第七幕 自由

 公演初日は昨日と同じようににごった晴れ空だった。昨日と同じように公園に行くと偽り、昨日と同じように馬車で劇場まで送ってもらったリリネスは、搬入口が閉まっていたので正面玄関に回った。おはようございますと笑顔であいさつをして通り抜けようとしたところで、女性に足どめされてしまう。


「関係者以外立ち入り禁止です。お帰りください」


 飾りのない簡素なワンピースに眼鏡。きびしかったかつての家庭教師を彷彿とさせる態度に、リリネスはなかば押し返された。


「関係者です」

「どこの?」

「えっと……照明」

「照明にあなたのような人はおりません。お引き取りください」


 昼公演マチネ開始まであと三時間。もし舞台に立つ機会があるとしたら、その前には会場にもぐり込んでいなければならない。


「本当に照明班なの。責任者のラニに確認して」

「その必要はありません。お帰りください」


 彼女の後れ毛ひとつなく結い上げられたシニョンに指をさし入れてぐちゃぐちゃに崩したなら、少しは対応も柔軟にならないだろうかとリリネスが不穏な想像をくり広げていると、帽子の上にかたい手がのった。


「悪いターニア。これは照明班の……預りものだ」

「聞いてないわ」

「言ってない。昨日決めた」


 納得していないターニアの前をラニはリリネスの頭を押して通過しようとする。


「待って。名前は?」


 しかしターニアはリリネスの腕をつかんで問う。


「アニカ・バートンです」


 答える代わりに腕から手を払った。


「いくつ?」

「十八歳」

「出身地は?」

「スヴェルナ」

「身元を証明できる書類か、保証してくれる人は誰かいる?」


 リリネスが言葉につまると、ラニは階段へつづく扉を開けて強引にその背中を押し込んだ。


「身元ならおれが保証する。あとはよろしく」

「そんな勝手は認められないわ! ちょっと、ラニ!」


 ターニアは何かまだ言っていたが、重い金属の扉を閉めたら聞こえなくなった。


「ありがとう」

「ターニアは優秀な制作のひとりで、関係者や関係者とつながりの深い人物は全員把握してる。彼女さえ納得させたらあとは大丈夫だ」


 とても納得しているようには見えなかったが、とにかくこれで疑われることなく出入りできるようになったらしい。


「それにしても、よく私だってわかったね」


 昨日スカートでは動きにくいと感じたリリネスは、アニカに頼んですぐに街の古着屋に行ってもらった。買ってきてもらったのは少年の服で、くたくたの黄ばんだシャツに、茶色のズボンを肩紐で吊っている。長いクリーミーブロンドの髪は帽子の中につめ込んでいた。


