5
そんな三人のそれぞれの境遇を包み込んで時は流れ、一年半が過ぎた。
ほんのわずかな庭に、雨が降り注いでいる。灰色の空と大地を幾筋もの銀の糸が結び、庭に茶色い水溜りを作っている。その中には、無数の同心円があった。
葛木若麻呂は部屋の中から庭に向かって座り、そんな雨を見ていた。雨に香りがあることを、彼は知った。だから、雨を眺めていれば退屈さは感じないのだ。
屋敷は狭い。板張りの部屋が四つと
「よく飽きませんね」
背後で声がした。若麻呂は振り向いた。
「あ、
若麻呂にそう呼ばれた貴人は、愛相がよかった。
「まだ梅雨に入るには早すぎると思いますけど、よく降りますね」
「はい。でも、あと半月もすれば完全に梅雨ですよ」
間もなく、四月も終わろうとしている。
「梅雨が終われば夏ですか。時間がたつのは早い」
「そうですね。私がここに来てからもう二度目の夏が来るんですね」
日蔭皇子、この人こそ一年半前の押勝の乱の直後、若麻呂が山中の寺院で出会ったあの貴人だ。若麻呂が初めてこの貴人を見て高貴な人と感じた直勘は、間違ってはいなかった。
「あんまりめまぐるしく世の中が変わるので、余計に早く感じられる。この雨が世の中の嫌なこと、醜いもの、どろどろしたものを全部洗い流してくれればいいのですが」
日蔭皇子は若麻呂の隣に身をかがめ、共に雨の庭を眺めた。日蔭皇子は、帝の皇子であった。しかも、聖武の帝の皇子だったのだ。
「まろは母の身分が低いばかりに、正式な皇子の列には加えられなかったのですよ」
若麻呂がこの屋敷につれてこられても、しばらくは身分を明かしてくれなかった
話によると、聖武の帝がまだ親王だった頃に、
もちろん、知ったからとて皇族に戻れるはずもなく、宮廷からは何の生活支援もない。
そこで、そのことを耳にした当時の藤原仲麻呂が引き取って面倒を見ていた。引き取ったといってもその頃の仲麻呂の屋敷には後に今の帝となる大炊王がいらっしゃったので同居というわけにもいかず、それでこの屋敷を仲麻呂は皇子に提供した。
それまでは庶民として生活していただけに粗末な
だが、そうはなっても自分が帝の皇子だなどということは今ひとつ実感がわかなかったこの人は、ここに来てからもそのようなことは意識もせずに暮らしていた。だが、事態は変わった。これまでの生活を援助してくれていた押勝は朝敵となって、戦場で果てた。だから押勝の挙兵と同時に、あの山林の寺院に身を隠したのである。そうなると、山中の寺院で追捕の兵に捕らわれそうになった若麻呂たちを、この人が助けようとしたのは全く当然のことであった。しかしこのような存在について、若麻呂は押勝の在世中には何一つ聞かされていなかった。
若麻呂を連れて都に戻った後、それまでの帝は廃された。つまり、帝であることを解雇されたという前代未聞の出来事であるが、解雇したのは当然のこと帝以上に権力を掌中にしていた上皇、称徳孝謙帝である。
さらに驚くべきことに、帝は淡路に配流になった。その言い渡しは、なんと下着と裸足のまま称徳孝謙帝の前に引き出されてなされたという。
一天万乗の君から、一転して流人である。上皇の目には帝はもはや帝ではなく、押勝の残党としてしか映っていなかったようだ。それほどまでに、上皇は押勝を嫌悪していた。
「このようなことが、あっていいものだろうか」
その知らせに接した日蔭皇子は普段の温厚な人柄とは正反対に、珍しく激怒した。それを、若麻呂は目撃している。若麻呂がここに来てから、まだひと月もたっていない頃の出来事だった。
「帝をお捕らえ申し上げたというだけではなく、山村王がその時に読んだ上皇の詔には、とんでもない内容があったのだ」
