異なる世界であなたと逢瀬を

八重垣ケイシ

異なる世界であなたと逢瀬を◇ボディ・リサイクル


 海に溶ける夕日を見て、涙が出た。


 果てしない水平線、寄せては返す波がオレンジに染まり、海の囁き声のように聞こえる。

 背後を振り向けば、遠くに白い雪を冠に頂く山々。その向こうの空は緩やかに夜が昇り、天空を紫に染めようとしている。

 テレビ画面と違う枠の無い視界、果ての無い広がり。海に山、砂浜に波、私を見下ろすのは空に瞬き始める星に、大きな蒼い水晶の月。初めて見る風景に、ただ、圧倒される。

 素足の甲を舐めるように、海水が優しく足を柔らかく洗う。


「リイ、どうだい? ここは?」


 離れたところから私を見守る彼が言う。少し不安そうに、少し自慢げに。


「俺の趣味で選んたとこなんだけど」

「……」


 上手く言葉を返せない。私は自分の感想を言うことができない。クウに何か言ってあげたいけれど、この私の胸を震わせるものを何と言っていいか、解らない。

 バカみたいに口をパクパクと開け閉めして、何も言えずに涙が落ちる。

 クウは少し困った顔で言う。


「気に入らなかった?」


 私は慌てて首を横に振る。クウは途端に笑顔になる。


「じゃ、気に入った?」


 私はコクコクと、何度も頷く。


「良かった。このエリアにして」


 私はクウに聞いてみる。


「どうして、ここにしたの?」

「俺がここの景色を見て、リイに見せたいって思ったから。これから建物とか設置するけれど、その前にリイがこれを見たら、少しは気が晴れるかな、って」

「気が、晴れる。うん、私の気は、晴れたみたい。なんだかすっきりした気分」

「それなら良かった」


 クウは安心した顔をする。ここのクウは、顔つきもキリッとしていて、背も高い。


「どうしてクウの耳は長いの?」

「これはエルフっていう種族の特徴なんだ」

「どうしてクウの背はそんなに高いの?」

「いいじゃないか、アバターぐらいカッコよくデザインしても。どうせチビだよ、高い背でリイを見下ろすのに憧れたんだ」

「どうしてクウは金髪で長髪なの?」

「そういうのカッコいいって思ったときに作ったアバターだからだよ」


 尋ねる度になんだか恥ずかしそうにするクウ。私と同じ背の高さだったクウを見上げるのは不思議な気分。だけどちょっと拗ねて顔を背ける表情も仕草も、もとのクウと同じで、そこは安心する。

 ……安心、こんなに落ち着いた気持ちは、久しぶりのような気がする。

 不思議な柔らかく暖かな世界。まるで妖精みたいにキラキラしたクウ。


「クウが不思議の国に、私を連れてきた妖精?」

「不思議の国じゃ無くて、ゲームの世界なんだけれど。このエリアは俺の物になったから、これから改造するとこ」

「改造しちゃうの?」

「俺が迷宮ラビリンス設計して、俺の仲間に挑戦させる予定。あー、リイが景色を気に入ったんなら迷宮ラビリンスは地下に作って入り口だけ地上に出すか。城とか作ろうかとも考えてたけど」


