第三幕 照明
上りはじめてすぐに腕が痛くなり、上までたどり着けるだろうかとリリネスは不安になった。スカート、腕、高さ。気になることばかりで気持ちがあせる。しかし一度足を踏みはずしかけて命の危険を感じてからは、とにかく安全に上り切ることだけを自分に言い聞かせた。
足場の一番上には背の高い青年がひとりいた。
「あれ? 新しい助手……ではなさそうだね」
袖で顔の汗をぬぐうと、リリネスに手を貸して引っ張り上げた。その手には革の手袋がされている。
「ありがとう」
そこは馬車の中と同じ程度の広さがあった。周囲はいちおう金属の柵がめぐらされているもののあくまで簡易的なもので、不用意な動きをすればすぐに落下してしまうほど頼りない。その柵には大きな黒い
想像よりは安定していて上り切ってしまえば怖くなかったが、腕と脚の筋肉が疲労で震える。座り込んで呼吸をととのえるリリネスに、青年は革の手袋をした手をふたたびさし出した。
「はじめまして。照明助手のナナです」
にこやかな笑みをうかべる顔には、くすんだ金髪が汗ではりついている。
「……はじめまして。女優志望のアニカ・バートンです」
そっとその手に触れると強く握り返されて大きく振られた。それだけで足場はカシャンカシャンとゆれる。
「せまくてむさくるしいところだけど、ゆっくりしてて」
ナナは燈体をひとつを手に取り、
劇場内の天井は鉄骨の梁が格子状に張りめぐらされている。梁と梁の間隔は扉ひとつからひとつ半ほど。梁の一本一本は“コ”の字型になっており、燈体のフックが引っかけられるようになっていた。
ナナはフックを引っかけるとネジでしっかりととめ、金属製のチェーンを梁に回して燈体とつなぐ。ひとつ吊るすと移動してまた別の燈体を吊るす。足場には車輪がついていて、ナナは梁をつかんで脚を踏ん張り、蹴るようにして足場ごと移動させていた。
「照明って自分たちで取りつけるの?」
照明とは劇場に元々設置されている電灯を、
「ここは特殊だけど、どこの劇場でも仕込みはあるよ。演目によって照明も変わるからね」
そもそもディム市民演芸館は、演劇のためだけに建てられた小屋ではない。多目的に使用できるように、会場は何もない広い空間になっている。舞台も客席もそのつど自分たちですべてつくり上げる仕様なのだ。
舞台も正面だけでなく、左右や中央など用途に合わせて設置できるので自由度が高い。そのため照明もどこにでも吊るすことができるように、天井の全面が梁になっている。
「王立劇場は最初から舞台も幕も固定されてるから、照明もある程度は設置されてるらしいけど、ここはいちいち仕込まないといけないんだ」
黒い金属の燈体をナナがたたくと、カンカンという音がした。
「このチェーンは何のためのもの?」
燈体を固定するわけでもなく、梁と燈体をゆるくつなげたチェーンに、リリネスは触れながら訊いた。少し慣れたのか立って動いても怖いとは思わない。
「これは命綱」
「命綱? ライトの?」
「燈体と人間、両方守るための」
ナナはまたひとつ燈体を手に取る。先に吊った燈体との距離が一定になるように、指でだいたいの長さを測って位置を決めると、梁に小さな木片を噛ませ、そこに燈体のフックを引っかけた。
「金属同士だとうまくしまらないから、こうして
キリキリと音がしてネジは強くしめられた。
「でもね、ネジも劣化するし、木っ端が破損することもあって、ここがゆるむこともあるんだ。そんなとき、このチェーンで梁とつながっていればとりあえず落下は防げる。落ちたら燈体は当然壊れるし、下に人がいたらたぶん死ぬよね」
ナナがいま燈体を吊っている場所の下は客席になる。公演中なら必ず下に誰かいる。
「燈体って重いの?」
「持ってみる?」
とん、とリリネスの目の前にナナは一番大きな燈体を置いた。そのアームに手をかけてリリネスはおどろく。
「えっ! うそ!」
片手では持ち上がらず、両手で持ってどうにか浮かせられた程度だった。従姉妹の子どもで四歳になる女の子を抱き上げたことがあるが、それと同じかそれ以上の重さがある。
