世もすがら

笛吹 斗

世もすがら

 ──なるほど、人々の美味い団子というのも、結局は花あっての物種らしい。

 春先、深夜の衣笠山は糸が張り詰めたように静まり返っていた。私は自分の鼓動と呼吸の音を変に意識させられた。ただでさえ寒さが肌を刺すのに、ここではそれが余計に痛切に感じられた。

 衣笠山というと、地元では桜の名所として有名である。毎年この時期には花見のために昼夜を問わず多くの人々でにぎわいを見せる。しかし、今年は類を見ない長く厳しい冬が尾を引いているためか、桜は一向に花弁を開く気配がなかった。例年ささやかな祭事も執り行われるが、主役不在の会場はいつになく閑散としている。せめてもと灯された提灯ちようちんの明かりが、一矢纏わぬ桜の起伏に富んだ身体を妖艶ようえんに映し出し、そこに真紅の肥えた蕾が無数の影を落としていた。

「わたしは〝桜の精〟なのだと言ったら、あなたは信じますか?」

 私のかたわらに腰を落とした女は、そのような至上の命題をそれとなく私に投げかけてきた。そこに私を試すような調子は見つけられなかった。彼女には先刻私の方から声をかけた。こんな時分にこんな場所で出会った相手だ。どうせ互いにワケありに違いないのだから、私は彼女に気兼ねなく接していた。

「そういう冗談は嫌いじゃないよ」

 適当にかわしたつもりだったが、彼女は深刻そうな顔を崩さないので、私はやれやれとため息をついた。生温かい霞が眼前を薄く覆った。

 彼女はてっきり私のことを口説き屋か何かと勘違いしてからかっているのだと思った。だから本当は彼女の言葉に取り合うつもりなどなかった。しかし、私は心のどこかでは一縷いちるの望みを託したかったのかもしれない。それくらい近頃の私の暮らしは困窮こんきゆうしていたのだ。

「分かった、信じるよ。そんな夜があってもいいのかもしれない」

 私の答えに満足したのか、女はただ静かに微笑んだ。

 彼女の装いはあまりに寒々しいものだった。彼女は裾の長い質素な模様のワンピースを一枚纏っているだけで、他に寒さを凌ぐものは見当たらない。しかしながら、その一張羅は驚くほど彼女の身体に馴染んでいて、主張の薄い色味がかえって芯の強そうな口元を引き立てていた。まさしく、彼女自身が舞い落ちたひとひらの花弁というわけだ。

「君はどうしてここに?」

 私が訊ねると、彼女はさっと耳の後ろに髪をかきあげて、遠くを見つめたまま一度緩やかに瞬きをした。露わになった横顔は白い陶器のように無機質でありながら、左目尻の小さな黒子がなんともチャーミングで、控えめな色香を感じさせた。

「何かを待って留まっているか、何かを探して歩き続けているか。人生にはその二つしかありません。わたしの場合は、ただここに座って春を待ちわびているのです」

「なるほど、それはいかにも待ち遠しいね」

 私は背後にそびえ立つ桜の木を見上げた。

 この場所に訪れる者は誰でも、そこに鎮座する一本の大樹に目を奪われる。衣笠山にある桜の中でも一際立派なそれは、街のシンボルとして人々にも親しまれており、最近ではほとんど御神木という扱いだった。分厚い幹は虚空を掘り進めるようにうねりながら昇り、無数に分岐した枝の行先はやがて夜の闇に消失する。あるいは、それらは天高くどこまでも続いていて、世界の半分を覆う膨大な影を実らせたのである。その光景は、深く豊かな眠りの底にのみ存在する、至極穏やかな悪夢のようでさえあった。命あるものに対していっそ冒瀆ぼうとく的な生命力を感じさせて、これがもう明日には息絶えるのだということが私には到底信じられなかった。

 私はこの桜にもう二度と春が訪れないことを知っていた。

 大層立派な立姿ではあるが、品種本来の寿命はとっくに迎えていた。公園の管理事務局の点検によって、根元の腐敗が深刻で、いつ倒壊してもおかしくない状態であることが発覚したのが昨年末のことで、地元住民との不毛な押し問答などを経て、期日通りであれば明日にも切り倒されることになっていた。

