第四幕 梁の上

 予定していた燈体をすべて吊り終えると、足場を解体して片づける作業にうつった。そこから先は梁の上での作業になるらしい。

 ナナが上から順番に解体して、その金属の板や棒を中段にいるラニが受け取り、さらに下で待つもうひとりに渡す。さすがにふたりだけでは手が足りず音響助手の青年が手伝っていたが、リリネスはそれも見ているだけだった。

 入口ホールにはソファーとテーブルがいくつかあって、その間にひっそりと金属製の扉がある。その先はせまい階段になっていた。二階にいくつかある部屋のひとつが照明室で、使わなかった燈体をラニとナナはせっせと運び入れる。ふたりともあの重い燈体を片手にふたつずつ、合計四つ持って階段を上っていた。

 せめて運ぶくらいは、とリリネスも燈体に手を伸ばすが、あんたは黙って見てろ、とラニが突き放すように言った。そして自分はまた燈体を四つ持って階段を上っていく。

 取り残されたリリネスは不満気にその背中をにらむ。


「私は手伝わせてももらえないの?」


 もどってきたナナに訊くと、ラニさんは言い方悪いからなぁと笑う。


「アニー、ちょっと燈体持ってみて」


 リリネスは両手で燈体のアームをつかみ、力を入れて持ち上げた。一度経験して重さを知っているせいか、先ほどよりはしっかりと持てた。


「ほら、おれと比べてみて。地面から持ち上がる高さがぜんぜん違うでしょ?」


 背の高いナナが持つ燈体は、リリネスが持ち上げたものより高い位置にある。


「アニーの身長だと、そもそも手の位置が低いんだ。それだと階段にぶつかっちゃうから、燈体を少し持ち上げないといけない。筋力のないアニーのほうが、おれやラニさんより力が必要なの」


 ナナはアームに指をかけ四つ持って階段を上がる。腕を真っ直ぐに下ろしても、燈体が階段にぶつかることはなかった。


「ぶつけて燈体壊されても困るし、モタモタ階段を占領されたら効率悪い。わかるよね?」


 そう言われると、リリネスは黙って引き下がるしかなかった。

 何往復めになるのか、もどってきたラニはリリネスの姿を目にして燈体に伸ばした手をとめた。他に行くところのないリリネスは、邪魔にならないように階段脇に佇んでいるが、踏みつけられたすみれのように元気がない。踏みつけた自覚のあるラニは、頭を掻きながらリリネスの前に立った。


「身体的に不利な仕事を無理してやる必要はない。あんたはあんたにしかできない仕事をすればいい」


 リリネスは首をかしげる。


「私にしかできない仕事って?」


 ラニは腕組みして少し考えていたが、それをほどいて燈体を持つ。


「まあ……そのうちなんか見つかるだろ」


 期待はずれな返答に力が抜けてしまったものの、リリネスの瞳のいろは明るさを取りもどした。


「四つも持って重くない?」

「重い」

「指、痛くないの?」

「痛くならないように手袋してる」


 遠慮なく手ぶらであとを追っても、ラニもナナも嫌な顔をしなかった。

 照明室には床が抜けそうなほど威圧感のある機械があり、壁には燈体がみっしりかけられていた。正面にあるガラスの入っていない大きな窓からは、舞台と客席の様子がじかに見渡せる。その窓の手前のテーブルに、たくさんのスイッチが並んだ操作卓とおぼしき機械が置かれていた。

 ラニとナナは太いコードを肩にかつぎ、またさまざまなコードの入った籠を持って、照明室を出たところにある梯子を上っていく。天井が空いており、ちょうど屋根裏部屋に入っていくような感覚だった。リリネスは少し迷った末、結局梯子に足をかけた。

 腹ばいになってくぐった先は、まさに梁の上だった。自然光の入る舞台や客席と違い、梁の上には明かり取りの窓もランプひとつもなく暗い。階下から上がってくる明かりで、ふたりの顔にはまるでろうそくの火を見つめるときのような陰影があらわれている。

