第五幕 昼食

 正面入口、搬入口とは別に会場から直接外につながる扉を出ると、そこは小さな中庭になっていた。演目によってはそこに簡易的な楽屋を設置し、客席から登場するような演出をすることもあるらしい。

 それなりに手入れはされているようで、伸びた雑草もせいぜい足首を隠す程度。おととい雨が降ったせいなのか、白いきのこがところどころに顔を出していた。

 ラニが転がっていた木箱の汚れをかるく手ではらって勧めてくれたので、リリネスはお礼を言って座った。彼自身は葉先の枯れた芝生の上に直接腰を下ろす。

 見上げた空は明るくにごっていて、かまどの煙がひと筋たなびいている。


「お待たせ~」


 ナナから渡された紙袋はまだほかほかとあたたかかった。開くと湯気と香りがふわっと頬をなでる。


「わあ! すごい……」

「仕込みの日だけのぜいたくだからね」


 エビと生ハムとチーズのサンドウィッチ、ローストビーフとトマトとフライドオニオンのサンドウィッチ、フィッシュフライとチーズとオムレツのサンドウィッチ。彩りもあざやかに並んだそれらを前に、リリネスは目をかがやかせた。仕込み作業は体力仕事で且つ神経を使う。だから昼ご飯くらいぜいたくしようというのが恒例で、しかもラニがおごることになっているのだという。


「どうしよう……迷って決められない。でも、うーんと、やっぱりこれかしら」


 手を伸ばそうとしたリリネスの前から、ラニが紙袋を奪った。


「最初に選ぶのはおれ」

「えーっ! どうして?」


 ナナもそれを当然と思っているようで、楽屋からもらってきたカップを手渡す。


「うちの長はラニさんだからね。何より金出した人がいちばん偉い。んで、次が買いに走ったおれ。アニーは最後」


 仕事の能力からいってもリリネスが役立たずなのは確かで、ごちそうしてもらえるだけありがたいのだ。

 おとなしく順番を待つリリネスの前で、ラニは紙袋から出したサンドウィッチを数秒ながめたあと、エビ入りのものに手を伸ばした。とたんにリリネスの表情がかたくなる。背筋を伸ばし、優雅な姿勢を保って本人は隠しているつもりなのだろうが、目の奥の灯火が弱くなった。それに気づいてローストビーフのサンドウィッチに手の向きを変えると、今度はリリネスもおだやかな表情をしている。ラニはそっと嘆息してそのままそれを取った。


「ふぅん。でもおれは遠慮しないよ」


 ナナはそう言ったが、ラニのするどい視線に選ぶ手を阻まれた。


「わかった、わかった、わかりました。もう、仕方ない」


 ナナがフィッシュフライのサンドウィッチを取ると、リリネスはほくほくと笑みをこぼしてエビのサンドウィッチを手に取った。


「いただきます」


 ひと口噛むと最初に弾けるようなレタスの音がした。


「おいしい」


 リリネスは感謝を示すように、ラニにむかってにっこりと笑う。ブリブリとしたエビの食感も生ハムやチーズの塩気も、いまはじめて食べるように新鮮に感じる。パンはリリネスがふだん食べているものよりかたくボソボソしているが、濃いめのソースにはむしろよく合っているし、何より持ちやすかった。

 リリネスは半分も食べていないのに、気づいたときラニとナナのサンドウィッチはすでになくなっていた。


「もっとゆっくり味わえばいいのに」


 いつまでも新鮮な気持ちで堪能しているリリネスにほほえみながらナナが答えた。


「職業病みたいなもんでね。隙間見つけて胃に突っ込むことが多いから食べるのは早いんだ、おれたち」


 時間に追われて食べることなどほとんどないリリネスは、そんなものかとぼんやり想像する。


「ナナは何年くらい照明の仕事をしているの?」

「本格的にはここ一年。その前も二年くらい照明班でふらふらしてた。おれもアニーと一緒でラニさんに拾われたクチなんだ」

「拾われた……?」


 ラニは通りをむいてカップを傾けている。


「おれも役者をやりたくて、そのチャンスをうかがってたの。裏方やってる人にも元々は役者志望だった人ってけっこういるよ。衣装係のミイナも、小道具のイリヤもそう」


 役を得ることがどれほどむずかしいのかわかったつもりだったが、こうして夢破れた人を目の前にすると、あわい希望さえゆらいでいくようだった。役者の夢は叶わなくてもミイナやナナのように別の形で作品に関わる幸せもあるだろう。しかしリリネスにその選択肢はない。


