若草山の麓、春日大社から東大寺にかけての一帯は松の林だ。林といってもそれほど密集した所はなく、平原に木々が点在するといっただけの感じだった。夏の陽射しが、容赦なく降り注いでいる。そんな中を、粟田真継は若い女とともに手細工の木工品を入れる籠を背に歩いていた。籠の中は今はその木工品ではなく、それと交換で手に入れてきた食料や穀物がぎっしりと入っている。

 彼にとっては、久々の都であった。山中に暮らしてもう一年半になるが、その間三回も場所変え――テンパを繰り返した。彼が都に出てきたのは、半年振りである。

 空には先ほど若草山の上あたりから湧き出た入道雲が、もう中天まできている。

「今日も、夕立があるな」

 と、真継は同行する女――更沙さらさに言った。そして松林の中を北の方へ向かって歩きながら、滲み出る汗を白布でぬぐった。

「夕立でもくれば、涼しくなっていいわ」

 更沙は、笑って言った。目が涼しい少女だ。笑うと八重歯がかわいく、あどけなさが残っている。一陣の風が吹き、束ねてもいない彼女の髪をなびかせた。

 ここは都の外れである。都の中のいちで商いをしてきた二人は、帰途についているところだ。ここからは春日大社の社殿は見えないが、視線を前方に若草山沿いに這わすと東大寺の大仏殿と東西二基の七重の塔がそびえているのが見える。その手前には興福寺の五重塔が、林の中から頭を突き出している。

 ふと、真継は立ち止まった。そして、前方を凝視した。

「どうしたの?」

 更沙は、真継の視線を追った。そこには一人の官人と思しき若者が、向こうから歩いてくる姿があった。

「だあれ? 知り合い?」

 それには答えず、真継は真っ直ぐに歩いてくる男の前に出た。二人とも立ち止まり、無言のまましばらく視線を合わせていた。そして少し間をおいて、

「真継」

 と、ゆっくりと若麻呂の方から口を開いてきた。

「若麻呂」

 涼しい口調で、真継は言った。

「今までどうしてたんだ!?」

 喜びを隠しきれない表情で、真継は若麻呂の両腕を取った。

「おまえこそ」

「俺は、山中で生活している。山の民になったんだ」

「山の民?」

 二人の会話に、更沙だけが取り残されていた。

「話せば長くなる。おまえは?」

「今、ある高貴な皇族の方のお世話になっている」

「皇族?」

「白壁王とおっしゃる方だ」

 真継は首をかしげた。

「知らないのも無理はない。今年になってから大納言になられたお方だが」

「どういういきさつで、また」

 若麻呂は近くの手ごろな石に、真継を促してともに座った。手持ちぶたさにしている更沙には、真継は「すまない」というような合図を目で送った。

「あの、山中の寺で、貴人に会ったことは覚えているだろう?」

「ああ」

 その貴人が実は聖武の帝の落とし胤で、その人とともに生活していたが、その人が御落胤の名乗りを上げたところあっさりと誣罔ふもうということになって貴人は遠流になったことを手短てみじかに告げた。

「その日蔭皇子様が流される時に、これより後は白壁王を頼れって一筆したためてくれたんだ」

「そうか、そういうことがあったのか」

 と、真継は若麻呂を見た。

「ところで真継、広名がどうしているか知っているか?」

「いや、全く分からない」

「俺、見たんだよ。あいつ、道鏡の側近として、坊主になって侍っていたぜ」

「本当か、それは!」 

「ああ。日蔭皇子様とともに名乗りを上げた時、最初は民部卿様の自邸に行ったんだ。ところがまさかその日のうちに、道鏡に引き合わされるとは思わなかった。そして道鏡のそばに、確かにあいつがいた」

「他人の空似じゃないのか?」

「いや、俺の顔を見て確かに反応した。間違いない」

「広名のやつ、敵に身売りをしたか……」

「まあ、何か事情があるのかもしれない。おまえは昔から、気が短いからいけない」

 しばらくの沈黙の後、気まずい空気を打ち破るかのように、若麻呂が微笑んで、

「しかし、懐かしいな」

 と、言った。

「ああ」

 真継はまだ浮かぬ顔で、投げ出した自分の足のつま先を見ていた。

「一年半ぶりか。真継は変わっていないな」

「一年半かそこらで、変わってたまるか。でも、確かに懐かしいな。広名なんて名前を口にするのも、久し振りだものな。二人がここでこうしていると、後ろからふっと押勝の殿が現れそうだ」

