第二幕 主演女優


 あちこちに木材が打ちつけられ、また転がっている足元は、暗さも手伝ってかなり危険だった。そこを迷いなくするすると歩いてラニは奥の扉に向かう。リリネスは何度もつまずいて結局ラニのシャツにつかまりながら歩いた。


「ミイナ」


 ラニは誰かに呼びかけながら扉を開けた。


「なによ、ラニ。いま忙しいんだけど!」


 ミイナと呼ばれた若い女性はチラリとラニを見てすぐに手元に視線をもどした。怒鳴られてもラニはゆったりした態度を崩さない。


「どうした?」

「村娘たちのスカート、ぜんぶ変更になったの」


 ミイナは苛立ちもあらわに答えた。忙しいせいなのか頭の上でまとめた黒髪もところどころほつれている。どうやらここは楽屋で、彼女は衣装係らしい。部屋の奥には鏡が三つ並んでおり、その隣にあるラックにはたくさんの衣装がずらりとかかっている。隅のテーブルには小道具と思われる物が整頓されて並べられていた。

 話している間もミイナの針を動かす手はとまらず、その速度も速いが、縫い目は細かく一定で決して雑なわけではない。


「手伝いたいってやつつれて来た」

「誰?」

「えーっと……」


 いまになって名前を知らないことに気づき、ラニはリリネスを振り返った。


「リ……アニカ・バートンです」

「じゃあ、アニカ。そこのスカートを、このくらい裾上げしてくれる?」


 一瞬だけ指で長さを指定して、ミイナはふたたび針仕事にもどる。


「あ、は、はい」


 リリネスが返事をしたのを見とどけて、ラニは楽屋を出ていった。

 刺繍は一応できるが得意というほどではなかった。紫いろのスカートを手に取ったものの、何をどうしたらいいのかわからない。


「あの、もう一度長さを教えて」

「だからこのくらい」

「少し待って。いま測るから」


 リリネスがものさしを探して視線をさ迷わせると、


「はあ!? 測る!? 目分量でいいからさっさとして!」


 と怒鳴られてしまう。ミイナはさっと糸を結ぶと歯で噛み切って、次の衣装を手に取った。

 リリネスはスカートと裁縫箱を交互に見て、思い切ったように針を手に取る。実は針仕事などしたことがなかった。知識はあるけれど、実際にやってみると刺繍とはまるで勝手が違う。布を重ねて縫うから針がなかなか通らない。意図しないしわがすぐに寄る。ひと針ひと針の大きさはまちまちで、縫い目もひどく蛇行していた。

 少しすすめてはほどき、糸を通し直してまた縫う。そんな作業は遅々としてすすまず、半分まで縫ったところでミイナの怒号が飛んだ。


「ちょっと、何してるのよ!」


 縫いかけのスカートを奪い、針を針刺しにもどす。


「このスカートは動きに合わせてゆれるからきれいなのに。裾をこんなガチガチに縫っちゃったら台無しよ!」


 ミイナがスカートをゆらすと、その裾はぎこちなく固まっていた。


「でも“裾上げ”してって……」

「腰のところで上げたらいいでしょ! そんなこともわからないの?」


 そんなこともわからないのだ。これまで必要なかったのだから。


「全部ほどいて。そのあとは何も触らないで、お願いだから」


 首を振ってミイナはそうはき出し、また作業にもどった。縫った部分をほどき終えて渡すと、すぐさまその裾上げに取りかかる。リリネスが使っていた針と同じものとは思えないほど、その動きは速く正確だった。測らずとも真っ直ぐに縫い上げていく。


「おはよう、ミイナ。村娘のスカート、つくり直しだって? 大変ね」


 扉が開いてスラリとうつくしい女性が入ってきた。

 イゾルデ・リッチー!