「あ、ラニさんは最初から照明一本だよね」


 役者なんて華やかな仕事とは縁遠そうな人だとは思っていた。ナナと違って小柄だし、見た目にも派手さはない。最初から裏方というのもうなずける。

 しかし照明は裏方の中でもあまり注目されない分野なだけに、リリネスも今日まで意識したことがなかった。


「どうして照明なの?」

「あ、それおれも聞いてみたい」


 リリネスの素朴な疑問にナナも食いついて、ラニはたちまち居心地悪そうにする。


「別に、なんとなく」


 つまらない返答にリリネスががっかりしていると、ナナは尚も食い下がっていた。


「『なんとなく』で照明は選ばないでしょ。何がきっかけ? ねーねー、けちけちしないで教えてよ」


 シャツの袖を引っ張られ、ラニは腕を大きく振って逃れた。


「本当に意味なんかない! 手に職持てれば何でもよかったんだよ。照明は競争率が低かった。それだけ!」


 残りの茶をひと息に飲み干すと、それきり黙ってしまった。

 まだ少しサンドウィッチを残しているリリネスは、ことさらちいさな口でいただきながらナナに訊いた。


「照明って競争率が低いの?」


 ナナは眉を下げてうなずく。


「まあね。やっぱり演劇の中心は役者と脚本。目につく順番として次に大道具、それから衣装と小道具。そして音楽。総監督の演出家や事務担当の制作を除いて、いちばん目立たないのが照明じゃないかな」

「明るくていちばん目立つと思うけど」

「でも昔は太陽光を利用してた分野だからね。とりあえず無事に点いてさえいれば、芸術性なんて求めないでしょ」


 誰々の歌はすばらしかった。あの作品の衣装はすてきだった。さまざまな評価がとび交う中で、照明がよかったと聞いたことはない。


「同じ裏方でもちょっと肩身せまくてね。大道具さんたちの邪魔にならないように、隙間を縫って仕込むわけ。だからお昼もゆっくりなんて食べてたら、仕込む機会逃しちゃうんだ」


 照明係が雑に扱われていることは、リリネスもうすうす気づいていた。ほんの短い時間ではあるが、ラニとナナの仕事ぶりを間近で見たリリネスには残念でならない。


「感電の危険もあるし、女の子とのご縁もないし、いいことないな」


 ナナは大袈裟に肩を落とした。


「そうかしら? ナナはずいぶん女の子に慣れているように感じるけど」


 ナナはリリネスに身体を寄せて、耳元でささやいた。


「大道具も音響も、班みんなで女の子のいるお店行くのに、うちは班長がそういう店苦手だから行けないんだ」


 リリネスがラニのほうを見ると、彼は会場内に半分身体を入れて照明の様子を見ていた。


「あの人、本当に全っっ然女っ気ないからね。実は男のほうが好きなんじゃないかって、身の危険感じてるの、おれ」


 これまででいちばん真面目な表情でナナはゆっくりとうなずいた。


「でもおれは公演の間ちょっとだけ“お散歩”したいから、アニーも協力してね」

「“お散歩”?」

「小道具係のイリヤ。ようやく口説き落としたところなんだ」

「公演がないときは何してるの?」


 話題を変えようと、リリネスはひとつ咳払いしてから言った。


「芝居に限らず演奏会でも集会でも、この小屋使うときは照明仕込むよ」


 過去に行った演奏会を思い出すと、確かに全体を照らすだけでなく中心となる演奏者には特別に照明が当てられていたような気がする。


「あと電気関係の工事の仕事とかね。いまはそういう需要があるから、仕事には困ってない。それだけはよかったかな」


 ナナは通りに立つ街灯を指さしてそう言った。


「街灯も照明だものね」

「いまは白熱灯だけど、きっとこれだってまだまだ発展途上。もっと変わるよ、照明は」


 ガス灯が普及し、アーク灯が登場して、それから白熱灯が広がった。一般家庭でも照明はかなり広まりつつある。


「もう十分な気がするけど」


 いつの間にかもどってきたラニは、腕組みして首を横に振る。


「電球が同じ白熱電球でも、反射やレンズを工夫すればもっと明るさや照射範囲を調整できる。うちは調整できねぇから、照射範囲を変えるには燈体ごと交換するか、鉄板で狭めたりするけど、調整できる燈体も出始めてるらしい」

「いいなぁ、それ。いちいち交換するの面倒くさい。王立劇場って梁が下がってくるって本当?」

「梁っていうか、竿に白熱灯が固定してある。その竿が上げ下げできるんだ。簡単だし舞台全体を均一に照らせるから便利だけど、きれい過ぎておもしろみに欠けるとおれは思う」

「でもさ、地明かりと前明かりにおもしろみはいらないじゃん。むらなく舞台見せられるならそのほうがよくない?」

「演奏会ならそれでいいと思うけど、演劇や舞踏だと立体感に欠ける気がするんだよな。まあ、おれの好みの問題であることは否定しない」


 むずかしそうな顔をしているくせに、ふたりともたのしげだった。ぽかんと開いた口をリリネスはカップでふさぐ。

 埃で汚れた街灯に風が運んできた落ち葉があそび、かすかな音をたてた。







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