第十三幕 光の下
乱暴に赤い丸印がつけられた紙きれをリリネスは握りしめていた。望んで望んで望んでとうとう手に入れたものであるのに、よろこびよりもとまどいが大きく、そのこと自体にも動揺していた。
◇
今朝早くエリュセント伯爵邸からヴィオラローザの元に電話があった。リリネスは裏門を開けて自転車で出ようとしていたところで、そのハンドルを走ってきたヴィオラローザがつかんで引きとめた。
「今日、フィオゼン様が、エリュセント伯爵家を、お訪ねになるそうよ」
息を切らしてつっかえながらも、ヴィオラローザは早口で言い切った。いつも隙のない彼女にはめずらしくうしろの髪がひと房前にたれ下がっていた。
「フィオゼン様が?」
「お近くにご用ができて、そのついでに。今日はこのまま、もどったほうがいいわ」
リリネスは自転車のハンドルをつよく握りしめて首を横に振った。
「わかってる? 相手は王太子様なのよ? もし騒ぎになったら、いくらエリュセント家の力が強くてもただの婚約破棄だけでは済まないわ。あなたひとりの問題ではないのよ!」
「わかってる。わかってるけど、でも今日で最後なの! 本当の本当に最後なのよ!」
ヴィオラローザがハンドルを引っ張ると、リリネスが引きもどす。もう一度ヴィオラローザがハンドルを引っ張ると、身体ごとよじってその手から自転車を奪い返した。かたくななリリネスの態度に、ヴィオラローザは爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめて言った。
「これまでいろいろ協力してきたけれど、今回だけはできないわ。万が一のことがあったら、あなたもエリュセント家も、それからあなたの大事な人も終わりなのよ?」
『大事な人』という言葉に反応してリリネスはヴィオラローザの顔を見た。令嬢らしからぬ眉間に寄せた深いしわが、リリネスが抱えるいとしい秘密を責めている。
とうに覚悟は決めたはずなのに、リリネスはうなずくことができなかった。けれどここでやめることはもっとできなかった。
自転車を押しながら走って裏門を飛び出す。その勢いのまま飛び乗った。
「リリネス!」
ヴィオラローザの掠れるほど大きな呼び声も脚に力をこめて振りきった。
それでも迷いながら漕ぐ力は弱く、いつもより時間がかかる。暗い空を映した暗い川面は変わらないおだやかな表情を見せていたが、しばらくするとその上にぽつりぽつりと波紋があらわれた。傘もなく雨宿りしているひまもないため、うつむいて身体を前に倒し、力ない脚を叱咤する。早く漕ぐほどに身に受ける雨粒の強さも増した。
風が冷たかった。冬の気配をふくんだ風は日ごとにきびしくなっており、濡れた身体からひとなでごとに体温を奪っていく。
しっとりと濡れて劇場に入ったリリネスに、待ち構えていたミイナがタオルをかぶせてその背を押した。
「もうクジ引きがはじまるわ。急いで」
ラニやナナの顔を見る間もなく、リリネスは寒さで赤くなった指先をクジに伸ばすことになった。
ミルカは今朝、今日から舞台に復帰すると言ったらしい。彼女もまた自分の場所を取られまいと必死なのだ。しかし病み上がりの喉を酷使すると余計に傷めかねない。ジルは今日まで代役を立て、明日からミルカの復帰を決めた。リリネスだけでなく全員にとって最後のクジだった。
もし外れたらそのままエリュセント邸に帰ろうと思っていた。心のどこかでどうせ外れるに決まっていると思っていた。ところがそんな今日に限って、引いた紙には赤い印があったのだ。
◇
「台詞と立ち位置は入念に確認を」
ジルに言われ、村娘1役のサンドラと村娘3役のニコールに付き合ってもらい、リリネスは練習に励んだ。何度も観た舞台で、歌も台詞も覚えているのに、いざ演じる側になってみるとあいまいなことが多かった。サンドラやニコールが歌っているときの立ち位置や仕草、舞台に上がるタイミングと、去るタイミング。それらを短い時間で完璧に覚えなくてはならない。