それは……、
「掛けまくも畏き
というものだそうだ。
本当に聖武の帝がこのような詔勅のことを云われたのかどうか、まずそれが疑問である。これでは、皇族としての秩序が保てない。
上皇の詔ではまた、帝も押勝もまるで極悪非道の逆賊であるかのような表現をしている。しかしその真偽はおいておいても、皇子は聞いて激怒していた。そしてその時に皇子は若麻呂に、押勝が挙兵の直前にその反乱の真意を自分にひそかに語ってくれたことを告げたが、その内容まではその時には話してくれなかった。
時が来たらいずれということで、いくら押勝の側近だった男でも、知り合ってひと月のものには容易に打ち明けられないほど、それは途方もなく重大な内容だったらしい。
淡路廃帝のあとを受けて即位したのは、なんと上皇自身であった。つまり、帝の地位に返り咲いたのである。これを
退位したあと出家入道していた上皇であったが、尼僧のまま皇位につくわけにもいかないので、還俗しての即位だった。ちなみに、最初の即位を孝謙天皇、重祚した後を称徳天皇と後世では分けた
さて、廃帝は上皇とすら呼ばれることなく、帝から親王に戻され、一年後に淡路の国で憤死するが、謚号さえ贈られることはなかった。淡路廃帝、もしくは淡路公が淳仁天皇と呼ばれるのは、実に千百年余りも後世のことである。
翌年は年が明けてすぐ、天平神護と改元された。改元は必ずしも帝の代替わりのみではないが、代替わりの時はたいてい改元される。だが、淡路廃帝の即位の時は、それもなかったことが人々の記憶に新しい。
その頃から日蔭皇子は、所憚らずに時の帝となった称徳孝謙帝の
そうこうしているうちに、あの押勝の乱からちょうど一年余りたった頃、大臣禅師道鏡はついに太政大臣禅師となった。僧形であるがゆえに「禅師」とついてはいるが、実質上は太政大臣である。人臣にして初めて太政大臣になったのが押勝であったが、それが僧の身で、しかも弓削氏という物部の残党のような家柄から出たということは驚天動地の出来事だったのである。
「実は今日は、お話があります」
翌天平神護二年の庭先の初夏の雨を見ていた若麻呂の背後から、日蔭皇子はそう呼びかけた。
「あらたまって何でしょうか」
そう問い駆ける若麻呂に、皇子は部屋の中へ戻るように促した。
二人は対座した。
「もはや、傍観はできませぬ」
それが、開口一番に皇子の口から出た言葉だった。
「今の帝は道鏡という得体の知れない怪僧と組んで、
「傍観できないとおっしゃいましたが」
「いよいよ時が来たと思うのです」
皇子の言葉の真意が若麻呂にはすぐにのみ込めなかったが、何かが始まるという予感がしたので思わず息をのんだ。
「今だからこそ、そして若麻呂殿だからこそお話ししますが」
おそらく自分より二十は若いであろう若麻呂にも、この皇子は若麻呂が押勝の側近だったということだけで下には置かない話し方をする。
「押勝殿はまろに、正式の皇子として宮中に列するように何度も勧めて下さいました。いきなりの親王宣下は厳しいとしても、あのお方ならまろにせめて王の称号を名乗らせてくれるお力はあったであろうと思います」
そうは言うが、帝の皇子ならば母の身分が低くても、場合によっては親王宣下も不可能ではない。
「しかし、まろはそれを頑なに拒んできたのです。雲の上の人となるよりは、気楽な
皇子は目を伏せ、少し声を低くして唸るようにそう言った。若麻呂はもはや、挙兵直前にこの皇子に打ち明けられた押勝の真意というのを知りたくて仕方がなかった。だがまたもや言い出せずにいると、いつになく饒舌に皇子はしゃべり続けた。
