4
国府の兵に捕獲された穂積広名は、薄暗い部屋で目が覚めた。光は高い所にある小窓から射すだけで、板張りだが窓と反対側の壁の一方は木の格子になっていた。そこは部屋中にかび臭い匂いが漂っている座敷牢だった。
上半身を起こした広名は、苦痛に顔をゆがめた。
昨日の拷問では、広名は結局口を割らなかった。断固、山中で賊に襲われた旅人であると主張した。
「おい、出ろ!」
役人の荒々しい声がした。今日も拷問が始まろうとしている。役所の一室で上半身裸にされた広名は、柱に縛り付けられ、鞭で打たれた。意識が消えかかると、冷水をかけられる。時に九月の末、傷口に冷水は斬られるよりも痛い。さらに胸を打たれて前にのけぞろうとしたが、後ろ手を柱に縛られているのでそれもできない。うめきながら広名は、口から血を吐いた。
「疲れた。交代!」
広名を打っていた役人は、ほかのものと交代した。
「よし、俺が絶対に吐かせてやる!」
交代した男は前にも増して、激しく広名を打った。もはや全身は痛みを通り越し、すべての感覚が消え失せていた。ただ、流れる血が肌を這うのが、気持ち悪かった。寒くて狭い一室に、こうして鞭の音と広名のうめき声だけが響き続けた。
やがて役人の方も肩で息をしながら、鞭を降ろした。疲れたらしい。
「しぶといやつだ。早く吐いてしまえば、苦しみも少なくて済むのにな。どうせ殺されることは決まっているのだから」
役人がそうつぶやくのを、広名は微かな意識の中で聞いた。それから今度は役人が三人がかりで、広名を逆さに吊った。そして傷口に塩をこすりつけ始めた。これにはたまらなかった。麻痺していた感覚は一気に戻り、激痛が走る。広名は何度も絶叫した。全身の筋肉が
「お、押勝の殿の」
広名の口が動いた。
「残党だ! 早く殺せ!」
十月に入って、空も白っぽくなってきた。官人の服も冬ものに換わり、もはや暦の上では冬になったことを示していた。特に今日は風が強い。あの湖上での最後の戦いを思わせるような強風だ。空に雲はない。
都を北に外れたこの荒野からは、奈良山、若草山、生駒山がぐるりと周りを囲んでいる様子が見える。山はわずかに紅葉を始めていた。
短い間に世の中も自分の周囲もめまぐるしく変わったが、あの都の周りの山々だけは何ら変わることなく都を見下ろしてきた。
処刑人たちは、すでに準備を整えていた。
その前には大きな穴が掘られていた。これから自分の首が転がり落ちる穴だ。それを斜めから日ざしが照らしていた。そんな光景に、広名の心はいやに落ち着いていた。落ち着いていたというよりも、すべてが諦観の中にあった。これも運命、これも自分の人生。それも今、終ろうとしている。この激しい時代の流れの中でもはや自分が生きるすべはどうしても見つけ得ようもなかったし、またこの運命に逆らうことがいかに不可能であるかももう彼は
処刑人は、太刀を大きく振り上げた。周りを囲んでいる見物衆たちも、息をのんだ。
だが、なかなか太刀は振り下ろされなかった。そのうち気配で、処刑人は太刀を納めてしまったことを広名は知った。見物の人々は、ざわめき始めた。
何が起こったのかと、広名は恐る恐る顔を上げた。そして首だけひねって後ろを見ると、処刑人とは違う別の役人が太刀を納めた処刑人に何か耳打ちをしていた。そしてさらに様子を伺うと、目の前の少し遠い所に先ほどはなかった
やがて、輿から人が降りてきた。僧侶だった。ただの僧侶ではなくかなり身分の高そうな僧で、それがゆっくりと広名のそばに来た。
「大臣禅師、道鏡様である」
役人の一人が、大声を上げた。広名は、全身が縮こまる思いだった。自分のかつての主人の宿敵で、今の帝と形式的には上皇である称徳孝謙帝とが不仲になったのも、この僧侶のせいでもあった。今、役人は「大臣禅師」という称号で道鏡を呼んだ。そんな称号は、広名は初めて聞いた。それもそのはずで、道鏡は称徳孝謙帝からこの称号をもらったばかりなのだ。
