寺は都にある官寺の別所だということだった。彼ら三人にとって寺といえば山門を構え、大伽藍が並び仏塔が見下ろす僧たちの学問の場という印象が強かった。だがこの山中の寺は、今までの彼らの持っていた寺という概念を覆すものだった。

 ここでは僧や有髪俗形の優婆塞うばそくと呼ばれる修行者たちが、呪術的な修行を行っている。寺の本尊も如来や盧舎那仏るしゃなぶつではなく、虚空蔵菩薩だというのも奇妙だった。

 寺の庫裏は三棟あり、そのひと棟の一室に三人が起臥きがしてもう三日になる。いくさに破れた日の夜、半死半生でこの寺を訪れた三人を、僧たちは取り敢えずこのひと棟に入れ、食事などを給してくれた。彼らは山中で山賊に襲われた旅人ということになっており、広名の傷の手当てもしてくれた。ただ、ここに置いてくれる条件として、無断でこの棟から出て他の棟に行ったり、境内を歩きまわったりしないことという旨を言われていた。

 部屋は黒光りのする板張りで、大きく開かれた窓は琵琶湖に向いており、陽ざしを受けて輝く湖面が木立の間からよく見えた。

 青い水面はここからだとかなり低く、対岸の低い山並みとの間の盆地の底に湖があるのがよく分かる。こう見ている限りは、平和な風景だった。この美しい湖の湖岸でほんの数日前に血を血で洗う修羅場が展開されたなどまるで嘘のようだし、あの日の出来事がまるで夢のように感じられてしまう三人だった。

 そんな風景を一日中見ながら、三人はこれからのことを話し合った。ここにいれば確かに敵には知られまいが、いつまでも厄介になる訳にもいかない。旅人となっている以上、旅立たないとおかしい。だが、おちおち都に帰って残党狩りに遭ったらたまったものではない。

「それにしても、ここは何なのだろな」

 若麻呂が話の途中でぽつんとつぶやいた。

「都の寺とはずいぶん違う」

「山林修行ってやつさ」

 広名はしたり顔だ。

「都の官寺の僧も、月の半分はこういった山林で修行するということだからね」

 本堂の方からは、奇妙な読経の声が聞こえてくる時刻になっていた。

 僧たちは日に二度の食事を運ぶ以外は、三人がいるこの部屋には姿を見せない。食事を持ってくるのはいつも同じ人で、身分も低そうな若い僧だった。口数も少ない。と、いうか、ほとんど無言である。彼らがいつまでここにいるのかなどということも、一向に尋ねたりもしないのだ。今もその僧が朝餉をかたづけて行ったばかりだが、あとは夕食まですることがない。

「寺の方も表面でこそ嫌な顔はしていないけれど、見ず知らずの俺たちが突然転がり込んでしばらく置いてくれというのだから、快く思っているはずはない」

「そうだな」

 広名は若麻呂の言葉にうなずいた。寝そべっていた真継が、急に体を起こした。

「本当に彼らは俺たちが、旅人だと信じているのだろうか。あの日に戦があったことは、ここの人たちは知っているのかどうか。知っていたのだったら、まずいぞ」

「いや。もしそういったまずい状態だったら、もう三日もたっているんだ。とっくに追っ手がこの寺に俺たちを捕らえに来ているさ」

 若麻呂が座ったまま言うと、真継は再び仰向けに転がって吐き捨てるように言った。

「ま、いいや。なるようにしかならないだろう。どっちみち俺たちにはもう仕える主人もいないんだし、都での宮仕えも永久にできないんだからな」

「一層のこと、この寺で出家してしまおうか」

「ばかなこと、言うんじゃない」

 広名の言葉に、若麻呂が苦笑した。

「せっかく旅人だと信じさせているのに、そんなこと言いだしたら怪しまれるじゃないか。それに、出家には都での官の手続きがいる。今や私度僧、つまり勝手な出家は禁じられているからな」

「おい」

 二人の会話をよそに再び上半身だけ起こして外を見ていた真継が、二人を制した。

「例の貴人の姿が、また見えるぞ」

 三人がいる庫裏の脇はV字型の谷になっており、その向こうにまた別の庫裏がある。真継の手招きで若麻呂と広名もそっと身を乗り出した。

 ここに来た翌日の朝に、

「この寺には俺達のほかにも、どうも先客がいるらしい」

 と言いだしたのは広名だった。そして三日の間に、その「先客」の存在を三人ともが確認した。明らかに僧ではなく、冠を着けた俗人だ。だが、庶民ではなく、どう見ても身分の高そうな貴人なのである。その貴人が今も向こうの庫裏から、遥か湖を眺めているのである。