 リリネスは目を見開いて彼女を見つめる。不躾な視線には慣れているらしく、イゾルデは自分の家にいるような自然体で鏡の前の椅子に荷物をほうり投げた。

 彼女こそこの公演の主役であり、いま国内でも五本の指に入る女優である。イゾルデが動くたび埃っぽい空気さえ香るようだった。


「おはよう、イゾルデ。よかった早く入ってくれて。あなたのスカートも布の量を増やしたいのよ。ちょっと着てみてくれる?」


 イゾルデはためらうことなく黒いワンピースを脱ぎ捨て下着姿になった。女性らしいまるみがあり胸も大きく形がいいけれど、服で隠れた部分はかわいげないほどしっかりと筋肉がついている。自身の肉体を使って働いている者の身体だった。

 ミイナはイゾルデの腰に大きな緋いろの布を巻きつけ針でとめた。余分な部分をはさみで切り、バランスをみながらあちこち縫いとめる。


「少し待ってね」


 イゾルデから布を剥ぎ取ると、ミイナは別のスカートに合わせて高速で針を動かす。


「この子は?」


 下着姿のままイゾルデは脚を組んで座り、顎でリリネスを指した。


「アニカよ。ラニが連れてきたんだけど、全然使えなくて」


 ミイナはクシャッと顔をゆがめて言った。居心地がわるく、けれど他に行くところもなく、リリネスは一段と小さく身をちぢこまらせる。


「衣装志望?」


 イゾルデはテーブルの上の水差しから水を注いでひと口飲んだ。グラスに口をつけたまますっと視線を流されて、リリネスは息をとめた。イゾルデを取り巻く空気の濃度は濃く、まともに呼吸したのでは取り込まれてしまう。


「私は……女優志望、です」


 ようやく絞り出した声は細く小さかったが、背筋は伸ばして答えた。


「へえ」


 イゾルデはつややかな唇の端をわずかに持ち上げ、水を飲みほしてグラスを置いた。


「よし、できた。着てみて」

「さすが早いねぇ」


 緋いろのスカートはそのうつくしい肢体をさらに強調していた。イゾルデが脚を動かすと、たっぷりとしたドレープがスカートの表情を変える。


「いいね。見映えするわ」


 ずっとけわしいミイナの顔にようやく笑顔が浮かんだ。


「映えなきゃ許さないわよ。どんだけ苦労してると思ってんの」


 さらにあちこち調整して、ミイナは仕上げをしていく。スカートを脱いだイゾルデは、元のワンピースをストンと着直した。


「外に出ようか」


 イゾルデがそう言ってもミイナは反応せずリボンを縫っているので、リリネスは数瞬遅れて自分にむけられた言葉だと理解した。すでに閉まった扉を開けて彼女のあとを追う。


 閉ざされた搬入口の外階段にイゾルデは座っていた。汚れることなど気にした様子もない。迷った末にリリネスも隣に腰かける。


「舞台裏なんて、見ないほうがよかったでしょ? 汚いし、汗くさいし」


 リリネスはすかさず首を横に振る。


「すばらしかった。思ってたよりずっと」


 鬱蒼とした森はハリボテ。ドレスも即席。みんな余裕なく苛立っている。しかし薄い板で森ができる、目の前で布がみるみる衣装になっていく、その魔法のような工程に惹かれずにはいられなかった。観て楽しむだけだった舞台はあんなにも真剣に、薄氷を踏むようなあやうさでつくられているのだ。


「そう? 私はがっかりしたけどね」

「準備って、たった一日でするの?」

「前日仕込みなんて立派なほうよ。当日仕込んでその夜には初日ってこともざらだから。けっこう高いのよ、劇場の賃料って」


 いつの世もはなやかな舞台の裏側にはせち辛い事情がある。板を人形(パネルをうしろから支える三角形の木材)で立てただけのセットは、演劇の姿そのものとも言える。


「衣装もその場で縫うなんて思わなかった」

「今回は急な変更があったから。いつもはもう少し余裕あるよ。でも舞台衣装は速さが命。ずっと大切に着るものじゃないから、とにかく数こなせないと無理ね。ミイナの運針なんて神業」


