことをしでかし、そしてそれで悩むなどとは思いもしなかった。息子の九八郎にも会わせる顔がない。もし血気盛んな若武者である息子が同じことをしたとしても、若気の至りですませることもできるだろう。しかし自分はもはや、そのような言い訳ができる年でもない。

 そのまま幾日かが過ぎた。信玄は依然、長篠城から動かない。そんなある日、とうとう信玄の使いが作手城に来た。長篠城へ出頭せよとのことであった。

 定能の胸騒ぎは、いつしか全身の震えに変わっていた。重い足取りではあったが、主命である。だがまだ信玄が、自分とあの女との不義を知ったと断定できるわけではない。別に現場をとりおさえられたわけではないのだ。そう思うことだけが、かろうじて定能に馬を長篠城へ進めさせていた。


 寒狭川かんさがわ(現・豊川とよがわ)と大野川(現・宇連うれ川)の合流点に、長篠城はある。東と南の二方が川に面しており、その川はいずれもかなり低い所を流れているので、城域から川へは垂直の深い断崖となっていた。このあたりが山地と平地の境目だが、平地にあってもこの城は天然の要害であった。

 呼ばれたのは定能ひとりではなく、当長篠城主の菅沼正貞、田峯城主の菅沼定忠が、すでに本丸の奥座敷に着座していた。いわば山家三方衆がそろったわけである。何のために――分からない。ただ、三人で雑談をかわす間もなく、信玄が現れた。三人は一列に並んだまま、そろって平伏した。信玄は本来ここの城主である正貞のすわる座についた。

おもてを上げてくれ」

 信玄は穏やかに言った。心なしかその声に、力が入っていないように感じられた。

 全身が小刻みに震え、呼吸をするのさえ困難になっていた定能は、信玄の穏やかな顔を見て、幾分の安堵の感からゆっくりと息も吸えるようになっていた。

「この城内に」

 低い声で、信玄は語りはじめた。

「捕虜として捕らえておる野田城主の菅沼新八郎定盈さだみつと、徳川方の武将の松平与一郎忠正のことだが」

「は」

 自分の不安とは別の所へ、信玄の話は飛んでいく。ようやく定能も、かなり平常心を取り戻しつつあった。

「わしはその捕虜を、徳川方へ帰そうと思う。徳川との交渉も成立した」

 驚いて顔を上げたのは、菅沼正貞だった。

「もしやお屋形様は、野田城主の菅沼新八郎が我らと同族ということで、お情けをかけて下さるおつもりで?」

 信玄は黙っていた。

「それには及びませぬ」

 菅沼定忠も信玄を直視し、膝を一歩進めて言った。

「かの新八郎は我らの誘いをも断って、徳川へ残ったのですから徳川方。我ら二人、それに奥平殿を加えての山家三方衆は、今やれっきとした武田家の家中の者でございます!」

 信玄はその時、ちらりと定能を見た。定能は一瞬身をすくめた。定忠はさらに言葉を続けた。

「同じ菅沼一族とて、我らと新八郎は今や敵味方。我らへのお心遣いはご無用に」

「さよう。新八郎を徳川へ帰したとて、我われは嬉しうもございません。むしろ説得して新八郎をお味方へということでしたならば、大歓迎でございますが」

 正貞の言葉のあと、信玄は微かに笑った。

「ちょっと待てい。たしかにそなたたちのためというのは、それはその通りだがな。そなたたちはこの武田軍の三河における最先鋒、なくてはならぬ存在だ。だが、わしが考えているのは、それだけで定盈を許すということだけではないわい。わしもただで、捕虜を返したりはせぬ」

「と、おっしゃいますと?」

 正貞が信玄の顔を見据えた。信玄はその笑みの度合いを強くした。

「もともとは定盈の切腹を条件に野田城の降伏を認めたのだが、その定盈に腹を切らせなんだのは考えがあってのこと。つまり定盈を、徳川に人質になって浜松にいるそなたたちの妻子と交換しようと思ったのだ。何日か前から交渉しておったのだが、ようやく先方が承知したのでな、それで今日そなたたちを呼んだのだ」

 菅沼家の二人の顔は、パッと輝いた。武田へ寝返ったことで、徳川に差し出している人質は徳川によって斬られても文句は言えない。それを承知の上での寝返りだ。それだけに彼らの喜びは大きかった。ただ、定能だけが浮かぬ顔をしていた。

