第十二幕 夢追い姫と明かり屋

 梯子の一段目に脚をのせ伸び上がってキャットウォークをのぞき込んだナナは、ため息に弱りきった声をのせた。


「アニー、もう降りておいでよ」


 キャットウォークの先端でまるまった背中は動く気配がない。客席からこぼれる明かりだけでは暗く、知らない人間が見たらそこに人がいることさえ気づかないだろう。


「言い過ぎたって! ごめんってば!」


 さらに張り上げたナナの声は確実に届いているはずだが、リリネスはやはり動かなかった。


「そんなに落ち込むことかな?」


 ナナは照明室をのぞき込んで操作卓前のラニに訊いた。退屈そうにあくびをしたラニの頭は、いまにも頬杖からずり落ちそうだ。


「チャンスはあと一回あるかないからしいからな」


 二日目の抽選でもリリネスははずれた。昨日よりひとり減って、確率は四分の一。当たったのはミイナだった。

 喉を痛めていたミルカの回復は思ったよりも早く、明日には舞台にもどれるかもしれないと言う。そうなればもうチャンスはない。

 照明室で肩を落とすリリネスに、さすがに焦れたナナが、いつまでそうしてるつもり? 仕事の邪魔だよと言ったのだ。それきりリリネスはキャットウォークの隅に引き込もって降りて来ない。


「ほっとけ。それより確認するから卓の操作頼む」


 大道具の修理が終わったと見るや、ラニは立ち上がって客席に降りた。照明の点灯をひとつひとつ確認しながら天井を見上げると、キャットウォークの上にまるまった影がちらりと見える。どこを見ているのか、泣いているのか、ラニの位置からはわからなかった。


「はい。終了!」


 ナナに告げてラニは照明室にもどる。


「じゃあ、おれ行くけど……」


 眉を下げながら梁を見てナナが言う。


「気にしなくていい。別に支障はないから」


 照明班と入れかえに音響班がスピーカーの調整をはじめていた。舞台の上ではミイナが真剣に立ち位置の確認をしている。ラニは木箱に座ってその様子を見ているつもりだったが、視線は知らずそれより上にむいていた。



 照明が順番に点いては消える様子を、リリネスはキャットウォークから見ていた。燈体は点灯するときブオンという音がする。コードもときどきシリシリと細かく鳴る。照明は魔法ではなく人の手がつくり出したものなのだと、電気の流れを感じながら思っていた。


『すげぇ! って思わねぇ?』


 一点だけまるく照らされた舞台を見下ろし、決してそこに立つことはない人を想って、リリネスは幾度目かになるため息を舞台にむかって落とした。舞台の上で光を浴びることは思っていたよりむずかしく、舞台の外にいる人に光を当てることはさらにむずかしい。

 与えてもらう一方であるのに、欲しいものは増えるばかりで、しかも手に入れることが叶わないものばかりだった。


「ここから観る舞台も悪くないよな」


 いつの間にかすぐそばにラニがいた。キャットウォークの上であぐらをかいて、舞台を見下ろしている。


「ここは神様の世界みたいね」

「そんないいもんじゃない」


 舞台上ではまだミイナが発声練習をくり返している。彼女にとっても夢にまで見た初舞台なのだ。


「あの照明の下に立つとやめられなくなるんですって」

「そういうことを言っているやつもいるな」

「ミイナにも照明を当てる?」

「それが仕事だ」


 立てた膝に顎をのせて、リリネスは小さく背中をまるめた。


「まだ機会はある。ミルカが復帰したとしても、公演は二週間あるんだから」


 ラニはがらくたの中からまだ使えるものを探したような空々しい言葉をかけたが、本人でさえ信じていないことは明白だった。リリネスは膝の上で首を横に振る。


「舞台に立てても立てなくても、明日で最後なの」

「は?」


 ラニが大きく目を見開いた。


「明日で全部終わりなの」


 動きを確認して舞台上を移動するミイナをリリネスは目で追った。


「今日クジにはずれてね、ガッカリしたのに同時にほっとしたの。もし今日舞台に立てたら、今日で終わりだったから」


 何も言わないラニの視線を頬のあたりに感じていたが、リリネスはそちらを見ずにつづけた。


「私、明日もここに来られるって思ったらうれしくて、ここにいられるなら舞台に立てなくてもいいと思ってしまって、いま頭の中がぐちゃぐちゃなの。私、舞台に立ちたい。でもそれより本当はもっとここにいたい」


 客入れの時間が迫り、舞台には誰もいなくなった。客席を照らす燈体の音は耳鳴りにも似て、いっそ静寂よりもしずかだった。

 かける言葉を探すようにラニが首をめぐらし梁の上を見渡したので、リリネスもまた同じようにあたりを見た。からまり合ったコードやチェーンがぐるぐると巻きついて、さながら燈体が生きて意思を持っているかのようにも思える。意思があるとしたら、この燈体たちはいったい何を照らし出すのだろう。