 リリネスも強く同意する。


「前にカーテンをね、直接身体に巻きつけてそのままドレスつくってくれたこともある。私が衣装破られちゃったとき。言い方はきついけど悪い子じゃないのよ」

「衣装を破られる……?」

「よくあることよ。あなたも役者を目指すなら、もっと嫌なものたくさん見ることになるよ?」


 つまらなそうにイゾルデが髪の毛をかき上げると、うつくしい鎖骨が見えた。しかしそれは積もったばかりの雪のうつくしさではなく、何度もたたかれ鍛え上げられた刀身のうつくしさだった。


「あなたも……取引したの?」

「取引?」

「その……興行主と」

「ああ、寝たのかってこと?」


 あけすけな物言いにリリネスは頬を赤くそめる。そんな彼女にイゾルデは蠱惑的な笑みをむけた。


「誘われたことはある。でも寝てないよ」


 リリネスはあからさまにほっと息をついた。


「私は別の女優の飲み物に下剤を入れただけ」


 今度は青くなったリリネスに、カラリとした笑顔を見せる。


「後悔はしてないわよ。一度でもあの光の下で拍手をもらったなら、あなたにもわかると思う。やめられないわ」


 当初考えていたよりずっと舞台に立つとは大変なものなのだと、リリネスにもようやくわかり始めていた。舞台の上は夢の世界。いったん降りればそこに夢はない。


「たった一度、ほんの少し舞台に立てればいいのに、それすらむずかしいのね」

「ばかねぇ。女優を目指すなら、できるだけたくさん、しかもできるだけ大きな役を狙うもんでしょ。そんなんじゃ命がけで役を争ってるやつらに勝てるわけないわ」


 リリネスのうす茶いろの目がするどい光を帯びた。


「私だって命なんかではあがなえないものをかけて、いまここにいるの」


 イゾルデは頬杖をつきながらしばらくその目を見ていた。しかしリリネスの渾身の訴えでさえ、彼女の前では角砂糖よりもろいもののようだった。


「その“命より重いものをかけた歌”って、お金を取る価値あるものなの? すり切れるように働いて、毎日のパンを少しずつ我慢して、そうやって貯めたお金でやっと買ったチケットもある。それに見合う歌?」


 イゾルデの琥珀こはくいろの瞳は冷ややかだった。舞台は夢を叶える場所である以上に、誰かに夢の時間を与える場所だ。役者の裏事情など関係ない。その歌や演技に価値があるかどうか、それがすべてだ。


「私の歌に価値があるかないか、それは私が決めることではないけど、でも、」


 リリネスは一度大きく深呼吸した。


「やっとの思いで買ったチケットの話さえどうでもいいくらいに、いまの私はわがままになっているの。一度でいいから舞台で歌いたい。それ以外はどうでもいいのよ」

「だったら歌ってみなさいよ。いまここで。聴いてあげるから」


 突然のことにリリネスは動揺をみせる。しかしイゾルデは真剣に決断を迫っていた。歌うか、逃げるか。この場合、悩むことは逃げることだ。

 リリネスは立って通りを見下ろした。街は相変わらず暗い煙に沈んでいる。黒いオートモービルがうなり声を上げて通りすぎ、砂と埃と婦人のスカートを巻き上げる。大きく息を吸い込んだら、いがらっぽい空気がのどの奥を刺激した。

 脳が小さくなったように何も考えられず、まとまらないまま口をついたのは『深き夜空の航路』第二幕で歌われる少女ライラのアリアだった。流れ星を追いかけるライラは、三人の村娘に行く手をはばまれる。なんとか引きとめようとする村娘たちを振りほどいて、ライラが前にすすんで行く意志を高らかに歌う場面であり、この作品でもっとも有名なアリアのひとつだ。

 いつもひとりで歌っていた。たまたま耳にした人がほめてくれることもあったが、誰かに聴かせるために歌うのははじめてで声が震えた。

 道行く人は突然聞こえてきた歌に、ちらりと視線をおくったものの足をとめることはない。立てつづけに馬車がとおって、馬のひづめと車輪の音でリリネスの歌はかき消されてしまう。ひとりの部屋や浴室で歌うときと違い、空っぽの穴になにもかも吸いとられていくような、苦しくもどかしい時間だった。