迷っていた。でも迷っているひまもなかった。いつもなら照明室でのんびり過ごしていた時間は、またたく間に過ぎて行った。
「アニカ、こっちに来て」
ミイナに呼ばれて楽屋に行くと、村娘の衣装に着替えるように言われた。
「私とあなただとだいぶ体型が違うからね」
リリネスが着たままの衣装にミイナは高速で針を刺す。袖丈をつめ、腰回りとスカート丈をつめ、さらにうつくしい曲線が出るように形を調整していく。
「私ね、もう役者はやらないわ」
スカートの裾を縫いながらミイナが言う。
「舞台に上がってみて、自分には向かないなってわかったの。私は自分がつくった衣装が舞台を舞うのを見てるほうがいい」
手は動かしたまま上目遣いでリリネスを見上げ、ふふっと笑った。
「あなたがあんまり必死だから、私も触発されちゃって。でも、おかげですっきりあきらめがついた。感謝してる。ありがとう」
舞台に焦がれるものは多いが、イゾルデのように舞台に愛される人間はわずか。ミイナはあの光の下に立って自分の居場所を見つけたらしい。そしてリリネスもまた光の下に居場所はない。
「私もこれが最後だから」
「あら、どうして?」
「最初からそのつもりだったの」
ミイナは糸を噛み切り、少し離れてスカートの仕上がりを確認する。
「もったいない。あなたの歌とてもいいわよ。きっともっとうまくなるわ。台詞回しはひどいけど」
リリネスは苦笑いで応えた。鏡に映る村娘はずいぶんと不安そうな表情をしている。
衣装ができて化粧を終えても、台詞と歌の練習をしながらも、リリネスは何度も扉を気にしていた。何か問題が起こったらエリュセント家からでもコルトー家からでも、使いが知らせに来てくれるはずだ。何も起こってなければいい。それとも使いも出せないほど緊迫しているのだろうか。
幾度目か扉に目をやったリリネスの頬でパァンと音がした。一瞬遅れて痛みがやってくる。
「集中しなさい」
目の前に立つイゾルデの目は冷たく燃えるようだった。
「舞台に立つ気がないなら、すぐ誰かに代わってもらうのね。代わりなんていくらでもいるでしょう?」
たとえ一度きりの端役であっても中途半端は許さない。「親の死に目であっても舞台に立つ人でなし」と揶揄される役者のすさまじい姿をリリネスは見た。
「舞台に立ちます」
睨み返しながら答えるとイゾルデはリリネスの手を引いて鏡の前に連れて行った。顎に指をかけ、角度を変えつつリリネスの顔を眺める。
「舞台に立つには化粧がうすすぎるわ」
リリネスの顔に粉をふんだんにはたき、銀色に縁取った目をさらに銀色と黒で強調した。
「ちょっとそっとの化粧だと照明で飛んじゃうのよ」
眉毛の形も大きく変えられ、仕上げに真っ赤な紅を三重に重ねる。
「できた」
鏡に映っていたのは人ならぬ星の化身で、リリネスとはかけ離れたものだった。ほうけたように鏡をのぞくリリネスの両肩を、イゾルデが強くたたく。
「ちょっと見たくらいじゃ、親しい人でさえあなただってわからないわね」
耳元でささやく唇は意味ありげに弧を描く。リリネスはおどろいて振り返ったが、
「じゃ、せいぜいがんばりなさい」
彼女はいま言ったことさえ忘れているかのように無関心に楽屋を出て行った。
「私たちも待機するよ」
ニコールに背中を押され明るい楽屋を出ると、舞台裏の暗さが一層感じられた。舞台セットの板と板の隙間から客席を照らす明かりが漏れている。
見上げた天井には大きな燈体がいくつもぶら下がり、まぶしい明かりを落としている。よく耳を澄ませると、シリシリという電気の流れる音が聞こえてきそうだ。梁の上から燈体を吊るしたときのラニの汗を思い出す。
