第九幕 雨

 リリネスがテーブルの下でスカートを持ち上げると、のぞき込んだヴィオラローザは開いた口を扇でかくした。


「まあ、見事! まるで明け方の空のよう」


 窓にぶつかる雨滴を一瞥して、リリネスはスカートを元にもどした。


「アニカに怒られたわ」

「当然ね」


 着替えるたび侍女たちが悲鳴を上げるほど青々とした痣がリリネスの右の脛に残っている。青みの強い紫いろは空であればよいけれど、肌のいろとしてはうつくしくない。

 段差を踏み外して転んだと説明したが、一緒にいたことになっているアニカは周囲から責められ、平身低頭謝罪をくり返してきたのだった。


『それでお嬢様、このお御足みあしの傷はどうなさったのです?』

『転んだの』

『それは聞きました』


 仕方なくアニカには事の経緯を簡単に説明したが、梁に上ったことは言わなかった。そんなことが知れたら、二度と行かせてはもらえない。


「あなたを顎で使った挙げ句、身体に傷を負わせたとあっては、その男ただでは済まないわね」

「あそこでは身分は関係ないわ。むしろ彼には何度も助けてもらってるの」

「理解できないわ」


 ピシリと扇を閉じてヴィオラローザは首を振る。無理もないとリリネスは思う。彼女自身、自分で経験しなければわからなかったことばかりだった。この二日でさまざまな物事の認識が大きく変わったが、説明だけでそれをわかってもらえるとも思えない。


「芝居に傾倒することも、あまつさえ舞台に立ちたいなんて夢想することもまっったく理解できないけれど、何より理解できないのは、『公園を散歩する』の一点張りで家を抜け出したことよ」

「ルルナープル公園なら往復にも時間がかかるし、電話で確認されることもないと思って」

「よく二日も騙せたと思うわ。私がオットーならすでにあとをつけているところよ。なぜすぐに頼って来なかったの?」


 三日目の今日、雨が降った。それでも『散歩に行く』と言ったリリネスに、オットーはもちろん屋敷の全員が反対した。無理に押し切れば余計な詮索をされかねず、今日はあきらめざるを得なかったのだ。

 このまま雨が降り続けたら夢はついえてしまう。突然現れなくなってラニとナナはどう思っているだろう。怒りはしないだろうが、いつも身勝手な行動ばかりであきれているかもしれない。もっともリリネスがいなくても何の支障もないけれど。

 自室で鬱々と時間を過ごしたのち、リリネスが頼ったのは友人のヴィオラローザだった。ヴィオラローザはコルトー伯爵家の次女で、ここは先々代のコルトー伯爵が愛人に与えた屋敷である。スヴェルナ郊外にあるがさほど遠くはなく、ヴィオラローザ自身便利に使っている。


「だって、迷惑をかけると思って……」


 伯爵令嬢が身分を隠して舞台に立つ。そのことが明るみになったら、事はリリネスひとりの問題ではなくなる。そこはわかっていて、それでもわがままを通して行動に出たのだ。迷惑をかける人は少なければ少ないほうがいい。


「もちろん、いざとなったら事情はなぁーんにも知らなかったことにするわ。共倒れする気はないわよ。でもいまあなたに恩を売っておけば、あとで旨味があるはずだもの」


 斬り捨てるような言葉でヴィオラローザはリリネスに手をさし伸べる。すでにたくさん借りている恩の返還を、これまで一度として要求したことなどないくせに。


「私はやっぱり恵まれているわね」

「ずっと窮屈そうにしていたのに、心境の変化でもあって?」


 身分を捨てるなどリリネスにはできないが、応援し協力してくれる人がたくさんいる。それで不幸だと言えるわけがない。


「人生が思うようにならないのなんて、みんなそうなんだわ。つらいこともかなしいことも、それからうれしいことだって、身分や立場に関係なく誰にでもある。だって、みんな人間なんだもの」


 この二日、何度も支えられた手のあたたかさを想い、そこに流れる血を想う。尊いも卑しいもない。熱をもったひとりの人間の手だった。


「ずいぶん肩入れするのね。その……劇場の人間に」


 ヴィオラローザは慎重に言葉を選び、特定の人物に焦点が当たらないように言った。


「肩入れというか、あそこでは私は全然役に立たなくて」

「当たり前でしょう。彼らはそれで生活の糧を得ているのだから」

「もちろんそうなのだけど、だけど私がいままで見過ごしてきた仕事にも、心血を注いで向き合う人がいて、それは尊いものだと思ったの。彼らはもっと認められるべきなのよ。ただの劇場の係員ではなく、志をもった人間なのだから」


 パチリ、パチリと何かを考えるようにヴィオラローザは扇を鳴らしていた。その目はするどくリリネスを観察していたが、物思いに沈むリリネスは気づかなかった。


「まあ、いいわ。藪蛇になりそうだからこれ以上は聞かない」


 扇を置いて少し冷めた紅茶を口に運ぶ。


「ところであなたがこんな思い切った行動に出たのには、それなりの理由があるのでしょう?」

「両親が領地に呼ばれて出かけたのと、公演日程が重なったの」

「それだけ?」


 友人がその答えを知っているとわかり、リリネスは大きく息を吐いた。


「縁談が、決まったの」

「噂どおりの?」

「そうね」


 ヴィオラローザはしぶい紅茶を飲んだような表情でカップをソーサーにもどした。もちろん紅茶はしぶくない。


「絶対に露見するわけにはいかないわね」

「そうね」

「ご両親はいつおもどりに?」

「四日後」

「では期限はあと三日。それでだめならすっぱりとあきらめなさい」


 最初からそのつもりだったリリネスは素直にうなずいた。


「それから最善の努力はするけれど、事が明るみに出るかどうかは、相当に運の領域よ」

「覚悟はしてる」


 そう答える内側でじわりと不安が頭をもたげる。本当に覚悟などできているのだろうか。自分だけではなく多くの人間を不幸にする覚悟だ。それでももうとまれない。

 風にあおられ窓をたたく雨が強くなった。








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