 この春、彼女はまさしく花道を飾るはずだったのである。

 私は満開の桜の壮観な姿を鮮明に思い出し、必死に目の前の光景に上書きをしようとした。それは一瞬の栄華えいがをなすと、後には寂しい骨組みだけが残り、その向こうには一片の余白さえ許さない夜の闇が突き抜けていた。やがて私は彼女に悟られぬようそっと肩を落とした。今までに幾度もこの胸に生じたことのある、よく見知った痛みを感じた。刺すでもなく、叩くでもなく、胸に乗せた柔らかな重しがだんだんとその質量を増していくような、そんな痛みだ。

 我々の間には静かな時が流れていた。こんこんと湧き出る冷たい水が雪山を下っていくような、けがれを知らない時間だ。私は彼女の潤んだ瞳の上に提灯の明かりが絵具のように浮かんでいるのを見て、ふと、先日亡くなった祖母のことを思い出した。

 衣笠山には幼い頃に度々祖母に連れられて来たものだった。父を早くに亡くしてからというもの、母は働き詰めで、私は祖母によくものを教わった。祖母は衣笠山の桜をとても愛していた。あまり多くを語る人ではなかったが、私はそのことだけはよく分かっていた。

 ある日、いつものように祖母と衣笠山へ散歩に出かけたときのことだ。そろそろ帰ろうかというところで、私は突然憤りにも似た何かに取り憑かれて、自分でも訳が分からないまま泣きじゃくったことがある。ある時期の子供にとってそういうことは珍しくない。それでも祖母は呆れた顔ひとつせず、「もう少し歩こうか」と言って私の手を引いてくれた。

 ちょうどその頃は桜の盛りで、辺りは花見客で溢れかえっていた。会社員の集団、家族連れ、老人会、その他不明な集いの数々。彼らはたった一枚の薄い敷物の上に各々自由に酒とさかなを並べ、少しずつ違った国を築いている。そこに共通点があるとすれば、彼らは皆概ね幸せそうであり、そして頭上を覆う桜色の天井などとっくに見飽きているということだった。いさかいも無ければ協調も無い。そのような理想的な空間を統べるものはただ美しい花であり、遍く注ぐ不思議な力はささやかでさりげない。人々が決して気がつくことのないその気配を、私は確かに感じ取ることができた。先程まで小さな身体を支配していた不安はどこかへ消え去っていた。

 しばらく歩いていると、祖母は突然私に尋ねた。

「アンタは、神様っていると思うかい?」

 祖母は元来口数が多い方ではなく、読めないというのが正直なところだったので、祖母の方からそんな突飛なことを訊ねてきたのには驚いた。

「神様?」

「そうだい」

「……分かんない」

 隣を見上げると、祖母はまるでとうとう自分の墓標でも見つけてしまったかのように、物憂げに遠くの方を見据えていた。

「今となっては念珠を擦るも十字架を握るも同じことなんだ。それでいいのさ。でもね、よくお聞き。いつかアンタが本当に困ることがあったら、この桜の美しさだけは信じておやりなさい」

 幼い私には祖母の言っていることが到底理解できなかった。ただ、その声は庇護ひご者の鼓動のごとく耳の奥底に低く響いて、私の心をすっと落ち着かせてくれた。

 祖母は特段厳格という訳ではなかったが、立ち居振る舞いはそこらの男よりよっぽど漢らしく、いくら顔にしわをつくろうとも凛々しくあった。しかしその時ばかりは、私は外見以上に、祖母の中に通う血の色みたいなものを垣間見た気がしたのだった。

 ──祖母はあのとき私に一体何を伝えたかったのだろう?

 全てを知りたくば祖母の骨袋をひっくり返すのが早そうだが、もちろんそんな訳にはいかない。私はその答えを探しに今夜衣笠山へ来たのかもしれない。そうでなくても、私の思うところによれば、盛りを過ぎた祭りの会場に一人で足を運ぶようなことが人生には時々必要なのだ。このご時世、孤独は容易く手に入る割に、静寂は案外高くつくものである。運命の導きなどというものを称えるつもりはないが、結果的に彼女という存在が今私の目の前にあるのだから、見当違いということもあるまい。

 私は彼女の横顔に視線を送っているうちに、その中身の詰まっていそうな頬や唇を一通り動かしてみたい衝動にかられた。

「桜の精というのは、皆君のように女性の姿をしているものなのかい?」

「いいえ、わたしには本来性別というものはありません」

「じゃあ、そろそろ君の名前を訊いてもいいかな」

「それも分かりません。わたしは、わたしを、わたしたらしめるものの多くを随分昔に失ってしまいました。ただ、あなたがそのように見えると言うのであればそうなのでしょう。あるいは別の誰かから見れば、わたしは老人かもしれないし、猫かもしれないし、時計かもしれないというだけのことです。きっと、それはあなたが思っているよりもずっと些細な問題です」

