第十幕 オーディション

「お、はようございま……す」


 照明室に入るなり膝からくず折れたリリネスに、ナナがかけ寄った。


「アニー!」


 腕を取って立ち上がらせようとするが、リリネスはそれを制してそのまま床に座り込んだ。


「アニー、大丈夫? 何があったの? 昨日突然来ないから、ラニさんなんてお茶の中に……」

「それはいい。脚、どうかしたか?」


 ナナを押し退けラニはリリネスの前に膝をつく。


「ちょっと自転車に」

「自転車?」


 馬車で劇場を往復していたリリネスにヴィオラローザは言った。


『家の紋が入った馬車なんて危険よ。そもそも馬車を使うこと自体目立つわ。あなた、自転車は乗れたわよね』


 屋敷の人たちが買い物のとき使うという荷台つきの自転車を一台、ヴィオラローザは貸してくれたのだった。劇場までの距離だけ考えると十分に可能だが、実際に走ってみると想像以上に消耗した。


「慣れてないし、思ったよりも上り坂が多くて、それで……わっ!」


 ラニがリリネスを抱き上げ椅子に座らせた。突然のことについラニにしがみついたリリネスも、意図を理解してあわてて離れる。


「他に身体は何ともないのか?」

「うん。大丈夫。昨日は来られなくてごめんなさい」

「……あきらめたのかと思った」


 リリネスは力なく首を横に振る。


「まだあきらめないわ。もう少しだけ」


 苦悩のいろの濃いリリネスの瞳を見て、ラニはわずかに眉を寄せる。


「そんなアニーに朗報でーす! あ、“朗報”って言っちゃうとミルカに悪いな。お知らせでーす!」


 ナナが胸をそらし高らかに告げた。


「村娘2役のミルカが喉を痛めて、今日緊急オーディションがあります」

「本当!?」


 脚の痛みも忘れてリリネスは立ち上がり、そしてふらついた。すかさずラニが支えて椅子に座らせる。


「本当、本当。昨日の昼公演のときから声がおかしかったんだ。それで夜公演ソワレが終わったあと正式に発表になった。ミルカの声がもどるまでの代役だけどね」


 他人の不幸につい顔がゆるんで、リリネスは熱をもつ頬を手で覆った。


「こういうことはたまにあるよ。主演の代役はなかなか回って来ないけど端役だしね。候補は一座の若手女優三人と、衣装係のミイナ」

「ミイナ?」


 ナナは自嘲を含んだ笑みを浮かべる。


「毎日必死に売り込む子がいるから、ほだされたんじゃない? 役者の夢を完全に絶ちきった人はこの世界に残ったりしないよね」


 それはおそらくナナ自身がそうなのだろう。「いつか」「もしかしたら」その火種は燻りつづけて、完全には消えない。


「照明班からきみの名前を通してある。……間に合ってよかった」

「ラニさん、さっきまで迎えに行くって騒いでたんだよ。家も知らないのにさ」


 操作卓に頬杖をついてラニはまだ灯のないランプを弄ぶ。


「まもなく舞台上でオーディションだそうだ」

「はい、アニー。がんばって!」


 ナナに背中をたたかれ、まだふらつく脚でリリネスは照明室を出た。


「行ってきます!」


 ◇


 役者の入り時間にはまだ早いのに、通常なら聞こえないはずの発声練習の声が会場に響いていた。


「おはようございます」


 リリネスが舞台に上がってもその声はやまず、誰もあいさつを返してはくれない。慣れた様子で発声練習をくり返しているのは一座の女優たちだろう。堂に入ったその態度だけで、リリネスなどは吹き飛ばされる気がしてしまう。声量のある歌声を響かせていたのはミイナだった。

