国府の兵たちが去った方角は、真継には見当がついていた。いや、それは見当ではなく、国府の兵なのだから国府に帰ったに決まっていて、広名もそこにいると真継は決め付けていた。それが分かっても、まず難題は、どうやって山を降りるかである。登ってきた時は、道なき道を這い登ってきた。だが、山の上の人々が里に降りる時のちゃんとした道があるはずだと思っていると、果たして道はあった。しかも、国府の兵たちがここを通った形跡もある。

 次の難題は、勢多の橋である。国府はここからだと、琵琶湖から唯一流れ出る勢多川の向こうにある。だがその川にかかる勢多の橋は、押勝の挙兵と同時に焼き落とされていた。国府の兵たちはそれでも舟で渡ってきたのだろうが、真継に舟はない。川幅が広い割には流れも急な勢多川は、舟がないと渡れない。泳ぐには危険すぎる。まあ、何となるだろうと、真継はとにかく山を降りることにした。

 道からは琵琶湖が見え隠れするが、歩けば歩いた分だけ高度が下がっていくことを、その琵琶湖の眺めで確認することができた。時折、雀か何かの小鳥の声が聞こえ、それが余計に静けさを強調する。誰もいない道を歩いていると、なぜか胸が高まってくるのを彼は感じた。薄暗い木立の中へ陽光が目に見える光の筋を何本かつき立てていたりして、もうかなり日が昇ったことを示していた。

 真継は歩を速めた。急がねば、国府に捕らえられた広名は都に護送されるだろう。しかし、いかにして国府から広名を救い出すかという勝算は、彼には全くない。

 その時である。

 ばさっと音がして、頭上から何かが彼に覆い被さってきた。

「わ、何だ!」

 全身が締め付けられる。それは巨大な網だった。もがけばもがくほど、網はまとわりついてくる。真継は咄嗟とっさには自分に起こった状況を理解できずにいると、すぐに網ごと宙に浮き、木の枝に吊るし上げられた。

「しまった」

 と、彼は思った。国府の兵に捕らえられた。そう彼は瞬時に判断した。だが、網の下によってきた五、六人の男は、国府の兵ではなかった。みすぼらしいなりに、乱れた髪、人相の悪い顔つき、そんな男たちだ。中には顔に、五寸ほどの傷のある者もいる。

 山賊だ。やつらはこうして罠を仕掛けて、旅人を餌食にする。

「なんだ、こらあ。みすぼらしい小せがれだぜ」

 山賊の中の一人が言い放ち、地面に唾を吐きつけた。

「これじゃあ、金目の物は持っていそうもないな」

「ただのきこりかあ、こりゃ?」

 その間も、真継は唸りながらもがいていた。

「おい、どうする? こいつ」

 一人が棒で、真継を突付いた。真継はあらん限りの声をあげた。

「出せ! 俺は財宝なんか持ってない。俺は急いでるんだよ。こんな所で捕まっている暇はないんだ! 出せ! 下ろせ!」

 さらにもがいたが、もがけばもがくほど身動きが取れなくなる。

「見ろよ。樵どころか、こいつはあ猿だぜ」

 山賊たちは一斉に笑うと、また真継を突付いた。

「下がれ! 下郎!」

 と、真継は怒鳴った。

「俺は従七位の位をお上から頂戴している、粟田朝臣あわたのあそん真継だぞ!」

「ふん、官人だとか何とか言っても、こんなぼろ一枚でしかもこんな山の中を一人でうろつくなんて、おかしな話だ」

「おい、待てよ」

 一人の山賊が、仲間たちを止めた。

「もしかしてこいつ、この前の湖畔でのおおいくさの敗残兵かもしれないぜ」

 真継の顔からさっと血の気が引いた。そして、全身が硬直した。

「おい、顔色が変わった。こりゃあ、間違いないぜ」

「どうする?」

「とにかく、おかしらの所に連れて行こう」

 網から下ろされた真継は、すぐに縄をかけられようとした。だが、黙って捕縛されるような彼ではない。背後から押さえていた男の鳩尾みぞおちに、身をよじってから右こぶしを入れ、右側の男は蹴り上げた。