 彼女の指摘はもっともだと思った。カタチのないものに憧れるようなフリをして、結局私はカタチへのこだわりを捨てられはしないのだ。私はそういう自分を惨めだと思わずにはいられなかった。

「つまらないことを訊ねて悪かった」

「そう悲観なさらないでください。わたしがモノですらなく、この世に存在するいかなるものとも似ても似つかないに見えてしまったら、あなたはその負荷に耐えられません」

「もしそうなっていたら、私は一体どうなっていただろう」

「あなたはわたしに〝連れて行ってくれ〟と必死に言い縋ったに違いありません。あなた方がその一線を超えるにはまだ少し時間がかかるのですよ」

 彼女は幼子をたしなめるように言った。

 静かな胸の高鳴りを感じた。私はほとんど彼女という存在を愛おしく思うようになっていた。

「頼んだら、君はそこへ連れて行ってくれるのかい?」

「一度それをしてしまったら、わたしはそれだけをする存在になってしまいます。それでも、あなたはわたしにそれを望みますか?」

「いいや、やめておくよ。私はただ君が案内してくれる場所に興味があるだけさ。それを知った後で、もしかすると本当にお願いすることになるかもしれないけどね」

「あなたは少し疲れているのですね」

「そうかもしれないな。君が連れて行ってくれるなら、どんな場所でもいいような気がするよ」

 彼女は私の言葉に何かを決心したように、スッと立ち上がった。

「開けた場所へ行きましょう。ここは少し気が滅入ります」

 彼女の提案で、我々はそこから少し登った先にある古い見晴台へと向かった。

 いびつな山道が続いていたが、彼女は何でもないようにひたひたと歩みを進めた。私は彼女の背中をついていったが、時々自分が何に誘われているのか分からなくなってしまうような曖昧あいまいな感覚に襲われた。彼女が遠ざかっていくのか、それとも自分の意識が遠のいていくのか、その区別さえつかないほどだった。彼女の方もそれを分かっているようで、何度も立ち止まっては私の方を振り返り、私が彼女を見失わないよう細心の注意を払ってくれていた。

 しばらく歩いていると、真っ黒い茂みの向こうから、家屋の骨組みのような見た目をした見晴台が現れた。螺旋らせん状の階段はちょうど周囲の木々の間から顔を出すくらいの高さまで続いていた。長いこと放置されているようで、所々が抜け落ちていて、一歩足をかけるたびに金属が軋む音がした。慎重に登ろうにも、風化した手すりはめくり上がった樹皮のようにあちこちが鋭く尖っていて、とても掴めたものではなかった。最上部はちょうど六畳ほどの広さがあった。周囲に景色を遮るものはなく、空からふもとの街までが一望できた。誰が置いたのか、中央には一対の木製のベンチとテーブルが雨ざらしになっており、そこはまさに廃墟の一室の様相を呈していた。

「今夜も星が綺麗きれいです」

 彼女は白々しくもそんなことを言ってみせた。彼女に倣って空を仰ぎ見るが、今夜に限っては提灯と街明かりのせいで大した数の星は見えなかった。私は麓の街を指差した。

「綺麗な星空というなら、あっちの方がよっぽどそれらしい」

「確かにそうかもしれません。──でも、あなたはあの光を嫌っている。そうなのでしょう?」

 私は彼女の言葉に完全に不意をつかれた。私を真っ直ぐに捉える彼女の瞳には、ただそこにある真実のみを厳しく見つめるような恐ろしさがあった。

 確かに、私はあの光が好きではなかった。あれらは私にとってあまりに混沌としていて、時々ひどく私を混乱させるのだ。過剰な自意識と、過剰な関心と、過剰な干渉と……。あれらはそういうものでできている。あの光の中で、今日も誰かが誰かに怒り、嘆き、悲しんでいる。そう思わされるたびに、私は何度でも絶望してきた。自己を愛おしみ、他者をいつくしむ。そのような、ある種美しさの象徴としての水晶玉みたいなものを、あの人やこの人は一体どこにしまい込んでしまったのだろう? と。

