確かに居心地はよかった。それでも穂積広名は魂までを、道鏡に売ってはいない。だが以前に比べたら、道鏡に対しての広名の態度は軟化していた。仕え始めた頃は道鏡に何を言われても事務的な受け答えしかしていなかったし、ましてや笑顔を見せるなどということはあり得なかった。それがここ最近変わってきたのは、道鏡の方から心を開いて広名と接していたからかもしれない。あれほど憎んでも憎みきれないほどの仇敵だったはずなのに、接してみれば案外「いい人」なのである。

「お召しでございますか」

 簀子すのこに座って広名は、部屋の中へと声をかけた。その姿はもはや昔の広名ではなく、墨染めの衣を召して剃髪した僧形そうぎょうであった。

「おお、道浄か。入れ」

 道鏡の、しわがれ声が聞こえた。道浄とは広名の法名である。身分の低い彼が太政大臣禅師の道鏡の側近として侍るには、僧となるのが最も手っ取り早い。だから道鏡は、広名に出家入道させた。

「失礼つかまつります」

 広名は、道鏡の前に進んだ。板張りの部屋の一枚だけの畳の上に道鏡は座っている。

「ちと肩を揉んでくれ。近頃、肩が凝って困る」

「は!」

 広名は道鏡の背後に廻った。剃髪した道鏡の頭は、頂上部分にそり跡はない。もし俗人なら禿はげであることが、それによって分かる。そんな頭を目の前に、広名はそっと道鏡の肩を揉んだ。今彼は、ここで道鏡の首を絞めれば殺せるかもしれない状況にある。だが、今の彼はそれをしない。

「ずいぶん、お凝りになっておられます」

「公務が激しくてな、また、皇位の継承のことですったもんだしておるのだよ」

 道鏡は声をあげて笑った。

「今日もこれから、おかしなやつに会わねばならぬ」

「おかしなやつ?」

「聖武の帝の落胤と称する者が、名乗りを挙げて現れたそうだ」

「そのようなものにまで、禅師様は直々にお会いになるのですか?」

「厄介なことに官を通してではなく、民部卿の私邸の方へ名乗って出たそうだ。省へ行ったのなら下のものが適当に処理もしてくれようが、民部卿め、直接わしの方へ持ち上げやがった。ああ、めんどう、めんどう」

「まことに聖武の帝のお胤でございましょうや。そうなると、今の帝とは御腹からではございませぬか」

「ああ、表面上はな」

 広名は、「え?」というような顔をしたが、道鏡は後ろ向きなので見えない。

「血筋など、どうにでもなるものだ。畏れ多くも帝とて、聖武の帝の御養女として皇位につかれた。スメラ家として護るべきはそのような血統ではない。大切なのは、スメラミコトの霊統じゃ」

「御養女?」

「おお、そなた、知らなんだのか? 帝は荒吐あらはばき王の王女であらせられる」

荒吐あらはばき?」

「そなた、何も知らぬのだな。おぬしらは蝦夷えみしと呼んで貶めているが、この大和とは引けも取らない立派な王国よ」

 広名の手が、一瞬止まった。何か、聞いてはいけないことを聞いてしまったかのような感覚なのだ。

「禅師様。禅師様も」

「ん?」

「いえ、何でもございません」

 広名は言いかけて止めた。道鏡も蝦夷えみしの出身であることを、広名はうすうす感づいていた。押勝の乱後の帝と道鏡の周りには,やたらと蝦夷出身の者が多かった。例えば道嶋嶋足などだが、この男は今の女帝が淡路廃帝から鈴印と玉璽を取り上げた後、押勝の子の久須麻呂がそれらを奪還しようとした際に、そうはさせまいと久須麻呂を射殺した人物である。

 どうも旧豪族層は帝や道鏡の政権をまともにあてにしていないようなので、こういった蝦夷出身者が重用されるのだろうと広名は思っていたが、理由はどうもそれだけではなさそうだった。

 だが、その日はそれ以上の話を聞くことはできなかった。

 広名の中で、疑問が渦巻く。いったい道鏡とは何ものなのか……? そして畏れ多いことだが、女帝が聖武の帝の御養女とはどういうことだろうか……?

 だが、なかなか面と向かって道鏡にそれらを尋ねることもできない。それでも広名は、手をこまねいているわけではなかった。まずは道鏡にかわいがられ、信頼されること。そうすれば道鏡も、自ら口を割るかもしれないという思惑があった。

 それからというもの広名は忠義の側近を、道鏡の前では演じた。愛想笑いも覚え、道鏡の心中をすぐに察して機敏に行動することで、次第に道鏡の信頼を得てきていることを感じはじめた。だが、すべてが彼にとって、演技であった。

 そしてその日が来た。またもや道鏡は、広名に肩をもませていた。

「あのう禅師様、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」

「何じゃ?」

 道鏡からは、気のない返事が返ってきた。

「どうして帝は、聖武の帝の御養女におなりあそばしたのですか」

 道鏡が広名を振り返って、じろりと見た。広名はしまったと、全身が寒くなる思いだった。だが、道鏡は高らかに笑いだした。

「わしのことも、知りたいのだろう」

 図星だけに、広名は何と答えていいか分からなかった。

「まあ。いい。わしは弓削を名乗って、そなたと同じ物部氏の出となっておるが、実はもう七百年以上もさかのぼるその時の、あるお方の血を引いておる。そのお方は皇位継承に破れて、北の地を目指した。北の地にはこの大大和おおやまとと匹敵する大きな王国があった。それを日髙見ひだかみの国という。決して蝦夷えみしなどという蛮国ではなく、この大和の朝廷みかどから、新羅とも対等に渡り合える国じゃ。我が祖は、その国に迎え入れられた。我が祖のみではなく、多くの出雲神族も」