 ぼんやりとオレンジ色の夕日を眺めながら、クウの話を聞く。


「森か海か迷ったけれど、海の方がリイが気に入るんじゃないかと思って。エリアの地形に合わせて素材とかモンスターが変わるんだけど」


 果ての無い、何処までも続く海。

 仮想空間の仮想現実。コンピューターに作られた仮初めの世界。

 そこで海を見続けていた。


 突然に音楽が流れる。ドビュッシーの月の光。振り向けばクウが眉を顰めている。


「そろそろ八時……」


 クウが設定したアラームのメロディだったらしい。八時、そろそろ帰らなければ。


 ヘッドセットを外せば仮想現実の世界から現実へと戻る。戻ってしまう。

 クウも金の髪の長い耳の妖精から、日本人らしい黒髪黒目の見慣れた姿に戻る。私と同じくらいの背丈、髪も短くなる。髪を長く伸ばしたら女の子みたいな顔つきの男の子。

 魔法が溶けて、全てが現実へと戻ってしまう。

 クウが心配そうな顔で私を見る。


「送ろうか? 夜だし」

「やめておいた方がいいわ。私の家族に見つかるから」


 クウ、妖精クウから親戚の同級生、御原空に戻ったクウ。悲しそうな目で私を見る。そんな顔をさせたくなくて、バッグを肩にかけながら、違う話をする。


「今のゲームって、凄いのね」

「今時、ゲームもスマホも持って無いのは、理伊ぐらいだよ」

「そうなのかしら? 同じクラスの人とは話をしないから、知らないわ」


 御原空の家から外に出る。排気ガスの匂い、日本の何処にでも有りそうな住宅街。そこが私の住む世界。


「今日はありがとう」

「いつでも来てくれていいから」


 そう言ってもらっても、そういうわけにもいかない。空に手を振って私は家に帰る。あの家に帰るのが、気が重い。


 和泉の家に産まれ両親と弟と暮らす。今は高校二年生の和泉理伊、それが私。とは言っても私があの家に住むのは、高校を卒業するまで。

 高校を卒業したら結婚することになる。結婚して相手の家に入り、名字が変わり田所理伊になる。


 日本は令和と年号が変わり、それでも人はあまり変わらず暮らしている。昔よりも貧富の差が激しくなったという。


 父は会社を経営している。株式会社の社長だ。株式会社というものは、株主の資金で成り立っている。

 

 日本の少子化は深刻になり、反面、子供や若者に希少価値がつく。私のようにそこそこ見目が良く、健康な若い女とはそれだけで価値があるという。日本ではロリータビジネスという単語が産まれ、地下では未成年売春が海外からの観光客を増やしているとも言われている。


 私、和泉電甲株式会社の社長の娘、和泉理伊は、父の会社の株主に捧げる貢ぎ物としては良い品らしい。

 株式会社の大株主とは、社長の親戚ばかり。血の縁を濃くすることで、資産家の親戚の株主を手放さないようにする。今の日本ではそこそこある話。

 私は高校を卒業したら、十三歳年上の親戚と結婚することになっている。そのことに不満は無い。


 私が株主に気に入られることで、父の会社は経営を続け、母も弟も、父の会社で働く人達も、収入を得て暮らしていける。私が結婚を拒否することで皆に迷惑をかけられない。

 私が今、暮らしていけるのも、学校に通えるのも、父の会社が健在だからできること。

 それに家を出たところで、私一人で暮らしていけるほど、世の中は甘くは無いだろうし。

 かと言って自殺する勇気も無い。

 流されるように、流されるままに、流されて生きる。誰もがそうして自分を諦めて生きている。諦めなければ生きては行けないのだから。

 誰もが否定を肯定して生きている。


 家に帰り着く。現実の私の住む家に。


「ただいま帰りました」


 古い大きな家、家族四人で住むには少し広い家。居間で弟が夕食を食べている。


「お帰り、遅かったね」

「日舞の先生と少し話をしていたの」


 お稽古の帰りに空の家に寄っていたことを隠す為に、家族に嘘をつく。そんな嘘をつかなければ、家族と一緒に暮らすことはできないのだろうか? それでも、空のくれた景色をまた見たい。私にそんな欲があるなんて。


「お父さんとお母さんは?」

「仕事で遅くなるって」


 言って弟は食べ終わった食器を片づける。私はテーブルの上の私の分の食事に口をつける。味はよく解らない。いつもの食事はいつもの如く、紙を食べているような味しかしない。


 学校では家よりも気が抜ける。友人がいる訳でも無い。学校が終わればピアノ、日舞、習字、と習い事は多い。以前に同級生に月のお小遣いの額を聞かれ、正直に答えてしまった。それ以来、半端にお嬢様扱いされて同級生からは距離を開けられている。