「野郎! やりやがったな! やっちまえ!」

 山賊たちの叫び声を後に、真継は道を山の下に向かって走り出した。すぐに山賊は、

「待ちやがれ!」

 という声とともに追ってくる。そして走りながら真継は、肩に衝撃と激痛を覚えた。太い丸太で殴られたようだ。それでもくるりと向きを変えた真継は素手でその丸太を受け止め、ねじり上げて奪うと左前方からの別の丸太での攻撃をかわした。がちっと、丸太同士がぶつかり合う音がした。

「しつこいやつらだな」

 真継が舌打ちした時である。後頭部をいきなり強打された。頭がよろめいて地面に転倒した真継は腹部に蹴りを入れられ、意識は次第に薄れていった。


 気がついた時は、太陽はまだ上空にあった。

「お、おかしら、気がつきましたぜ」

 真継の顔をのぞきこむようにしていた男が、真継とは反対の方を振り向いて叫んだ。真継は、がんじがらめに縛り上げられている。

 薄暗い森の中のちょっとした広場は、冷たい空気が漂っていた。そこは崖の下で、崖には大きな穴が開いており、その穴の前に大きな体格の男が座っていた。真継は縛られたまま無理やり体を引き起こされて、その体格の大きな男の前に座らせられた。その体格のいい男が、かしらのようだ。

「おぬし、やはり藤原恵美押勝の残党であろう」

 山賊でもやはりかしらともなると、押勝の名は知っているらしい。真継は口を堅く結び、首を横へ回して視線をそらした。

「まあ、いい。言わずとも分かっておる。手下どもをさんざん痛めつけてくれたそうだが、あの芸当は庶民のものではないしな」

 太くて、低い声だった。

「おかしら

 真継の脇にいた男が、かしらを見た。

「やはりおかみに引き渡して、褒美をもらいますか」

 かしらは声をあげて笑った。

「ばかな。俺らみたいな連中が、あいそれとお上に頭を下げられるか。褒美だってたかが知れている。それより」

 かしらは、真継の方へ身を乗り出した。

「俺たちの仲間に入らぬか?」

 あまりにも唐突な言葉に一瞬真継は驚いてかしらを見たが、すぐにまた首を横に向けたまま答えなかった。しばらくの沈黙の後、

「まあ、いい。牢にぶちこんでおけ」

 かしらは脇にいた男に言いつけた。

「いいか。もしいい返事をするのならば、面白いことを教えてやるぞ」

 かしらはそれだけ言うと立ち上がってほら穴の中へと入り、真継は引き立てられて崖に掘られた土牢に放り込まれた。


 すっかり暗くなってから、真継はまず縛られている縄をほどこうとした。だが気持ちばかりが焦り、もがいても縄は解ける気配さえなかった。そこで、土壁から出ている岩にこすりつけてみた。

 だいぶこすってから、縄はようやく切れた。寒いはずの土牢の中で、真継はひたいの汗をぬぐった。

 今度は、入り口の木の格子だ。これは、何度か揺さぶるうちにすぐに壊れた。

 もうすっかり暗くなっている外へと出た。山賊たちは篝火を焚き、酒盛りをしている声が聞こえる。朝から何も食べていない真継はこの時初めて空腹を覚えたが、今はそれどころではない。闇にまぎれて抜け出そうとしたが、

「おおっ、あいつ、よくも」

 と、いう叫び声が焚き火の方から聞こえた。

 見つかってしまった。

 たちまち山賊たちに取り囲まれた真継だが、最初に飛び掛ってきた男の鳩尾みぞおちに一発殴りこみ、そのまま間後ろを向いて闇の中へ駆け込んだ。山賊たちは、手に松明たいまつを持って追ってくる。