 トラブルでもあったのか、音響が終わったはずの確認を始めた。スピーカーからはザリザリと割れた音が響く。そのためラニが何て言ったのか、リリネスはわからなかった。


「え? 何?」


 リリネスはラニのすぐそばまで身を寄せた。


「もし、明日きみが舞台に立つことになったら、きみのための照明をつくってやる」


 猫背をめずらしく伸ばしてラニは言い切った。舞台に上げることも、リリネスの境遇を変えることもできないラニは、自分にできる精一杯の約束をリリネスに渡した。


「本当に?」

「本当に」

「燈体も電力も限界なのではないの?」

「……なんとかする」

「本当の本当に?」

「約束する」


 ラニの言葉を抱きしめるようにリリネスは胸の上で手を重ねた。そして、ありがとうと笑った。

 ラニは一瞬目を見張り、内側からあふれるものをなだめるように握り拳をつくった。目頭でふくれ上がった滴のせいで、リリネスにラニの様子は見えていない。長いまつ毛がまばたくとその光の玉も大きさを増す。

 ラニの手がその滴に届くより先に、リリネスは自身の指先でそっとぬぐった。そして気を取り直したようにラニにつめ寄る。


「そういえばずっと気になっているのだけど」

「なんだよ」

「ラニはどうして私を名前で呼んでくれないの? 他の人のことはみんな名前で呼んでいるのに」


 「あんた」「きみ」いつもそんな風にしか呼ばれていない。同じ照明班として過ごしてきたのに、どこか一線を引かれているようでリリネスはさみしかった。

 ラニは目をそらし、ものすごく言いにくそうに告げた。


「名前を知らないから」

「え?」

「きみの名前を、おれは知らない」


 「名前はアニカよ」とリリネスは言えなかった。リリネスの名前が偽名であることも、抱えている事情も、きっといろいろと察している。なぜいつも夜公演までいられないのか。どこに住んでいるのか。なぜ突然現れて、突然去ろうとしているのか。ラニもナナも何も聞かなかった。その上でずっと側に置いてくれていた。


「だったら、『リリ』と」


 何も話すことができないリリネスは、半分の真実にありったけの誠意を込めた。


「『リリ』?」


 リリネスはうなずいた。信じてもらえなくても、これがリリネスにとって限界だった。

 まだうるむ瞳をラニは見つめ息を吸った。そして体温をのせるようにゆっくりと呼んだ。


「リリ」


 自分の呼吸が止まったことにさえリリネスは気づかなかった。音響の調整が終わったことにも、客入れが始まったことにも気づかない。ただ電流が流れたように敏感になった肌を抱えながら、目の前に迫るアクア・グレイに身をまかせた。


「リリ」


 唇を合わせると全身が震えた。助けを求めてラニにしがみついたら、燈体を一度に四つ運べる腕がリリネスの腰と背中に巻きついて、骨がきしむほど抱きしめられる。

 痛くても苦しくてもリリネスはそれを告げなかった。壊れてしまえばいい。身体にこの腕の跡がついて、生涯消えなければいいと思っていたからだ。

 心の内に届けるようなキスと、輪郭をいとおしむようなキスが、絶え間なくくり返された。ラニの手はリリネスのかたちをゆっくりなぞる。あやうく声が漏れそうになるとそれもすかさず飲み込まれた。

 さすがに呼吸が苦しくなったリリネスが身じろいだら、ラニは腕の力を少しだけゆるめる。


「リリ、もしも……」


 乱れる呼吸の合間で、ラニはそう言って言葉をとめた。つづく言葉をリリネスは知らない。それでも聞こうとはしなかった。「もしも」という未来がふたりの間にないことを、よくわかっていたから。

 どんなに強く願っても時はとまらない。永遠などない。世界が変わることもない。

 ラニがリリネスの帽子を取ると、クリーミーブロンドの髪の毛がサラサラと落ちた。その中に手をさし入れ、指に髪の毛をからませながら引き寄せた。

 過去を問うことも、未来を語ることも、いまの想いを告げることさえできないふたりにできたのは、ひたすらなキスだけだった。

 リリネスの頬にはこらえたはずの涙が流れていた。キスをくり返しながら、ラニは幾度も指でそれをぬぐう。いつしかずっと涙の味がしていた。


「リリ」


 名前を呼ばれるたびに、リリネスはラニの唇を含んだ。リリネスのものより薄く、少しだけかたく、触れるたびに涙が溢れる唇だった。

 ふたりの下ではぞくぞくと観客が席についている。しかし今日も誰も上を見上げることはなかった。

 何度名前を呼ばれても、何度唇を重ねても、永遠に満たされることはない。そして開演までの時間は永遠よりずっと短かった。







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