「まさか、都から俺たちを監視するために?」

 広名が首をかしげて言ったが、真継が首を振った。

「あんな偉い人がわざわざ来るかよ。俺たちがここにいるってばれていたら、下っ端の役人たちが甲冑を着て多勢ですでに来ているぜ」

 それは先ほどの若麻呂の言葉だったが、真継がもう一度繰り返した。

 その日の夕刻、夕餉を持ってきた僧に若麻呂は思い切って尋ねてみた。すると僧は明らかに狼狽していた。

「そのような方はおられません」

 それを聞いて、

「冗談じゃない」

 と、真継が食ってかかった。

「あの向こうの庫裏に、貴人がいるはずだ。いや、いる。俺たち三人とも見たんだから」

 それを聞いて僧は目を伏せ、しばらく黙った後、か細い声で言った。

「どこのどなたかも存じ上げぬ旅のお方には、とても話せるようなことではありません」

「そうか」

 真継はうなずくと、勢いよく立ち上がった。

「どこの誰だか分からないから言えないと言うのなら、どこの誰だか教えて進ぜよう。俺たちは藤原恵美押勝の殿にお仕えする……」

「ばか!」

 若麻呂が慌てて真継の言葉を遮ったが、もう遅かった。はじめは腰を抜かして目を見開き、あわあわと驚いた様子でいた僧は、やがて慌てふためいて本堂の方へと駆けて行った。

「ばか」

 と、もう一度若麻呂は真継を責めた。

「すまん。つい、カッとなって」

 真継は意気消沈して、床の上に座りこんでした。

「もう、ここにはいられない」

 と、若麻呂が言った。広名もうなずいた。

「山林寺院の僧とて、決して隠遁者じゃないんだ。官寺の別所なんだから、官寺と密接に結びついている。だから、俺たちが実は敗残兵だったということも、都に筒抜けになる」

「逃げよう」

 と、若麻呂は立ち上がった。

「ちょっと待てよ。外はもう暗いんだぜ。それに、腹減った。取り敢えず食事をしよう」

 真継はそう言いながらも、すでに自分の食膳を身元に引き寄せていた。


 翌朝早くに、暗がりにまぎれてここを出ることになった。必要な身支度など、何もなかった。槍とて、そのような物を持って「旅人です」と言っても怪しまれるので、この寺の門前近くで捨ててきていた。

 まだ暗い外へ、若麻呂が足を踏み出した。もう、朝は空気が冷え込む季節となっている。若麻呂がぶるっと身震いした、まさにその時である。三人は同時に山の麓の方から登ってくる、おびただしい松明たいまつを見た。

「あ、しまった!」

 と、若麻呂が思わず声を上げた。松明の群れは山を包囲するように、間違いなくこの寺を目指して近づいてくる。

「もう、密告がいったのか。なんという早さだ」

 舌を打つ真継の隣で、広名が真顔で松明を見た。

「近江の国司の兵だろう。いくらなんでも昨日の夜の今朝で、都まで密告してまた兵が来るなんてことはあり得ない」

「でも、俺たちを捕らえにきた残党狩りには変わりないじゃないか。ざっと百人はいるぞ」

 真継が落ち着かない様子で、叫んでいる。もう空は白みかけて、松明なしでも彼らの姿が見られるのは時間の問題だ。

「早く逃げよう!」

 真継が叫んだが、広名が叫び返した。

「逃げるたって、どこに逃げるんだ! 山に逃げても、やつらはすぐに登ってくるぞ。もう、だいぶ明るくなってきている」

「じゃあ、おめおめと捕まれっていうのかよ。殺されるぞ!」

 主君に殉じてという考え方は、彼らにはない。押勝と彼らとは後世のような封建的主従関係ではなく、仕えていたといってもそれは一種の契約関係にすぎないからだ。

「おい、あれを見てみろ」

 不意に、若麻呂が声を上げた。その指さす方は谷の向こうのもう一つの庫裏で、例の謎の貴人が住んでいる所である。しかもその貴人が半蔀はじとみの格子を手で上げて、もう一方の手で三人に向かって手招きしているのだ。遠くて顔は分からないが、もうかなり明るくなってきてそのしぐさはよく見えた。

「どういうことだ?」

 真継が首をかしげていると、若麻呂が威勢よく言った。

「言ってみよう。それしかない」

 若麻呂に促されて三人は、一列になってその庫裏との間にあるV字の谷に降りた。本堂の方を回って行けば谷を迂回して平坦な道を行くことができるが、それではこの寺の僧にも下から登ってくる敵にも目立ちすぎる。斜面は割りと急で、下るとすぐにまた登りになる。道があるわけでもなく、三人は木々の幹につかまりながらようやく急斜面を登った。まだ足の傷が治りきらない広名は、先頭の若麻呂からはだいぶい遅れていた。

 若麻呂が斜面を登りきると、貴人が簀子すのこまで出て縄を投げてくれた。それを伝わり、欄干らんかんを乗り越えて若麻呂が簀子すのこの上に身を転がし、真継も続いた。その瞬間、すぐ下の方でワーッという声が上がった。見ると、追捕の兵が黒い流れとなって谷底を這い上がってきており、ちょうど遅れてこれから斜面を登ろうとしていた広名はその流れにのみ込まれたようだった。