「それはまあ、身長とか……」


 視線が一度リリネスの上を通りすぎて、ラニは途中で話題を変える。


「今日はこれから流れを確認して、それから本番。おれは抜けられないけど、何かあったらナナに頼め」

「はい!」


 照明室に入ると、そのナナが振り返りながら言った。


「ラニさん、全燈点灯確認できたよ……って、アニー!」


 ナナは座っていた椅子を蹴りたおしてかけ寄り、リリネスの手を強く握る。


「よかった! 昨日はいつの間にかいなくなってたから、おれ明かりに目がくらんでとうとう天使の幻でも見たのかと思ったよ!」


 ラニに引き離されても、ナナは機嫌よさそうにリリネスに笑いかける。


「あいさつもせずに帰ってごめんなさい。昨日は時間も遅くなってしまって、急いで帰ったの」

「つまらなくて嫌になったのかと思ったけど、その格好見る限りやる気はありそうだね」

「昨日は……その、お見苦しいものを……」

「まさかまさか! あれは眼福だったけど、やっぱり危ないからね。でもこれはこれで似合うなぁ」

「変じゃない?」

「そうやって身体の線を隠されると、余計に妄想が……痛っ!」

「早く持ち場につけ!」


 ラニに何度も蹴られながら、ナナは梁への梯子を上る。

 会場では音響の確認が行われていてにぎやかだった。照明室は離れているものの、会話の声は少し聞き取りづらい。


「流れの確認って照明の?」


 ラニの耳元で声をかけると、さっと距離を開けられた。


「照明も音響もぜんぶ」

「たのしみ」

「……自分が出てなくても?」


 ラニは少し顔を曇らせて訊いた。


「もちろん出たいわ。機会があるならすぐにでも。だけどお客さんとしてではなく、はじめて関わった舞台だから成功してほしい」


 舞台で歌いたいという夢はあきらめていない。しかし昨日のイゾルデの姿を見て、いまの自分では届かないと自信を砕かれたのも事実だった。また万が一努力すればイゾルデを越えられるとしても、リリネスにその時間はない。


「始めるぞー」


 ジルの合図で照明や音響が変化するところ、役者の立ち位置などが確認されていった。ラニは操作卓で脚本の進行にしたがって照明を点けたり消したりしている。


「気になっていることがあるのだけど」


 照明室の中は舞台から届く明かりと、操作卓を照らす小さなランプだけなのでほの暗い。そのランプの明かりがラニの目の中でゆらぐ。


「なに?」

「ここの照明ってパッパッて切り替わるでしょう? 王立劇場でお芝居を観たときはね、ゆっくり点いたり、しずかに消えたりしていた気がするの。そういうことはしないの?」

「ああ、あれね」


 ラニは舞台の進行を見守りつつ腕を組む。


「光量を調節することを『調光ちょうこう』って言うんだけど、あれはそれ用の機材を使わないとできないんだよ。王立劇場になると調光できる投光機もあるけど、高価だからここみたいに小さい小屋だとなかなか買えない。照明にそこまで金かける興行主もいないしな」

「ふーん、そうなのね」


 誰かひとりを抜いて光を当てるとき、先にその照明をつけておいてから他の照明を落とす。ラニの照明操作はよどみなく違和感を覚えることはないけれど、もし調光ができたらもっと表現の幅が広がることは間違いない。


「電力にも燈体にも限りがあって思うようにならないことも多い。でも燈体を使い分けたり、切り替える順番を工夫したりしてやり繰りするのも、おれは嫌いじゃない」


 魔王のアリアが終わり、舞台全体の照明にきり替える。その明かりでラニの表情ははっきり見えた。


「無理難題をやり遂げたときの達成感って、最高じゃねぇ?」


 時折この人は少年のように笑う。誰かにこんな表情をさせられるのなら、電気とは星を失ってなお価値があるのではないかと、リリネスは思った。


「照明、好きなのね」


 ラニは笑顔を引っ込め、つまらなそうに吐き出す。


「明かりが嫌いな人間なんかいないだろ」


 光を求めるのは本能なのかもしれないが、その魅力を教えてくれたのは太陽ではなくラニだ。昨日から知らなかったことばかりに出会って、考えたことのないことばかりが頭をよぎる。


「そういえば、ナナは何をしてるの?」


 リリネスがたずねたとき、ラニが星明かり以外の照明を落とした。そして梁にいるナナにむかって手を上げて合図を送る。その手を下ろすと同時にパチンとひとつスイッチを入れた。


