第八幕 開幕
「おれ受付頼まれてるんだけど、アニーはどうする?」
公演の間ラニは照明の操作があるが、ナナは終盤まで基本的にひまだった。リリネスに至ってはいなくてもさし障りがない。
「私は……できれば舞台を観ていたい。ここで」
「え! ここ?」
せまくて暗い照明室をぐるりと見渡して、ラニが一歩後ずさる。それだけで背中は大型の機材にぶつかった。
「だめ?」
「だめ、ではないけど……」
歯切れの悪いラニにナナは隣の部屋から木箱を持ってきて押しつけた。
「じゃ、おれもう行かないといけないから。何かあったら呼びに来て」
ナナが出て行くと照明室の中は妙なしずけさに包まれた。客席の明かりがあるので暗くはないが、どことなく空気が濃い。
ひとつしかない椅子をリリネスにゆずり、ラニはナナが残した木箱に座った。並んで座ったふたりの眼下には、ぞくぞくと会場入りする観客の姿がある。多くの人がこれからの期待を込めて舞台セットを見つめるも、ひとりとして天井を見上げる者はいない。
「私も何度も観劇には行ったのに、照明のことを気にしたことなんてなかったわ」
独り言のような気持ちでつぶやいたが、肩が触れそうな位置にいるラニにはしっかり聞こえていた。
「それでいいんだよ」
ラニは観客の流れを目で追いながら口元をほころばせる。
「照明を観に行く演劇なんてない。もし気になったとしたら、それはいいことじゃねぇよ。おれたちの仕事は客に評価されなくていいんだ」
「こんなに一生懸命やってるのに?」
「『いい芝居だった』その評価の中に、おれの仕事も含まれてる」
手元を照らすランプを持ち上げ、ラニはリリネスを手招きした。床にしゃがんでラニがランプを手で覆うと光が遮断されて闇が濃くなる。
「いま、どんな気持ち?」
前髪同士が触れそうな距離でラニはそう訊いた。ラニの輪郭は半分闇に溶けて、ただその声と体温とかすかに触れるシャツだけがひどく明瞭に感じられた。心音までが聞こえそうでリリネスは答えることができない。
「ドキドキしねぇ?」
隠されたランプを見ながらリリネスは正直にうなずいた。
「暗いと人は不安になるし心拍数も上がる」
ラニがゆっくりと手を離すと、ふたりの間にオレンジいろの明かりが広がった。人には感じないほのかな空気の流れがランプの灯をゆらし、顔の上で光が舞う。
「明るいと安心するし元気になれた気がする。明かりは人の感情を左右する」
ラニはランプを元の位置にもどし、ふたたび木箱に座った。
「明かるさによって高揚させることも不快感を与えることもできるし、明滅させれば気分が悪くなる。照明をうまく使えば物語を効果的に見せることができるはずなんだ。でもそれは役者より前に出たらいけない。照明が注目されるなんて、そんな舞台は失敗作だ」
アクア・グレイの瞳は夢を語る。ひっそりと気づかれることなく、ラニは夢を叶えるだろうとリリネスは思う。しかしそれでは誰がラニの努力に気づいてくれるのか。こんなにすばらしいものを軽んじられたままなど許せるわけがない。
「それでもあなたはもっと評価されるべきだと思う。少なくとも私はラニの照明が好きだわ」
瞳と瞳がすぐそばで溶け合うように交わった。そこにある熱はランプの炎によるものなのか別の何かなのか。答えにたどり着く前に開演のベルがカラン、カランと鳴って、ラニは先に視線をはずして操作卓にむき合った。
『深き夜空の航路』はサンティエール王国建国の物語を題材にした歌劇だ。不思議な流れ星を見かけた少女ライラは、それを追いかけて森を抜け、山を越え、川を渡ってどこまでも行く。途中、村娘や川の渡し守、狼などに引き返すように何度もとめられるが、ライラは強い意志をもって星を追いつづける。そして偶然出会った騎士と力を合わせ、人々を苦しめる魔王を倒すと、そこに星が降り立った、というあらすじである。