「まずい!」

 と、若麻呂が舌を打った。

「奥へ入って、妻戸をお閉めなさい」

 貴人の声が響いた。

「ここは官寺の別所です。国司の兵とて、僧の許しがなければ建物の中まで踏み込むことはできません」

 よく澄んだ声だった。貴人は部屋の中央の板間に座った。外では、兵が引いていく声が聞こえた。

「あ、広名が!」

 真継は欄干の所まで戻り、そのまま欄干を乗り越えようとした。慌てて若麻呂も、部屋の中から出てきた。

「どこへ行くんだ!」

「決まっているだろ! 広名を助けに行くんだ」

「ばかな。無茶だ!」

「俺だって、今あの連中に斬り込んだりはしない。国府まで行って、なんとか救い出してくる」

「お待ちなさい!」

 部屋の中からまた貴人の凛とした声が響いたが、気の短い真継はもう欄干の下に飛び降りて、急斜面を下って行っていた。


 仕方なく若麻呂は、部屋の中に戻った。貴人に促されて、対座する形で座った。彼とて二人のことが気がかりではあったが、今はこうするしかない。そして初めて若麻呂は、落ち着いて至近距離で貴人をまじまじと見た。やはり、高貴な香りが漂う人だった。年の頃は四十をいくつか出ているであろうか、白い顔に、鼻ひげはあごひげとつながっている。しばらく若麻呂は何を話していいか分からず、黙っていた。だが、あとの二人が戻ってくる気配はなかった。

「あの」

 と、若麻呂は恐る恐る言葉を発した。

「かなり高貴なお方とお見受け致しますが、あなた様は?」

「今は世を忍ぶ身、名は明かせませぬ」

「なぜ、私どもを手招きされたので?」

「あなた方は、藤原恵美押勝殿のお手の方たちですね」

 一瞬、若麻呂の表情はこわばった。そして、しばらく黙って、貴人の顔を凝視した。

「ご心配には及びません。私はいわば、押勝殿とは志を同じくするもの」

 若麻呂はまた、「?」という感じで貴人の顔を見た。そんな若麻呂に、貴人は穏やかに言った。

「どうも、何もご存じでないようですね。あれだけ権力の頂点におられた押勝の殿が、なぜ今回のようなことになってしまわれたのか。おかしいと思いませんか?」

 この貴人はこの山林寺院にいても、かなり天下の情勢には詳しそうな口ぶりである。現に、今回の戦についても熟知しているようだ。

「それは、まあ、皇太后様がお隠れになって」

 貴人は、静かに首を横に振った。

「確かに、それもあります。いや、それが大きいでしょう。しかし、実はもっととんでもないことが、今この国に起ころうとしているのです。私も押勝の殿も、それに立ち向かう大きな志を持っていたのです。あなたは、なぜ皇太后様が称徳孝謙帝を牽制されていたか、おかしいと思いませんでしたか? ご自分の皇女むすめですよ」

 たとえおかしいと思っても、そのようなことは若麻呂にとっては雲の上のこと、今まで考えたこともなかった。

「道鏡のことですか?」

「いえ、道鏡なんて、つい最近現れた怪物です。もっともっと大きなことが、表には出ない裏の世界にあるんです。道鏡なんかが現れるずっと前からのね。まあ、そのことについては追々お話ししていきましょう」

「追々って、ずっと私をかくまって下さるとおっしゃるのですか? もし、寺のものに見つかったら?」

 貴人はゆっくりと、うなずいた。

「大丈夫。実は今日、まろは寺を出て都に戻ります。まろばかりではなく、この寺の僧や優婆塞たちも、みんな近いうちに都に帰るでしょうね」

「え?」

「勅が出ました。勅といっても今の帝ではなく称徳孝謙の帝からですから、あなた方のような押勝の殿の関係者が山林寺院に潜伏することを恐れてでしょうな、山林寺院で僧が読経どきょう悔過けかすることは禁じられました。つまり、もう山林寺院は機能しなくなりますから、僧たちはここにいても仕方がないのです。そういう僧綱そうごうからのお達しです」

 それにしてもこの御方は、この山林にいながらどこからそういった情報を得るのかといぶかってしまう。最も可能性があるのはこの寺の僧を経てであるが、そうなると自分たちには食事だけを無言で運んできたのとは待遇がかなり違うということになる。

 若麻呂が黙って目を伏せていると、貴人はまた優しく問いかけた。

「ですから、まろといっしょにおいでなさい。今はそれしかないでしょう?」

「しかし、あなた様をどなた様なのかということさえ分からずに、ですか?」

「御心配はいりません。あなたにとって害をなすようなものではありません」

 そう言ってから貴人は少し笑った。そして、

「それと、お仲間のお二人も、なんとか探してみましょう。そう申しましても、まろの力の及ぶ範囲は限られておりますけれど」

 と言うので、若麻呂はしぶしぶとうなずいた。

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