 梁と梁の間隔は下から見たときよりずっと広く感じられ、またその一本一本も頼りなく見える。唯一、出入口から壁際に添って一本、それと垂直になるよう中央に真っ直ぐ一本、人ひとりが通れる板が足場として渡してあった。キャットウォークという名前の通り、人が通るには心許ないせまさであるが、梁を渡る危険度に比べればどうということもない。

 リリネスがキャットウォークを雨雲のようにゆっくりと移動している間に、ラニとナナはさっさと燈体からコードを引っ張ってつないでいた。

 梁は天井に近いため完全に立ち上がることはできない。背の高いナナなどは一層動きにくそうではあったが、慣れた様子で次々コードを引いていく。

 ラニはコードを引っ張りながらうしろ向きに移動したり、時折梁から梁へ飛び移ったり、いちいち青ざめているひまはなかった。


「アニー、籠の中からさ、これっくらいのコード取って」


 ナナに言われてコードを出しても、キャットウォークから離れることができず、せいぜい手を伸ばして渡すくらいしかできない。それすら、はるか下までがらんと空いた空間が腕に感じられて鳥肌が立った。ラニは「そうそう落ちない」と言ったが、どう気をつけたら落ちずにいられるのかリリネスには想像もつかない。


「おい、ナナ。二股コード持ってきて」


 舞台上に森ができ上がっていく過程を見ていたリリネスは、ナナの返事がないことに気づいてあたりを見回した。梁の上にナナはいない。ラニはこちらに背を向けており、そのことに気づいていないようだった。


「あの、ナナはいまいないわ」


 遠慮がちにそう教えるとラニは、


「ちょっといま動けない。ナナがもどったら二股コードくれるように言ってくれ」


 とそのままの姿勢でナナを待っていた。

 舞台上で木材のぶつかる音や、指示する声、笑い声も聞こえる。そのすぐ真上にありながら梁の上はしずかで、天井に近いせいなのか下にいたときよりほんのりとあたたかい。時間の流れも何もかも下界とは違うように感じる。

 ナナはまだかしら。

 不安定な梁の上で動けずに待つラニの背中を見ていると、何もできないリリネスには季節がいくつもめぐったように長く思えた。

 実際にそれは数十秒であったのか、数分であったのかわからない。リリネスは意を決してキャットウォークの上に立ち上がりコットンシューズを脱ぎ捨てた。ふだん着ているドレスに比べれば格段に身軽なこの服でさえいまは邪魔で、スカートの裾をドロワーズの中に押し込む。カボチャパンツを穿いたような姿はとても見せられたものではないが、いまは命のほうが大事だ。

 天井から梁を持ち上げて支えるため、ところどころに鉄骨が立っている。リリネスはそれを手すり代わりに一歩踏み出した。

 そこはさっきまでとまるで違う世界だった。高くてせまくて十分に怖いキャットウォークは、寒い朝のベッドの中のように居心地のよいところであったと、一歩先の世界で思い返す。太く見えた梁は足をのせてみると細くてかたく、すぐに滑りそうだった。足元には舞台も客席も広くはっきりと見える。遮るもののない空間から、恐怖が風のように舞い上がってリリネスを襲った。

 しがみついた鉄骨からリリネスは離れられなくなっていた。目を閉じてもなぜか高さは感じられ、恐怖心がおさまることはない。手足は必要以上の力が入ったために震え、そのせいで足がずり落ちそうだった。

 リリネスは何度も深呼吸をくり返した。すすむにせよもどるにせよ、この恐怖心を乗り越えなくてはならない。さすがのラニでもリリネスを抱えて梁を渡ることはできないのだから。

 リリネスはゆっくりと梁にまたがった。手すりに使える鉄骨の間隔は広く、他につかめる場所もない。支えなしで梁を歩くことなど到底できないので、梁の上を身体を滑らせるようにして移動するほかなかった。左手、右手と鉄骨から梁へ移動させた。二股コードを落としていなかったのは奇跡だったと思う。当初の目的などすっかり忘れていた。