 しばらく走るとうまやがあるのが、ようやく昇り始めた下弦の月に淡く照らされて見えた。中に馬はいるようだ。それを拝借しようと厩に駆け込もうとした時、巨大な黒い影がその前に立ちはばかった。

「馬で逃げようたって、そうはいかぬ」

 その太くて低い声は、まぎれもなくかしらだった。真継はかしらにも素手で殴りかかった。何しろ彼は今や、武器は持っていなかった。剣すらもないのである。振り上げた腕をすごい力でつかまれ、そのまま地面にねじ伏せられた。やはり空腹と疲労ゆえか、力もあまり出ない。

「おもしろいことを教えてやるって言っただろ」

「おれには時間がないんだ!」

 初めて真継は、口を開いた。かしらは顔は暗くて見えないが、その声から薄ら笑いをしているようだった。

「急いでも無駄だ。お前の仲間はもう、都に送られた」

「なにっ!」

 真継は、目を見開いた。

「押勝はもう、あの戦さの翌日にはあの戦場の砂州で斬られた」

 それはもう、予想していたことだ。

「都では押勝の家族やお前のような従者が、合わせて三十七人も斬られたと聞いている。あの娘のあずま姫など、千人は越すであろう兵士に回されたそうだ」

 真継は背筋が寒くなった。東子と言えば押勝の娘の中でも特に美貌で知られ、従者たちの憧れの的でもあった。だがかつて唐僧鑑真が東子と会った際に、盲目ながらも心眼を開き、その相には千人の男と交わると出ていると言ったことがあった。誰もがばかばかしいと本気にしておらず、こういう形で実現するとは夢にも思っていなかった。その東子の気持ちを思うと、真継は目が熱くなる想いだった。そこでまた全身を硬直させ、口をきつく結んだ。

「いいか、面白いことを教えてやると言っただろう。俺たちは、ただの山賊ではない。大っぴらに身分を明かせないものでな、俺たちの一族は戸籍にも入っていないし、班田ももらっていない。戸籍には入れないそういう血筋でな」

 この山賊、何を言い出すのだろうと真継の関心がほんの少し向いた。

「そういう立場にあるだけに、都のおおやけの裏側まで丸見えよ。普通の官人は知らないことも知っている。この国の複雑な仕組みや隠された歴史こしかたのこともな。そんな俺たちに加わっておいた方が、お前も得だぞ」

 真継はあたまが混乱するのを感じながらも、言葉を殺してかしらの話に耳を傾けた。

「今この国は、とんでもない局面に至っている。俺たちは、それを知っている。あの道鏡とかいう坊主の正体も知っている。そして阿倍の帝のこともな」

 阿倍の帝とは、かつて阿倍内親王と呼ばれていた称徳孝謙帝のことだ。このような話が、確かにただの山賊のかしらから出るとは思われない。だが、何を知っているというのか……。

「おまえが仕えていた押勝も、それを知っていた。知っていたからこそ、押勝は弓を引いたのだ」

 そこまで来ると、半信半疑だ。そもそも真継はこれまで、そのような話を当の押勝から直接聞いたことはない。だが確かに、これまでのことを考えると「なぜ?」と感じる押勝の言動も多かった。だから「全疑」ではなく、「半信」があったのである。

「おまえさえその気になれば、明日、俺たちの村につれて行こう。山賊の村ではないぞ。俺たちの一族の良民が暮らしている。良民とはいっても、戸籍上の良民ではないがな。俺たちとて、山賊なのは世を欺く仮の姿なんだ。普通なら、おまえたちのようなものは絶対に行くことのできない村だ」