道鏡は、黙って広名を見下ろした、そして、役人に何かを指示して去っていった。そして道鏡が乗った輿が持ち上げられ、ゆっくりと行列は動きだした。
広名は役人に抱え込むようにされて、立ち上がらされた。どうやら、自分は殺されないらしいと、何となく広名は感じていた。
「また、大臣禅師様の気まぐれが始まった」
役人は広名を歩かせながら、そう愚痴ともつかぬ言葉をつぶやいていた。
広名は翌日、法華寺の
「そなたの命を助けたのは、わしだ」
と、まず道鏡は言った。広名は下げたくはなかったが仕方なく頭を下げたまま、黙っていた。そして、なぜ一気に殺してくれないのかという疑惑が、胸の中で渦巻いていた。
「そなた、わしに仕えぬか」
意外な言葉に一瞬ハッと道鏡を見上げたが、すぐに我に返って目を背けた。いくら負け犬だからとて、敵に尻尾を振る訳にはいかない。しかも、道鏡の突然の言い出しにその真意を量りかね、それだけに憤怒さえわいてきた。
「そなた、若いのう。いくつになる?」
しばらく間をおいてから、
「十八」
と、ぶっきらぼうに広名は答えた。その様子に、まるでやんちゃな子供を見る大人のように道鏡は笑った。それが余計に広名を激憤させた。だが今は目を背けて黙るということでしか、その激憤を態度に表せ得なかった。
「あたら十八の若い命、散らすにはもったいない。聞けばそなたは押勝めの屋敷の、三勇士の一人というではないか」
まだ広名は、黙っていた。
「そなたの才覚がほしい。わしも仏に仕える身、無益な殺生はしたくない。押勝の子はことごとく斬殺したが、
そのほかの子はすべて殺しておいてよく言うと、広名は思った。押勝の妻子と従者合わせて三十四人も斬殺しておいて、み仏に仕える身が聞いてあきれる。だがどうも自分も、その道鏡からは命を取られないらしい。
「それにそなた、穂積
道鏡は高らかに笑い、その笑いをさっと納めて、
「三日の猶予をやろう」
と、言った。このことは、三日後に道鏡に仕えるという返事をしなければ、死が待っているということを意味する。宿敵道鏡に仕えるか死か二つに一つ、選ぶほかなき広名であった。繰り返すが、まだ後世の武士道というものは確立していない。つまり、敵に寝返るよりは潔く死を選ぶという気風も、まだない時代である。
広名は目を挙げて、道鏡の姿を見てみた。
「いいことを教えてやろう。我が仕える称徳孝謙の帝の勅により、今の帝はここ数日中には退位させられて、そして遠島だ」
時の帝を遠島、すなわち流刑になど、道鏡は世にも恐ろしいことを淡々と言う。広名は耳を疑った。いくら上皇といえども、在位中の帝を遠島になどできるものだろうか。しかも、次の帝はどうなるのだろう。確か今の帝はまだ、皇太子をお立てになってはおられなかったはずだ。そんな疑問が広名の頭をかすめているうちに、帝を遠島という言葉を最後に道鏡は寺の建物の奥へと入って行った。
牢へと戻された広名は寝転がって天井裏を見ながら考えていたが、道鏡のあの顔と笑い声が耳にこびりついてはなれない。
そして考えているうちに、ある閃きを彼は得た。
自分はあの刑場で一度死んだ身。ここは道鏡に仕えると見せかけて命をもらい、敵の中枢に入り込むのも一つの手ではないか……。あくまで形だけで、心まで売る必要はないのだ。
そんな大それたことが自分にできるかとも思うが、帝が御退位あそばされる、いや、させられなさるということは、これで押勝の時代の完全な終焉を意味する。今は敵でも何でも身を寄せ、あの道鏡という怪僧の正体をあばき、また兼ねてから疑問に思っていたこと、称徳孝謙帝についての謎も解く、そのためには道鏡に仕えるしかほかに手はないようであった。
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