「押勝の殿か」

 若麻呂はため息混じりにそう言った。

「ところで、おまえは何でこんな都のはずれを歩いていたんだ?」

 真継に言われてふと思い出したように、若麻呂は目を上げて真継を見た。

「実はこれからある人に会わせると白壁王様から言われていて、その場所に行くところだったんだ。春日大社の近くだけど、何しろ人目を憚ることだそうだ。白壁王様は一足先に行かれているので、あとから来いとのことだったんだ。行かなければ」

 立ち上がりかけてから、はっとした表情で若麻呂は真継を見た。

「そうだ。おまえも来い。白壁王様にお会わせしよう」

「そんな、急に。今日中に山背やましろまで帰らないといけないんだぜ。それに、俺のこんな格好」

「構わないさ。時間はとらせない。馬も貸してやる」

 それを端で聞いていた更沙は少しふくれて、

「じゃあ、私、先に帰っているね」

 と言って、真継の背の荷物までをも背負って、すばしっこい足であっという間に去っていった。その後ろ姿に、

「ごめんな!」

 と、真継は大きな声で呼びかけた。

「すごい足の速さだな。あの娘は?」

 若麻呂に聞かれて、真継は照れたような笑いで下を向き、

「うん、まあ、その、少々いい仲に」

 とだけ言った。足の速さはテンパものとも呼ばれる山の民のことだ。十分に鍛えられている。若い娘だとしても、二人の分の荷を背負っての移動などお手のものなのだ。

「じゃあ、早速行こう」

 若麻呂が立ち上がった。


 場所はほんの小さなあばら家だった。春日大社に付随する建物のようだが、表が明るすぎるせいだろうか中は妙に薄暗く感じられた。ただ、風通しはよくて、涼しかった。

 若麻呂が着くと、白壁王は外に立って待っていた。その前に若麻呂は畏まり、手短に真継を紹介した。

「このようななりをしておりますが、もとは私と同じように押勝の殿にお仕えしていたものであります」

「そうか」

 かん高い声で、白壁王は真継を見た。その名の通りに白い顔で、にこにこ笑っている。もはや、初老の域に達していて、六十になったかならないかという感じだ。真継らの世代にとってはもう歴史上、あるいは伝説上の存在ともいえる遠い昔の近江大津宮に御宇あめのしたしろしめしし天智の帝の御孫というのだから、相当高齢であって当たり前だ。

「皆さん、お待ちだ。中に入りなさい」

 白壁王にそう言われて、若麻呂と真継は薄暗い部屋に入った。その狭い部屋のいちばん上座には、白壁王よりもずっと年配の老人がおり、その左右には何人かの貴人がいた。最初は顔がよく見えなかったが、やがてそれが誰であるのか、押勝に仕えていた頃の記憶ですぐに分かった二人は、あまりに突拍子もない人物がこのような所にいることに驚きを隠せなかった。一人の中年の貴人は令制りょうせいの最高位の左大臣藤原永手である。だが、令外りょうげの太政大臣として今や道鏡がいるので、実質上は最高位ではない。ほかに、やはり中年の三位藤原宿奈麻呂すくなまろと三十代の左中弁藤原雄田麻呂おだまろの兄弟の姿もあった。

「今日は皆忍びで来られているのだから、堅苦しくする必要はない」

 と白壁王が、二人の若者に優しく言った。だが、二人が身を堅くしていたのは、同席しているのが本来雲の上の人である高官だからだというばかりではなかった。この二人は押勝の従弟とはいえかつては反押勝派の頭目であり、宿奈麻呂などは佐伯今毛人さえきのいまえみし石上宅嗣いそのかみのやかつぐ大伴家持おおとものやかもちらとともに押勝の暗殺計画まで立てた男である。もちろん押勝の反乱には、追捕の兵をも出している。

 そしていちばん上座の老人は、二人とも初めて見る顔だった。

「こちらは、刑部卿百済くだらのこにきし敬福けいふく殿。今日若麻呂に会わせたいとわしが言ったのは、この方だ」

「え?」

 二人とも息をのんだ。宿名麻呂と同席しているのでさえ居心地が悪く、緊張していたのだが、さらにその名を聞いて二人とも身を硬くした。この人は乱の発端の中宮印の駅印奪脱戦では、多くの兵を指揮して参加していた。こうなると、かつて押勝に弓引いたものばかりがここに集まっている。