 そこまで言って、道鏡ははっと口をつぐんだ。そして少し慌てたそぶりで、

「とにかく、わしはそこで荒吐王の安東丸様に仕え、その王女様の高野姫様との将来も約束されておった。ところが高野姫様が手の届かぬ所においでになるということでここへ来たのだ。その手の届かぬ所においでの方に手が届くためは、ここでは僧となるしかあるまいよ」

 道鏡は笑った。だが広名は、話がまだよくわからなかったので何も言わなかった。

 数日後、広名は弓削三位宰相と寺の廊下ですれ違った。誰あろう道鏡の弟、弓削浄人ゆげのきよひとその人である。広名の方が脇によって、畏まった。その広名をちらりと見た浄人は、立ち止まって広名を見下ろし、相好を崩した。

「道浄か。久しぶりよの」

 弓削とは血縁のある粟田氏の出の広名には、この男はよくしてくれる。もちろん広名が押勝の郎党であったことは知らないはずはないであろうが、そのような話はおくびにも出さなかった。

「は。三位宰相様にもご機嫌うるわしう」

 満足げにうなずくと、浄人はそのまま通りすぎようとした。その時、広名の中でパッとひらめいた。だからすぐに、

「あの、もし」

 と、浄人を呼びとめていた。


 薄暗い寺の一室で対座する浄人と広名であったが、広名は大きくため息をついていた。今、浄人の口から聞いた話は、あまりにも意外で畏れ多いことだった。何しろ、帝の御身上のことである。それを切り出した広名に、さすがの温厚な浄人も最初は眉をひそめた。そして次の言葉がその口から出るまでに、かなりの時間が必要だった。

「そなた、大野東人おおののあずまんどというものがいたことは存じておるな」

「はい、お名前だけは。かつての陸奥按察使兼鎮守将軍だった方でしたけど、もうお亡くなりになりましたよね」

 はっと、広名は気がついた。この目の前の弓削浄人なる人物、道鏡の弟となっているが、以前の広名ならそのままそうだと受け入れたであろう。だが、これだけ意外な世の中の真相を聞かされてきた今では、その真偽の程も分かったものではないと思う。だがその男が名前を出した大野東人という人物が、「陸奥」ということで帝や道鏡とも結びつく。

「そのもの、陸奥ではどのようないくさをしたと聞いておるか」

「はあ」

 広名が聞いているのは、この大野東人なる人物、広名が生まれるずっと前、約三十年ほど前の天平九年に五千の兵を率いていわゆる「蝦夷討伐」に向かい、奥羽山脈を横断し、かなりの苦戦の末に男勝村の蝦夷を帰順させたという。広名が聞いているのはその通りだったのでそう伝えると、浄人は目を閉じて首を横に振った。そして

「あの人は、陸奥で負けておる。大敗を喫したのだ」

 と、静かに言った。

「陸奥が負けてそのまま強引に攻略を続ければ、やがて日髙見の荒吐が一気に都に攻め寄せてくるかもしれない。そう考えたからこそ東人は和議を申し出て、和解の道を進んだ」

 たしかにそれまでは蝦夷征伐、追討と称した侵攻から、朝廷の鎮守へと方針が変わって今に至っている。そしてその和解と今の帝の即位とは大きな関係があったのだ。

 聞き終わった広名は全身が小刻みに震えていたが、だがそうとなると今までの疑問に答えを与えて、辻褄が合って納得できてしまうことも多い。

 そして、聖武の帝の御在世中に、陸奥から莫大な九百両という黄金が献ぜられたのは、広名も幼いながらに覚えている。その時期と今の帝の最初のご即位がほぼ同じ頃で一致するし、またその黄金によって一気に東大寺の大仏鋳造が進んで開眼となったのである。あの黄金は偶然陸奥で産出したのではなく、今の帝のご持参金だったのか、祝いの金か。

「もうよろしいかな。まろはこれから参内せねばならぬ」

 そう言って浄人はたちあがり、そさくさと行ってしまった。一人残された広名の胸に響いていたのは、立ち去る寸前に浄人が言った言葉であった。それは、今の帝の御即位を全力で推し進めたのは藤原氏であったのだという。それほどまでに荒吐が恐かったのか、はたまた黄金が目当てだったのか、詳しい真相は今の広名には分からなかった。


 その日の午後、道鏡は石上いそのかみの志斐氐しひてという女から聖武の帝の胤によって生まれたという男と対面した。だが、証拠が全くないということで誣罔ふもうということになり、その自称皇子は遠流となった。事件はあっさりと終わった。

 しかし、道鏡の脇に侍していた広名の目には、その名乗り出た御落胤とともに、かつての仲間である葛木若麻呂が控えている姿が映った。内心はものすごく驚いていたのだが、道鏡の手前その感情を顕わにすることもできなかった。

 若麻呂の方も広名の姿を見つけると少なからず驚いた様子でいたが、次第にその広名を見つめる目が憎悪に変わっていくのを広名は感じていた。それは当然だと思うし、すぐにでもかつての朋友に弁解したい広名だったが、それは許されるはずもなかった。

 ご落胤も若麻呂も連れ去られた後、道鏡は廻廊を歩きながら、庭に覆いかぶさるように低くたれこめた曇り空を見て、

「もうすぐ梅雨だな」

 と、広名に言った。

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