「無理しないで。無理して落とされたら困るから」
ナナは愉快そうに笑いながら、片手でふわっとその燈体を持ち上げて梁に引っかけた。長袖だからわかりにくいが、改めて見ると肩の筋肉が盛り上がっている。
「ナナ! 悪い、それ一本
「了ー解ー」
いま吊るしたばかりの燈体をはずし、ナナは隣の梁へとつけ替える。その様子をラニは下から腕組みして見ていた。
「あの人も照明?」
リリネスが目で示すと、ナナは視線だけでラニを確認して作業にもどった。
「そうだよ」
「どうして手伝わないの?」
自分のことを棚に上げた発言だったが、ナナは気にせずカシャンとチェーンを巻いた。
「ラニさんは照明の責任者だから」
「責任者は何もしないの? 手伝ったほうが早く終わるのに?」
「つかまって。動くよ」
リリネスがしゃがんで柵につかまったのを確認すると、ナナはまた脚で押しやるように足場を動かした。
「
汗を流しながら動き回る人たちの中にいて、彼らは何もせず立っているだけに見えた。
「どの部門でも当然事前に綿密な計画は練るんだけど、その通りにすすむことなんてほぼないんだ。そのズレを確認して、修正したり変更したりする重要な仕事だよ。燈体吊るすなんて誰にでもできるからね」
「本当にそうかしら? あの舞台監督さん、いま大あくびしてたわよ」
「ぶはは! 順調ってことだから何よりじゃない。責任者が忙しいってことは、問題が生じてるってことだから」
舞台の様子を見ていたジルが、ラニの元にやってきて舞台上の梁を指さす。
「ラニ、やっぱりあのあたりにもう一燈増やせないか? 魔王の最期はうしろから光をあてて影を出したいんだが」
ラニは腕組みをして首を横に振る。
「燈体の数的にも総電力的にもいまで限界です。もし魔王のために一燈増やすなら、イゾルデのどれかを一燈削るしかない」
「それは無理だな」
「だったら星明かり用の燈体を少し奥から当てて、魔王の最期は星明かりだけにしたらどうだろう? 恐らく近い効果は出せると思う」
「それやってみてくれ」
ナナが次の燈体を吊っていると、ラニは梁の位置を確認しながら、同じ場所を行ったり来たりしていた。
「ナナ!」
「はーい」
「星明かり用の燈体、移動する!」
ナナは下をのぞき込んで叫ぶ。
「おれ行けばいい?」
「いや、おれが行く。燈体も交換するから準備して」
そう言うと、ラニは体重を感じさせない速さで足場を上る。サルかリスのような身のこなしで、リリネスのかかった時間の十分の一もかからず上に到達した。その間にナナは柵から燈体をふたつ外して床に置く。
上りきったラニはリリネスのように息を切らすこともなく、またリリネスに一瞥もくれることなく、梁をつかんで柵をかるく蹴るとそのまま梁の上に跳び乗った。
「ラニさん、上げるよ」
ナナがはずした燈体を梁の上に持ち上げる。
「はい、もらった」
「離します」
声をかけ合いながら重い燈体を受け取ったラニは、梁の上を歩いて移動していく。梁は鉄骨で丈夫だが、幅は足の幅の分もない。しかも二階より高い位置にある。少し足を踏みはずしたら床まで真っ逆さま。下手をしたら命はない。ラニはそれを怖がることもなくひょいひょい渡っていった。
「照明吊るしまーす」
目的の梁にまたがると、真下に人が来ないように声をかけてから吊るしはじめる。すでに舞台セットが組まれているその場所は、足場で入って行けないのだ。
作業行程は同じで、木片を噛ませてから燈体を吊るし、ネジをしめ、最後にチェーンを巻く。足場の上での作業ならさほどの不安はないけれど、梁の上から同じことをしようとすると大仕事だった。重い燈体をゆっくりと下へ下ろし梁に引っかける。この動作だけでも相当の筋力を必要とした。ネジをきちんとしめ終えるまでは、いつ燈体が落下してもおかしくない。
ラニの腕に筋肉の筋が浮き上がる。ギリッとネジをしめたあとも表情にゆるみはなく、燈体を支えたまま体勢を変えた。吊り下がった燈体にチェーンを通すには、梁の上で腹ばいにならなければ届かないのだ。振動を与えないようにそろそろと動いて、身を乗り出して下へ手を伸ばす。左足を梁にからませて支えとしているが、いまにも落ちそうでリリネスは息をつめて見守った。