 高校生のお小遣いとして見れば多い額だけれど、そのお小遣いから習い事の月謝を払っているから総額は多くなってしまう。

 日舞の名取りとなればかなりのお金が必要になってしまう。それも私のお小遣いから払っている。


 父の教育方針で子供の成長に役立つもの以外にお小遣いは使えない。だから私は同級生と違い、スマホもインターネットに繋がるパソコンも持ってはいない。

 高校を卒業して親戚の家に嫁ぐだけの娘に、余計な世間の知識は必要無い。

 誰もが知識が必要な訳では無いのだから。

 地動説も進化論も知らなくても、良き妻、良き母となれる。知らないままに素直な方が可愛いげがある。夫と夫の家族の自尊心を満足させるには、夫とその一家よりも愚かな妻が良い。

 賢く正論を囀ずる者は、可愛いげが無く殴られる。


『私が言う通りに感じ、私が言う通りに考えろ。理伊はそれ以外、考えるな』


 父は自分の考えを正しいと信じ、同じように考え、同じように感じることを家族に求める。上手く合わせられる母と弟は、良い家族。私も以前は合わせられていたのに、最近は妙に気が疲れてしまう。

 食事も父が美味いというものを、同じように美味しいと言う。父が不味いというものは、同じように不味いと言う。いつからか私は食べ物の味が解らなくなった。


 今は、考えることも息をすることも、面倒。

 父の言う通りに生きるしか無い。それなのに生きていることがしんどいと感じるようになってきて。

 そろそろ生きることを諦めて、死んだ方がいいのかもしれない。でも私が自殺すれば、家族に迷惑をかけてしまう。父の会社で働く人に迷惑になってしまう。

 考え無い、感じない、思わない。株主の親戚の家に入り、奴隷のように従順に生きなければならない。

 そう、頭では解っているのだけれど。誰もが思うままに生きられるほど、この世界は優しくも甘くも無いのだから。

 教室の中、自分の席でぼんやりしていると御原空が話しかけてきた。


「理伊、起きてる?」

「寝てないわ、空。……教室では私に話しかけない方がいいでしょう?」

「俺が理伊のいとこで、十年振りに再会したって、もう皆知ってるよ」

「そうなの?」

「転校生は興味を持たれて、いろいろと聞かれるものだから。正直に話した」


 可愛い女の子のような、整った顔の御原空。女の子に間違われるのが嫌だと髪は短くしている。背はクラスの男子の中では低めで、優しい笑みを浮かべている。そつが無いというか、人との交流が上手と言うのか。

 転校して三ヶ月でクラスの人達とも仲良くしていて、もう人気者になっている。


「こっちに転校してきて理伊に会えるかな、と期待してて、それが同じクラスだとなんだか運命的じゃない?」

「運命、ベートーベンね」

「一人の友を得るという、大きな賭けに成功した者よ、一人の優しい妻を得た者よ、その歓びの声を一つにして」

「それは歓喜の歌よ」

「そうそう、ツッコミはそんな感じで」

「何かの練習?」


 空は私の机に腰かけてニコニコとしている。憎めない感じ、というのは空のような感じのことだろうか?

 空が転校して再会して、私はいつもより口を動かして話す機会が増えたような。


「なんだか信じられないよ」

「何が?」

「一年半後には、理伊が結婚するなんて」

「そう決まっているのだから、仕方無いわ」


 決められた道の上を決められた速度で、それが人生というものだと思う。


 学校に通い、習い事を続け、父さんと母さんとの会話に使う単語は、『はい』『解りました』『そうですね』『すみません』の四つで済ませる。

 たまに空の家で、ゲームの中の景色と、エルフになったクウの話を聞くのが、私の安らぎになった。


 そんな生活の中で、少しづつ私の動きが鈍くなっていった。気力というか元気というものが身体から抜けて失せていくのが解る。

 休日に部屋で椅子に座り、机に課題を並べてシャープペンを握る。ノートに一文字も書けないまま、気がつけば三時間、四時間と時間が過ぎていた。同じ姿勢のままでいたので、背中が痛くなった。

 

