第六幕 当たり合わせ

 小さくなってしまったサンドウィッチを惜しんで、リリネスがちびちび食べすすめていると、


「ナナ、行くぞ」


 ラニがぴょんと地を蹴るようにして会場内にもどっていった。


「はーい。了解」


 ナナも尻の枯れ草をはたいて、こちらは長い脚を駆使した大きな歩幅で扉を抜ける。じっくり味わいたかった最後のひと欠片をつめ込んで、リリネスも小走りでそのあとを追った。


「アニーは操作卓にいて。指示されたらスイッチを押してね」


 言われるがままリリネスは卓前の椅子に座る。ナナは梁へ通じる梯子を上っていき、ラニは舞台の前でジルと何事か話し合っている。


「いちばん右!」


 ラニに言われてリリネスがいちばん右のスイッチを入れると、舞台の上だけパッと明るくなった。それを確認してラニは会場のカーテンを閉めていく。自然光が遮断されて真っ暗な中に舞台だけが浮かび上がった。


「地明かりっていうんだ」


 いつの間にかナナがもどってきて、操作卓のスイッチを順番に指さす。


「舞台を真上から照らすのがこの地明かり。でも真上から照らすとどうしても顔に影が出るから、前明かりって言って正面から光を当てて影をとばす。地明かりと前明かり、これが基本となる明かりだよ。とりあえずこれさえ点いてればなんとかなる」


 説明しながらナナは地明かりの隣のスイッチを指さした。


「これねぇ、ものすごく画期的なことでね」


 舞台に点ける照明は、基本的に舞台の上にしかなかった。真上からの明かりと、舞台上に置く明かりの二種類。客席の上にある照明は客入れのとき点けるためのもので、そこから舞台に光を送るという発想はなかった。

 従って客席照明が固定されている王立劇場などは、当初客席の天井に燈体を設置することさえできなかった。

 しかしこのディム市民演芸館は天井すべてが梁になっており、客席も舞台と同様に照明を吊るす仕組みなので、客席側から舞台に向かう前明かりをいち早く取り入れることができたという。


「どっかでラニさんがこの技法知って、すぐに客席に燈体吊ったらしいんだけど、最初は演出に怒られたんだって。『この明かりはなんだ? 月か? 太陽か?』って」

「それでラニは?」

「『役者の表情を見やすくするための明かりです』って答えたらしいよ」


 ラニは長い棒で燈体をつついて、わずかに角度を調整している。『当たり合わせ』と言って、照明が想定される位置に当たるように調整する作業だ。

 舞台上では音響係がスピーカーの線をつないでいる。ナナが言うように真上からの明かりだけでは顔が陰になり、音響係の表情は判然としない。


「夜の場面だからって照明をぜんぶ落とすわけにいかないでしょ? 舞台照明って、現実の明かりとは異なるものなんだよ。月や太陽を表現する明かりがないわけじゃないけど、第一には役者の演技を見せるためのものだからね」


 いまここに前明かりがあるということは、ラニの感覚が正しかったということだ。


「その次のスイッチからは、役者ひとりを抜く明かりだったり、舞台の効果を出す明かりだったりする。とにかく指示があったら順番に点けていってね。よろしく」


 ナナはふたたび梁の上にもどっていった。

 ジルが舞台の一点を指さし、ラニはうなずいて棒で燈体の角度を調整する。前明かりでも同じことを行い、念入りに緻密にその作業をくり返した。


「地明かりと前明かり、両方!」


 ふたつ同時につけると、舞台の上がまんべんなく明るくなった。リリネスには技術的なことはまるでわからないが、客席から観たときの、あの少しぼうっとなって夢の中にいるような雰囲気がそこにできていた。ジルは丹念に舞台を眺め深くうなずいた。


「はい、次ー!」


 ひとつ隣のスイッチを押すと、先程ラニが吊るし直した燈体が点灯した。舞台奥の上手かみて下手しもて(客席から見て右側が上手、左側が下手)それぞれから一燈ずつ、少しだけ客席にむいている。ナナがその角度を調整すると、舞台の上部にきらきらと光がまたたいた。梁から糸で小さな鏡をたくさんぶら下げてあり、そこに光を当てることで星を演出しているらしい。ラニとジルが「星明かり」と呼んでいた光だった。