 左大臣永手は丸顔で、髭は薄い。同じ初老でも、細身で頬がこけて皺が多い白壁王とは対照的だ。遺恨はどうあれ相手が一応政府の高官たちなので、若麻呂も真継も平伏して見せた。

「そう堅くならずともよい」

 と、永手も白壁王と同じ言葉を言った。

「今、まろがここにいるのは、あくまで忍びなのじゃ。それに押勝の殿は我が従兄いとこであるし、その側近だったそなたらは、他人とは思えぬ」

 反押勝路線を歩んできたくせによく言うという感じだが、若麻呂も真継も緊張のあまりそこまで頭は動かなかった。ここにいる宿奈麻呂や雄田麻呂に至っては同じく押勝の従弟でありなら、押勝を一時は亡き者にしようとした連中だ。

 だが、緊張以上に、永手の次の言葉は二人にとって衝撃的だった。

「白壁王殿の元にお仕えしているのが押勝の殿の身近に仕えていたものと聞いて、ぜひ会いたいと白壁王殿に頼んだのじゃ。これから話すことは、ゆめ他言無用ぞ。実は我われは白壁王殿をめぐって、あることを計画しておる。今はまだはっきりとは申せぬが、そなたらもその計画に加わって頂きたい。それが、押勝の殿のご遺志を継ぐことにもなろうぞ」

「そう言われましても」

 と、真継がゆっくりと顔を上げた。

「どのような計画か分かりませんと、お答えは」

「無理もない」

 と、永手は言った。

「たしかに、さもあろう。だが、遺憾ながら今はまだ言えぬ。しかしながら、今の世の中の状況だけは、正確に把握しておいてもらいたい」

 そう言ってから、永手はひとつ咳払いをした。

「今の御皇室の親王様や諸王は、ことごとく天武の帝の御血を引く方たちばかりじゃ。だか白壁王殿は、今では珍しく淡海おうみの帝の御孫、天武の帝の御血は入ってはおられぬ。だが、我らが計画を表立って行動に移せば、世間の動揺は免れ得まい。帝や道鏡をめぐる蝦夷えみしどもも、天武の帝の血を引く新羅人どもも騒がずにはおられようか」

 何だか永手が言う計画とは本当に大それた、体中に震えがとまらないような衝撃的なものなのではないかと、若麻呂も真継も感じ始めた。だが、「帝や道鏡をめぐる蝦夷」とか「天武の帝の血を引く新羅人」ということがどういうことなのか、はっきりいって謎の言葉である。

「帝や道鏡をめぐる蝦夷とは?」

 真継が直接に、疑問をぶつけた。それに永手が答える前に、若麻呂も口をはさんだ。

「確かに私は、畏れ多い話ではありますが、日蔭皇子様より今の帝は聖武の帝の実の御娘ではなく、御養女であると伺いましたが」

 しばらく、沈黙した空気が室内を流れた。誰もが難しい顔をしている。真継でさえ驚いて、若麻呂の横顔も見ていた。だから、白壁王が、

「そこまで聞かれたのなら、お話ししてもよいのではないか」

 と口を開いた時は、若麻呂は内心ほっとした。

「まろからお話し致そう」

 その時、そう言って話し始めたのは、最長老の百済王くだらのこにきし敬福けいふくであった。

「まろはかつて今は亡き大野東人殿が鎮守府将軍として蝦夷と戦った天平九年の大戦おおいくさの時に陸奥介であったので、ともに多賀城まで参ったのじゃよ。それで、あの戦は大敗じゃった。もし、そのままいくさを続けていたら東人殿は首を斬られ、まろとて今この世におらなかったじゃろう。そして勢いに乗った蝦夷どもは、一気にこの平城ならの都にまで攻め上ってきたじゃろうな」

 若麻呂も真継も自分たちの生まれる前のことなのでよくは知らないが、大和の朝廷の軍が蝦夷に大敗したなどという事実は聞いたことがなかったから、不思議そうに目を丸くして聞いていた。