 しばらく沈黙があった。

「いいか。どうせおまえがここを抜け出してとぼとぼ都に向かったとしても、すぐにとらえられて殺されるのが落ちだ。俺たちといっしょにいた方が、安全だぞ」

 かなり時間が過ぎてから、真継はようやく低い声で言った。

「分かった。言う通りにしよう」

「よう言ってくれた」

 かしらは笑みを含んだような声で言うと、真継を押さえつけていた腕の力が緩んだ。

 真継は元の土牢に戻されたがもはや縄で縛られてはおらず、入り口の格子も壊れたままで、その上食事と酒までもが与えられた。


 翌朝、かしらは早速真継を連れ出し、二人だけでどんどん山の上の方にと歩いて行った。ほとんど獣道を歩くのだが、かしらは慣れた足取りでまるで平坦な普通の道を歩いているのと同じような速さでどんどん山を登るので、真継はついていくのがやっとだった。

 自然とそこに会話など生じるはずもなく、ただただ無言での登山だった。時折かしらは真継のために休憩をしてくれた、その時のかしらの顔はまるで昨日とは別人で優しく、笑顔すら見せることもあった。

 かれこれもう半日以上も、そうした行程が続いた。山を登りきってその向こう側に出ても平坦な土地の人里があるわけでもなく、さらには別の山が次々と覆い重なる山地が続いていた。

 そして幾つ目かの山の頂上近くまで登ったであろう時に、かしらは振り向いて、

「もうすぐだぞ」

 と、言った。

 果たして真継が息を切らしてかしらの巨大な背中だけを見ながらやっとの思いでついていくと、パッと視界が開けた。そこに平らな土地があり、村落があったのである。

 村落といっても真継が知っているような庶民の村とは、様相がかなり違っていた。まず、農村によくあるような竪穴式の藁を円錐状に積んだ民家も、木造の小屋も一切見当たらなかった。それでいて村落であるといえるのは、やはり人々がそこに住んでいたからだ。

 その住居は真継にとって初めて見るもので、二本の木を合掌形に組み、それがふた組み、そのふた組みの合掌形の柱の頂点と頂点の間に棟木を横たえさせ、そこに布をかぶせている。いわば三角形の天幕だ。そのような三角の布の波がかなりの数ひしめきあっていて、真継にとってはなんとも不思議な、異様な光景だった。そしてもう一つ異様なのは、普通は村というものは水田に囲まれているものだが、ここは山の上でもあり、水田は全く見当たらなかった。どこか神仙の住む異界に迷い込んでしまったのではないかと、そんなさ感覚さえある。

 そんな天幕の間を多くの人々が行きかっており、女子供も多い。彼らはかしらを見ると親しげに笑って挨拶を交わすのであった。ここでは、かしらは山賊の親玉などとは考えられておらず、同じ村の仲間というような感じで人々は接している。

「驚いたろう」

 笑いながら振り返って、かしらは真継に言った。真継は、あいまいな返事しかできなかった。

「ここが、俺たち、山の民の村だ。ここにいるものたちは、皆戸籍には入っていない」

 戸籍に入っていないということは、班田収受の対象外ということになる。そうなると過酷な租庸調なども課せられずに自由に生きられるわけだが、その反面で生活のための収入みいりが一切ないということになる。こんな人里離れた山奥に村があって、それでも彼らは生きている。まず真継は、それが不思議だった。だが、ここに初めて来る真継がそのような疑問を持つであろうことは、かしらはとうに察していた。

「ここでは、自給自足なんだよ」

 と、笑ってかしらは言う。

 そして、すぐ近くの一つの天幕をのぞき、中にいた人と愛想よく笑いながらひと言ふた言会話をした後、真継にその中を見せた。中にいたみすぼらしい服装の男は、しきりに何かを作っているようだった。それは竹を材料にしたさまざまな道具で、天幕の中は完成品が所狭しと並んでいた。この竹細工が、この村の生活源だという。完成品を定期的に一般の人々の村落まで運び、そこで米や食料と交換してくるということだ。

