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それ以来真継は山を降り、若麻呂とともに白壁王に仕えた。その白壁王が血相を変えて戻ってきたのはあの会見から一ヵ月ほどのことで、なんと百済王敬福が薨去したとのことであった。
これで計画は白紙に戻ったと、白壁王は言った。頼りがいのある後見人を失って、白壁王は意気消沈だった。白壁王がこのようにも憔悴して意気消沈するのはなぜか、そもそもその計画というものの内容まで聞いてはいなかった若麻呂たちには見当もつかなかった。結局左大臣永手からは何の連絡もないまま季節は変わり、冬の始めにはまた天下をとどろかす出来事があった。
太政大臣禅師道鏡が、ついに法王に任じられたのだという。だが、その「法王」というものが何であるのか、人々には分かっていなかった。もちろん、令制ではない。僧の最高位のことかとも思うが、「王」という文字が人々には引っかかる。「王」は即ち「皇」なのではないかという憶測も飛んだ。ついに道鏡に皇位が譲られたのかと、大騒ぎするものたちもいた。
だが、至って冷静な人たちは、あえて言う。
帝は依然として女帝のままなのである。つまり、皇位を譲られたわけではないと反論する。それにしても、「法王」というのは尋常ではない。
「もう待てぬ!」
と、真継はいきがった。
「左府殿の所へ参り、『計画』とやらの話を聞こう」
「ちょっと待て」
と、若麻呂は言った。
「まずは、広名に聞いてみようではないか」
真継にとってその言葉は、突拍子もない馬鹿げたことのように聞こえたようだ。
「あんな変節漢に聞いて、どうするんだ!」
「あいつのことだ。なにか仔細があってのことかもしれないではないか。言い分も聞いてやるべきだ」
「でも、本当に心変わりしていたのなら?」
「その場で、
「でも、聞くといってもどうやって?」
「機会を待とうではないか」
この間のように、道鏡の行列の供をする広名に偶然出会うことを期待しようというのだ。気の遠くなるような話だ。しかし、今はそれしかない。
それから二人はなるべく都の都城の中を歩きまわるようにして、機会を待った。だが、それはなかなか訪れなかった。
そうしてあれから約一年が過ぎ、年号が天平神護三年から神護景雲と改元された八月頃、その機会はようやく訪れた。二条あたりで、貴人の行列に出くわした。そしてその輿の後ろに、確かにまた広名がいた。真継は自分の衣の袖をわずかに引きちぎり、筆を出して自分たちの居場所と、そこへなんとか来るようにと書いて、小石をくるんで広名に投げつけた。
広名の額に、それは当たった。彼はそれを拾い上げて読んだ。そしてすぐに辺りを見回し、真継の姿を見つけると驚いたような顔をしたが、そのまま輿が行ってしまうので慌ててそれを追って行った。
「さあ、あいつは来るかな」
と、真継は言った。
「来るか来ないか、来なかったら非常に残念なことだけど、あいつの心は変わったということだな」
その真継の言葉に、
「うるさい!」
と、若麻呂は一喝した。
「まだ来るかどうかも分からないうちに、そのようなことは言うな」
温厚な若麻呂にしては、いつにない激しい口調だった。
だが、半月が過ぎ、ひと月が過ぎても広名は現れなかった。そして寒風吹きすさぶようになった頃、白壁王の屋敷の門前のうろうろする僧の姿があった。広名だった。見つけた若麻呂はすぐに真継とともに飛び出し、広名の墨染めの袖を引いて庭の小屋へと入った。
「いやあ、なつかしいなあ」
と、広名はニコニコしている。真継はにこりともせず、いきなりそんな広名の包囲の
「どうしたんだよ。恐い顔して」
広名は狼狽していた。
「おい、真継、落ち着け」
と制する若麻呂も、冷たい目で広名を見た。
再会を懐かしむどころか、おかしな空気が流れている。あの押勝の乱から、もう三年がたっている。
「去年、日蔭皇子の一件の時に、会ったよな。おまえは道鏡に侍っていた。さあ、説明してもらおうか」
「分かった。話すから、とにかくこの手を放して落ち着いてくれ」
真継がそうすると、二、三回深呼吸をしながら、小屋の中の土間に座った。若麻呂と真継も、同じようにした。
「そうか、そういう訳があったのか」
と真継はつぶやいた。今、広名から、道鏡に仕えることになったいきさつを聞いたばかりだ。若麻呂が、優しい目で広名を見た。
「まあ、おまえのことだ。そういう事情があったのだろうと思ってはいたさ」
「さっきは興奮して、済まなかった」
と、真継も照れながら言った。若麻呂が一つ、ため息をついた。
「なあ真継よ、考えてみれば俺たちだって広名を責められない。押勝の殿に敵対した雄田麻呂殿や宿名麻呂殿の一味に、俺たちはなっているんだぜ」
それを言われたら、真継も反論できなかった。若麻呂は広名を見た。
「ところで早速聞きたいのだけれど、道鏡が『法王』に任じられたというのは、どういうことなのだ? 皇位を譲られたということか?」
「それが、俺にもよく分からないんだ」
広名の答えはとぼけているというふうでもなく、本当に分からないというような口調だった。
「ただ、皇位を譲ったということではないだろう。帝は依然として今でも帝だし、法王様、あ、すまん。つい癖が出た。道鏡の日常の生活も仕事も、以前と何の変わりもない」