 少しだけ前に両手を置くと身体を引っ張って尻をずらす。そしてまた少しだけ前に両手を置く……。梁は尻を支えるには細く、左右どちらかにバランスを崩したら、もしいま誰かに名前でも呼ばれたら、あっという間に落ちてしまう。悪い想像は恐怖を呼んで身体をさらにかたくする。リリネスは余計なことを考えないようにラニの背中だけを見て移動した。


「……コード」


 震える手でラニの背中を二股コードでたたくと、わああああ! とラニのほうが悲鳴を上げた。


「きゃあ!!」


 おどろいた拍子にバランスを崩したリリネスの手をラニは素早くつかんだ。そのまま近くの鉄骨まで引っ張ってしっかり握らせる。


「おどろかせて悪かった。大丈夫だから落ち着け。しっかり握って離すなよ」


 ラニはリリネスの手から二股コードを抜き取ると手早くつないだ。階下からの明かりでラニの瞳はやわらかな灰いろに光っている。そのすぐ横を額から汗がつたって、頬、そして顎へと流れていった。

 顔を肩口にこすりつけるようにしてそれをぬぐったラニは、目を細めてリリネスに笑顔をむける。鉄骨を握るリリネスの手の上から自分の手を重ねてしっかり固定した。


「ありがとう。助かった。よく来れたな」


 身体の中心を支配していた冷たい恐怖が、ゆるゆると溶けていくのを感じた。いままで誰かにこんな風に感謝されたことがあっただろうか。革の手袋を通してもラニの手のあたたかさが伝わるようだった。


「あなたって、やっぱりおかしいわ。こんなところを飛び跳ねて落ちないなんて」

「おかしいって言われてもなぁ。怖がってる場合じゃなかったし、おれが死んでもかなしむ人もいないから」


 何の気なしにそう言ったラニは、リリネスの顔を見てあわて出した。


「死にたいわけじゃねぇぞ! そもそも死人なんて出したら公演にさし障ることくらい自覚してるから!」


 リリネスは胸の奥にうかぶ言葉をひとつひとつ拾うように口にした。


「私はあなたのことはよく知らないし、あなたがいなくなっても困りはしないけど、でももしいまあなたがここから落ちたら、かなしくて泣くと思うわ」


 ラニが目を大きく見開いたので、そこに灯る光量も増えた。


「そうだよ、ラニさん。責任者なんて面倒くさいこと押しつけられたら、おれも泣いちゃう。だから気をつけてよ」


 地上を歩くのと同じようにナナが梁を渡ってきた。


「ナナ遅い。どこ行ってた?」

「ちょっと用を足しに。……って言ったじゃん。朝に食べたチーズ、やっぱり腐ってたのかな。なかなかもどって来られなくて。それにしてもアニー、本当によく来たね。ようこそ、照明の世界へ」

「おまえ、こっち見るな」

「なんでよ。アニーの脚は照明班共有の宝でしょ」


 言われて両脚がむき出しであることを思い出したが、隠すこともできずただ頬を赤く染めた。

 来たときと同じ道筋をたどってキャットウォークにもどっても、最初のときほどの恐怖はなかった。ささやかな達成感と迎え入れてもらえたよろこびと、それ以外のさまざまなあたたかい感情で胸はいっぱいだった。

 胸はいっぱいでも、ほっとすると別の問題に気がつく。


「お腹すいた」


 独り言のつもりの言葉はナナがしっかり拾って笑う。


「待って待って。もう少しで終わるから、そしたらお昼にしよう。今日はラニさんがおいしいサンドウィッチをおごってくれるからさ」


 ラニのほうを見ると、不貞腐れたような表情をしていたが否定はしなかった。


「ナナ、おまえが買いに行って来いよ」

「もちろん! 安い具材で誤魔化されたくないから、むしろおれが行って選ぶ!」


 軽口を言いながらも作業する彼らの足取りは確かで、リリネスの目にはさっきまでとはまったく違う光景に映っていた。






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