 両親との会話でも反応が遅くなってきた。言葉が頭に入ってから、その意味を理解するのに時間がかかるようになってしまった。


 もともと食欲はそれほど無かったが、食事をすること、食べ物を口に入れることが、なんだか気持ち悪くなり、吐いてしまった。


 私の身体が、まるで生きることを拒絶し始めたような気がする。


 不安を感じた両親に病院へと連れて行かれた。慢性的な虚脱感、時間感覚の異常に不食。

 診断の結果は、統合失調症、または境界性人格障害だった。

 これに父さんは目を剥いて怒った。


「お前が気違いになるなど和泉家の恥だ! お前はもう人前に出るな!」


 私は適当な病名をでっち上げて、暫く学校を休むことになった。父さんはお前の教育が悪いと母さんに当たり、母さんは泣いた。


「半年後には田所家と結婚が決まっているというのに、なんとしても理伊が気違いだということを隠さなければ……」


 父さんとしては、納品前に商品に不具合が見つかったようなものなのだろうか。

 私は自分が不良品だと医師に証明された。家族を失望させたことは悲しかったけれど、どこかで自分が欠陥品だということに、安堵する気持ちもあった。

 家からの外出は禁止され、部屋でぼうっと過ごすようになった。学校も適当な病名をでっち上げて休むことになった。


 ある日のこと、父さんの車に乗せられ連れて行かれた。


「お前の頭をまともにする方法が見つかった。これで田所家に嫁入りさせることができる」


 連れて行かれたところは大きなビル。ザーニスと書かれている。確か家電メーカーの大手の会社。


「初めまして、ザーニスの影追夜舞です」


 クセの強い黒い巻き毛の女性が、父さんと話をする。私は大人しく父さんの横に座り二人の話を聞いていた。耳に入る音を言葉として理解するのに苦労して、所々解らなかったけれど、影追さんの言うことを纏めると。


「ザーニスでは人格障害を治療する方法があります。これは未だに日本医師連盟が認めておらず、健康保険の適用外の治療方ですが、既に完治した患者がいます。先天性では無い後天的な人格障害、精神障害はこれでほとんどが治療可能です。臨床例が少なく一般には広まっていませんが、半年の期間があれば充分です」


 私を田所家に嫁がせたい父は、影追さんに任せると言い治療費の話を続け、何枚かの書類にサインを書いた。

 翌日からは治療の為に、私はザーニスのビルで暮らすことになった。私が暮らす個室に荷物を運ぶ。病院では無いけれど入院のようなもの。

 父さんがビルを出たところで、影追さんは私に顔を向ける。なんだか営業用の笑顔の仮面を外したようで、二人になった今は子供っぽい顔をしている。


「さて、理伊さん。うるさいのもいなくなったから、もう本音で好きに話してもいいわよ」

「はぁ、」

「まったく、人の家の親にこう言うのもなんだけど、理伊さんの父親の方がよっぽど気違いよね」


 なんだか私の父さんに対して、憎しみでもあるような言い方をする影追さん。こちらが影追さんの本音、なのだろうか?


「ここでの理伊さんとの会話は理伊さんの家族には秘密にするわ。それと、私からも理伊さんに秘密の話があるの。聞いてくれる?」


 ザーニスのビルの中、私がこれから生活する個室。小さなテーブルに向かい合うように椅子を二つ置く。影追さんと差し向かいで紅茶を飲む。


「ザーニスの技術で、理伊さんの治療はする、という話を、理伊さんの父親とはしたのだけど。理伊さんには、本当のところを話すわね」


 影追さんは私の症状を知っているようで、私の様子を伺いながらゆっくりと話をしてくれる。私のことを気づかってくれるのが解る。

 私は影追さんの話が理解できていると伝える為に、コクコクと頷く。


「ザーニスは家電メーカーだけど、VRゲームでのシェアも大きいの。仮想現実の世界で遊ぶゲーム、VSWXで世界一なの」

「ゲーム、ですか?」

「そう、ゲーム。ヘッドセットから脳に情報を送り、別の世界を旅するような体感ゲーム」

「そのゲームが、治療とどんな関係が?」

「情報を処理する機械がコンピューターと言うなら、人の脳もまた有機細胞で作られたコンピューター。治療というのは人の脳の情報の書き換えのことなの」

「それは、私はどうなるんですか?」

「記憶はそのままで、人格、性格を書き換えることになる」


 私の頭の中が書き換えられる。私と同じ記憶で、私と違う人格に。それは、今の私が死ぬ、ということだろうか? 

 

「人格を書き換えて、父さんとも母さんとも、上手く付き合える人格に?」

「そう。だけど、理伊さんが居なくなる訳じゃ無い。これはもともとはVRゲーム内での精神病棟なのよ。理伊さんの記憶と人格をゲームの中へと送る。VRゲーム内の精神病棟で治療する。そして治療が終わったら理伊さんの記憶と人格をもとの身体に戻す」

「そんなことができるんですか?」

「理伊さんの脳と脊髄をコンピューターの中に再現するの。情報が全て解析できたならコピー&ペーストは簡単なものよ。でもこれはまだ世間に秘密の技術だから内緒にしてね」

「それだとまるで、ゲームの中の世界に生まれ変わるみたい」

「その通りね。体感としてはそんな感じよ」


 ゲームの中へ、ゲームの中の世界に生まれ変わる。そんなことが可能な時代になったみたい。進歩した科学は作った世界へ生まれ変わるようになれたみたい。

 影追さんは紅茶を飲み、ちょっと眉を顰める。


「そうしてゲーム内精神病棟で治療する間、身体の方は脳に書き込んだ人格、NPCが動かすことになるの。でもね、そちらの方が家族とは上手くやれるのよね」

「ノンピーシー、ですか?」

「ノンプレイヤーキャラクター、ゲームの中の模倣人格ね。人が操作しない村人とか武器屋の店員とか。これを人の脳に入れた人間、NPCが動かす人の身体の方を、私達は人間アバターと呼んでいるわ」

「人間アバター……」


 人が機械の作った世界の中で、情報で作られた身体を動かす。それがクウのエルフみたいなアバター。ゲームの中で人が操作するプレイヤーキャラクター。

 それを逆にして、コンピューターが人間の身体を操作するのが人間アバター?


「その、NPCというのが私の代わりに、私の身体を動かして生活するんですか?」

「そう。本来なら治療が終わったところで本人が自分の身体に戻るのだけど……」


 影追さんが言い淀む。ひとつ苦笑して言葉を続ける。


「NPCの方が上手くやれてしまうのよね。ストレスに強く、親に都合の良い素直な人格、恋人に都合の良い物分かりの良い性格。ザーニスはこれまでの蓄積した情報でいろんなパターンの人格が用意できるの。それが家族から見ると病気が治り、素直で真面目になった、と喜ばれるわ。そうなると本人がもとの身体に戻れなくなってしまう」

「それでは、ずっとゲームの世界に?」

「理伊さんの御両親が死亡して、理伊さんを束縛するものが無くなれば、戻れもするのでしょうけれど。あの親なら従順な理伊さんを望むのでしょうね。そんな人をこれまで何人も見てきたわ」

「そうなんですか」

「後天的な人格傷害は環境を変えれば自然と治るものが多いの。抑圧的な家族から離れるだけで、ストレス性のものが改善されるケースはいくつもあるわ。その為のゲーム内精神病棟なのだけど」


 私の身体から私が抜け出る。そして私はゲームの、別の世界で暮らす。

 私の頭の中には家族にも、これから嫁ぐ予定の田所家にも、都合の良い人格の別人が入る。

 これからはそうして、精神を入れ替えて生きる。どうもそういうことらしい。


「どうしてそんな技術を?」

「人の精神に関わる病は偏見が強くて、世間から隔離して閉じ込めて悪化させるケースが多いの。家の中や檻の中に何年も閉じ込めて社会問題になっているわ。そして誰もが社会の病理を見なかったことにしたいから、今もそんな子供がいる。それをなんとかならないかって考えた人がザーニスにいたの」