 つまり、この村の人々は、全く農耕をしていない。一般庶民即農民という既成概念は、ここでもろくも崩れてしまう。

 だが次の疑問は、戸籍に入っていないと簡単にいっても、戸籍とは朝廷が作る強制的な人民把握である。何しろ大化の改新この方、すべての人民も土地も、公地公民で朝廷のものとなったはずだからである。だが、その戸籍に入るのを拒否しているということは、朝廷に表立って反逆しているわけではないにしろ、水面下での反逆者、いわば大和の王権に「まつろわぬ人々」ということになる。蝦夷えみしならともかく、都に程近いこんな山中にも「まつろわぬ人々」がいるなどと、真継は今まで考えたこともなかった。朝廷はすべての人民おおみたからを、一人残らず掌握していると思い込んでいたのだ。

「こんなところに、そういった人々がいたなんて」

 初めて真継は、自分からかしらに声をかけた。

「ここだけじゃないぞ」

 かしらは笑った。

「この大八洲おおやしまぐに全体の山奥には、同じような人々の村が五万とある」

 真継は今までの自分が、いかに世間を知らなかったのかということを痛感させられた想いだった。だから、

「知らなかった」

 とだけ、ぽつんとつぶやいた。それを聞いたかしらはまた笑った。

「恥じることはない。ほとんどの人は、官人であっても、こういう山の民の存在は知るまい。ただ、誤解しないでほしいのは、俺がいくら山賊のかしらだからって、ここにいる人たちは山賊ではないぞ。皆、まじめな生業なりわいを通して生活をしているんだ」

「でもなぜここに俺を?」

 かしらは黙って、真継を群れの中央の一つの天幕につれていった。その中には、老人が一人座っていた。

「このユサバリのムレコカミだ」

 そう言われても、真継にとってはこれもまた初めて耳にするような知らない単語であった。

「何でも聞きたいことを聞け」

 と、かしらは真継に言ってくれた。ムレコカミとは村長というような意味らしいことはこの後の会話で追々分かっていったが、最初はかしらと愛想よく話していたその老人も、背後にいるよそ者の真継の顔を見て警戒心をあらわにした。かしらが笑いながら、心配いらない旨をムレコカミに伝えていた。その言葉は唐土やからの言葉のような全く違う言語ではなく、この国の言葉ではあるが、ところどころに入る意味不明の単語のために、真継には何を言っているのかよく分からなかった。

 思い切って真継は、天幕をのぞきこむ形で老人に、

「あなた方はどういう方たちなのですか?」

 と、聞いた。

「ヤシガサらは平城なら朝廷みかどよりも、ずっとずっと前からここにいる。饒速日命にぎはやひのみこと様の流れじゃ。磐余彦いわれひこのニンノさんよりもずっと前から、この土地を支配しておった」

 なるほどと、真継は少しだけ納得した。

 饒速日命にぎはやひのみことといえばかつて天孫降臨よりも前に高天原たかあまはらより下った神で、この大和地方に勢力を張っていたが、磐余彦いわれひこのみこと、即ち神武天皇の東征では磐余彦に抵抗したが、後に帰順したことになっている。

 実際はそれを潔しとせず、今もこうして伝統を護って生活している人々なのだと、真継は一種の感慨さえ覚えた。だが、先ほどの「なぜ自分をここに?」という問いには、答えをまだしてくれていない。

「ムレコカミさんよ、道鏡の話でもしてやってくれ」

 かしらがムレコカミの老人に言うと、今度は真継の方が耳を一瞬そばだてた。

 道鏡と言えば、自分の主人の押勝を追いやった張本人である。後世でいうなら、いわば主君のかたきである。だが、その出自にしても謎が多すぎる。一介の僧侶が時の帝から寵愛を受けてあれよあれよという間に一気に位が上り、今や孝謙の帝とほぼ一心同体といえるくらいになっている。藤原恵美押勝は、その体制に我慢ならずに兵を挙げたともいえる。