「私の傲慢ごうまんは許されるだろうか」

「分かりません。ただ一つ言えることは〝秘めたる傲慢さはあなたの人生を困難にする代わりに、あなたを最後まで生かし続ける〟ということでしょうか」

 彼女はこちらにチラリと目をやると、向かい合う長椅子の片方に腰掛けて、「少しわたしの話をしましょう」と言って右手を差し伸べた。

 私は彼女に促されるままもう一方の椅子に腰を下ろし、彼女の次の呼吸をじっと待ち構えた。

「わたしはかつて〝美しさ〟を信仰する者でした」

 彼女はまるで自身の罪を告白するような調子で語り始めた。

「はじめは、ただ信じるだけで満足でした。しかし、暮らしが貧しくなるにつれて、わたしは次第に真実を求めるようになりました。そして畏れ多くも、その正体や在り処について追求してしまったのです。そして、ある時ついに、わたしは〈ソレ〉に出逢ってしまいました」

 これは決して聞いてはならない話なのだと直感した。

 背徳感が、ドクン、ドクンと心臓が脈打つ度に、身体を左右に揺り動かすのを感じた。

 罪悪感が、メキ、メキと足先から徐々に身体を石のように硬く凍らしていくのを感じた。

 私の心はその板挟みだった。

「わたしは〈ソレ〉に〝連れていってくれ〟と懇願こんがんしました。地に伏し、血涙を流し、糞尿を垂れ、嗚咽をあげて、必死に! しかし、その行いはあまりにも美しくありませんでした。〈ソレ〉は突然わたしに姿を変えると、わたしと同じことをしてみせたのです。わたしは絶望しました。目を閉じ、耳を塞ぎ、今度は〝やめてくれ〟と絶叫しました。〈ソレ〉はたちまち姿を消しました。とうとう〈ソレ〉がわたしを救ってくれることはなく、わたしは謁見えつけんの代償に命だけを奪われ、この山に埋められました。やがて器が養分となって朽ち果てると、そこにわずかに残った純粋な想いの粒だけがこの桜に宿ったのです」

 彼女は目を瞑り、ゆっくりと呼吸を整えた。私はその様子を見て思い出したように息を吸った。ややあってから、彼女は最後にこう付け加えた。

「本来ならば、そのような頼りない想いなどすぐに消えてなくなってしまうはずです。しかし、わたしはこうして今も生きながらえている。わたしはどうやら別の誰かの意志によって生かされていたようなのです」

 私は彼女の言葉で確信した。

 彼女は祖母が信じていたものだ。

 祖母は彼女の想いを信じていたのだ。

 祖母だけではない。かつて多くの人が彼女の想いを信じていたに違いない。

「分からない。一体何のために……」

 彼女は愛しいものを抱きしめるように両手を夜空に掲げた。

「人は互いに信じ認め合うことで存在できるのです。それは、たとえるならば、見えない星の存在を感じられるようなものなのです。人々が目を向けなくとも、星はひとりでに燃えていることでしょう。それでも、わたしには──いいえ私達には、彼らの輝きを見届ける義務があるのです。それを知ることが、わたしに許された唯一のあがないでした」

 彼女の答えは一見すると壮大な勘違いのようであるが、私の心は無類の感動を覚えようとしていた。一方で、私はそれがどんなに実質を伴わない理想なのかということも、嫌というほど理解していた。私はあの光に当てられた時のように混乱しはじめた。

「だから、君はただ信じろというのかい? 父は死に、祖母も死に、君だってもうすぐ行ってしまうというのに!」

「全てを信じろなどというつもりはありません。それでも、あなたはあなた以外に信じられるものを見つけなくてはなりません。信じることを恐れてはなりません。それは何であってもよいのです。信じることで、そこに神は宿ります」

「私ははじめに君を信じると言った。今度は私が君の想いを信じるようにする。それでいいじゃないか。だからどうかいかないでおくれ」

「だめなのです、それではもう……。わたしは〝想い〟であって〝意志〟ではないのです。わたしがこの世界に永く留まることはできません」

 彼女はこれまでになく悲しい表情をした。私は彼女にそんな顔をさせるものの全てが許せなかった。

「わたしはここで千年、多くの光を見てきました。大丈夫、あなたはまだ世界を愛せるはずです」

 私は彼女が経験した時を想像して、胸をキツく締めつけられた。もうこれ以上食い下がることはできないと思った。彼女は百年ではなく、千年だと言ったのだ。私が彼女に同情していいはずがない。それでも、私は彼女の運命を呪わないわけにはいかなかった。