ラニは別の梁に移動すると、今度は逆の手順で燈体をはずす。チェーンをはずして、梁にまたがり、燈体を支えてからネジをゆるめる。確実に、落とさないように、しっかりと燈体を梁の上に持ち上げると、またひょいひょいと歩いてナナのところへもどってきた。
「ナナ」
「はい、もらいました」
「離すぞ」
燈体を受け取ったナナは、別の燈体をラニに渡した。ふたたび梁の上を歩いていき、同じようにもう一燈交換する。カシャン、とチェーンをかける音がすると同時に、ラニの汗がはるか地上へ落ちていった。
そうして動けずにいるリリネスのすぐ上まで、ラニはあっという間にもどってきた。梁をつかんで飛び降り、ぶら下がってからしずかに着地する。そのまま足場を降りて行こうとしたラニは、リリネスを視界に入れてうろたえる。
「あんた、どうした? 真っ青だぞ」
指摘されてもリリネスには何のことかわからなかった。
「とりあえず、落ち着いて、ゆっくり、座れ」
ラニのほうが動揺してひと言ひと言含めるように言うので、リリネスは言われるがままその場に座った。
「ラニさんが落ちそうだったから、びっくりしちゃったんだよね」
ナナが吊った燈体の角度を調整しながら言った。
「落ちねぇよ」
「おれらにとっては日常茶飯事でも、普通は危ないよね。はい、動くよー」
ラニがしゃがんで手をつくと、車輪のきしむ音がして足場が動いた。
アクア・グレイの瞳が困ったようにゆらいでいるのを見て、リリネスはようやく少しだけ落ち着きを取りもどす。
「いいか」
ラニがリリネスのすぐ目の前に膝をついた。
「おれは十三のときからこの仕事をして十数年やってるけど、照明係でここから落ちたやつは見たことがない」
「危なかったことは数えきれないくらいあるけどね」
キュイキュイネジを回す音に重ねて、ナナは余計な捕捉をする。
「照明係以外なら落ちたことあるの?」
ラニは目を伏せた。
「それは……ない、ことはない」
「どうなったの?」
「とりあえず、その話はいまはいい」
ラニはリリネスとしっかり目を合わせた。
「とにかく、おれとナナはそうそう落ちない。危険なことはわかってるし、これでも十分配慮してやってる。だから……そんなに気にするな」
懇願にも似た口調で言われ、リリネスはうなずくしかなかった。
「まあまあ、そのうち慣れるよ。このあとの配線作業は主に梁の上でやるから、それ見たら? はい、動くよー」
また足場が移動した。
「配線なんてだめだ。それこそ危ない」
「キャットウォークに座ってれば大丈夫だって。あそこなら自分から落ちてかなければ落ちないし」
「別に照明やるわけじゃないんだから、そもそも慣れる必要なんてない」
「でもうちに置いておくんでしょ? 倒れられたらどうするの?」
「……好きにしろ」
「はいはい、了解」
リリネスにはわからないやり取りの末、ラニは足場を降りて行った。半分まで行ったところで残りは地上まで飛び降りたが、着地しても体勢を崩すこともない。
「私……かなり邪魔なのよね?」
手際よく燈体を吊るしつづけるナナには、手伝いの必要性も感じられない。んー、まあそうだね、とナナのほうでも否定しなかった。
「いいのかしら、ここにいて」
「いいでしょ。ラニさんが追い出さないんだから」
汗でナナのシャツのいろが変わっていた。口調は相変わらずかるいが、表情には少しばかり疲労が見える。
「アニーはそれより、役を奪う機会をうかがうほうが大事なんじゃない?」
仕込みの進行を見守るジルは一見ひまそうに見えるけれど、つけ入る隙が見つからない。無謀にもまた直談判したとして、追い払われたら今度こそ出入りもむずかしくなるだろう。
リリネスは改めて道のりのけわしさを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます