第十五幕 約束
今朝降った雨はすっかり上がり、一面ににごった青空が広がっている。風が湿気をつれて通り抜けリリネスの髪をふき上げた。おろした髪は帽子に押し込むことなく耳にかけて、搬入口からつづく階段を降りる。ラニを追ってここをすり抜たのがほんの六日前であると、リリネス自身が信じられない想いだった。
着替えて化粧を落としたリリネスは、そのまま劇場を抜け出した。誰にも何も告げなかった。夢のあとはすべてが寒々と身に染みる。
ラニには会わずに去ろうと決めた。たくさんのものをもらい、約束どおりリリネスにだけ特別な光をくれた特別な人。そんな大事な人にかける言葉など、永遠を百度使いきっても思いつかないと思ったのだ。
鼻をすすって植え込みの脇から自転車を引っ張り出したところで、搬入口の扉が乱暴に開いた。
「アニー!」
「ナナ!」
数段ある階段をひとっ飛びに降りて、ナナはリリネスのそばにかけ寄った。
「あいさつもないなんて、本当に礼儀知らずだよね」
「ごめんなさい。迷惑ばかりかけて」
「おれはラニさんの意向に従っただけだから」
「あこがれの舞台はどうだった?」
リリネスは湧き上がる興奮を抑えるように、両手をかたく握り合わせた。
「とても、とてもすてきだったわ! 言葉ではうまく説明できないくらいに!」
ナナはカラカラとたのしげに笑う。
「うんうん。わかるよ。そんな感じに歌ってたから。よかったね、夢が叶って」
心からのよろこびを添えて、ナナは笑顔をリリネスに贈った。
「本当にありがとう。ナナのおかげよ」
「だからおれじゃないってば。アニーのがんばりと運が、いろんなものを引き寄せたんだよ」
マーピー・ジル、イゾルデ、ミイナ、ミルカ、ターニア、サンドラ、ニコール、アニカ、ヴィオラローザ、ナナ、そしてフィオゼン、誰よりもラニ。たくさんの人に支えられ、許され、リリネスは夢を叶えた。これ以上を望んではいけない。
劇場は夢を与えてくれる場所。でもそこから一歩出たら、誰もが現実を生きなければならない。それでも夢はただの夢ではなく、明日の現実を生きるために力を与えてくれるものだ。
「だけどさ、あんな私情丸出しの照明、おれ見たことないよ」
ナナは大袈裟にしぶい表情をつくる。
「キャットウォークで塩水調光なんて危ないこと、よくやったよね。感電したり燈体落としたら大変だよ。ラニさん、ふだんなら絶対許可しないくせに」
リリネスは自分が怒られているような気持ちになって小さくちぢこまる。
「物語の筋書き的にもあそこで村娘があんなにかがやく意味ないじゃん? 演出の意向無視なんて自分の信条までねじ曲げてさ。なにやってんだろ、あの人」
「それで、ラニは大丈夫なの……?」
「いまごろジルさんにこっぴどく怒られてるんじゃない? 当然だよね」
「辞めさせられたりしない?」
「それはないない。いまのところ、ラニさんよりここの照明扱える人いないし」
リリネスはほっと胸をなで下ろした。自分に肩入れしたせいで、ラニから照明を奪うようなことがあってはならない。
「じゃあ、もう行くね」
リリネスがそう言うと、ナナは大きく手を広げた。
「ラニさんに怒られちゃうかな? でもここにいないあの人のほうが悪いし。それともアニーにこんなことしたら、おれの首飛ぶ?」
リリネスは笑って否定し、みずからナナの腕の中へ飛び込んだ。
「ナナ、本当にありがとう」
「アニー、元気で。またきっとどこかでね」
十数年ののち、ナナは王立劇場の配光係としてリリネスに再会する。「久しぶり、アニー」と片目を閉じてみせ、リリネスの周囲をざわつかせることになるのだが、このときはまた会えるとはどちらも信じていなかった。
ナナに見送られて自転車を走らせると冷たい風が心地よかった。劇場を出た人たちとともに流れ出る興奮も風が運んでいく。
人を避けながら正面入口の前を通り過ぎようとして、目の前に飛び出してきた人影にあわててブレーキをかける。
「ラニ!」
ラニは自転車に走り寄ると、奪うように自分が乗った。
「うしろに乗れ」
「なぜ?」
「逃げてきた。だから早く!」
ラニの剣幕に押されてリリネスは荷台にまたがった。人が乗るためのものではないから固くて痛い。
「しっかりつかまれ。行くぞ」
手を取られてラニの腰に回され、リリネスは強くしがみつく。
「で、どこに帰ればいい?」
「……コルトー伯爵別邸」
「それどこ?」
「西の郊外。博物館の近く」
リリネスを乗せているのに彼女がひとりで乗るときより速かった。びゅんびゅんと耳元で風が鳴る。長い髪が飛ばされて、色彩のとぼしい街並みの中を光の帯のようになびいていく。
湿った土の匂いに混じって、どこかでパンの焼ける匂いがした。遠く列車の走る音も聞こえる。そのすべてに自転車の車輪の音が重なっている。
カタンと自転車が跳ねる。歩いているときは気にならないほどの小石でも、車輪がのると宙に浮いた。どんなに小さなゆれでも自転車が浮くたびに、ラニはリリネスの手を押さえた。一瞬手を重ね、自転車が安定すると離れていく。風で冷やされたラニの手はリリネスのものより冷たかった。
川沿いに出ると風と湿気が強くなった。スモッグの向こうから、傾きはじめた太陽が弱々しい光を川面に落としている。
その光をたどって見上げると、半分ほど葉を落とした枝の間からにごった青空が見えた。街路樹の間を、いまは灯のない街灯が現れてはうしろへと流れていく。
この空を見るたび、街灯や明かりを見るたび、ラニを思い出すのだろう。いつまでも忘れさせないために、あの瞳は空のいろをしているのかもしれない。
空の瞳を持つ人の背中は、硬くあたたかかった。生なりのシャツからは埃と汗とふしぎな匂いがする。六日前はわからなかったその匂いは照明機材のものだった。ラニは劇場と 照明の匂いがする。
リリネスは大きくその匂いを吸い込んで、ふうっと吐いた。ぬくもりに頬を寄せ、抱きしめる手に力を込める。
「いい匂い」
吐息に混ぜたつぶやきは風に飛ばされ流れて消えた。ラニには聞こえていないらしい。それならばいっそ想いの丈をすべて言葉にしてしまおうかと思ったが、結局背中に顔を埋めた。
博物館が目の前に迫っている。
「あ、ここだ!」
「ここ? はあ、やっと着いたな」
近くまで来ながらさんざん道に迷って、ふたりはようやくコルトー伯爵別邸にたどり着いた。正面玄関は固く閉ざされ、ここから先はまた別の世界であるようだった。
「着いてしまったわね」
あたりの景色を見回してラニは顔をゆがめる。
「だからさっきのところを左じゃないかって、おれ言ったよな?」
「でもいつも通る道とは反対方向だったのだもの」
自転車を降り、尻の痛みでふらつきながらリリネスは裏口へと歩き出す。自転車を引いてラニも一緒に歩いた。大きな屋敷ではあるが裏門までの距離はせいぜいひと区画。まもなく別れの時が来る。ふたりの歩みは、一度に靴の長さ分しか進まないほどに遅くなっていた。
「博物館ならいま来た道のほうが一般的だ」
「そんなこと知らないわ」
「リリは知らないことばっかりだな。ボヤッとしてると、また変なことに巻き込まれるぞ」
「ボヤッとなんかしてない」
「してる」
「してない。変なことにも巻き込まれていないわ」
「それは運が良かっただけだ。すぐつけこまれる」
「『つけこまれる』ってラニのこと?」
「なんでおれなんだよ」
「だって昨日あちこち触ったでしょう? 私、ちゃんと気づいてたのよ」
ラニは真っ赤にそまった顔を片手で覆った。
「それ、言わなくていいだろ」
「私『つけこまれた』の?」
「そうだよ! ちょっとくらい許せよ」
「うん、いいの。ちょっとでなくても、何でもよかったの」
リリネスの瞳はどんどん暗がりへ落ちていく。
「どうなってもよかったの。あのまま落ちて、死んでしまいたいくらいだった」
ラニは冷静であろうとするように表情を引きしめる。
「わかってた。だけどだめだ」
もしキスが跡を残すようなものならば、ラニはそれもしなかっただろう。リリネスの気持ちを大事にしながらも、決してつれ去ってはくれない人なのだ。いまもちいさな歩幅で、それでも確実に「リリ」を元の世界に返そうとしている。
裏口ではヴィオラローザが何度も裏門から顔を出して通りを見ながら、リリネスの帰りを待っていた。
「ヴィオラ」
「リリネス! よかった。無事だったみたいね」
リリネスに声をかけたヴィオラローザは、隣のラニに気づいて口を押さえた。表情を固く閉ざし、伯爵家の令嬢然とした態度でラニの前に立つ。
「彼女を送ってくださってありがとう」
ラニは何も答えず、ただリリネスだけを瞳に映していた。リリネスも一向に屋敷に入る素振りを見せない。
根負けしたヴィオラローザは、ふたりを睨んだまま裏口へと歩き出す。
「五分後に迎えに来るわ」
ヴィオラローザの姿が見えなくなると、リリネスは耐えきれずにラニに抱きついた。ふたりの足元で大きな音を立てて自転車が倒れる。ラニの左肩に涙と泣き声がどんどん染みていく。リリネスをしっかり抱きとめたラニも、込み上げる何かを飲み下して喉仏を上下させた。
ラニとのキスはいつも涙の味がする。秋風で頬も唇も冷えていて、口の中は一層熱く感じられた。その熱はリリネスの内側をあつくさせたが、心の中はあたたまらない。込み上げる嗚咽で苦しくなると、ラニは短くも深いキスを何度も何度もくり返した。
リリネスとのキスはやはり涙の味がする。こんなにやわらかな人はこのまま自分の中に溶かしてしまえるのではないかと思えるのに、どんなに口づけてもいっこうに溶けてはくれなかった。
五分と言ったヴィオラローザはたっぷり十分待ってから扉を開けたのだが、ラニは約束よりかなり早く彼女は来たのだと疑った。言葉を交わす時間さえ惜しんで口づけても、到底心は満たされない。それでも、言葉にすればうすまってしまうほどの想いを必死に唇に託した。
視線はそらしてはいるものの、眉をひそめるヴィオラローザにこれ以上時間を許すつもりはないようだった。
ラニが少しリリネスとの距離をあけると、リリネスの涙の
「明かりをありがとう」
しゃくり上げながらリリネスは言った。癖のない髪の毛に手をさし入れると、その奥に片手におさまりそうな小さな頭を感じる。リリネスの頭は石鹸とリリネス自身の匂いが混ざり合った甘い香りがする。いまはそこに落とした化粧の残り香もあった。
「私、絶対に一生忘れないわ」
ラニにはリリネスにかける言葉が何ひとつなかった。ただアクア・グレイの瞳に熱を灯して、彼女の言葉と涙を受け入れることしかできない。いま確かに腕の中にあるぬくもりは、まもなく消えてしまう。
「あなたは望まないと思うけど、あの光はかならず返すわ。私も誰かに何かを与えられる人になる。絶対に約束する。だから、ずっと照明をつづけてね」
リリネスの言っていることがラニにはさっぱりわからない。わからなくて構わなかった。それがどんな未来であれ、いまリリネスと別れたあとのことなど、もうどうでもよかった。
「ありがとう」
精一杯無理をしてリリネスは笑った。さようならと言われたほうがどれほど楽だったかと思うような胸の痛みだった。
リリネスは身を翻して裏門から屋敷に入る。クリーミーブロンドの髪がラニの指の間をすり抜けていった。
扉を閉めたリリネスはその場に崩れ落ちた。かなしみでもう立っていられないくせに、この脚はいまにも走ってラニの元にもどろうとする。
ラニが何も言わないことに、一抹の寂しさがあったことは否定できない。しかし、リリネスはラニの想いをただしく受け取ったつもりだった。言葉を飲み込むことで、ともすればすべてを捨てかねなかったリリネスを瀬戸際のところでとどまらせてくれた。
夢を叶えたあとは、死んだように生きるのだと覚悟していた。でもいまは自分のするべきことが見える。ラニはこれからもリリネスの未来をずっと照らしてくれている。
「そういえば、『ラニ』って
どれでも構わない、とリリネスは考えることをやめた。彼女にとって『ラニ』は『ラニ』でしかない。きっとラニも、生涯彼女を『リリ』として覚えていてくれるに違いないのだから。
立ち上がった右脛のあざは、だいぶいろがうすれていた。
「その自転車は差し上げます。帰るときお困りでしょう?」
倒れた自転車を起こしたラニに、ヴィオラローザは冷たく言い放った。
「彼女を助けてくれた報酬は、のちほど劇場に届けます。おいくらでもお好きな額を言っていただいて結構ですわ。ですから、このことは他言無用に願います。それがあなたのためでもあります」
言外に命の危険まで匂わせて、ヴィオラローザはラニに迫った。おまえが気に入らない、と毛を逆立てる彼女はどうやら『リリネス』の友人であるようだ。
ラニはヴィオラローザの目の前に自転車を運んでストッパーをかけた。
「リリのことに関して報酬をもらう気はねぇよ」
ヴィオラローザの眉がつり上がる。「リリ」と呼んだことが気に入らないらしい。しかしラニは他の名で彼女を呼ぶつもりはない。
ラニはヴィオラローザをちらりとも見ない。いかに身分が高かろうと、リリネスと親しい相手だろうと興味がないのだ。ただリリネスが去った扉だけを見ていた。その向こうにいるリリネスが見えているようだった。
「もちろん今後一切関わらないし、誰かに話したりもしない。信用できねぇなら好きにすればいい。おれひとり消すくらい、かんたんなことだろ」
ほうっと、ヴィオラローザは目を見張る。ほんの少しだけ、逆立てる毛の量が少なくなった。
承諾のしるしのようにヴィオラローザは自転車を受け取った。
そのヴィオラローザを振り返ることもなく、ラニは劇場へと歩き出した。背後から吹いた風が枯れ葉を運んで、導くように道の先を走っていく。
大切なものを失っても人生はそこで終わりはしない。くだらない未来でもつづいていく。そしてその先でもずっと照明をやれと彼女は言った。
未来へと踏み出したコットンシューズのパタパタという足音が聞こえるような気がした。
つい先刻までリリネスの髪に降りていたとうめいな光はすでに赤みを帯び、ラニの行く手に長い影をつくっている。茜いろは世界の輪郭をぼやかして、すべてが夢だったのではないかと思わせる。
しかし左肩が濡れて冷たかった。その左肩に触れてラニは強く唇を噛む。そこはリリネスとのキスと同じ味がした。
どんなに嫌だと叫んでも、劇場に着くまでにこの肩は乾いているだろう。この瞳もそうしなければ。
にじむ影を一歩追うたび、星のない夜が近づいてくる。
夜公演には“アニカ”がいない。また別の誰かが舞台に立たなくてはならない。歩いて帰って、そのことを伝えて、照明の確認をして……間に合うだろうか。確認ならばナナが代わってくれるだろうが、その前にジルの説教もひと通り聞かねばなるまい。
「思ったより時間ねぇな」
幻を振り切るように、ラニは現実にむかって走り出した。
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