 美しき者は皆、いつだって別れを言う前にどこかへ行ってしまう。仕方のないことだと分かっていても、私にはそれがどうしても許せなかった。ならば私は、私から彼らを奪う存在を憎むべきだったのだろうが、そんなのは空気を殴りつけることと一緒だ。思えばそんなことばかりだった。私が憤るものはいつだって実体のないものばかりだ。

 ──ああ、私はただ彼らに別れを言いたかっただけなのかもしれない。

「君は綺麗だ。そう思う私の心はホントウだ。最後の瞬間まで、どうか私に君を信じさせてくれないか」

「ええ、わたしもあなたのホントウを信じましょう」

 私は許しを得て、そっと彼女の隣に席を移した。

 夜はますます深まり、星々は一層輝きを増していく。

 我々は彼らが見守る中で、椅子に手をつくようにしてゆっくりと身を近づけていき、やさしく額を合わせた。

 私は彼女の瞳に潜む終わりを見つめ、彼女は私の背後に広がる可能性を見つめ、互いに祝福するように口づけを交わした。

 私は彼女の唇の冷たさを確かめ、彼女は私の唇の熱さを確かめた。

 私は彼女の不在を知り、彼女は私の実在を知った。

「あぁ、せめて最後にわたしの着飾った姿を皆に見せたかった」

 彼女は打ちひしがれたように、最後にようやく恨み言らしい恨み言を吐くと、静かに涙を流した。

 結局、彼女は最後まで彼女のままなのだ。

 私はせめて強く抱きしめることで、彼女の身体をそこに留めようとした。

 次第に我々は寄り添うと、深く豊かな眠りの底へと沈んでいった。


 至極穏やかな悪夢がそこにはあった。


 そこでは全てが永遠だった。


 永遠の命。


 永遠の美。


 永遠の想い。


 ──そして、永遠の絶望。


「わたしはここで生きていくのですね」


 彼女はもう私の方を見てはくれなかった。


 やがてどこからか〈ソレ〉が現れて、彼女の手を引いていった。


 やはり、彼女は美しかった。


 翌朝、目を覚ますと隣には誰も居なかった。残っていたのは、わずかな心の温もりと、一枚の桜の花弁だけだった。私はそれを片手に握りしめ、濃い朝霧が包む山中を徘徊した。桜はついに花を咲かせることはなかった。霧の水滴に混じって、冷たい雫が何度も私の頬を伝った。

 その後、桜の根本から身元不明の白骨体が見つかったといって街は騒ぎとなった。しばらくの間人々はその話題で持ちきりで、多くの憶測と根も葉もない噂話が飛び交った。私はそういう話を耳にするたびに、やりきれない気持ちになった。

 しかし、その騒動は思いの外あっさりと鎮静化した。今はもう何事もなかったかのように、街はいつもの活気を取り戻している。

 それはきっと、彼らが無情だからではない。

 私達は私達が思っているよりもずっと、物事には代償があるということを理解しているのだろう。

 今の私はそう思うことができた。

 やがて春がやってくると、ようやく祖母のお墓が建ったというので、私は母と共に墓参りに行った。街外れのこじんまりとした墓地に建てた質素なつくりのものだったが、一人の人間がこの場所に辿り着くまでの過程を思いやると妙な感慨かんがい深さがあった。私は丁寧に線香をあげ、いつになく入念に手を合わせた。

 思い返してみれば、母は祖母が亡くなってもあまり取り乱すことをしなかった。私はそのことを少し不思議に思っていたので、帰り際にさりげなく訊ねてみると、どうやら母にとってそれはまったく意外なことではなかったようだ。

「こんな風に言ったら薄情に思われるかもしれないけど、私は命の営みが行き着く先というものを十分に予感していたし、むしろ母さんが重い病に苦しむことなく安らかに眠ったことに安心したのかもしれない」

 そう語る母の眼差しもまた、そう遠くない未来にある何者かの墓標へと向けられているようだった。まさしく、あの母にこの娘ありといったところか。私は家族のしたたかな一面に恐縮せざるを得なかった。

 街に戻ると、河川沿いに列を成した桜が清々しいまでに花雨を降らしていた。やわらかな日差しが心地よく、道行く人々もすっかり春の装いだった。彼らは時折足を止めると、どこか解き放たれた表情で桜を見上げていた。

 私は片方の手に大事に握りしめていた花弁を確かめた。

 中にはもう誰もいなかった。

 私は花弁をそっと川に投げ捨てた。 

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