 影追さんは不思議な笑みを見せる。怒っているような、憐れむような。


「それで理伊さんには最後の確認をしたいの。これから先、人間の身体を捨ててずっとゲームの中で生きることに、賛同するかどうか」

「よろしくお願いします」

「理伊さん、いいの?」

「はい、私では両親の期待に応えられません。私よりも上手く私を演じられる人がいるなら、その人に私の身体を使ってもらった方が、全て丸く納まります」


 影追さんは優しい目で私を見る。同意も何も、私に選べるものは無い。私はそんな選べる立場にはいないし、子供とは親の所有物だ。私に両親の意に抗う気持ちも気概も無い。

 手にするカップの紅茶に口をつける。温かい、相変わらず味は解らない。

 影追さんはひとつ頷く。その目が子供のように、イタズラを企むようなキラキラとした目になる。


「それじゃ、理伊さんのサポートをする人を紹介するわね」


 サポート、医師だろうか? 私と影追さんが話をするブースに入ってきたのは、空だった。


「理伊さんの同級生でいとこの、御原空くん」


 なんで、ここに空がいるの?


「御原くんから話を聞いて、ザーニスは理伊さんの家族に話をしたのよ。治療する手段があるって」

「影追さん、後は俺から説明します」


 空がザーニスに? 空の家で使っていたゲーム機、あれはVSWXだったけれど。ザーニスの家庭用VRゲーム機ではあったけれど、空がザーニスという会社に私のことを?


「理伊のことが心配だったんだ。理伊の家族のことも、家庭の事情も知って、なんとかできないかと、それで影追さんに相談した」

「空………」

「理伊、俺は御原空だけど、御原空じゃ無い」


 空は少し辛そうに、少し諦めたような顔で告白する。


「俺は御原空と同じ記憶を持つNPC、人間アバターだ」

「空が、影追さんの言っていた、人間アバター?」

「そうだ。それで本物の御原空はエルフのクウだよ」


 エルフのクウが本物の御原空? ザーニスの技術でゲームの中に産まれ変わると聞いたけれど、空はもう、とっくにゲームの中にいたの? ヘッドセットからログインしていたんじゃ無かったの?


「あの金髪の、長い髪の、耳の長くて、背も高い、妖精みたいな人が? 空?」

「空は、見た目がこうで、それでからかわれることも多くて」


 背も低くて髪を伸ばせば女の子みたいな空。引っ越しして離れる前、よく一緒にいたころはそれでからかわれることも多かったっけ。


「それで転校先でキレて暴行事件を起こした。それ以来、御原空はゲームの中に意識を移した。現実に生きるのを諦めて、ゲームの世界、『Beyond Fantasy memories』で余生を送るって決めたんだ」

「そんなことが、あったの」

「ただ、俺はクウと同じ記憶がある。理伊のことも憶えている。この街に戻ってきて理伊のことを知って、それでクウに伝えて相談した。理伊が父親の会社の為に、意に沿わない結婚が近づいているというのも、同じクラスの人からも聞いた」

「みんな、そういう話が好きなのね」

「理伊が肺炎で休むって聞いて、影追さんに事情を話して、理伊の病気のことも調べて解った。全部、理伊の親のせいじゃないか」

「私がこうなったのは、親のせいじゃ無いわ。私は欠陥品だもの。もともとこの世界で生きるのに向いていないのよ」

「そんな風に理伊を追い詰めたのは、理伊の家族だろう?」

「その家族とも上手く合わせられずに、簡単に精神を病むようでは、この日本の社会では生きていけないみたい」


 もともとの私に、この厳しい世界で生きる力が無かった。それだけのことなんだろう。


「そう、空が人間アバターなの」

「あぁ」

「じゃあ、私はあなたのことをなんて呼べばいいの?」

「ソラで。向こうの俺はクウで。俺達もそう呼び分けているから」

「ソラ。うん、ぜんぜん気がつかなかった。あなたの頭の中身が、人間じゃ無いなんて」

「記憶は、クウと同じだから」

「これなら父さんも母さんも弟も、私が人間アバターになっても、きっと解らないでしょうね」


 見た目はどう見ても人と変わらない。記憶が同じで細かい仕草も表情も人と同じ。私が空と再会するまで、十年と間が空いているからというものがあっても、側で見続けていてもこれでは解らないと思う。

