第十一幕 塩水調光
ナナが卓を操作するごとに会場全体が明るくなりまた暗くなり、浅い夢のように絶え間なく変化する。
本番前、照明は必ずすべての燈体が点灯するか調べる。先日のようにフックが壊れていることもある。電球が切れていることもある。何かのきっかけで向きがずれていることもある。そのひとつひとつを確認し燈体を調整するか、必要ならば交換するのだ。
「ナナ、問題ない。終了!」
客席からラニの声がしてナナは照明を客入れ用のものに切りかえる。客席全体を照らす明かりはガラスのない窓をぬけて照明室にもたっぷり届き、リリネスのコットンシューズの爪先もいろを変えた。
「アニー、暗いよー」
部屋の隅にたまるよどみと影に、半分同化したようなリリネスの姿があった。立てた膝の間に顔をうずめているせいで、その返答の声はくぐもっている。
「だって隣の紙だったのよ。一瞬迷ったほうが当たりだったなんて……」
「クジなんてそんなもんじゃん。アニーと同じセリフ、競馬場のオッサンたち全員言ってるよ」
「本当なんだもの」
「本当だとしても仕方ないじゃん。はずれたんだから。また明日がんばったらいいんだからさ。じゃ、おれ受付行ってくる」
ドアが閉まりリリネスは膝の内側にため息を落とした。
◇
オーディションのあと、うなったままなかなか結果を出さないマーピー・ジルをよそにイゾルデが言った。
『一長一短。誰でもいいって感じ』
指先に保湿剤をぬり込み、仕上がりをたしかめるように指を曲げたり開いたりする。その言葉は一見なげやりに聞こえたが、数拍おいてジルも同意した。
『一人目、台詞も歌も悪くはない。が、これと言った長所もない。二人目、演技力はいちばんあったが、声量が足りない。三人目、演技力も声量も申し分ないが、歌唱技術不足。四人目、歌はいちばんよかったが、台詞回しがひどい。五人目、台詞も歌も悪くない。でも体型的に他のふたりとバランスが悪い』
ペンを倒して決めてしまいたいと言わんばかりに、ジルは審査内容を書きつけた紙をペン先でたたく。そのカツカツという音はしずかな舞台の緊張感を高めていく。
『ねえ、もういっそクジで決めたら?』
イゾルデはジルの背中ごしに手を伸ばし、うしろから紙をするりと抜き取った。
『チャンスが欲しいのはみんな一緒だし、飛び抜けた人もいないなら、運まかせでいいんじゃない? ミルカが復帰するまで一日交代で。どう?』
ジルはさすがにためらったが、イゾルデは紙をビリビリと引き裂きはじめた。
『舞台に上がると化ける子もいるしさ。上げてみて将来性を見るのも悪くないと思う』
細く裂いた紙のひとつを唇に押しあて紅のいろを移すと、五本まとめた束をさし出す。それを見てジルもあきらめたようにうなずいた。
『はーい。ひとり一本つかんで。せーのっ!』
リリネスの引いた紙は、白かった。
◇
「そんなに悔しがることないだろ。実力は認められたんだから」
顔を上げると操作卓の前にはラニが座っていた。確認は終わってもその視線はいつも燈体にむけられている。
「『台詞回しはひどい』って言われた」
「そういう評価なら受け入れて努力するしかない」
リリネスはラニの隣に座って舞台を見る。音響の調整がおこなわれており、それぞれのスピーカーからバラバラに音が聴こえる。その中に発声練習の声がまざっていた。当たりクジを引いた二番目に審査した女の子の声だろう。声量不足を補うかのように必死の発声練習はつづいている。
「ラニは選ばれなくてつらかったことはある?」
「それ以前に同じ場所にさえ立てないことばかりだ」
「こんなに立派な仕事をまかされていても?」
「照明なんて、おれでなくても誰でもいいんだ」
リリネスはことわりもせず右から三番目のスイッチを入れた。舞台上部にある小さな鏡がきらきらとかがやく。
「そんなことない。ラニでなければできないわ」
またたくにせ物の星をうっとりと眺めるリリネスをおいて、ラニは照明室を出て行った。何か機嫌をそこねるようなことを言ってしまっただろうかとリリネスが不安になるころ、水をはった
「何それ?」
「ちょっとこっちに座れ」
しめされた床に座ると、ラニは少し離れた位置に盥を置く。
