第一幕 劇場
星の都スヴェルナには今日もにごった青空が広がっている。発達した産業と引きかえに、スヴェルナの民はあざやかな空をうしなった。いまでは空は太陽の恵みに感謝しながら見上げるものではなく、スモッグの向こうから黒ずんだ雨滴が落ちるときだけ、せつなく思い出す存在になった。星などしばらく見えていない。
このサンティエール王国は、現国王の祖先が流れ星を追って見つけたとされている。北東南の三方を他国と接しており、西だけ海に面しているものの、内陸にある王都スヴェルナにその潮のかおりは届いて来ない。国境をまたいで流れるアンリエ川が町をふたつに割りながら、人も物も噂話も運んでいる。
星の加護を得たと言われるこの国の沿岸部は、実は石炭の一大産地であった。そのため実際は火矢とともに攻め入った場所なのだから、星の加護など失って当然かもしれない。
今日のスヴェルナの天気は晴れ。スモッグの向こうがわずかに明るいから『晴れ』である。おだやかな秋の朝。郊外にある工場は精力的に稼働しており、その煙も街に流れ込んでいた。
舞い上がる埃でうす汚れた街の中、ライラックいろのスカートがせわしなく動いている。
「ごめんください! ……あ、あの! ごめんください!」
リリネスは行き交う人を呼びとめようとしては、さきほどからすげなく無視されている。それもそのはず、彼らは劇場の大道具係であり、これから幕が開く明日までに舞台のセットを組まなければならない。時間と戦っている最中だったのだ。
ディム市民演芸館はスヴェルナにふたつある劇場のひとつだ。規模は王立劇場の五分の一にも満たないが歴史は古く、煉瓦づくりのあたたかみある外観と合わせて人々からは愛されている。
現在正面入口は閉ざされていて、開いているのはこの搬入口だけ。重い鉄扉は大きく開かれ、そこから数段つづく石段の下に三台の荷馬車が待機している。屈強な男たちがその間を往復しては次々と荷物を運び込んでいた。
「ごめんください! ……あの!」
数人に素どおりされ、リリネスはようやく無視されていることに気づいた。こうして立っていれば彼女の姿は見えているはずなのに、誰ひとり目もくれない。威厳のある紳士や妖艶な女性なら違ったかもしれないが、少女の殻から抜け出たばかりのリリネスではあなどられるのだろう。
しばし思案したリリネスは、長い木材を担いだ男の前に両手を広げて立ちふさがった。ひとつにまとめたクリーミーブロンドの長い髪も、さらさらと風になびいて男の行く手をはばむ。
「演出家のマーピー・ジルに会わせて」
毅然とした声はその場にいる全員に聞こえていたが、それでも男は無言でリリネスの横を通りすぎようとする。そのすれ違いざま、リリネスは男の手にある木材にしがみついた。
「マーピー・ジルはどこにいるの? 中にいるなら案内して」
太い眉を寄せて彼女を
「オーディションを受けにきたの。だから彼に会いたいの」
「オーディション? 今日そんなのはない」
「やってもらえるようにお願いするの」
「はあ?」
頭がおかしいのか? と言わんばかりに口を開け、それから男は底意地の悪い笑みとともにジルさんなら笑う三毛猫亭にいるよ、と言った。
「笑う三毛猫亭?」
「そこの路地を入って突き当たりを左だ」
男が顎をしゃくったので、リリネスもその方向を見た。通りの反対側の民家と民家の間に細い路地がつづいている。
リリネスの意識がそれた瞬間、男は大きく木材を振った。勢いで飛ばされたリリネスが地面に尻もちをついている間に、さっさと館内へと入っていく。
「痛っ……」
仕打ちが信じられず、リリネスは座り込んだまま両手を見る。砂と埃で汚れてはいるがけがはない。じっと座って手のひらを見つめていても誰も手をさし伸べてはくれず、目の前ではいまのやりとりなどなかったかのように手ぎわよく搬入がすすんでいる。
仕方なく自分で手を払い立ち上がってスカートもはたくと、往来する馬車とオートモービルをやり過ごしてから通りの向こう側へ渡った。
教えられた路地は常にどんよりと暗いスヴェルナでも、さらに陽の当たらない暗い道だった。人通りはあるのに、自分にしか見えていないのではと疑いたくなるほど誰もこの路地に入って行かない。しばらく様子をうかがっても猫の気配すらなく、別の世界への入り口だと言われても信じてしまいそうだった。
リリネスがコットンシューズをその路地に向けた次の瞬間、かかとが地面につくより早く腕が強く引っ張られた。
「あんた、本気?」
引っ張られた拍子にリリネスはその青年の胸に飛び込む形となった。くたくたの生なりのシャツからは、汗と埃と、それからふしぎな匂いがした。顔を上げると、栗いろの前髪の奥のあきれたような瞳と目が合う。
アクア・グレイ。空のいろだ、とリリネスは見入った。晴れてもにごっているスヴェルナの空いろは、瞳に宿ると湖面のような透明度になるらしい。
「おい、聞いてんのか?」
青年の眉間のしわがさらに深くなった。小さく何度もうなずくと、彼は路地からリリネスを遠ざけて手を離す。
「やめといた方がいい」
「なぜ?」
「女と子どもの行くところじゃない」
「だからなぜ?」
「マワされて沈められたかったら行ってみろ」
「マワされ……?」
首をかしげながらもリリネスはふたたび路地へと足を向けた。青年もふたたび彼女の腕をつかむ。
「言われた意味もわかんねぇくせに行くんじゃねぇ!」