 しばらく御原空、人間アバターのソラをじろじろと見てしまう。


 影追さんが言う。


「ゲーム慣れしていない理伊さんのことは、ゲームの中のクウくんとここのソラくんがサポートするから。ゆっくりと人格の書き換えをしていきましょう」


 こうして私は、ザーニスのビルの中の個室で寝泊まりして、人間アバターと交代する準備をすることになる。

 私は私を引退して、次の私に引き継ぐ。ザーニスのコンピューターの中には、いろんなケースに対応できる人格のパターンがある。

 次の私は優秀で、親の言うことに素直で、ストレスで病んだりしない、タフな私になることだろう。

 それなら安心して家族と暮らせる。田所家に嫁いでも上手くいくのだろう。


◇◇◇◇◇


 私の人生とは蝶の見る夢なのか、そんなことを考えた人がいるらしい。蝶が飛ぶ夢を見て、そんなことを思いついたという。

 自分の人生が自分のものとは思えない。何かを決めたことも、何かを選んだことも無く、周囲に流されて生きてきた。

 だけどそれさえもこなすことは出来ず、満足に生きていくこともできないみたい。五体満足で産まれようと、少しばかり見た目が良くとも、それを活かして何事かできた憶えも無い。

 努力して到達した、少しばかりの達成感も満足感というものも、何の役にも立たず摩り減って消えていくだけ。後には何も残らない。虚無感だけが心に残る。


 自信とは、自分を信じると書く言葉で、自分を信じられ無い者は、自信など身につかない。我思う故に我在り、と言うけれど、思うだけでは生きていくことはできない。

 その上、自ら終わらせることもできないままに、今はこうして海を眺める。ゲームの中で。


 波の音に身を任せ、海を見ていると、涙が出る。涙の理由は、自分でも解らない。

 海から生命が産まれたのなら、私の生命が海に帰りたがっているのだろうか。そしてこんな想いすらも、蝶の見る夢なのか。夢の中で、何を求めて何処へ行くのか。何処へも行けないのか。