「壮大な志をお持ちだった押勝殿も、もうこの世におられません。今や情勢は変わったのです。押勝殿のそのご真意を思い出すにつけ、いつまでもこんなところに隠れて日蔭の生活をしている訳にはいかないと思うのです。押勝殿のご遺志を継げるのはまろしかないのではと、ついに決断致しました」
「何か、勝算はおありなのでしょうか」
やっと若麻呂が口をはさんだ。
「いいえ」
と、皇子は言った。
「ありませんが、まずは名乗りを上げて、今さらですが親王宣下を頂く。それが第一歩ではないですか」
言うのは簡単だが、かなり厳しい道だろうと若麻呂は思う。
「いつまでも日蔭皇子では、何もできませんからね」
皇子はそう言って、少し笑った。若麻呂は大きくうなずいたが、返す言葉は見つからなかった。
「押勝殿は、実に皇道に忠義なお方だったのだ。我が父帝の聖武帝は今の称徳孝謙の帝を御養女にせざるを得ず、また皇位をお譲りになることも余儀なくされましたけど、光明皇太后が目を光らせてよくその帝を牽制されていました。その光明皇太后様がいちばんご信頼なさっていたのが、ご自分の甥御の押勝殿です。そして皇道を守るために、押勝殿は女帝を退けて、今や淡路公などとお呼びされている大炊王殿を皇位につけるという素晴らしい功績を積まれたのです。これは、我が
そこまで一気にしゃべると、皇子は一息ついた。だが、若麻呂は途轍もない重大なことを今耳にしたような気がした。皇子があまりにもさらりと言ったので、何気なく聞いていたのなら聞き逃してされしまいそうだった。だから、カッと目を見開いたまま、言葉がなかった。体が小刻みに震えだし初めている。そして、押勝の挙兵の真意とはこのことだったのかと思うが、あまりにも話が大きすぎて、意外すぎて、具体的な詳しいことは皆目見当もつかなかった。
だが、一つだけ若麻呂が驚きのあまり声が出なかった事実を聞かされた。
――称徳孝謙の帝は、聖武の帝の実の娘ではなく御養女……
そうなると確かに、血統を重んじる万世一系の皇室では、由々しき事態である。だが養女とはいっても、同じ皇族から迎えた養女なら何の問題もない。しかしもしそうなら、天下にもそう公言されるはずだ。ところが、若麻呂さえ、今の今まで称徳孝謙の帝は聖武の帝の実の御娘と信じて疑わなかった。若麻呂だけでなく、誰もがそう思っているはずだ。
だがそれが違うとなると、皇子は腹違いの姉である帝の悪口をなぜそんなに言うのだろうかと今まで疑問だったが、腹違いどころか皇子と帝は種も違う全くの他人だということになる。そんなこんなのいろんなことがあわただしく若麻呂の頭の中をぐるぐる廻っていたが、皇子は構わずに話し続けた。
「それなのに、正真正銘天武の帝のお血筋の帝を淡路に追放申し上げ、再びご自分が返り咲き、しかも道鏡というおかしげな坊主を侍らせている。これが世の末でなくて何でありましょうぞ」
くるりと、皇子は若麻呂の方を見た。
「だからまろは、押勝殿のご遺志を継ぎ申す。まろの中に流れている尊い血が、この国を救い正す力となりましょうぞ。あなたも押勝殿の片腕と言われた方なら、お分かり下さるでしょね」
頭の中が混乱している若麻呂は、浮かない顔でとりあえずは力なくうなずいた。
「ともに力を合わせて下さるのですね。かたじけのう存じます。今の状況は、我が神州の恥ともいえましょう。新羅などもこの状況を知ったら、なんと見るか」
立て板のようにしゃべる皇子に、若麻呂は自分の疑問をぶつけるきっかけを失した。静かな時間がほんの少しだけ部屋の中を流れた。
「雨があがったようですね」
と、皇子はつぶやいた。
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