「この方は?」

 と、今度はムレコカミの老人の方が、不審そうに真継のことをかしらに聞いた。

「この人は、間違いのない人だ。俺が保障するから」

 そう言われて、真継はくすぐったくもあった。

「そうかい。あんたさんがそういうなら、間違いない人だ。それで、道鏡のことというが、何が聞きたいのかね?」

「はい。いったいその正体は何ものなのですか?」

 真継は直接、老人に尋ねた。

「河内の弓削ゆげの人だ。だから、ヤシガサら山のモンとは出自が同じだ」

「と、言われますと?」

「弓削といえば物部もののべの一族でな、そもそもが饒速日命にぎはやひのみこと様のご子孫が物部ということになっておる。その物部の流れの一族が、弓削じゃ」

「では道鏡は、皆さんと同じようにこういった山奥で生活していたのですか?」

「いや、そういうわけではないがな。出自が同じというだけで、ヤシガサらの仲間ではない。そもそもヤシガサらテンパモンは、朝廷にまつろわぬのが伝統じゃ。今の帝につながる天孫族よりも前に、饒速日命にぎはやひのみこと様はこの地をべておられた。だから、あとから来た天孫族などに頭を下げるわけにはいかぬ。それを、帝の御寵愛を受けて位を極めておる坊主など、ヤシガサらの仲間ではないわい」

「しかし道鏡はどうやって、帝に取り入ったのでしょうか」

 無論、帝とは今上帝ではなく、孝謙の女帝のことである。

「よほど神通力が効いたのであろう。帝の御病も、ひとどころに消えたという」

「それだけで、御寵愛されたのでしょうか」

「そもそもがその神通力よ」

 びしっと、ムレコカミは言った。

「道鏡はかつて葛城山で修行していたというが、葛城山といえば役行者えんのぎょうじゃ様、道鏡の神通力はその役行者様の残されたものから学び取ったようじゃ」

「はあ」

 役行者、すなわち役小角えんのおづぬという修験道の開祖といわれている人物について、真継は名前くらいは聞いたことがあったが詳しくは知らなかった。

「その役行者様こそ、我われ山の民のお方じゃ」

 ほうと何かに納得したような顔をしている真継を、ムレコカミは刺すような目で見た。

「だからといって、道鏡とヤシガサらとを同じ目で見られたら困る。迷惑じゃ。さっきも言ったように、関係はない」

 真継は、少し狼狽した。

「いえ、別に関係があるとは。それよりも、道鏡が帝に寵愛されたのは、やはり神通力だけですか?」

「いや、ほかにも何かあるじゃろ」

「何でしょう?」

「知らぬ」

 それだけ言って急にムレコカミは口調を変え、

「ところでそなた」

 と、真継に言った。

「ここにいっしょにおるかね?」

 実は真継もこの先自分の身のふり方に困っていた時ではあったし、絶対にのこのこと都には帰れない。だからといって山賊の一味になるのにはまだためらいがあった。そこで、ここで生活できたらとふと考えていたのだが、このような山奥で人知れずひそかに暮らす集団は容易にはよそ者を受け入れまいと決め込んでいただけに、ムレコカミの方からそう言われてかえって肩透かしだった。

「いいんですか? そんな簡単に、ここには入れるんですか?」

「ああ、簡単じゃとも。もっとも、このユサバリに子孫四代暮らしてはじめてハラコにはなれる。ザボオチしてきたものは、それまではザボだ。だが、ハタムラは守ってもらうぞ。それに、ヤシガサらはいつまでもここにはおらぬ。すぐにテンパが始まる。それでもよいな」

 ところどころの固有な特殊単語の意味は分からなかったが、とにかく彼らは自分を受け入れてくれるらしい。

「よろしくお願いします」

 真継はうれしくて、ニコニコ顔でそう答えていた。捕らえられた広名や寺に残してきた若麻呂のことも気にはなったが、今はもう自分はここにいるだけが精一杯で自余は手を下しようもないことをすでに真継は感じていた。

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