「どうした、監物。嬉しうはないのか!」

「は」

 定能は慌てて平伏した。

「有り難き幸せで、御恩、骨身に染みて感じまする」

 そう言ってから顔を上げた時、もはや笑みの消えた信玄の顔から、刺すような鋭い眼光が自分だけを直撃しているのを感じ、定能は心臓が破裂しそうになった。

 何も言葉が出ない。全身が金縛りにあったように身動きができないのだ。信玄の視線はますます鋭く、自分を射る。

 額に汗がにじみ出た。糾問を受けているようなその視線を浴びて、定能ははっきりと悟った――信玄は知っている。その側室と自分との不義を知っていると、定能は魂を縮みがあらせた。

 信玄はすぐにもとの表情に戻り、三人をそろって見渡した。

「いずれにせよ、三河の小僧を蹴散らして野田城も落とした今、わしはいよいよ本格的な上洛の途につくことになろう。その前に信長と正面きって、ぶつかり合うことになるやもしれぬ。そこで三河と遠江を、そなたたち山家三方衆に任せようとわしは思っておるんだ。そのための今回の計らいなのだ」

「は、かたじけのう存じまする」

 三人は一斉にひれ伏した。

「大義であった!」

 信玄は立ち上がると、すぐにその場をあとにした。定能は恐れていた「監物は残れ!」の声は、かろうじてなかった。

 広間には山家三方衆の三人だけが残されたが、信玄がいなくなると早速、あとの二人の菅沼正貞、定忠の二人は互いに笑みを交わし、手を取り合わんばかりにして喜んだ。だが、そこに定能は入っていなかった。二人は笑みを消して、定能の顔をのぞきこんだ。

「監物殿、いかがした? どうもご様子がおかしい」

 定忠の言葉を、すぐに正貞が受けた。

「さよう。このようないい話を頂戴したというのに、お元気がないではござらぬか。今日最初にお会いした時からご様子が変だとは思っていたが、お屋形様からこのようなお話を伺ってもそのままであるし」

 定能は、ゆっくりと首を横に振った。

「いえいえ、ご心配なく。なんでもござらぬ」

 平静ならどんな些細なことでも互いに話し合い、行動を一にしてきた仲間なのである。しかし今回ばかりは、たとえこの二人に対してでも言えない事態を定能は抱え込んでいるのであった。


 長篠城南東の角で寒狭川と大野川は合流するが、その合流点の角に本丸よりかなり低くなっている野牛郭がある。さらにその角の先端に野牛門があるが、門の外にはさほど川幅はない二つの川の合流点へ降る道があるだけだった。ここはちょうど城の断崖の下で、ちょっとした石の河原になっていて、道はそこで行き止まりだ。左右から来る激しい川の流れが目の前でぶつかり一本になった川は、ここから急に川幅が広くなる。両岸とも川岸までは、かなり高い断崖を登らねばならない。まるで地の底のような、谷底の空間だ。

 あたりはもうすっかり春の陽気でぽかぽかと暖かく、風の中には初夏の香りさえ感じられた。緑も濃くなりつつあったまわりの山々も見下ろすその河原で、捕虜と人質の交換は行なわれた。定能たちが信玄に呼ばれた翌日の午後だった。

「苦労をかけたな」

 もはやあり得ないかもしれぬと思っていた妻との再会に、冷淡ともいえるような態度を定能はとった。妻も武家の妻らしく、取り乱したりはしなかった。妻との再会の喜びを押し殺してしまうほどの恐怖――怯え、それらが今の定能のすべてを支配していたのだった。


            ※    ※    ※


 祝宴でも聞いてやろうと、信玄は思った。

 戦の陣中なので華やかにはできないが、妻子を取り戻した山家三方衆にこれからの働きを促す上でも必要なことだと、彼は考えたのだ。

 だがその今の武田家にとってなくてはならぬ山家三方衆の中に、どうにも困った存在がある。奥平監物定能――この男もなくてはならぬ男ではあるが、自分の側室に手を出した。本来なら即刻お手打ち者だが、やつが恐怖に震えているのが昨日の会見でわかった。自分がその不義を知ったと察したのだろう。

 やつは自分が恐いのだ。それは当たり前だと、信玄は思った。自分は恐がられている。家臣たちはおろか、近隣諸国の大名たちに自分は恐れられているという自負が、信玄にはあった。

 北条も自分を恐れているからこそ、同盟を復活させたのだ。そればかりではなく、行く手を阻む織田信長も、自分を恐れているに決まっている。だからこそ年が明けてから、自分の同盟者の家康が信玄に歯向かった三方ヶ原の戦いを「信長の迷惑!」などという書状を送ってよこしたのだ。

 酒宴はその日の夜に、長篠城の大広間で行なわれた。

 自分を恐れぬ者は誰もいないという自信があるだけに、その席でもおとなしくしている定能があわれでもあり、その分怒りも鎮火していくのを信玄は感じていた。宴が始まって以来、定能は全く自分と視線を合わせようとはしない。怯えきった猫のように背を丸め、黙々と杯を口に運んでいる。