「……きれい」


 操作卓の前でリリネスはうっとりとつぶやいた。鏡に直接当たった明かりと、そこから反射した明かりが強弱となって、わずかな空気のゆれで無数の光を放つ。

 郊外の別荘で見た星空は確かにうつくしかったが、ラニが作り出した偽物の星空も心震えるほどにうつくしい。それは光そのものの力であると同時に、ラニが必死に心を砕いてつくり上げたうつくしさでもあった。


「イゾルデ」


 星明かりに納得したジルが声をかけると、裏からイゾルデが出てきて舞台の上に立った。


「次ー!」


 同時にラニがスイッチの切り替えを指示する。小さめの燈体が一燈、イゾルデだけを照らし出した。


「ナナ、首もう少し上げて……少し下げる……そう」


 大きく調整が必要な燈体は、棒ではなくラニの指示でナナが梁から直接動かすようだった。その間イゾルデは同じ場所に立ち続け、その場面の動きをなぞるように腕を動かす。唇がわずかに動いているから、小さく歌っているのかもしれない。

 ジルとラニはそんな彼女を真剣な眼ざしで見つめる。正確にはラニが見ているのはイゾルデではなく光によってできる影だったのだが、リリネスの目にはまるで彼女に魅入られているかのように見えていた。


「やはり少し暗いな。移動したとき光からはずれる。もう一燈足せないか?」

「前明かりのひとつを足せば光量は出ます。だけど影も大きくなりますが」

「やってみてくれ」

「ナナ! 下手の前明かり、真ん中の一燈だけ別回線!」

「はーい。ちょっと時間くださーい」


 梁の上でナナがあわただしく作業する気配がした。その間イゾルデは舞台の上をゆったり歩いている。朝会ったときと同じ黒っぽいワンピースにショールを羽織った姿だったが、明かりの下では妙に妖艶で、影もまた装飾品のひとつに思えた。

 イゾルデは主演とはいえ役者のひとりのはずなのに、彼女の態度はまるで自分のためにすべてが動いているかのようであった。

 すべての舞台装置も、すべての音も、すべての照明も、すべての観客も、ぜんぶ私のもの。

 その図々しいまでの自意識が、より彼女をかがやかせ人の目を集める。


「よし、できた! アニー、いちばん左のスイッチ入れて」


 ナナが梁から声を張って言った。指定されたスイッチを入れると、イゾルデに降る光の量が一段と増した。彼女のゆたかな赤銅色の髪が光沢を帯びる。白い肌も、赤くぽってりと厚みのある唇も鮮明になった。何より“スヴェルナの危険な琥珀”と言われる大きな目に、燃えるような光が灯っていた。


「これでいこう」


 ジルがうなずきラニも同意する。その光の中でイゾルデは、星明かり同様にうつくしかった。


 ◇


 リリネスが搬入口から外にすべり出て、重い鉄扉の音を立てないように苦心しながら閉めていると、貸し本屋の陰からすぐに馬車がやってきた。


「お嬢様! ご無事でしたか?」


 中からまろぶように飛び出してきた少女に抱きつかれ、そのまま馬車へと乗り込む。


 当たり合わせが終わり、照明の仕込みがだいたい終わったと見るや、リリネスはそっと劇場を抜け出した。嘘をついて自宅を出てきた手前遅くまではいられず、またそのことをラニやナナには説明できないため、すべて勝手な行動だった。


「ありがとう、アニカ。私はなんともないわ。それよりごめんなさい。名前を訊かれて、とっさにあなたの名を名乗ってしまったの」


 扉が閉まると同時にリリネスは急いで身につけていた服を脱ぎ、せまい車内に苦労しながらドレスに着替える。


「そんなことは構いません。調べられたってたいしたことのない素性ですから。それより中の様子が全然わからなくて、心配で心配で吐きそうでした」


 本物のアニカはリリネスの髪の毛を結い直しながら、いまも気持ち悪そうに胃のあたりをさする。


「それでお嬢様、いかがでした? 夢は叶いそうですか?」


 リリネスは腕を組んで首をひねった。


「なかなかむずかしそうね」

「お嬢様」


 アニカにたしなめられ、リリネスは組んでいた腕をほどいて膝の上に重ねる。この程度でお小言を言われるのだから、素脚を人目にさらしたなどとても口にはできない。


「では、あきらめていただけますか?」

「いいえ。明日も行くわ」

「お嬢様!」

「時間がないのよ。だから最後まであきらめない」


 アニカが何か言おうと口を開いたとき、馬車はリリネスの自宅であるエリュセント伯爵邸へ到着した。劇場からはそれほど離れていない。降りようとするリリネスの頬に汚れを見つけ、アニカは袖でそれをこすってから送り出した。