「この国って建国時は女王だったのよね」
照明の下でゆたかに翻る緋いろのスカートを見ながらリリネスはつぶやいた。いまでも国王は男性と決まっているわけではないが、数世代女王は誕生していない。
「男性優位の文化を持つ国も多い中、ここは比較的女性の立場が強いほうじゃないか? 役者だって男性しかなれず、少年が女性役を務めるところもあるらしいから」
「そう考えると、女でありながら役者の夢を追えるだけ幸せなのかもしれないわね」
すでに持っている権利のありがたみを実感するのはむずかしい。人は手に入らないものを求めたくなるものだ。
「でもやっぱり敵わないなぁ」
舞台上ではイゾルデが騎士役のグレンと手を取り合って歌っている。ふだんそれこそ女王然とした態度の彼女は、いま希望と恋にあふれる可憐な少女にしか見えない。彼女が歌うと舞台の光量が増して感じられるが、操作卓に置かれたラニの手は動いていなかった。
「イゾルデがここまで来るのにどれだけの時間と努力を重ねたと思ってる? いま夢の入口に立ったばかりの小娘に並ばれたら、あいつが救われないだろ」
「それはわかってるけど」
「あれは歌のうまさや演技力だけでなく、積み上げた実績とそれに基づく自信に由来するものだ。観客への見せ方もよく心得てる」
わかっている。わかっている。すべてわかっている。わかっていても、足りないものを求める気持ちはどうしようもない。
男に筋力で勝てないように、女しか子どもが産めないように、適正というものはある。歌うことが好きでこうして夢を追って来たものの、当然ながら上には上がいる。ラニが言うような自分にしかできない仕事などあるのだろうかとリリネスは肩を落とす。
ふたりの歌が終わり観客から拍手が起こるのと同時に、ラニはスイッチをひとつ切った。
「……だけどおれは、何のかけ値もなくただ歌うことがたのしいっていうきみの歌も……そんなに、悪くはない、と思った」
「そうかしら? ……え? どうして私の歌を知っているの?」
ラニは照明に集中するふりをして答えない。
「もしかして、昨日の、聴いてた?」
「……あんなところで歌ってたら聴こえる」
「きゃーーーっ! 盗み聴き……」
つい声が大きくなったリリネスの口をラニがあわてて手で押さえる。
「イゾルデも認めたんだから自信持て」
ラニの手の中で顔を赤く染めながらリリネスは何度もうなずく。唇にかたい手の感触があって、何か言おうとすると触れてしまう。羞恥に耐えて目を強くつぶると、同時にさらりと手がはずされた。ラニの鋭い目はリリネスではなく客席にむいている。
「……どうしたの?」
窓から身を乗り出したラニは、剣呑な視線をすばやく梁の間に走らせて何かを探る。
「チェーンの、音が聞こえた気がする」
「チェーン?」
ラニはもどかしげに照明室を出て行った。そしてすぐに客席横に現れる。真下から天井を見上げると一点に目をとめ、ふたたび走り出した。
「え? 何?」
階段を駆け上がったラニはそのまま梁へと上っていく。わけがわからないままリリネスもそのあとを追った。
キャットウォークを走るようにすすんだラニはその勢いのまま梁へと跳び移った。ひょい、ひょい、とかろやかに次の梁へと渡っていく。そして目的の燈体にたどり着くと、うつ伏せになって覗きこむ。
「あ、まずい」
ぽつりとそんなつぶやきを漏らすと、キャットウォークでもぞもぞしているリリネスに声をひそめながら言った。
「ナナを呼んで、予備のチェーンを持ってくるように言ってくれ。燈体のネジが壊れてはずれた。バランス悪く負荷がかかってるから、おれは燈体を支えて待つ」
燈体には落下防止のチェーンが巻かれているから、すぐに落ちることはない。しかしチェーン一本に負荷のすべてをまかせるわけにはいかない。