 だがその姿を見ているうちに、やはり信玄の中に耐え難いものがこみあげてきた。

「監物、飲んでおるか!」

「は、はい!」

 やっと定能は、信玄の顔を見た。充分に罪の意識を感じているらしい。もしそうではなく彼が自己正当化を計るように平然としていたら、信玄の怒りは爆発したであろうし、その反面必要以上に悩まなくて済んだかもしれない。

「わしの杯をとらす。もっと飲め」

 定能の恐縮は、破格の杯を頂戴するという恐縮にあきらかにとどまってはいなかった。

「さあ、飲め!」

 定能に渡した自分の杯に、信玄は侍女に酒をつがせた。

「飲め!」

「ちょ、頂戴致します」

 定能は、それを震える手で口に運んですぐに飲み干した。

「さあ、もう一杯!」

「あの…」

 突然定能は、信玄に向かって平伏した。

「せっかくのご好意でございますが、ここのところ体もすぐれず、酒は医者よりも自重するようにと…」

「ならぬ! 飲め!」

 信玄は怒号を発して、立ち上がった。

「何をしておる。杯を持たせい。酒をつげ!」

 今度は侍女へ怒鳴りつけた。しかたなく定能が持った杯に、侍女が酒をついだ。定能はそれを再度口に運んだ。

「さあ、もう一杯!」

「ご、ご勘弁を」

「ならぬ!」

 また、酒がつがれる。しかたなくそれを飲む。

「さあ、もう一杯じゃ!」

 定能はもはや、抗うことをしなかった。その罪の意識からか、黙って酒の責め苦を受けているかのように見えた。

 この状況の異常さは誰もがすぐに察し、一同静まりかえって定能の酒を飲む口元を凝視していた。

 信玄は思った。自分に対する不義をはたらいたこの男を、この場で一刀両断にしようと思えばできる。しかし彼は冷静に、それを思いとどまった。

 さきほど定能が平伏した時、実は信玄は一瞬冷やりとした。自分への不義をこの男は、この場で告白して詫びる気なのかと思ったのだ。最愛の女と臣下が密通したなど、主君にとって最大の不覚である。いや、男としても最大の屈辱だ。

 幸いその恥を一同の前にさらされずには済んだ。それでも屈辱感は残るが、今は忍ぼうと信玄は思った。今やつを罰すれば、自分の恥を人前に披露することになる。しかも今は上洛途上。とにかく上洛という大目的が逹せられるまでは、目をつぶろう。今は何をおいても上洛を果たし、天下に号令することが最優先だ。それに比すれば今の自分の感情は、ささやかな私事だ。いわば大事の前の小事ではないか。

「さあ、どうした、監物。もう一杯!」

「い、いえ、本当にもう……」

「ならぬ!」

 まるで機械的に、侍女は定能の手の杯が空になるたび、それへ並々と酒をついだ。

 ついに定能は倒れた。

 信玄は席を立った。うしろに定能が運び出される気配があった。今なら定能の寝所へ行き、刀を使わずにその首をしめて、酒で中毒死したということにすれば、自分の恥もさらさずにやつの命もとれる。

 やめておこう――信玄は廊を歩いた。

 定能を許そうと思った。やつは自分の酒の責め苦を受けて倒れた。それで充分としよう。男としての屈辱を思えば、絶対に許せない。しかしそれは「ひとりの男!」として許せないのであって、今や自分は「ひとりの男」ではない。天下に号令すべき天下人にならんとしている身だ。自分の中の「ひとりの男」は消してしまわねばならない。

 そこまで考えてふと、信玄の頭に父のことがよぎった。信玄の父の信虎は少し気に入らないことがあると、どんどん家臣を手打ちにした。重臣とて例外ではなかった。それだけではなく、弟の信繁を偏愛していた父は、この自分さえをも手打ちにしかねないことがたびたびあった。そんな父のやり方に家臣団の心は離反していき、やむなく自分が父を追放しなければならない事態にまで陥っていったのだった。

 人の罪は責められない。父を追放した罪は罪で、自分にはまだ残っている。しかしその父にも罪はあった。そしてその父と同じ罪を重ねることだけは、信玄はしたくなかった。

 許そう――もう一度信玄は繰り返した。父のように家臣を手打ちにはしたくはない。まして全くの私事では――。それに今奥平定能を罰したら、同じ山家三方衆の菅沼家も動揺しよう。それは困る。勢力の近接地点の豪族は、それをいかに先に味方にとりこむかで、勢力拡張の優劣が決まる。だからせっかく手に入れた山家三方衆にこんな小事で武田家から離反されたりしたら、武田家にとっては絶対の不利だ。

 とにかく今は上洛直前、定能を許すしかなかった。

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