「お帰りなさいませ、お嬢様。ルルナープル公園はいかがでしたか?」


 家令のオットーがさし出した手を取って、リリネスは馬車から降りた。足元はコットンシューズではなく、今年流行している緑いろのカウレザーショートブーツに履きかえてある。


「天気が良くて気持ちよかったわ。とても気に入ったから、また明日も行きたいの」

「連日でございますか? ご婚礼も迫っておいでですので、あまり頻繁に外出されるのはいかがなものかと」

「だからよ!」


 リリネスはオットーの両手をつかみ、目をうるませる。


「嫁いでしまったらそれこそ気軽に公園なんて行けなくなるわ。家にいても式の準備やお勉強ばかりで息がつまりそう。もう少しだけ好きにさせて」


 オットーは表情を変えず、リリネスを自室へと促す。


「外で召し上がるご昼餐ちゅうさんは格別でしょうね」


 かたいパンの歯触りを思い出し、リリネスはうっとりと目を細める。


「いままで生きてきた中で、いちばんおいしかったわ」

「では、明日も同じものを用意させましょう」


 リリネスはオットーに抱きついてその頬にキスを落としてから、自室へと入った。


 ◇


「マーピー・ジルには会えたのですか?」


 就寝前、ようやくふたりきりになったアニカはリリネスに訊くが、さきに返ってきたのはあくびだった。晩餐のときからまどろみはじめ、半分も食べずに浴室へ移動したものの、入浴中も二度ほど湯に顔をしずめる始末だった。


「会えたわ。でも役はもらえなかった。いまは照明班に置いてもらって、機会を待ってるところ」

「照明!?」


 リリネスが昼間着ていた服を広げて、アニカはけわしい表情になる。それはアニカが以前ふだん着にしていたものであったが、この半日でずいぶん汚れてほころびていた。いったいリリネスは何をしていたのだろうかと、いぶかる視線をむけたが、本人はいたってたのしそうに話す。


「ええ。私、いままで照明なんて意識したことなかったけれど、かなり奥深い世界だったの」


 「点いてさえいればいい」そういう認識だったのはリリネスも同じだった。舞台はすばらしい脚本と、役者の歌や演技を楽しむものだと思っていたからだ。しかしいまはラニの真剣な目が、伝う汗の滴が忘れられない。


「それで何か収穫はあったのですか?」

「イゾルデ・リッチーに会った。やっぱりきれいね」

「それはそうですよ。イゾルデは王立劇場で主演したとき、王太子様からもお褒めの言葉を賜ったほどですもの」

「王太子様ねぇ、私のフルートを『鈴虫が鳴いているようだ』とおっしゃった方よ。褒め言葉にあまり価値を感じないわ」


 リリネスは小さな頃から歌うことが好きだった。劇場で歌劇に触れてからはますますその熱は高まり、観た作品のほとんどの歌を歌えるほどだった。

 しかし貴族の令嬢は人前で口を開いて笑うことさえ許されない。歌を披露するなんてもっての他である。

 リリネスの父は娘に歌うことは禁じなかったものの、それは家の中だけのこと。その代わりにフルートを習わせた。フルートの腕前は上がったが、それで歌への愛情が収まるはずがない。

 イゾルデはきれいだった。彼女は日の光の下でも十分に魅力的であったけれど、照明の中に立つ彼女はより凄みがあった。リリネスでは到底太刀打ちできないし、この先修練を積んだとて追いつける気がしない。


「私もあの照明の下で歌いたい」


 ラニのつくった光ならば、リリネスもイゾルデのようにうつくしくなれるだろうか。

 それ以上考える前に眠気がリリネスの手を引く。眼裏まなうらに燈体の明かりがゆれていた。当たり合わせのときのラニの真剣な目が、その光に重なって消えた。







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