そして広名は声を落とした。
「皇位と言えば、今の帝は皇太子をお立てではない。どうも何か臭うんだ。帝には皇太子としてお考えになっている方がおいでのようだ」
「誰だ? やはり天武の帝の流れの皇子か?」
真継の問いに、広名はしっかりとあとの二人を見て言った。
「いや、これははっきりとした事実として分かっているわけではないけれど、どうも、あくまで推測だよ。どうも帝には、実の皇子がおいでのようなんだ」
「え!」
声を上げたのは、若麻呂も真継も同時だった。そして真継が先に何か言いかけたが、それよりも早く、
「なぜ、そのようなことがあり得るのか」
と、若麻呂が最初に口を開いた。
「帝はまだ夫君はおいでではないだろう? いや、まだというよりも、帝である以上はこれからもどこかへ嫁ぐわけにもいくまい」
「それが」
広名はますます声を落とした。
「その皇子の父親は道鏡じゃないかと。つまり、帝と道鏡はすでにそういう仲ではないかという気がするんだ。これもあくまで、推測だよ」
もはやあとの二人は、言葉をなくしていた。そして今度は真継が、
「あり得ぬ」
と、だけ言った。若麻呂がすくにあとに続いた。
「そうだ。あり得ない。帝と僧侶だぞ。どう考えたってあり得ない」
「広名」
真継が少しだけ、広名に詰め寄った。
「そもそも道鏡って、何ものなんだ? 俺が山の民の
「いやそれが、どうもそれは違うみたいだぞ。実は遠い昔に、皇位を得られずに北に逃げた尊いお方の子孫とか。出雲神族がどうのこうのと言っていたけれど」
「蝦夷なのか?」
若麻呂の問いに広名はうなずき、
「それに帝も」
と、また小声で言った。だが、あとの二人が、
「なんだって!」
と、大声を出した。広名は、大野東人が蝦夷との戦いでやぶれ、和解条件として今の帝が蝦夷より大和に来たったという聞いた話を告げた。
「そうか」
若麻呂はまた深く息をついた。
「帝が聖武の帝の実の皇女ではなく御養女だということまでは聞いていたが、まさか蝦夷とは……。それで同じ蝦夷の道鏡を重用ってことか」
「それが、それだけではなさそうだよ」
その広名の言葉に、二人は息をのんで広名を見た。ところが広名が次の言葉を言う前に、若麻呂が、
「分かったぞ!」
と、叫んだ。何が分かったというのか、今度は若麻呂が視線を集める番になった。
「出雲親族で、朝廷がこの大和に入る前にこの大和を支配していた大昔の人、神武の帝の東征にあくまで戦い、そして逃亡して北の蝦夷――日髙見の国に迎ええられた人物といえば……
「だれだ? それ」
きょとんと真継が聞いた。
「神武の帝の東征に、最後まで抵抗した大和の豪族といわれているけれど、その実は出雲の権力者であり、東征の戦の後は死んだと見せかけて北の蝦夷に迎え入れられた人物だ。そうか、道鏡はその流れか。まさに、『まつろわぬ人々』の一人だ」
一度息をついで、若麻呂は少し口調を変えた。
「しかしそれにしても、今や護るべきものがこれほどまでに危険にさらされているとはな。いや、それにしても、広名に会えてよかった。これで敵陣中に味方を得た」
真継も、真剣な目で広名を見た。
「広名。おまえはとりあえず道鏡の所に戻って、何か新しい情報があったらすぐに俺たちに知らせるんだ」
「分かった」
広名は大きくうなずいた。
また季節は過ぎて言った。それからというもの、若麻呂や真継は広名との連絡を密にした。ただ、そうたびたび出かけられない広名との連絡の役を果たしたのが、かつて真継が生活していた山中にいた山の民だ。彼らは手芸品を売りに、どんなに偉い人の屋敷にでも自由に入ることができる。まず真継が一度山に戻り、連絡係りを依頼してきた。
だが、道鏡の方は平穏無事に生活しているようで、広名から取り立てて連絡を受けるべき重大ごともなかった。
はや一年半の時間が過ぎた。若麻呂たちは「例の計画」についてその内容が何であるかも知らないままで、白壁王に尋ねても「左府殿が『いましばし時を待て』としかおっしゃらない」という返事だった。何しろ、どうもいちばんの立役者であるらしかった百済王敬福の薨去は、かなりの痛手だったようだ。
だがやがて、とんでもない情報が広名から来た。神護景雲三年の年も明けたばかりの頃のことである。
「帝がついに、皇位を道鏡に譲ろうとしている」――この内容は衝撃的だった。しかもその根拠が、九州の宇佐八幡宮の神様からの御神示だというのだ。
「帝はやはり
真継が憤慨して言った。若麻呂は例の宣命のことをまた引き合いに出した。
「何しろ『
「護るって何を?」
「決まっている。俺たちがいちばん護らなければならない価値あるものだ」
そしてやはりその話をそのまま、若麻呂たちは白壁王にも報告した。話は永手たちにも伝わるはずだ。だが、さらなる広名からの連絡では、道鏡はそれを頑なに辞退したという。だがどうも道鏡の様子では、ほかの何かをたくらんでいる様子が見て取れるということだ。そこで、しばらく傍観ということで、さらなる観察をしていくことになった。
決定的な事件が起こったのは、その年の八月だった。
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