「流れ星!」


 星明かりの中を青い流れ星がすーっと流れていった。ラニのほうは冷静に流れ星の余韻の残る星空を見つめている。


「問題なさそうだな」


 感動冷めやらぬ中、照明はふたたび明るく舞台を照らす。


「あの流れ星ってラニがつくったの?」

「ああ。昨日きみが帰ったあとに思いついて……」

「どうやってやったの?」


 興奮してつかみかかるリリネスに、ラニは身体をそらして距離を取る。


「ただ電球に青のエナメル塗料を塗って、紐で梁から滑り落としただけだよ」

「どうしてそんなこと思いつくの?」

「どうしてって言われても……」

「私、流れ星見たのはじめて」

「ただの電球だって」


 リリネスは強く否定した。


「あれは絶対に流れ星よ」


 すべての確認が終わってなごやかな空気の流れる舞台を、リリネスはひとり興奮冷めやらぬままに見下ろしていた。


「終わったー! 飯買ってくる!」


 仕事を終えてナナが梯子から飛び降りてきた。そのまま走り出そうとするナナのシャツを、リリネスはつかんで引きとめた。


「あの、そのことなんだけど」


 昨日アニカは大量に持たされたサンドウィッチを、リリネスの分まで食べなければならなかった。そのため「苦しかったので今日は持って行ってください」と持たされたのだった。


「じゃ、遠慮なく。いただきまーす!」


 言葉通り遠慮なく真っ先に手をつけたナナは、口いっぱいにつめ込んだままうめぇ! と叫んだ。


「このシャキシャキしてるの何? 食べたことない」

「さ、さあ? 何かしら?」

「この肉って鶏肉? 豚肉?」

「えーと、鴨かな?」

「鴨!?」

「ナナ、うるせぇ! 黙って食え」

「しゃべりながら食べた方がうまいって。ねぇ、アニー」


 リリネスも笑いながらサンドウィッチを食べた。昨日食べたものとは違うけれど、エリュセント家のシェフが作ったものだから当然おいしい。白くてふわふわのパンに軽く焼き目をつけて、新鮮な野菜と上品なソース、それから肉や海鮮を挟んだものだ。リリネスにむけて小さめに作られたサンドウィッチを、ラニとナナはひと口で胃に収めていく。


「アニーはやっぱりいいとこのお嬢さんなんだね」


 サンドウィッチの半分近くをひとりで食べたナナは、満足そうに茶で胃を落ち着ける。


「暮らし向きに困ったことはないわ」


 自嘲気味に微笑む姿は隙がなくよく作り込まれていて、彼女の生活の一端がうかがえるものだった。


「でも、自由はない」


 ナナはどう表情をつくったらいいのか困っていたが、ラニは平然と最後のサンドウィッチを平らげた。


「そんなことはない」


 はっきりとした口調でラニは言い切る。


「きみは豊かな生活も選べるし、そのすべてを捨てて夢を追いかけることもできる。不自由に感じるのは、両方手に入れようとするからだ」


 リリネスは瞠目して、それから花がしおれるような弱々しい笑みを浮かべた。


「役者になれないのは、何もきみが制約の多い立場だからじゃない。実力がないせいかもしれないし、身を売る勇気がないせいかもしれない。とにかく身分は関係ない。役者になりたくてもなれないやつなんて、立場に関係なく山ほどいる」

「おれは実力不足だけどね」


 ナナはあくまでカラッとつけ加えた。


「おれには選べなかった。もし昔のおれに明日のパンを心配しなくてすむ生活が選べたなら、迷わず選んだと思う」


 ラニが言うようにいますぐにでも家を捨て、ただひとりの人間となって役者を目指す選択肢もあるにはある。何も手放さずに欲しいものを得ようとすることは、わがまま以外の何物でもないのだろう。

 ラニは腕組みして宙を見ながら、誰に話すわけでもなく言葉をつづける。


「だけどすべてを捨てるなんて、実際は無理だよな。それは気持ちが足りないとか、勇気がないとか、そういうことじゃない。自分だけの問題じゃないからな。何でも自由に選べるやつなんていねぇよ」


 リリネスは自分だけが特別不自由だと思っていた。豊かな生活であっても、何ひとつ自分で選んだものではない。紅茶に入れる角砂糖の数でさえ、多いとはしたないとたしなめられる。

 だけどラニが言うように、誰もがみんな自由であり同時に不自由で、心のままに生きることはとてもむずかしい。


「でも照明は自分で選んだ道なのでしょう?」


 ラニは答えず、梁からぶら下がったたくさんの燈体に目をむける。心を持たない無機質な機械たちは、ラニに微笑んでいるように思えた。






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