「説明もなしに『行くな』と言われても納得できないわ」
「察しろよ。危ねぇんだよ、あの店は!」
「何がどう危ないのか、見てもいないのにわからないわ」
彼は文字通り頭をかかえた。適当なことを言って追いはらった人物の気持ちが、ようやくわかったのだろう。
「ラニさーーーん! 何やってんの! 仕込み始まってるよーーー!」
搬入口から背の高い男性が彼を呼んだ。いま行くと返事をして、ラニと呼ばれた青年は苦虫を噛みつぶした歯の隙間からしぶしぶ言葉をこぼす。
「……ジルさんは劇場の中にいる」
「だったら会わせて! どうしても会わないといけないの!」
腕にしがみつかれてラニはげんなりとした。こうなるとわかっていたから事実を言いたくなかったのだと、早くも後悔していることがありありとわかる。
「あんたはあほか。明日から公演が始まるのに、いまオーディションなんてするわけねぇだろ」
「『深き夜空の航路』なら何度も観たから、どの役でもすべて歌えるわ」
「役は端役までぜんぶ決まってるよ」
「そこをお願いするために来たの。小さな役で一回くらいなら、なんとかならないかしら?」
小首をかしげてほほえむリリネスの腕をラニは乱暴に払いのけた。
「寝ぼけたこと言うな」
本来冷たいいろの目は、いま燃えるようだった。
「みんな命と人生かけて舞台をつくってんだよ。お嬢さんのお遊びじゃない」
もう一度路地から彼女を引き離して、ラニははや歩きで劇場へとむかう。それを見てリリネスもあわてて追いかけた。
「待って!」
搬入口の直前で追いついてラニのシャツをつかむ。
「うわ! なんだよ!」
ラニが劇場に入るどさくさでリリネスも中に身体を滑り込ませた。
一歩入ると中は暗かった。外の明るさに慣れた目では自分の靴さえ見えない。どうやら舞台の裏側らしく、たくさんの人たちがせわしなく動いている。
「おーい! 平台ひとつ持ってこーい!」
「はい、上げますよ。1、2の、3!」
「もう少し
逃げるラニにしがみついたまま、リリネスは舞台の横を抜けて客席へと出た。そこはカーテンが開けられていて明るいが、いつもならびっしりと並べられている椅子はすべて片づけられ、広々とした空間が広がっているばかりだった。はじめて見た人間ならここが劇場であるとは思わないだろう。
「おい! そいつはなんだ?」
ものめずらしさにぼうっとたたずんでいたリリネスは、怒鳴り声におどろいて小さく飛び上がった。声の主であるひげ面の男性は舞台袖から彼女をにらんでいる。
「マーピー・ジル!」
その男性を認識するやリリネスは走って飛びついた。すがられたジルは嫌そうに顔をしかめる。
「私、この舞台に出たいの! どんな小さな役でもいいから、一度でいいから、お願い! 役をください!」
手を振りほどこうとするジルに、彼女はシャツをにぎる力を強める。
「『深き夜空の航路』ならすべて歌えるわ! 夢なの! 一生に一度でいいの! 舞台に立たせて!」
ジルは呪いの人形でもあつかうようにけっして彼女の目を見ず、おい誰か! こいつを摘まみ出せ! と大声をあげた。
「ちょっと待って。お願い、 一度でいいの! ほんの少しでいいから! お願い!」
リリネスのうしろから手が伸びてきて、シャツに爪を立てている手を引き剥がす。そのままひょいと抱えられて、舞台裏の暗闇へとつれ出された。
「離して!」
暴れる彼女をおさえる手はびくともしない。たたいても蹴ってもうめき声ひとつ上げず、その足取りもゆるむことがなかった。
搬入口のすぐそばまで運ばれ、そこで放り出されるかと身がまえたが、ふわりとやさしく降ろされる。
「あんたさぁ、やり方悪すぎる。正面から『役をください』って言って『うん』っていう演出家なんていねぇって」
あわれむような声はラニのものだった。搬入口からの光が逆光となって、腕組みをする影だけしかわからない。
「それならどうすればいいの?」
「手っ取り早いのは興行主と寝ることじゃねぇの?」
「寝る……」
言葉をうしなうリリネスに、ラニは真面目な声いろでつづける。
「そうやってチャンスをつかんで、のし上がった女優はたくさんいる」
「本当に……?」
「遊ばれて役ももらえず捨てられた女優の卵はもっと多いけどな」
ラニに渡された薬は声を奪うほどに苦かった。役はほしいが身体を売ることはできない。
「どっちにしろ今回は無理だ。一座に入って稽古しながら、ゆっくり機会を待ったほうがいい」
「時間がないの。今回の舞台に立てないと、私にはもう……」
音を立てて希望が摘み取られていくようだった。ジルやラニのシャツをきつくつかんでいた手は、朽ちた花のように力なく落ちている。
搬入口へ押しかえそうと伸ばされたラニの手は、汚れたブラウスに気づいてとまる。そして、なぜかクリーミーブロンドの髪へと降りていた。
「だったら、とりあえず裏方にもぐり込め。このままじゃ追い出されて終わりだから」
少し乱暴に頭をなでると、長いまつ毛がピンッと跳ねてラニを見上げた。その目がかがやいて見えるのは、さし込む光の角度のせいだけではない。ラニはさっと視線をはずして暗闇の舞台裏を歩きはじめる。
「来い」
「はい!」
ライラックいろのスカートがひらりとゆれて、そのあとを追った。
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