「他にも深海に眠る大いなる神が見る夢が、俺たちの世界だ、というコズミックホラーもある」

「そうなの? いろいろと、読んでみたいわ」


 夕日が海に溶けるように沈み、夜空には星が、海と大地を優しく見守る瞳のように、大きな水晶の月が夜に浮かぶ。

 ザウ、ザウ、と波の音が、まるで深い海の底に眠る大きな生き物の、鼓動のように繰り返す。

 砂浜に足を伸ばして座る私。クウ、金髪のエルフのクウは私の背凭れになる。私の背後から手を伸ばして、私を胸に抱くように。


 クウが、ふぅ、と息を吐く。


「リイ、なんで猫尾族キャットテイルにしたんだ?」

「なんで、と言われても」


 今の私の姿に触れる。この姿はもとの和泉理伊とは違うけれど、人とは大きく変わらない。もとの姿とは違う私に、なってみたかった。

 このゲームの中の種族のひとつ。猫尾族キャットテイル。頭に猫の耳、お尻に猫の長い尻尾。

 頭に猫の耳があるということに、慣れるのに時間がかかった。今でもシャワーで頭を洗おうとして、耳にお湯が入ってビックリしたりする。

 お尻の尻尾も思う通りに動かすのが、今もまだ練習中。


「影追さんが、猫尾族キャットテイルがおすすめだって」

「あの人はそういうかもだけどさ」

「それにクウが魔法系でしょう? 相性がいいのは戦闘系だって影追さんが」


 猫尾族キャットテイルの種族の特徴は、魔法系が苦手な代わりに戦闘系が得意だという。クウが反対の種族特徴のエルフで魔法使い。


「クウをサポートするなら前衛できるのがいいって」

「組み合わせとしてはいいけれど」

「私が猫尾族キャットテイルだと何か良くないことでも?」

「いや、リイには似合っていて可愛いよ」


 私を背中から抱きしめて、後ろから耳元に囁くクウ。転校した先で同級生に怪我をさせて停学になったと聞いたけれど、未だに信じられ無い。こんなに穏やかで優しいクウが。

 環境を変えると性格も変わるということみたい。私もここに来てからは何だか変わってきたような気がする。

 何もしたくないと思っていたのが、この世界のいろんなところを見てみたくなった。クウとクウの友達とあちこちに行って、今は私のレベル上げを手伝ってもらっている。


「『Beyond Fantasy memories』に来て良かった。ここなら私でも生きていけそう。これが生まれ変わった気分?」

「生まれ変わり、か。俺はもとの世界が、現実が地獄なんだと思う」

「あちらの世界が、地獄?」

「きっと俺達は前世で酷い罰を受けるようなことをしたんだろう。それで地球っていう地獄に落とされた。そこで苦しんで罪を購うまで苦しんで生きろって」

「それなら私達は勝手に地獄を抜け出したのだから、怒られてしまうのかもね」


 苦しみから逃げ出す為に作られた、人造の楽園。人は自分の手で天国を作り出せるようになった。

 かつての自分の身体を人造の魂に譲って。

 私の身体に入ったNPCは当然ながら私よりも上手に和泉理伊を演じている。私が使わなかった単語を駆使して家族とも会話をし、今では同級生とも仲良くなっている。

 私にはできなかったことを私の代わりにしてくれる。私では無理だった和泉理伊の幸せな人生を綴ってくれる。

 それを『Beyond Fantasy memories』の世界から眺めることもできる。現実から離れたこの世界から。


「……そして、それがどうしてもできなかった者は、この輪から泣く泣く立ち去るがよい」

「歓喜の歌、か」

「私のような欠陥品が現実からいなくなれば、皆は幸せになれる。そういう歌だったのね」

「それはどうだろう? 人は自分より弱い人をいたぶることで、日々のストレスを発散して生きているから。自分を欠陥品と信じ込んで抵抗しないサンドバッグも、人の社会に必要なんだろ」


 こっちのクウはソラと違って、たまにこんなことを言う。これがクウの本音みたい。


「リイは欠陥品なんかじゃ無い」

「どうしてクウは、ソラは、私のことを気にかけるの? 昔、一緒に遊んでいただけなのに」

「一緒に遊ぶ友達がいなかったのに、側にいたのはリイだけじゃないか」

「それはお互い様だと思う」


 昔、御原空の父親が犯罪者として捕まった。それは何年もしてから冤罪だと解ったけれど、それまで犯罪者の家族として、御原空はいろいろとあったらしい。


 誰もが思うままに生きられない。誰もが真っ直ぐには生きられない。理想というものは現実の中には存在しないから、理想と言う。

 見栄と体面と世間体が、人の一生を押し潰す。その犠牲を積み上げることで、人の社会は成り立っている。現実世界とは過酷で、本当に地獄のようだ。


 寄せては返す海の声を聞きながら、頭上の蒼い水晶の月を見上げる。深い青の中に浮かぶ夜の瞳は星に彩られていて、見つめていると涙が出る。

 人造の風景に心を揺さぶられる。人の作った景色、情報で作られた身体。全てが作り物に包まれた世界の中で、


「とっても、綺麗」


 私は、ようやく私の心から浮かぶ想いを、溢すように口から言葉にする。もう何年もしてこなかったことを。背中に触れるクウの胸に身を預けて力を抜く。


「クウが、あったかい……」


 人が思うままに言葉を口にできるのも、思うままに身体を動かすことができるのも、もう作られた仮想の世界の中でしかできないことなのかもしれない。

 何もかもが作り物の中で、私の心が言葉を紡ぐ。私の本当の気持ちが音になる。


「……クウ、ありがとう」


 クウは返事の代わりに私を抱く手に力を込める。私の頭に頬をつける。クウの吐息が、頭の猫耳に触れて、ちょっとくすぐったい。それが心地好い。

 人に触れる温もりがこんなに心安らぐものだと、初めて知った。

 

『汝が魔力は再び結び合わせる、時流が強く切り離したものを』


 心と身体に別れた私、リイと和泉理伊は、この先、再びもとに結び合わさる時が来るのだろうか? 私があの現実に戻る日が。

 そんな日は永遠に来なければいい。


「……我々は火のように酔いしれて、崇高な汝の聖所に入る」

「……そうだ、地上にただ一人だけでも、心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ」


 クウと二人、囁くように歌う歓喜の歌が、夜の海の波の音に溶けていく。

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