「危ないから触るなよ」
「これ何なの?」
「だだの水」
ラニが小脇に抱えていた袋の口を開け盥の上に傾けると、水の中にさらさらと白い粉が落ちていった。
「それは?」
「塩。この加減が重要なんだ」
幾度か袋を小さく振るようにして塩の量を調整してから、ラニは部屋の隅にあった小ぶりな燈体をもってきて電源をつないだ。燈体からは二本の線が出ており、それぞれの先端にはするどい二等辺三角形の金属板がついている。その片方で塩をかき混ぜて溶かすと、そのまま塩水の中に沈めた。
「よく見てろ」
ラニがもう片方の金属板の先端を塩水に入れると、燈体がブオンと鳴った。おどろいてリリネスの身体がわずかに跳ねる間に、ほんのりと明かりが灯る。
「わ、点いた!」
「この金属板をより深く沈めると、塩水に浸かる面積がふえて電力も強くなる」
ラニが金属板を沈めると、それにともなって明かりが強くなった。ただよう細かな埃が明かりの中でだけ姿を見せ、光の稜線が明瞭になる。
「いちばん明るくしたいときは、金属板同士をくっつける」
カチッと音がすると同時に、小さな燈体から直視できないくらいのまばゆい明かりが放たれた。リリネスが思わず目を閉じると、その明かりはふたたび弱くなる。
「『塩水調光』っていうんだ。ゆっくり出し入れすれば、光に強弱を出せる」
ブオン、と音をさせながら燈体はゆっくり明かりを強め、またゆっくり暗くなっていく。ラニの手の動きに連動してくり返されるそれは、まるで彼自身の熱量に反応しているかのようだった。
「きみが前に言ったように、ただ明かりを点けるのだって、こうして調光できたほうがいい。あの星明かりも調光できればもっと印象が変わる。照明はまだまだ大きな可能性があって、おれはその末端で遊んでるだけだ」
王立劇場には調光できる投光機がある。それはつまり王立劇場の照明係には、より多くの表現方法があるということだ。同じ仕事であっても、立っている場所の違いですでに差が開いている。
ラニが金属板を水から引き上げると明かりは消え、電気の流れる音もしなくなった。元にもどっただけの照明室は、ひどく殺風景なところに思える。
「やっぱり照明が好きなのね。すごく」
ブオン、と燈体が鳴る。ゆっくりゆっくりラニの顔が明るく照らされていく。
「はじめて見たとき太陽かと思った。まぶしくて熱いのに目がはなせなくて危うく視力をそこなうところだったけど、もっと見ていたかった。太陽も月も星もおれの手には届かない。でも照明ならこうして点けることも消すこともできる」
光に照らされたアクア・グレイの瞳は、水の反射を受けてきらきらとゆれていた。
「すげぇ! って思わねぇ?」
生まれたときから照明のある生活があたり前だったリリネスに、その気持ちはわからなかった。けれど明かりというものが人にとって特別な存在であることは理解している。太陽の光を、月や星のかがやきを、人は愛し、求めてきた。光に焦がれた少年は、いまも瞳に光をたたえてリリネスを見ている。
「思うわ。私もこの光の下に立ちたいもの」
それが自然光であれ人工の光であれ、光の降りる場所はいつだって特別な場所なのだ。一心に流れ星を追う少女の気持ちが、リリネスには痛いほどよくわかる。
「本物の太陽より照明が好き?」
機械の発達により明かりはつくり出せるようになったが、対価のように星の明かりは失った。太陽や月の光もにごって弱くなっている。
「照明はなくても生きられるけど、太陽を失ったら生きられない。いまの状況がいいことばかりじゃないことはわかってる」
光の中でラニはかなしげに笑って、リリネスの目を真っ直ぐに見た。
「でもわかってたって、もうもどれないだろ」
ラニの瞳に映る光の
リリネスの唇が呼吸で震えた。そのかすかな音もラニには届いていた。お互いの息づかいさえ光の上で混ざり合っていく。
『もうもどれない』
開演の鐘がふたりをいまに引きもどすまで、リリネスとラニはただ黙ってお互いの目の中の光を見つめていた。
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