なぜ迷っていたのだろう。この光の下に立てるのは、いましかないのに。
客席から人のざわめきが聞こえる。それがいつもより大きく感じるのは、照明室ではなく舞台裏にいるからだろうか。待機する役者たちもざわざわと落ち着きがない。走ってきたひとりが、ひそひそとイゾルデに何かを告げ、彼女はこくんとひとつうなずいた。何かトラブルでもあったのかもしれない。けれど集中し始めたリリネスは、そのことからもすぐに頭を切りかえた。
カラン、カラン、と開演の鐘が鳴ると、観客の視線が舞台裏まで流れてくるようだった。
ブオンと音がして、舞台が光であふれた。背筋を伸ばして顔を上げ、イゾルデがその光の中へと出ていく。わあっという歓声が上がった。しかしそれもイゾルデが息を吸うとぴたりとやんで、第一声を期待する騒がしいしずけさが広がった。
イゾルデの歌は何度も聴いたが、こうして同じ目線で聴くとそれは桁違いだった。その場を制圧するような声量、広い音域、さりげなくも高度な歌唱技術、そしてそんな技術的な評価など忘れて酔わせるほどの表現力。これが「切りつめて貯めたお金を払うに値する歌」なのだ。
「行くよ」
サンドラに背中を押され、リリネスは舞台袖に立った。緊張で呼吸が浅くなっている。意識的に深呼吸をくり返したけれど、平常心を取りもどすことはむずかしそうだった。
サンドラがとび出して、リリネスは覚悟を決めきれないまますぐあとにつづく。燈体からの光は思った以上に明るく、思った以上に熱かった。ふだん邸宅で点いている照明ともランプの明かりとも違って、肌を打つ感触がある。いまリリネスの髪を、白い肌を、ラニのつくった光と熱がつつみ込んでいた。
大きな声で間違えずに言えたけれど、台詞回しはやはりひどいものだった。数日でそれほど上達するはずもない。恥ずかしくてうつむきそうになる顔を必死に上げていると、客席の向こうにほんのりランプが灯された照明室が見えた。リリネスの視線を受けて、ナナが笑顔で拳を突き上げる。
ラニがいない。
そう思ったとき、頭をそっとなでるようなあたたかさを感じた。
サンドラが歌い始める。つづけてリリネスも歌い、ニコールがつづく。その間にも感じる熱はどんどん強くなっていた。
歌いながら見上げると、キャットウォークの上にラニがいた。片手で盥の中に二等辺三角形の金属板をしずめ、もう片方の手で小さな燈体を持っている。その明かりはリリネスにむかって少しずつ少しずつ光量を上げていた。
とたんに照明の熱が肌触りを変えたような気がした。ラニの腕の中で歌っているような気持ちになり、これまでにないほど声はよく伸びた。自分からあふれる感情がそこに乗っていくのも感じる。何も考えられないほどの幸福は、ラニとのキスにどこか似ていた。
◇
リリネスが動くたび、ラニは燈体の角度を変える。右手で燈体を持ち、左手で光量を調節するのは神経を使った。燈体はその上で玉子が焼けるほどに熱くなる。本来手で持つものではないから革の手袋をしていても熱く、中は汗をびっしょりかいている。額から流れる汗はぬぐうことができず、顎から膝へと落ちていた。
光の中でリリネスはたのしそうに歌っている。濃い化粧のおかげで光に負けず、育ちの良さをうかがわせる洗練された仕草もよく映えた。特にクリーミーブロンドの髪は光と一体となり、リリネス自身が発光しているようにも見えた。
ただたのしい、ただいとおしい、と全身で歌う。それは村娘の演技としては失格だが、ここから先望む道をすすめないリリネスの一瞬の輝きは不思議な感慨深さがあった。
リリネスの出番が終わりに近づき、ラニはゆっくりと金属板を引き上げる。去り際、一度天井を見上げたリリネスの瞳に消えかけた燈体の明かりがきらりと反射した。
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