 自分で思うほどリリネスの歌には力がない。あきらめと無力感で身体の力が抜ける。

 どうせ誰も気にしないなら、いつもと同じように気持ちよく歌おう。

 リリネスは屋根の上に広がるにごった青空を見つめながら大きく口を開けた。馬車が遠ざかったので声はとおりやすくなっていた。

 すると通りを歩いていた男性が足をとめた。ひとり立ちどまると、次にやってきた女性も立ちどまる。郵便配達員も自転車にまたがったまま耳をかたむけ、パン屋の奥からは職人がしばし仕事を休んで出てきた。

 しかしその光景はすでにリリネスの目には入っていない。ただ空だけを見て思い切り歌っていた。

 聴かせどころにさしかかるとあちこちから拍手が起こった。ようやく聴衆に気づいたリリネスは少しおどろいて、さらにたのしそうに歌いつづけた。誰かに聴いてもらうことで、いままでになく伸びやかな声が出るようになっていた。いつまでもどこまでも歌えるような気がしていた。

 歌い終えたリリネスは集まった十数人から送られた拍手を、息をはずませながら受け取った。リリネスの歌にどれほどの価値があるのかわからないが、無償でふるまわれた歌はよろこんでもらえたらしい。

 止まっていた時が動き出すように、人々は元の生活にもどる。「いい歌だったよ」「がんばれ!」と言葉を残して行く者もあった。そのうちのひとりがイゾルデにむかって、ついにお役御免か? とからかい混じりに言ったが、イゾルデは立ち上がり鼻先で笑いとばす。


「ばかなこと言ってないで明日劇場に来なさい。もちろんチケットは買ってよ!」


 最後はつやめいた視線で片目を閉じて見せると、相手は顔を赤くして逃げ去った。

 興奮冷めやらぬリリネスの背中をたたき、イゾルデは劇場内へと爪先をむける。


「思ってたより悪くないわ」


 搬入口の重い扉がきしんだ音を立て、暗闇と湿った空気、機械や汗や埃の匂いがもどってくる。


「つまらなかったら蹴り出そうと思ったけどやめた」


 イゾルデが向かったのは楽屋ではなく客席で、そこには金属製の足場が組まれていた。二階ほどの高さがあるだろうか。上で何か作業がすすめられている。その様子を下から見上げる青年に、イゾルデは声をかけた。


「ラニ」


 ラニはイゾルデの背後にいるリリネスを見て、空のいろの瞳をさらに曇らせた。


「あんたが拾った仔猫ちゃんなんだから、あんたが最後まで面倒みなさい」

「力仕事には不向きだろ」

「何の仕事にも不向きよ。歌以外は」


 イゾルデはリリネスの尻を強くたたいて足場のほうに押し出した。


「下をうろうろしてたらうるさく言うやつらもいるからね。上でじっとしてな」

「上……?」


 見上げる足場は、高い天井に届くところまで伸びている。


「怖いなら帰ってかまわないわ」

「帰らない!」


 コットンシューズを一番下の横棒にかけ、リリネスは上へ上へと上っていく。上り始めてからスカートであることを思い出したけれど、すでにどうすることもできなかった。



 あやうい姿をさらすリリネスから視線をそらし、ラニはイゾルデへ目をむけた。


「あいつは女優志望だぞ?」

「私を脅かす存在だったらつぶしたし、つまらなければ追い出そうと思ったけど、いまはとりあえず保留」


 眉を寄せるラニにイゾルデは余裕の笑みを返し、ようやく上にたどり着こうとするリリネスを見上げた。


「どこのお嬢様?」

「知らん」

「名前だってどうせ偽名よね」

「さあ」

「『命より重いものかけてる』んですって」


 ラニはきびしい表情を一段とけわしくする。


「おれの知ったことじゃねぇ」


 イゾルデは笑って、ヒールの音も高らかにもどって行った。


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