「それで東人殿は、和解を申し出た。その和解の条件として蝦夷が出してきたのは、蝦夷の頭目の安東丸の娘をこの大和の国の大王おおきみに据えるということじゃった。そうしてやって来られたのが阿倍皇女、すなわち今の帝なのじゃ。大戦の翌年、天平十年の立太子であったかのう」

「では、帝は本当の皇胤ではないと言われるのですか」

 真継が、詰め寄るように百済王敬服を見た。敬服はゆっくりとうなずいた。

「さらにその後、わしは陸奥守になって現地に趣いたが、その時に蝦夷側は阿倍の帝の御即位のためと、それを祝ってということで黄金九百両を送ってよこした。それをまろが朝廷に献上したのだ。お蔭で東大寺の大仏開眼にもその黄金が充当されて、無事開眼供養が行われたのじゃ」

 それで、陸奥の黄金が届き次第ということで、今の帝が御即位あそばされたのだという。あまりにも驚愕的な事実に、若麻呂も真継もしばらくは口をつぐんでいた。

 そしてだいぶたってから、真継が目を上げた。そして敬服から視線をはずし、永手を見た。

「左大臣様の御計画というのも、今のお話と何か関係があるのですか?」

「まあ、あると言っておこう」

 またしばらく真継は黙って、それから話を続けた。

「しかし、その御計画に私どもをなぜという先ほどの質問には、まだ答えになっていないような気がします。そもそも、」

 また一旦言葉を切って、真継は宿名麻呂をちらりと見た。そしてなかなか言い出しにくそうにはしていたが、思い切ってという感じで口を開いた。

「こちらにいらっしゃる三位殿、あなたは私が仕えていた押勝の殿を、一時は亡き者にしようとしたのではなかったのですか」

 宿名麻呂の顔に、明らかに狼狽が走った。そして何か言おうとしてはいるようだったが、言葉が出ないというような感じでいた。

「まあ、待たれよ」

 と、話に入ってきたのは敬福だった。

「左府殿やまろから今聞いた状況に関して、どう思われるのか」

「どうって……確かに、尋常ならぬ非常事態だとは思いますが……」

「あの頃はまだ、事態がここまで切迫してはいなかった。帝は淡路公で、今の帝は皇位を退き出家までなさっていた。ところが今は、この国が一番護らなければならないものが一番危うい時ですぞ。同じ藤原氏同士の争いを、どうのこうの言っている時ではござらぬ」

「それに」

 真継がまだ腑に落ちない顔をしていると、その三位宿名麻呂の弟である左中弁雄田麻呂が口を開いた。

「あの事件は、実は佐伯今毛人殿と大伴家持殿が首謀でござった。弟のまろが言うのもなんだが、兄はあの事件とは本来無関係。ただただ佐伯殿と大伴殿をお守りするため自分が罪をかぶり、単独の犯行未遂であると主張して、お二人をかばったのだ」

 若麻呂も真継も、首をかしげていた。

「お信じ頂けないのも、無理のないことかもしれない。だが、それは事実なのです」

「今の日本の状況は」

 敬福が、再び話し始めた。

「非常に危ない。まろのおやは百済の王族であったことは、ご存じでしょうな」

 だいたい「百済王」という名からもそのことは十分に分かるのだが、若麻呂たち二人がはっきりとそれを聞いたのは初めてだった。

「やはり、そうでしたか」

 と、若麻呂が答えた。

「あの白村江ペクチョンガンの戦いで、日本と百済は新羅と唐に大敗して、わがその百済王朝は滅亡致した。それでこの国に流れてきたのだが、百済王朝の新羅に対する怨恨は今も消えてはおりませぬ。その新羅と唐は郭務悰かくむそうを遣わして筑紫都督府を置き、この日本を間接的に支配してきた。天武の帝から聖武の帝まで、ずっといわば新羅の傀儡でござる。とお朝廷みかどの大宰府こそ筑紫都督府で、すなわち『唐の朝廷みかど』なのでござるよ。新羅に追われてこの国に亡命してきた我が百済王家は、新羅の占領政策の下で苦しい生活を余儀なくさせられてきた。しかしもう、黙っている訳にはいかない。この平城ならへ都が遷されてからというもの、新羅の横暴と百済の怨念がこの国の上空に渦巻いていたのでござるが、そろそろそれを清算せねばならない」

