護るべきもの
John B. Rabitan
1
天平宝字8年(764年)9月17日、
湖上からは遠すぎて、戦場となっている湖岸はよく見えない。本来は歌人の好む歌枕として有名な湖西のこの
ここは湖西では少し山並みが向こうに遠のいている数少ない場所で、それだけに歌枕が血なまぐさい戦場となってしまった。
小舟の上の三人の若武者に、自分たちの主人である押勝の生死など確認できるはずもない。その押勝が死んだと思ったのは直勘ではあったが、三人が三人とも同じことを感じたのである。湖の北の方からは突風が吹き、水面ではまるで海のような大波が小舟をもてあそんでいた。
「なんてことだ!」
三人の若武者のうちの一人、
そんな彼らは今、甲冑を身にまとったまま湖上で主人の死を嘆いている。空は晴れてはいるが雲は多く、西から東の対岸へとものすごい速さで流れ、西日が雲の隙間から現れたり隠れたりで、間もなく黄昏時であることを示していた。
対岸はすぐ近くに見えるのだが、実際はかなりの距離があるだろう。北岸はかなり遠くにうっすらと山が横たわっている。戦場となっている岸の向こうも背後の東岸も、湖を取り囲む山は丘陵程度であるが、視線を左の、すなわち南の方へ回すとひときわ高い山が湖のすぐそばまで迫っている。その向こうの南岸はほんの短い部分だが、水平線になって見える所もある。
だが、いくら水平線が見えても、ここは海ではない。海なら夕凪の時刻だが、この
だからうずくまったまま、穂積広名が、
「殿ーっ!」
と、叫んだ。
だが、もう遠すぎて岸には何も聞こえないだろう。
押勝とて、別の小舟でいったんは湖上に出たのだ。三人が今乗っている舟は、いわばその護衛船であったはずだ。
左手の方から湖を見下ろすひときわ高い山も次第に影になり、夕闇が辺りを覆いはじめていた。九月――本来ならもうかなり涼しくなってはいてもまだ寒さは始まっていない頃だが、湖上を吹く風はとても冷たかった。三人を乗せた小舟は行き先も知れずに、ただ風のまにまにさまよっているだけだ。この強風では、対岸の東岸に渡るのは無理で、小舟は西岸に沿ってどんどん南へと流されているようだった。
※ ※ ※
三人が仕えていた恵美押勝は元の名を藤原仲麻呂といい、藤原鎌足の曾孫に当たる。
今の帝からも気に入られて、太政大臣にまでなった。つまり最高権力者、時の人だった。
長きにわたって奈良の都に君臨した聖武の帝の後は、娘である孝謙帝が譲りを受けて女帝として即位した。だが、なぜか孝謙帝はその母親である光明皇后からは疎まれており、聖武上皇が崩御されるとさっさと孝謙帝を退けて、天武の帝の流れである今の帝を位に就けた。
その今の帝の幼馴染みでもあり、光明皇后からもかわいがられていた仲麻呂=恵美押勝が権力の頂点に昇ったのは自然の成り行きだ。
だが四年前に、状況は変わった。光明皇后が崩御されたのである。
たちまち孝謙上皇は権力奪回のために動き出した。そしてそのそばにはいつの間に現れたのか、道鏡とかいう怪僧がふんぞり返って座っているようになった。
そして、三日前。
ついに上皇側は行動に出た。押勝が預かっている軍事行動権の象徴ともいえる鈴院と、帝の
もちろん、押勝も黙ってはいない。ついに兵を動かして、鈴院と御璽の奪還のために立ち上がった。
こうして戦端が開かれた。
だが、押勝側の名だたる武将が次々に戦死、押勝の軍は都を脱して琵琶湖の湖西を北上し、そして三尾の崎でついに最終決戦となった。
……だが、押勝の軍は負けた。
※ ※ ※
今、日は沈んだ。
間もなくこの山中は、とっぷりと宵闇に包まれるはずだ。
かなり急な斜面を、
ほかの二人よりも、わずかに歳が上の若麻呂が先頭だ。槍を杖にして登る後を、粟田真継、穂積広名の順に続く。三人とも、重い甲冑はすでに脱ぎ捨てている。広名は足を負傷しており、引きずるようにして歩いているのを真継が時折かばった。
戦いの後、湖上を舟で漂っていた三人だったが、その小舟はまだ完全に暗くなる前に遥か南へと流された。上陸したのは同じ湖西のひときわ高い山を過ぎたあたりで、このあたりは湖のすぐそばにまで山が迫り、平地はわずかだ。三人は小舟を乗り捨て、山中に分け入った。もうすぐ暗くなるというのに山中に入ったのは無謀といえば無謀だが、湖岸は危険だ。高嶋郡から都へ戻る軍勢は、必ずここを通過する。だから、山に入るしかなかった。