観客が下にいる状態で燈体の交換は危険なので、公演が終わって燈体をはずせるようになるまでの間、最低でももう一本チェーンをかけておかなければならなかった。
舞台ではイゾルデが大立ち回りを演じていて、観客はみんなそちらに集中している。リリネスは何度かうなずくと、急いでキャットウォークをあとずさった。
開演中の受付は落ち着いており、いまはふたり待機しているだけの状態だった。しかしその中にナナの姿はない。
「あの、すみません!」
ターニアに声をかけると今朝のことを思い出したようで眉をひそめられたが、リリネスは怖じけることなく尋ねた。
「ナナはここにいないのですか?」
ターニアは不愉快さを隠そうとはしない。それでも生来真面目な性格なので返事だけはした。
「ナナならどこかへ出かけたわ。仕事までには帰って来るでしょ」
そういえば昨日言われていた。きっとイリヤと“お散歩”しているのだ。
ターニアにお礼を言うと同時に、リリネスはすぐに照明室へとつながる階段を駆け上った。一度踏み外して脛をしたたかに打ったが、痛みに耐え二、三度こすってふたたび走る。
照明室の隅にはコード類が雑然とつめ込まれた大きな籠がある。その中をあさって予備のチェーンをつかむと梁にもどった。
ラニはさっきと同じ体勢のままそこにいて、リリネスの姿を見るといぶかしげに眉根を寄せる。
「ナナは?」
「いないって」
リリネスはキャットウォークから一歩踏み出し鉄骨をつかむ。
「だから、私が行く」
「無理するな! 待て!」
ラニが止める間にもリリネスは足をすすめていた。キャットウォークを離れるとやはり急に世界が変わる。地の底から吹き上げるような恐怖感に身体が強ばり足が震えた。それでも鉄骨を支えに、一歩一歩ラニの方へと進んで行った。鉄骨から手を離し何の支えもないまま一歩進む。バランスを欠いて落ちるところを想像しそうになり、大きく深呼吸しながらもう一歩足を進めて次の鉄骨をつかんだ。
慎重に。慎重に。でも急いで。
ラニのすぐそばまで来ると不思議な安心感がある。自分の脚で梁に立っている状況は変わらないのに、恐怖感がうすれた。
「はい。チェーン」
しかしラニはうつ伏せのままリリネスを見上げ、チェーンを受け取ろうとしない。
「来てもらって悪いが、手を離すとチェーンに負荷がかかりすぎる」
「え?」
「おれは動けない。もどってナナを待て」
こんな状況なのにリリネスは真剣なアクア・グレイに引き込まれていた。その瞳に引きずられラニのすぐ隣に移動する。
「おい、危ねぇって」
細い梁の上に真っ直ぐ身体をあずけてうつ伏せになり、昨日ラニがしていたように足を梁に絡ませた。
「私が落ちたら、泣いてくれる?」
ラニは瞠目して、それから覚悟を決めたように燈体を支えているほうとは反対の手でリリネスの腰をおさえた。
「落とさない」
リリネスは微笑みで答え、チェーンを持つ手を燈体に伸ばす。
「ゆっくり。反対側にもう一本かけて」
指示された通りにチェーンを通そうとするけれど、梁の下に下がっている燈体までは遠く手が届かない。もう少し身を乗り出すと、引っかけていた足がほどけた。しかしすぐにリリネスを支えるラニの腕の力が強くなる。
おそらくラニの力をもってしても、本当にリリネスが落ちたら支えきれないだろう。それをわかっていても、リリネスの恐怖感はなくなっていた。
チェーンを燈体のアームに通し梁の上で連結させると、リリネスはほっと息をついた。ラニに支えられながらゆっくりと身体を起こし、目の前に座る彼を見る。
「すげぇ! よくやったな!」
ラニが笑顔で手をさし出すので、リリネスも同じように手を出した。その手をラニはパチンと叩く。危うくバランスを崩しそうになってあわてて鉄骨をつかんだが、それさえよろこびを膨らませた。
「あははははは!」