 敬福の言葉には、悲痛な叫びが含まれていた。この人はどのような人なのだろうと若麻呂が思っているうちにも、また真継がしゃべりだした。

「まだ、合点がいきません。敬福殿は押勝の殿とも御親交があったようですけれど、今の帝が淡路公を廃し奉る時に、敬服殿が帝の先鋒となって駅印を押勝の殿から奪い還したのではなったですか。敬福殿が新羅の傀儡である血筋の帝に弓を引きなさったのならわかりますが、その淡路公を擁立したのも押勝の殿です。それをなぜ」

 そこで永手が、一つ咳払いをした。

「今の敬福の殿のお話しにもあったように、白村江はくすきのえの戦いに破れて、唐と新羅は郭務悰かくむそうを占領統治者として送ってよこした。その郭務悰が実は百済人だったということは、ご存じあるまいな」

 普通ならここで「え?」と声をあげるだろう。だが、二人とも郭務悰かくむそうという名前自体あまり知らなかったので、ふーんという感じで聞いていた。

「百済人でありながら新羅の捕虜となり、そして唐・新羅からの軍政官としてこの日本に着任したのだが、故国の百済の滅亡を見て、そして筑紫都督府では唐・新羅側の人間として働かなければならなかったのだから、その心中を察して余りある」

「それが押勝の殿と、何の関係があるのです?」

 真継は、詰め寄らんばかりだった。敬福は初めて、笑みを漏らした。

「押勝の殿は、実に百済のことを思って下さった。それが聖武帝や光明皇后のお目付けの元で、新羅の息のかかった人びとの間で働き、そして淡路公を即位させた。彼ほど新羅と百済の間で苦しんだ人もおるまい。天平宝字四年には新羅の船を送り返しているし、百済再興のための新羅出兵まで考えていたのだ。まろが玉璽を奪い返したのは押勝殿に刃向かってではない。あくまで新羅の息のかかった流れである淡路公に対してだ。」

「今、話せる状況はこれまでだ。ひとことで言うと、もうそろそろ我が国は新羅の犬である状態を清算して、本来の護るべきものを護る。それが今回の計画の骨子だ。決して他言無用ぞ」

「だが、それだけでは我われの身を……というのは」

 と、若麻呂が恐る恐る言うと、永手が二人を見た。

「確かに、まだ迷うであろう。だが、自分の命を永らえるためではなく、今危機に瀕しているこの国のためにと、立ち上がって下さらぬか。もちろん、即答はいらぬ。よくお考えになって下され」 

 左大臣直々にそう言われたら断りきれるものではないが、言葉に甘えて考えさせてもらうということで、若麻呂と真継はその場を辞して外に出た。


 東大寺に向かう松林の中を、真継と若麻呂はほとんど無言で歩いた。まるで何かに憑かれたように二人ともうつろな目だった。それほどまでに、今聞いてきた話の衝撃は大きかった。真継が先に、ため息をついた。

「なんだか、だなあ」

「ああ、なるほどそうだったのかという気持ちと、まさかそんなことがあるものかという気持ちとが半々さ」

「これが本当のことなら、何も知らない方がよかったかなという気もするけれどな」

「でも、真実って、そういうものかもしれないな」

 空はすっかり曇ってしまった。照りつける陽射しはなくなっていたが、それでも蒸し暑かった。

 東大寺の参道へ出た。すると、いつもは参道いっぱいに広がっている庶民は、道の両脇に寄せられている。貴人の行列が通るようだ。

 すぐに南大門の方から舎人の列に続いて輿がこっちへやってくるのが、砂利の敷かれた参道の脇の人ごみに混ざって立つ若麻呂と真継の目に泊まった。二人はゆっくりと過ぎようとする行列を、身をかがめて見ていた。

「おい」

 不意に真継が、若麻呂の袖を引いた。

「見ろ」という感じで促すので若麻呂が見ていると、輿の後ろをついて歩く若い僧の姿が目に止まった。

 広名だった。すると、輿に乗っているのは道鏡らしい。

「あの野郎!」

 血相を変えて今にも飛び出そうとする真継を、若麻呂は必死で止めた。今ここで飛び出したら、その場で斬り殺されても文句は言えない。

 その時、最初は二つ三つ、大粒の雨が落ちてきたかと思うと、それは途端に激しい豪雨となってすべてのものの上に降り注いだ。人々は霧散し、行列も足を速めて通り過ぎていった。

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