木の幹や草を引き綱として上へ上へと登っていく彼らは、誰もが息絶え絶えだった。
「少し休もう」
いちばん最後の穂積広名が言った。気がつくともう、かなりの高さまで登ってきている。三人ともへなへなと、斜面に腰をおろした。
「今夜はここで野宿かよ」
粟田真継が言った。無骨そうな顔つきの青年だ。彼の足元に顔がくるようなかたちで座っていた広名は、目が垂れて愛嬌のある顔だった。その広名は、
「暗くなる前に、山を越えた方がいいんじゃないか」
と、言ったが、すぐに葛木若麻呂が首を横に振った。
「それは無理だ」
若麻呂は面長で、鼻筋が通っている。
「山を越えた所で、人里があるとは限らない。だいいち、この山の向こうは平らな土地なのか、山また山の山間部となっていくのか、それも分からないんだぞ」
「でも」
と、広名が目を上げた。それは無視して、若麻呂は話し続けた。
「確かにこんな高さまで来たから敵は来ないだろうけど、獣や山賊の餌食になるぞ。獣に対しては火を焚けばいいけど、でもそれが敵の軍勢や山賊への目印になってしまう。とにかく真っ暗になる前に、歩けるだけ歩こう」
仕方なく、三人は再び歩きだした。その時、右側の薮がごそっと動き、何ものかの黒い影が飛び出した。三人はさっと、槍を構えた。
「なんだよ。猿だよ」
ほっとした表情で若麻呂が槍をおろすと、ほかの二人もため息をついていた。猿が一匹、木の枝を飛び移りながら下の方へと飛んでいった。
すぐに、少しだけ平らな土地に出た。だが、山の峰はまだ上の方に延びている。
すでに濃い藍色の空気があたりの光を塗りつぶして、闇が広がりつつある。幸い、空には満月から少し欠けた月が昇ってきた。欠けているとはいっても、まだ十分に明るい。それも、山の峰とは反対側の湖の方から昇るので、それが幸いした。おそらく月がなかったら、もうこのへんで歩行は限界だったであろう。
「腹、減った」
そう言って、広名が座りこんだ。
「足も痛いし、もうだめだ」
なかばふてくされている広名の肩に、真継が手を置いた。
「ここまで逃げてきたのは、俺たちだけだな。ほかのみんなは敵に捕らえられただろうか。俺たちだけでもせっかくここまで逃げてきたんだ。もうちょっと頑張って歩こうぜ」
だが、広名は動きそうもなかった。若麻呂も、静かに二人のそばにかがみ、そしてため息をついた。
「考えてみたら、皇太后様の崩御から、どうも雲行きが怪しくなったんだよな」
真継も完全に腰をおろし、もうすっかり夜空といえる空を見上げた。
「でもよう、あの頃は皇太后様の崩御がどうのこうのよりも、その夜に忍んで行く女のことで頭がいっぱいだったな」
「あの頃はそれでよかった。でももう今は、事態が違う」
たしなめるような若麻呂の言葉に続き、
「いったい俺たち、これからどうなるんだ?」
広名が叫ぶように言う。
「ばか。そんなこと知るかよ」
真継は気が短い。広名はついに泣きだした。
「都に帰りたい」
「何を
広名の襟首を真継がつかんだので、
「二人とも、よさないか」
と、若麻呂が制した。そしてさらに何かを言おうとしたが、その時急に若麻呂の表情が変わって言葉も一瞬止まった。
「おい、二人とも、静かにしろ」
その制し方は、けんかの仲裁ではなくなっていた。
「よく聞いてみろよ。何か聞こえないか?」
三人とも動きを止めて、耳をそばだてた。
「
と、広名が目を上げた。そして小さな声で、
「寺があるのか?」
と、つぶやいた。真継も、広名の襟首をつかんだ手を離した。若麻呂は首をかしげた。
「こんな山中に寺が?」
「いや」
広名は若麻呂を見た。
「山中にも山林師所とか山沙弥所とかいうのがあるはずだ。吉野の山奥などにはよくあるそうだ。ここは、吉野によく似た山だしな」
「とにかく、行ってみよう」
若麻呂に促されて三人はふらふらと立ちあがると、読経の声に導かれて、月明かりを頼りに歩きはじめた。
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