緊張からの解放で笑いがとまらなかった。ふだん笑うときは扇か手で口元を隠すのだが、いまは鉄骨をつかんでいるからそれもできない。遠慮なく口を開けて笑ったのははじめてかもしれなかった。
舞台はクライマックスに近く、スピーカーから放たれる音も大きくなってるために、梁の上の声は観客には聞こえない。それをいいことにラニとリリネスは思い切り笑い合った。
「ごめーん、ラニさん。もう仕事?」
階下からひょこっとナナが顔を出す。
「おう、ナナ。上手の前明かりの一燈が使えなくなった。残り二燈でやる」
「はーい、了解ー」
リリネスと入れ替えてナナが梁に上がる。前明かりは三燈一組でつくっていたから、壊れた一燈の線をはずし、残り二燈の向きを調整して照射範囲を補うらしい。
「ひとつ少なくても大丈夫なの?」
リリネスが率直な疑問を投げかけると、腹ばいになって燈体の位置を調整していたラニが答えた。
「そりゃ三燈に比べたら暗くなるしせまくなるけど、他で補えてればいい」
ナナもうんうんとうなずく。
「たまにあるんだよ、こういうこと。最終確認ではちゃんとついてたのに、本番になって電球切れたりね」
「そういう時はどうするの?」
「とりあえず何か点けとく」
しばらくうつ伏せで作業していたラニは、身体を起こして伸びをした。
「いまみたいに前明かり程度ならいいけど、もしひとりだけ抜いてた照明が消えたら真っ暗だからな。それだけは避けないと。逆に言えば、照明は最悪……」
ラニの言葉にナナも声をかぶせる。
「点いてればいい」
繊細なのか大雑把なのかわからなくて、リリネスは肩を震わせて笑った。ラニもナナも笑いながら作業をつづけている。
「よし、戻るぞ。ナナは待機」
「はいはい」
ラニはそう指示をのこして梁から二階の廊下へ飛び降りる。操作卓の前にもどると腕組みをして舞台を眺めた。
「うーん、やっぱり弱いな」
ラニは顔をゆがめたけれど、リリネスにはよくわからない。
「弱い?」
ラニが舞台下手から上手へと歩くイゾルデを指さした。
「ほら、ちゃんと点いてる下手の方は明かりが一定だけど、一燈消えた上手を歩くと顔まわりの影に濃淡が出てる」
「言われてみれば……」
目を凝らすと時折顔の上を影が走る。全体的にもやや暗い印象に見えた。
「だけど言われないとわからないわ。そんなに気になるもの?」
リリネスの頭をラニがポンポンとなでる。
「いや、燈体も落ちてないし、怪我人も出ていない。何より舞台は無事に進行してる。上出来だ」
舞台は最後までつつがなく終わり、二本のチェーンでぶら下がった燈体に気づく観客はいなかった。また「照明が暗かった」との指摘もなかった。同時にリリネスが感動した星明かりにも流れ星にも、特に称賛の声はなかった。拍手喝采はすべてイゾルデをはじめとする役者と演出のマーピー・ジルに対してむけられ、彼らは笑顔でそれに応えていた。
「この舞台の照明はとてもすばらしかったわ。私はもっとそのことに気づいてもらいたいのに」
ナナは苦笑いを残して照明室を出て行き、ラニは複雑な表情で帰っていく観客を見送る。
「流れ星も星明かりもあんなのはただのお遊びみたいなもんだ。舞台でいちばん大事なのは役者の演技と歌。それがしっかりしていれば、照明は本当に点いてるだけでいいんだよ」
リリネスは自分でも何に腹が立ち、何をかなしんでいるのかわからなかった。ただ胸の中で焦燥感が暴れている。
言葉にならない想いと戦うリリネスにラニはふわっと笑った。
「でもきみが楽しんでくれたならよかった」
とたんにリリネスの中で、自身の言葉に矛盾する想いが広がった。このすばらしい照明をすべてを独り占めしたいと、強烈に思っていた。
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