 オーディションも何もかもはじめてのリリネスには、この時間の使い方がわからなかった。発声練習など学んだことがない。歌もすべて独学だ。

 仕方なく壁にむかい、リリネスは小さく声を出してみた。


「あー、あー」


 喉が渇いていて少し引っかかるように感じる。一度楽屋に行ってテーブルにあった水差しからグラスに水を注ぐと、それを一気に飲みほしてからもどった。

 ふたたび壁にむかい、もう一度声を出してみる。


「あーーー、あーーー」


 自転車を漕いで身体があたたまっていたせいか、声の出は悪くない。

 三人の村娘は星の化身だ。引きとめる彼女たちを振り払って、このあと少女ライラのアリアへとつながる。大好きなそのアリアはこの公演の間も部屋で何度も歌った。万難を排して前にすすもうとするその歌は、リリネスの気持ちを代弁しているようだったから。しかしいま演じるのは村娘。無謀な旅をやめるように諭す側だ。

 鬱陶しいその歌はあまり歌ったことがなかった。ライラのアリアの前奏程度にしか思っていなかった。しかしいまは歌えるかもしれないという可能性だけで胸がはずむ。


「オーディションを始める!」


 入り口の扉が大きく開いて、マーピー・ジルが入ってきた。そのすぐうしろをイゾルデもついて来ている。


「演じてもらうのは村娘2。ミルカの調子をみたが、恐らく数日で復帰できるだろう。その間の代役だ。きみたちには特に何も望まない。とにかく無難にやり遂げてもらえればいい」


 面倒くさそうに早口でまくし立ていちばん前の椅子に座る。イゾルデは数列うしろの端の席に腰かけて、興味なさそうにあくびを噛み殺していた。


「じゃあきみから」


 いきなりオーディションがはじまった。舞台の照明はついておらず、客席の明かりが届いているもののうす暗い。指名された女の子は光の届いている前のほうに立ち、名前を名乗ってから村娘2のセリフと歌を披露する。声もよく伸び、音程も安定している。リリネスから見て十分に舞台に立てると思った。


「はい。次、きみ」


 ミイナが指名され彼女も同じように村娘2のセリフと歌を披露した。出だしこそ声の出が悪いように思えたけれど、すぐに調子を取り戻して声量を生かしたゆたかな歌声を響かせる。


「はい。次、きみ」


 三人目の女の子が歌っても、マーピー・ジルは一切何の反応も示さなかった。作業をこなすように淡々としている。


「はい。次、きみ」


 まるめた紙束で指されてリリネスが舞台の中央に出る。腕を組んで見つめるイゾルデと、一瞬目が合ったような気がしたが、すぐにマーピー・ジルへと視線をむけた。


「アニカ・バートンです」


 声が震えていた。自覚さえできていなかった緊張を一気に感じて、リリネスの膝が勝手に震え出した。

 歌は好きだが台詞を言ったことはなかった。いつも誰かが側にいる環境の中、歌うならともかく演じることはむずかしい。

 喉元が苦しくて声が出ない。動きもかたくなっている。これまでオーディションしてきた誰よりも、自分の出来が悪いことはよくわかった。

 人生をかけた一大事に、自分はこんなにも弱いのか。情けなくて情けなくて、自分自身を床に叩きつけて割ってしまいたい衝動に駆られた。

 しかし歌いはじめると急に気持ちが楽になった。わずかではあるが三日前に劇場の外で歌った経験が活きている。いつも乳母やアニカにしか聴かせることのできない、行き場のない歌だった。いまはしっかりと聴いて評価してくれる人がいる。


『……だけどおれは、何の掛け値もなくただ歌うことがたのしいっていうきみの歌も……そんなに、悪くはない、と思った』

『イゾルデも認めたんだから自信持て』


 力づくで役をもらおうとするリリネスに、ラニはきちんと道を作ってくれた。毎日一緒にジルのところにあいさつに行き、気持ちを伝える手伝いもしてくれた。だからこそ突然現れたリリネスにもこのオーディションの門戸が開かれたのだ。この場所はラニがつくってくれたもの。


「はい。次、最後」


 おじぎをしてリリネスは下手の端に下がった。歌っていた時以上に心臓が早鐘を打つ。高揚が収まる気配はない。

 最後のひとりの歌をリリネスは聴いていなかった。気づいたら終わっていた。ふと思い出して照明室に視線を向けたけれど、操作卓前には誰もいなかった。


「うーーーーーん………」


 マーピー・ジルのため息とうなる声を、そこにいる全員が息をつめて聞いていた。







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